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講武稲荷神社(1997年10月31日撮影)
東京都千代田区外神田1−9
 石丸電気本店の裏角にあります。よく秋葉原(あきはばら)の語源の一つになっている秋葉神社と間違っている人が多いですね。
全景正面額
 講武所(こうぶしょ)は江戸末期、老中阿部正弘(まさひろ)(1819〜1857)が対外危機に備えて旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)およびその子弟を対象に設置した武術の講習所です。1854(嘉永 7,安政元)はじめ講武場として設置され、1856(安政 3. 4.)築地(つきじ)鉄砲洲(てっぽうず)に正式に開設されました。
 その講武所の旅籠町(はたごちょう)三丁目の附属地を、大貫伝兵衛(おおぬき・でんべえ)という人が浅草・橋場(はしば)の長昌寺(今は台東区今戸2丁目)の稲荷神社に詣(もう)でてから幕府に願い出て、1856(安政 3. 5.)払い下げを受けました。そこで翌年その屋敷内の一角(いっかく)に講武稲荷神社を建てて橋場から本体をお迎えしましたが、1882(明治15)町内でお祀(まつ)りするようになりました。関東大震災で被災しその区画整理で現在地に移り、さらに戦災を受け1980(昭和55)改装されました。

 最初、なぜこのあたりに附属地があったのか疑問でした。地方から出てきた子弟の宿泊にでも使われたのかと思っていました。しかしその後、講武所附(づき)町屋敷は運営財源を得る花街(はなまち)であったことがわかりました。どうりで伝兵衛さんが欲しがった訳(わけ)です。
 そうしなければ財源が得られないとは……絶句(ぜっく)です。お台場(だいば)づくりなど幕府の財政がきびしかったとは思いますが、当時の感覚では当たり前のことだったのでしょうか。それともやはり特殊なことだったのでしょうか。
 1853(嘉永 6. 4.)ペリー艦隊が浦賀沖(うらがおき)に来航。その後の激動の幕末史の裏面をかいま見た思いがします。


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