このお七(しち)・吉三(きちざ)の比翼塚(ひよくづか)は1966(昭和41)年に建立されたものです。かつて日本には恋愛がなかったという学者がいましたが、とんと聞かなくなった説です。
さて、江戸も前期、1682(天和 2)年十二月大火のために本郷(ほんごう)の八百屋市左衛門の一家は檀那寺(だんなでら)である駒込(こまごめ)の吉祥寺(きっしょうじ)に避難しました。そこで市左衛門の娘お七は寺小姓(てらこしょう)の吉三郎(きちさぶろう)と恋に落ちます。
やがて一家は無事に本郷へ戻ります。しかし、お七は吉三郎に逢いたくてたまりません。翌1683(天和 3)年一月もう一度火事になったら吉三郎様に逢(あ)えるとばかり、娘十六、お七は新築された我が家に放火してしまいます。
不憫(ふびん)に思った奉行(ぶぎょう)が十五かと訊(たず)ねても、お七は正直に十六と答えます。同年三月、伝馬町(てんまちょう)から江戸引き回しの上、品川のここが見おさめ涙橋(なみだばし)、哀れ鈴ヶ森(すずがもり)で火炙(ひあぶ)りとなります。これが【八百屋お七】の物語です。
でも、異説が多く相手の名前も佐兵衛(さへえ)とか庄之助(しょうのすけ)とか、避難先も小石川の円乗寺(えんじょうじ)とか正仙院(しょうせんいん)とか……。
吉三郎は放火をそそのかしたならず者で、本当の恋人の佐兵衛はその後、武蔵坊(むさしぼう)という僧侶になって江戸六地蔵を建立したという説もあります。目黒の大円寺(だいえんじ)には、吉三郎が西運(さいうん)という和尚(おしょう)になって菩提(ぼだい)を弔(とむら)ったお七地蔵尊(じぞうそん)があります。今回の紹介はここまでですが、鈴ヶ森の大経寺(だいきょうじ)さんから公開の許可を得たパンフレットなど、データは山のようにあります。請(こ)う、ご期待。
ただ、知識の方が伴わないので……(^^;)
八百屋お七の墓 権八・小紫の比翼塚
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