江戸時代の中期、火付盗賊改役(ひつけ・とうぞく・あらためやく)だった長谷川平蔵(へいぞう)の供養碑(91KB)です。【長谷川平蔵】1745(延享 2)〜1795. 6.26(寛政 7. 5.10)
長谷川宣雄の子で、幼名は銕三郎、本名は宣以(のぶため)、通称が平蔵です。
1774(安永 3)西ノ丸書院番士・1784(天明 4)西ノ丸徒頭1千石・1786(天明 6)西ノ丸御先手弓頭と歴任し、1787(天明 7)火付盗賊改を兼務します。
寛政の改革では人足寄場(にんそくよせば)の設立を建議し、1790(寛政 2)老中松平定信の命で石川島人足寄場を創設、人足寄場取扱を兼務します。
しかし、1792(寛政 4)人足寄場取扱を罷免(ひめん)され、火付盗賊改に専念しました。旗本ですが、若い頃は吉原などによく通い「本所の銕(てつ)」などと呼ばれ、江戸下町のすみずみまで知りつくしていました。
でも、遊んでいたというより、のちに火付盗賊改役にするため、遊ばされていたのだと思われます。近くには服部半蔵(はっとり・はんぞう)の西念寺(さいねんじ)があります。
【人足寄場】
無宿人(むしゅくにん)や取引人のいない刑期満了者を留置(りゅうち)して、単純な力仕事の人夫として働かせながら、大工などの手職をつけさせ、6年後に賃金を与えて正業につかせる、いわば職業訓練所です。
江戸石川島のほかに常陸(ひたち)・箱館(はこだて)にもありました。
「働かせながら」は今の「雇用保険制度」より数段、精神的・経済的など多方面で優っていると思います。
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