PDD図書館管理番号 1000.0000.0034.06

本丸の天守台(1997年4月24日撮影)
東京都千代田区千代田 皇居東御苑内
 江戸城の天守閣は五層51m日本最大の規模で1607(慶長12)に完成しました。
 しかし、1657(明暦 3)1月江戸の6割を焼く尽くした振袖(ふりそで)の火事で本丸・二の丸・三の丸などとともに焼失し、再建される事はありませんでした。
 振袖の火事で炎上している江戸城を江戸時代の絵で見ると、門は堅く閉ざされ、火消し道具を持った町人は濠端(ほりばた)に集まって眺めているだけです。炎は濠端の塀までおよび、奥女中や武士は塀越しにお濠に飛び込んで重なり合っています。何があろうと城門は開かないということです。まだ若い将軍家綱(いえつな)(1641〜1680)も二の丸に避難しただけで、威信のため城外への避難は許されなかったそうです。
桃華楽堂を望む
天守台の入口から
桃華楽堂を望む。
本丸1本丸2
展望台
本丸石垣の上は
展望台になっています。
展望台左側
登って右側。
ここは立入禁止。
方位の石
展望台にある
方位をしめす石。
天守台の石垣
 ご覧の通り、石垣も火災によって痛んでいます。
この上に天守閣を再建する事は無理でしょう。

 天守閣の再建が討議された時、将軍家綱の補佐役・会津藩主保科正之(ほしな・まさゆき)(1611〜1672)が、天守閣などは織田信長の産物、まづは都市の再建を、と建議した結果、再建されませんでした。

保科正之は第3代将軍家光の異母弟、第4代将軍家綱の叔父(おじ)にあたります。


皇居の索引に戻る