榎本武揚(たけあき,ブヨウ)(1836〜1908)のお墓です。江戸幕末の海軍副総裁で、大政奉還後に軍艦を引き渡さず、箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)に籠(こ)もって政府軍と戦いました。
彼の新知識が惜(お)しまれて1872(明治 5)特赦(とくしゃ)をうけ、のち明治政府の要職を歴任、政治家としても活躍しました。詳(くわ)しくは当館の『人名辞典』をご覧ください。
写真の右側が武揚の墓石(45.7KB)で、小ぶりの左側は夫人のものです。
武揚の墓銘は神式で「海軍中将子爵榎本武揚墓」となっていて、夫人のは仏式で「慧鏡院殿皓林珂月大姉(7.2KB)」となっています。
特赦後、1891(明治24)設立された育英黌(いくえいこう)農業科の初代黌主にもなり、北辰社牧場を経営して牛乳を作っています。この学校は東京農業大学の前身で、徳川育英会が旧幕臣子弟のため、東京市麹町区飯田町河岸(現在の千代田区飯田橋、ほぼ飯田橋駅前)の地に設立したものでした。
江戸時代、この地は外濠(そとぼり)の内側で比較的上級の旗本屋敷と武家相手の商家が立ち並ぶ町でした。しかし維新後は旗本の多くが駿府(すんぷ)(現在の静岡市)に帰り、屋敷は取り壊され雑草が茂り荒れ野となっていました。でも、甲武鉄道(現在のJR中央線)の始発駅となる牛込駅建設のため、学校は早くも1892(明治25)大塚窪町に転出しました。
墓所霊廟の索引に戻る |