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ハリスの記念碑(1998年6月11日撮影)
東京都港区元麻布1−6−21 浄土真宗本願寺派 麻布山善福寺 境内
ハリスのレリーフ(73.0KB)記念碑の表(86.5KB)記念碑の裏(73.2KB)
記念碑全景(93.9KB)
 善福寺(ぜんぷくじ)は1859. 7. 7(安政 6. 6. 8)日本最初のアメリカ公使宿館となり、1873(明治 6)まで使われています。
 寺には1936.12.19(昭和11)建立の駐日アメリカ公使ハリスの肖像がついた記念碑がありましたが、太平洋戦争(日米戦争)中は当局に遠慮して菰(こも)がかぶせられ土中に埋められていました。戦後、日本を占領したGHQ(連合国総司令部)に所在を尋ねられ日の目を見ました。そして、1960. 5.12(昭和35)日米修好通商百年を記念して再建されています。

ハリス】1804.10. 3(文化元)〜1878. 2.25(明治11)
◇江戸幕末のアメリカの外交官。名はタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)。
 中国(清朝)・オランダ領インドシナ・イギリス領インドなどで商人として旅行していましたので、その知識と経験から初代駐日総領事に任命されました。
 1856(安政 3. 7.)軍艦サン・ジャシント号に乗ってオランダ人ヒュースケン(1832〜1861)を通訳に伊豆下田に着任し、柿崎(かきざき)の玉泉寺(ぎょくせんじ)を総領事館としています。
 このころ、幕吏(ばくり)のはからいで下田奉行の命により大工の娘で芸妓(げいぎ)斎藤きち(通称は唐人(とうじん)お吉)がハリスの看護のため玉泉寺に送られ、妾(めかけ)となっています。

 徳川幕府を説得し1857(安政 4. 5.)下田条約(日米約定)9箇条を締結しました。10月には第13代将軍徳川家定(1824〜1858)に拝謁して、当時、アロー戦争で英仏連合軍が中国軍に大勝した報せを利用し、英・仏などの諸国が武力で通商を要求する危険があるから平和的にアメリカと条約を結んでいれば前例となると説得しましたが、幕府からのらりくらりと相手にされませんでした。
 そこで、実際には権限がないにもかかわらず兵を動かす覚悟あると通達し、勅許(ちょっきょ)を得ずに1858. 7.20(安政 5. 6.16)軍艦ポーハタン号艦上で下田奉行井上清直(きよなお)・目付(めつけ)岩瀬忠震(ただなり)との間で日米修好通商条約14箇条・貿易章程7則(不平等条約)の締結に成功してしまいます。正規の条約でしたが、幕府は反対派の攻撃をかわすため仮条約(安政の仮条約)と称しました。
 その功績から1859(安政 6)全権公使に昇任、一時神奈川本覚寺に公使館を置き、同年6月8日江戸麻布(あざぶ)善福寺へ移設しています。
 1861. 1.15(文久元.12. 5)ヒュースケンはプロシア使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪(まき)河岸の中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平(いむだ・しょうへい)・樋渡八兵衛(ひわたり・はちべえ)らに襲われ、翌日死亡しています。
 幕府はヒュースケンの母に1万ドルを贈り、事件を落着させています。

 1862(文久 2)ハリスは辞任し、帰国しました。
 ニューヨーク市教育局長としてニューヨーク市立大学を創設。ニューヨークで死去。生涯、独身でした。



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