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山鹿素行(やまが・そこう)の墓(1998年3月9日撮影)
東京都新宿区弁天町の宗参寺墓地
墓石墓標
【山鹿 素行】1622(元和 8. 8.16)〜1685(貞享 2. 9.26)
 江戸前期の儒学者・兵学者。古学の開祖・山鹿流軍学の始祖。
 名は高興(たかおき)・高祐(たかすけ)、幼名は佐太郎、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は陰山のち素行。陸奥国会津若松生れ。父は貞以(さだもち)。
 六歳で父とともに江戸に出る。1630(寛永 7)林羅山(らざん)の門人となり朱子学を学ぶ。また兵学を十八歳で北条氏長に、甲州軍学を小幡景憲(おばた・かげのり)に修める。
 江戸で山鹿流軍学を講じると諸大名が争って招いたが応じなかった。
 1652年赤穂藩主浅野長直(ながなお)に禄高一千石で仕える。1660(万治 3)赤穂藩を致仕(ちし)。再び江戸で講義。古学を提唱し、1665(寛文 5)朱子学の観念論化を批判して『聖教要録』を著したため、幕府に忌まれ、翌年赤穂藩に配流(はいる)。1669(寛文 9)配所(はいしょ)で中心は日本であるとする『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』を著す。1675(延宝 3. 7.)許されて、8月江戸に帰り、私塾を開き軍学を講じる。
 他の著書は『武教要録』・『武教全書』・『配所残筆』・『山鹿語類』・『武家事紀』・『原源発録』など。

◎素行が赤穂に配流されている時、赤穂義士の大石良雄(よしお)(内蔵助(くらのすけ))の年齢は、多感な8歳から17歳ですから、大きな影響を受けたと思われます。
 なお、映画や芝居などの山鹿流陣太鼓は、実際はなかったようですが、「一(ひと)打ち二(ふた)打ち三(さん)流れ」のあの音なくしてはドラマは盛り上がりませんね。
 討ち入りのあった吉良邸跡(本所松坂公園)もご覧ください。


乃木将軍遺愛の梅シュロの木
 墓地のほぼ真ん中に高いシュロの木(右の写真)が目印のように立っていますので、場所は直ぐに分かります。

 左の写真は乃木将軍遺愛の梅「春日野」です。素行先生を敬愛していた将軍が亡くなられてから、遺族によって移植されたそうです。
 乃木将軍は素行の著書『中朝事実』を愛読、自費で印刷して知人に配ったそうです。

 ここ、宗参寺には牛込(うしごめ)氏の墓もあります。



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