PDD図書館管理番号 1000.0000.00075.03

太田道灌公追慕の碑(1997年11月28日撮影)
東京都千代田区一ツ橋1丁目 パレスサイドビル前
太田道灌公追慕之碑全景
 江戸城を創建した太田道灌(おおたどうかん)の追慕之碑(41.3KB)です。石碑には城の石垣の石がそのまま使われています。彼は「山吹の話」で親しまれていますね。

【太田道灌の略歴】

生年は1432(永享 4)
没年は1486(文明18. 7.26)
◇室町中期の武将・歌人。幼名は鶴千代麿・源六郎、初名は持資(もちすけ)のち資長(すけなが)、法名は道灌、通称は左衛門大夫・備中守。太田資清(すけきよ)の子。相摸国の人。
 扇谷(おうぎがやつ)上杉家の執事で、政真・定正(さだまさ)を補佐する。
 築城・兵馬の法に長じ、1457(康正 3,長禄元)年、江戸城を築く。ほかに川越・岩槻(いわつき)・鉢形の諸城を築く。江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、『慕景集』がある。
 1476(文明 8)山内上杉家の内紛(顕定の家臣長尾景春の乱)を鎮圧する。扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒言(ざんげん)により、相摸国大住郡糟谷で主君定正に殺される。
◎主君定正は、道灌の働きをねぎらうという名目で館に招き、酒宴を開いた後、道灌が風呂場に入ったところを刺し殺したという。

 向こうに見えるのは江戸城平川門の平川橋です。
 訪れた時、名前は知りませんが右下の植込み(63.3KB)には実が生()っていました。

 日暮里の月見寺(本行寺)には道灌が築いた斥候台の跡に「道灌丘之碑」が残されています。



皇居の索引に戻る