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権八(ごんぱち)・小紫(こむらさき)の比翼塚(ひよくづか)(1998年5月7日撮影)
東京都目黒区下目黒3丁目 目黒不動尊の仁王門そば
札
全景
塚碑
 むかし、ここには普化宗(ふけしゅう)東昌寺(とうしょうじ)がありました。

 江戸の初め、鳥取藩士平井権八(?〜1679)は父の同僚本庄助太夫(ほんじょう・すけだゆう)を殺害して江戸に逐電(ちくでん)。吉原(よしわら)三浦屋の遊女小紫と馴染(なじみ)となって金に困り、浅草日本堤(にほんづつみ)で通行人から金銭を奪い辻斬(つじぎ)り殺人強盗を重ねました。
 ある時、この寺の住僧(じゅうそう)随川(ずいせん)にかくまわれ、尺八(しゃくはち)を習いました。改心した権八は死ぬ前にもう一度両親に会いたいと思い、虚無僧(こむそう)となって郷里鳥取に帰りましたが、すでに両親とも他界していました。観念した権八は江戸に戻って自首し、鈴ヶ森(すずがもり)で処刑されました。
 随川によって遺骸は東昌寺に葬られましたが、そこへ小紫が吉原から抜け出てきて権八の墓の前で後追(あとお)い心中(しんじゅう)しました。人々は二人を哀れみ建てられたのが、この比翼塚です。

 平井権八の話は、浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)に脚色され、白井権八のモデルとなりました。
 また、江戸に出奔(しゅっぽん)して行く美貌の若侍(わかざむらい)白井権八が、鈴ヶ森で大勢の雲助(くもすけ)にからまれて、やむなく切り払って立ち去ろうとした時、江戸の侠客(きょうかく)幡随院長兵衛(ばんずいいん・ちょうべえ)(1622〜1657)が駕籠(かご)の中から権八を呼び止める「お若えの、お待ちなせえやし」の名科白(めいぜりふ)はご存知と思います。正当防衛とはいえ人を斬()ったのを見られた権八はうろたえますが、長兵衛は口外(こうがい)しないと安心させ「いつでも尋ねてごぜえやせ。陰膳(かげぜん)すえて待っておりやす」と江戸での再会を約束する名場面です。
 実際には権八が生れるころに長兵衛は、旗本奴(はたもとやっこ)の水野十郎左衛門(じゅうろうざえもん)に殺されています。

【普化宗と虚無僧】
 普化宗は、宗徒が虚無僧という特殊な宗派で、1677(延宝 5)江戸幕府から公認され、1871(明治 4)明治政府によって廃止されました。虚無僧は幕府の命で尺八を吹きながら諸国を探察(たんさつ)していたという話です。
 髪を束ね、墨染めの着物に深編笠(ふかあみがさ)をかぶり、腰には刀を帯び、首から袈裟(けさ)を下げた姿は時代劇でおなじみですね。
 また、明治になって虚無僧は武士、つまり士族か否かでも問題になっています。しかし、浪人と同様に認められませんでした。

お七・吉三の比翼塚もご覧ください。



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