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正雪地蔵尊(1998年3月23日撮影)
東京都新宿区矢来町 秋葉神社 境内
額(35.1KB)正雪地蔵尊(72.8KB)
小祠(70.6KB)
 この地は由比正雪(ゆい・しょうせつ)の屋敷跡の一部でしたが、 かなり時が経ってからこのお地蔵さまが掘り出されていますので、 正雪との関係を伝える確かな資料は存在していません。
 ただ、キリシタン灯籠としてかなり有名な地蔵さまです。 でも、ちょっと目にはお地蔵さまどころか灯籠にさえ見えません。 で、失礼してお姿(58.9KB)を拝見させていただきましたが、 キリシタン灯籠の竿(さお)の一部と確認できただけです。
参照:キリシタン灯籠
石灯籠の名称

【由井 正雪(由比 正雪)】1605(慶長10)〜1651(慶安 4. 7.26)
 慶安事件(慶安の変・慶安の乱・由井正雪の乱)で知られる江戸初期の軍学者です。
 駿河国油井(ゆい)生れで、17歳で江戸に出て鶴屋に奉公し、のち楠不伝(くすのき・ふでん)に軍学を学んで養子となりました。神田連雀町の裏店(うらだな)で楠流軍学を教授し、多くの浪人を門下に集めました。
 1651(慶安 4. 4.20)第3代将軍徳川家光が没した時勢に乗じ、丸橋忠弥(まるばし・ちゅうや)・金井半兵衛(はんべえ)らとともに幕府のご政道(せいどう)を改めようと企(くわだ)てました。計画では正雪は駿府(すんぷ)で城から武器を奪って久能山(くのうざん)に向かい、家康の残した金を奪い取る予定でした。また、丸橋らは江戸小石川の幕府火薬庫を爆破して江戸城を占拠、第4代将軍家綱を人質とし、金井らは大坂で騒乱(そうらん)を起こす手筈(てはず)でした。
 しかし、 7.23正雪の一味に加わっていた奥村八左衛門とその徒弟幸忠が訴え出て未然に発覚。追討を命ぜられた新番組・駒井右京親昌(ちかまさ)に駿府茶町の旅籠(はたご)梅屋で包囲され、正雪は切腹しました。丸橋は捕らえられてのち鈴ヶ森で処刑、金井は正雪の死を確かめてから大坂の天王寺で自害しています。
 連累者は2千余名にものぼりました。
 幕府はこの事件後、浪人対策を重視して浪人の発生を防ぐため、末期(まつご)養子の制度を緩和して大名家断絶の機会を少なくしました。

◎家光時代の大名取り潰しで、江戸市中には不満浪人があふれていました。
 そして、慶安事件の黒幕は徳川頼宣(よりのぶ)(家康の第10子,紀伊徳川家の祖)という説があります。その証拠として多くの内通者があり、彼らの多くが幕府に召し抱えられ出世していることがあげられています。また、正雪は1630(寛永 7)紀州藩に来遊しています。
 さらに、久能山の霊廟に納められた家康の遺金2百万両は、すでに半分を御三家へ分け、残りは1636(寛永13)江戸城に移されていました。


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