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高野長英の碑(1998年6月2日撮影)
東京都港区北青山3丁目 善光寺境内
碑全景レリーフ
 この石碑は、1898(明治31)渡辺崋山(かざん)(1793〜1841)とともに正(しょう)四位を追贈(ついぞう)された際に一度建てられましたが戦災で被害を受け、その一部を使い1964(昭和39)再建されたものです。

【高野長英(たかの・ちょうえい)】1804(文化元. 5. 5)〜1850(嘉永 3.10.30)
 江戸後期の蘭学者です。陸奥(むつ)水沢(岩手県水沢市)に生れました。
 1824(文政 7)長崎の鳴滝塾(なるたきじゅく)でシーボルトに蘭学を学びました。語学の天才だったようで、やがてドクトルの称号を受け、塾で翻訳の教授を勤めるようになります。1828(文政11)シーボルト事件では多くの門人も処罰を受けましたが、彼は旅に出ていたため熊本に難を逃れました。
 1831(天保 2)江戸に出て麹町(こうじまち)で医者を開業します。
 1837(天保 8)モリソン号事件で幕府を非難し、1839(天保10)蛮社の獄では自ら北町奉行所へ出頭して逮捕されています。
 弁明する機会を得るためというよりは、やはりシーボルト事件が心にひっかかっていたからと思います。年老いた母と妊娠したばかりの妻を残しての出頭はさぞ心残りだったでしょう。しかも、江戸追放と予想していたのに伝馬町(てんまちょう)に永牢(ながろう)となりました。
 1841(天保12)には隠居していた第11代将軍徳川家斉(いえなり)の死による特赦(とくしゃ)で逮捕された仲間の多くは出獄しましたが、長英は残され牢名主(ろうなぬし)にまでなってしまいました。この間も獄中で洋書の翻訳を願い出ていますが許されていません。
 1844(天保15. 6.30)獄舎の失火で3日間の解き放ちを利用して逃走。この火事は放火だったようで失踪(しっそう)した長英が疑われています。この際、薬品で顔を焼いた事は有名です。執拗(しつよう)な探索の中、学者仲間や門人などに守られながら諸国を用心深く逃避し、江川英龍(ひでたつ)(伊豆韮山(にらやま)の代官)・伊達宗城(だて・むねなり)・島津斉彬(なりあきら)らの庇護(ひご)を受けました。
 1850(嘉永 3)再び江戸に入り、沢三伯と変名して青山百人町に開業。鉄砲のことなどを講じたことから幕府に探知され、幕吏(ばくり)の捕方(とりかた)に襲われ自刃。悲壮(ひそう)としか言えません。

◎探知された直接の原因は、長英がかつて牢屋で一緒だった元一という者と町で出会い、逃走の資金をせがまれて、わざわざ自宅に案内し金を渡した事でした。元一は釈放を条件に長英の探索を命じられていた奉行所の手先だったのです。
 このような者は「うかみ(斥候,窺見)」と呼ばれ、『日本書紀』にも記録されており、日本では古くから制度として受牢者の中で役立ちそうなものを放免し役人の下役に使用しています。『広辞苑』など大きな辞書には載っています。

【モリソン号事件と蛮社の獄】
 1837(天保 8)米船モリソン号が日本漂流民返還と通商のために浦賀沖に来航、幕府は異国船打払令に従ってこれを砲撃・撃退しました。モリソン号はさらに薩摩でも砲撃を受け、やむなく中国のマカオに戻っています。
 長英らは中国で活躍した英国の宣教師で東洋学者ロバート・モリソンが来航するものと誤解し、このような大人物を打ち払ったら大問題になるとして幕府の態度を非難しました。この誤解はオランダ人が「米船」を「英船」と誤訳して、「近々(ちかぢか)英船モリソン号が日本に通商を求めて来航します」と幕府に報告したためだそうです。いったい、長英らはこの極秘情報をどこから得ていたのでしょうか。
 長英は1838(天保 9)『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』を著し開港論を唱えました。この『戊戌夢物語』は、夢に託(たく)して諸外国の風俗文化を紹介しその優れたところを賞賛、攘夷(じょうい)などをしないで西洋諸国と交際・貿易した方が望ましいと述べたものです。『慎機論』は、日本が鎖国しているうちに世界は貿易で栄え、西洋の強国が日本にも押し寄せてきているから、時機を慎(つつし)まなければ大変な事になる、と警告しています。
 1839(天保10)老中水野忠邦(ただくに)・幕府目付鳥居耀蔵(とりい・ようぞう)ら反洋学派は、密貿易のため小笠原密航を企てたとして尚歯会(しょうしかい)の洋学者グループ崋山・長英・小関三英(こせき・さんえい)ら洋学者26人を逮捕(蛮社の獄)、小関は自殺しましたが、取り調べが進むと罪状が当てはまらない事が明らかになり、政治批判の罪に変更され、崋山は三河国田原藩へ国元蟄居(ちっきょ)、長英は江戸伝馬町に永牢を言い渡されました。
 崋山は一年あまり謹慎(きんしん)していましたが、ある時友人に手紙を送ったことから藩主にまで迷惑がおよび、それを苦に1841(天保12.10.)自殺しました。

尚歯会は「老人を尊ぶ会」という意味で、幕府の目をそらすために付けられたのですが、世人には蛮学社中と呼ばれていました。



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