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橋桁(はしげた)は石造りになっていますが、擬宝珠(ぎぼし)のついた木橋が江戸の面影(おもかげ)を残してくれています。江戸城の遺構(いこう)の木橋としては、ほかに和田倉橋(わだくらばし)が復元されています。
ここは大手門・北桔橋門(きたはねばしもん)とともに皇居東御苑(ひがしぎょえん)の出入口になっていますので、橋を渡ることも門を入ることもできます。太田道灌(どうかん)(1432〜1486)のころからここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあったそうです。
この桝形門(ますがたもん)は高麗門(37.6KB)(こうらいもん)と渡櫓(39.9KB)(わたりやぐら)の位置関係が、以前紹介した大手門と逆になっています(桝形門・高麗門・渡櫓については大手門を参照してください)。なぜ逆になったかというと、上から3番目の写真をご覧ください。渡櫓の右端に帯郭門(47.1KB)という小門があるためです。
この帯郭門の読みは不勉強でわかりませんし、近づけないので詳しいこともわかりません。でも地図で見る限りでは、帯郭はここから平川濠を細長く渡り廊下のように竹橋まで続いています。そして帯郭門の形から推測して竹橋側に対して桝形を守るようにできています。さらに渡櫓の内側である曲輪(くるわ)は天神濠(39.9KB)(てんじんぼり)によって本丸や二の丸・三の丸から切り離されています。素人目には非常に興味・関心を引く変わった形式です。さらに、この門は江戸城の艮(うしとら)の方角(東北)、つまり鬼門(きもん)にあたるため、「不浄門(ふじょうもん)」とも呼ばれ城内の死者や罪人を出す特殊な用途の門でもありました。また、「御局御門(おつぼねごもん)」とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用されました。
1701(元禄14)刃傷(にんじょう)におよんだ浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)(1667〜1701)が出されて切腹したのも、1714(正徳 4)風紀を乱したとして大奥の御年寄(と言っても30ウン歳)・江島(えじま)(1681〜1741)が出されて信州高遠(たかとお)(長野県)に流刑(るけい)となったのも、この門からでした。また、春日局(かすがのつぼね)が門限に遅れて門前で一夜を明かしたという門もここです。その日の門衛旗本小栗又一郎は、御役目を守ったとしてお褒(ほ)めにあずかり500石の加増を受けたそうです。でも、かしこい春日局のことですから、お城の規則はこんなに厳しいのですよ、っという教訓的なデモンストレーションだったと思われます。ハードウェアに頼り切っている現代にとっては、別の意味で教訓的なお話です。
しかし規則が優先して、本丸が火事になっても城門は開かず、将軍家綱(いえつな)(1641〜1680)でも江戸城から外へは逃げられなくなりました。この世の地獄、伝馬町(てんまちょう)の獄舎でさえ火事の際には門が開かれたのに……。
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