江戸時代、四谷見附橋は「喰(く)い違い」と呼ばれ、江戸の防衛上の理由から橋だけが甲州街道からかなりずれて架(か)けられていました。それは現在も史跡として保存されている見附の石垣(64.7KB)(これのみ1997年12月29日撮影)からも知ることができます。
明治になって、すでに完成していた赤坂離宮(現在の迎賓館)と調和させるためフランス式の陸橋が架けられるとき、道路と直線になるように変更されました。1911. 4.(明治44)アメリカから鋼材を輸入して着工、1913(大正 2)完成し、10月5日開橋式が行われています。
この橋は道路の拡幅工事に伴い取り壊される予定となっていましたが、八王子市南部の多摩ニュータウンの長池見附橋(ながいけみつけばし)として移設されています。でも、親柱(おやばしら)や高欄(こうらん)(47.0KB)によって元の橋の景観が再現されています。明治初期、麹町(こうじまち)あたりは武家屋敷が取り壊され、かなり寂(さび)れていました。
1874. 1.14(明治 7)夜、宮中を退出した岩倉具視(いわくら・ともみ)がここで、征韓論(せいかんろん)を主張する土佐出身の軍人ら9人に襲撃を受けています。具視はたまたま四ッ谷濠(よつやぼり)にころげ落ち、水中から首だけを出して命拾(いのちびろ)いをしています(赤坂喰違の変)。
でも、1878. 5.14(明治11)今度は朝、近くの紀尾井坂(きおいざか)で大久保利通(としみち)は襲撃を受け暗殺されています(紀尾井坂の変)。
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