東京都中央区日本橋小伝馬町
ここの牢屋敷は、1677(延宝 5)常磐橋(ときわばし)門外からここに移されて、1875(明治 8)市ヶ谷監獄ができるまで使用されましたが、もう当時のものは何も残されていません。
敷地は2,677坪で、現在の十思(じっし)公園・十思小学校のあたりにあったそうです。中には五百石以上の旗本が入る揚がり座敷、御家人・大名の家来・僧侶・医者などの揚(あ)がり屋、一般町人の大牢のほか、無宿人の二間牢、百姓牢、女牢などがありました。
「地獄の沙汰(さた)も金次第(しだい)」の「地獄」は、あの世の地獄ではなくここの事でした。
公園の中には石町(こくちょう)にあった時の鐘(かね)が残されています。石町は現在の日本橋室町4丁目あたりです。
伝馬町で処刑が行われる時はこの鐘の音が合図になったそうで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたとの事です。今はお昼ともなれば、近くのOLやサラリーマンの戸外ランチや日向ぼっこの場所になっています。
安政の大獄で処刑された吉田松陰(しょういん)の「松陰先生終焉(しゅうえん)之地」碑や、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも/とどめおかまし大和魂」碑(31.1KB)もあります。 |
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