地下鉄東西線の門前仲町(もんぜんなかちょう)東口を出るとすぐに深川不動尊の赤門(26.9KB)があります。そして、永代寺は深川不動尊(24.3KB)への仲見世の右側にあります。仲見世(なかみせ)は人情深川ご利益(リヤク)通りとも呼ぶようです。
この永代寺は、富岡八幡宮(25.2KB)の別当寺(べっとうじ)であった永代寺の塔頭(たっちゅう)の吉祥院が1896. 3.(明治29)永代寺の名称を継承したものです。 旧永代寺は明治初年の廃仏棄釈により廃寺となって十六代住職周徹は富岡八幡宮の宮司(ぐうじ)になりました。江戸六地蔵の一つである地蔵も川口(埼玉県)の鋳物(いもの)業者に売られて破壊されてしまいました。
その跡地には深川不動尊が移転して来ています。1866(明治 2)吉祥院境内に成田山出張所が設けられ、1878(明治11)成田山別院不動堂の建設に着手、1891. 6. 1(明治14)棟上式が行われ、通称深川不動尊が完成しました。
誰の手によってどのように廃仏棄釈が行われたかが気になります。深川の商人は幕府へ官軍を迎え撃つ資金を拠出(きょしつ)していました。この辺の事情に詳しい方がいらっしゃったら是非メールを下さい。
旧永代寺は、現在の深川不動尊を含む深川公園一帯の敷地を持った広大なお寺でした。深川公園は、安藤広重(ひろしげ)の『名所江戸百景』にも取材された旧永代寺の庭園を公園にしたもので、上野恩賜(おんし)公園などと同じ1873(明治 6)太政官布告により開園された東京5公園の一つです。
旧永代寺は、江戸六地蔵の一つでしたが、現在の永代寺もお地蔵様が多く、地蔵堂もあります。このお堂には子育地蔵尊・取持地蔵尊など六体のお地蔵様が安置されています。
その他、「戦死戦没者/戦災被没者供養塔」(上段右)・水子地蔵(下段左)などのお地蔵様もいらっしゃいます。上段左は1925. 8.24(大正14)木場筏(いかだ)木取扱組合が建立したもので、その後ろは地蔵堂です。
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