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大手門(1997年4月24日撮影)
東京都千代田区千代田
 大手門の形式は枡形門(ますがたもん)と呼ばれ、大手高麗門(一の門)と大手門渡櫓(二の門)と、桝形と呼ばれる四角形の場所からできています。
 左の写真は桔梗濠(ききょうぼり)から見た大手門で、桝形を囲む城壁と大手門渡櫓(わたりやぐら)の屋根が写っています。

 左の写真は、手前が桝形の城壁、右が大手高麗門(こうらいもん)、奥が大手門渡櫓です。
 右の写真は、大手高麗門を正面から見たもので、右に大手門渡櫓が写っています。
 この門から入門の札を受け取って皇居東御苑に入る事ができます。無料です Y(^o^)Y。

 左の写真は、大手高麗門の門扉(もんぴ)です。
 中の写真は、内側から見た大手高麗門です。門から飛び出ている二つの屋根は、門を開いている時に、門扉を守るための屋根です。
 右の写真は、桝形です。高麗門を破った敵兵はここで勢いを殺()がれ、右側の渡櫓からもう一度攻撃を受ける事になります。
 西洋の城郭の跳ね橋は、籠城か討って出るかしかできませんが、この桝形門は誘い込んで討つという高度な設計になっています。しかも、右手に渡櫓を配置していますので、入ってきた敵は一般に右利きですから弓や鉄砲で攻撃しようとすると隠れるところがなく、城を守る側の矢玉に身を晒(さら)してしまうのです。日本の城郭は美しさだけではなかったのです。
 もちろん、江戸城には北桔橋門(きたはねばしもん)や西桔橋門の跳ね橋もありました。

 桝形の中に「旧大手門渡櫓の鯱(しゃち)」がありました。
 1945. 4.(昭和20)戦災で焼失した旧大手門渡櫓のシャチホコ(鯱)で、頭部に「明暦三丁酉 初冬 銅意入道正俊作」と銘があるそうです。江戸の6割が焼失した1657(明暦 3)振袖の火事の際に天守閣などとともに焼失した高麗門や渡櫓を再建した時のものと推定されています。
 高麗門は戦災に遭わず、ほぼその時に再建されたままだそうです。渡櫓は1967(昭和42)再建されました。

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 左の写真は、桝形から見た大手門渡櫓です。
 中の写真は、渡櫓の門扉です。
 右の写真は、曲輪(くるわ)(城内)から見た渡櫓です。屋根の妻は鉛板で覆われています。

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