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中国切手の墨子 |
【墨子】春秋戦国時代初期、一説にBC. 468ころ〜BC. 376ころ
諸子百家(しょしひゃっか)の一つ、墨家(ぼっか)の始祖です。
一般に姓は墨(ぼく)、名はテキと言われ、墨テキとも呼ばれます。異説では、墨は学派の名前であるとも、顔が黒かったからとも、入墨(いれずみ)を施(ほどこ)された賤民(せんみん)に由来(ゆらい)するとも、大工の棟梁(とうりょう)の子供でその墨縄(すみなわ)に由来するとも言われています。英語では"Mo-tzu(墨子)"と中国音そのままです。生れも一般には魯(ろ)と言われていますが、宋(そう)または楚(そ)の国の人ともされます。生没年もはっきりしません。
初め儒家(じゅか)(孔子の教え)を学びましたが、儒家の仁(じん)は血縁による差別愛であるとして、兼愛(博愛平等)・非戦(平和)・交利(相互扶助)を唱(とな)えました。
墨子が宋に仕官(しかん)していたとき、公輸盤(こうしゅ・ばん)が発明した最新兵器の雲梯(うんてい)(ハシゴ車のようなもの)を用いて楚が攻めてくるの知り、机上(きじょう)で9回シミュレーション(模擬戦)を行っていづれも撃退に成功し、実際にも撃退しました。三国時代の諸葛孔明(しょかつ・こうめい)(AD. 181〜AD. 234)が兵のいない城の門を開いて撃退した空城(くうじょう)の計(中国切手『三国演義』から)(258KB)にくらべ、なんと科学的・合理的な人ではありませんか。もっとも現在では「墨守(ぼくしゅ)」とは頑固(がんこ)で融通(ゆうずう)が利(き)かないことにも使われますが……。
また、墨子が白い絹の練(ね)り糸が黄色にも黒色にも染まるという話を聞いて泣いたという話も伝わっています。人の性質の善悪は、環境や教育次第によって決まってしまうことを悲しんだからだそうです。
著書は名前と同じ『墨子』で15巻71編あったそうですが、現在は53編が伝わっています。
墨子の十大主張である尚賢・尚同(賢者への絶対服従)・兼愛・非攻(侵略戦争反対)・節用・節葬(葬儀の簡素化)・天志・明鬼・非楽(音楽廃止)・非命を10論23編に説いています。
また経編・経説編などは別墨と呼ばれ、論理学的・哲学的なものの考え方を、備城門編などでは築城術・守城法などを科学的・合理的に記されています。