【賀茂 真淵】1697(元禄10. 3. 4)〜1769(明和 6.10.30)
江戸中期の国学者・歌人です。本姓は賀茂(岡部(おかべ))、 幼名は三四(そうし)のち政躬(まさみ)・政藤、 号は県居(あがたい)・県居大人(あがたいのうし) ・県主(あがたぬし)・春栖(はるすみ)、通称は衛士(えじ)。 遠州浜松(岡部郷)に生れ、神官である岡部政信の3男でした。
はじめ浜松の脇本陣梅谷家の入り婿となりましたが、学問好きがこうじて、 37歳で上京し荷田春満(かだのあずままろ)(1669〜1736)から国学を学びました。春満の没 後、41歳で江戸に出て国学を教授しました。
よく真淵先生は「契沖(けいちゅう)先生によって開墾せられた畑に、荷田先生が種 を蒔(ま)かれた国学を、収穫まで仕上げるのは自分の責任であ る」と言っていたそうです。
1746(延享 3)50歳のとき田安宗武に仕え、1760(宝暦10)隠居。 1763(宝暦13)真淵先生が伊勢参宮の途中、松坂の宿に本居宣長(もとおり・のりなが)が訪れて入門し、絶えず文通で真淵先生の教えを受けたそうです。
享年(きょうねん)73歳、江戸で亡くなりました。
「真淵の前に真淵なく、真淵の後(あと)に真淵なし」といわれました。万葉集を中心に古典を研究、古道(古代歌調・古代精神)の復活を説いています。
明治になって従三位(じゅさんみ)が追贈され、鳥居はその時のもののようです。著書は『万葉考』・『歌意考』・『国意考』・『冠辞考』・『祝詞考』・『にひまなび』などがあります。
◎門下に本居宣長・荒木田久老(ひさおゆ)・加藤千蔭・村田春海・ 楫取魚彦(かとり・なひこ)・塙保己一(はなわ・ほきいち)らがおり、県居学派と 呼ばれています。
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