川越夜戦は、戦国時代の1545〜1546(天文14〜15)武蔵国河越(現在の埼玉県川越市)で行われた後北条氏と上杉氏の合戦(かっせん)です。
「河越(川越)の戦い」・「河越(川越)の夜討(ようち)」とも呼ばれています。1537(天文 6)扇谷(おうぎがやつ)上杉朝定(ともさだ)(1525〜1546)は北条氏綱(うじつな)(1486〜1541)・氏康(うじやす)(1515〜1571)父子に本拠(ほんきょ)河越城を攻め落とされ、松山城に退きます。1541(天文10)氏綱が没したので、扇谷上杉朝政(ともまさ)が攻めましたが敗退しています。
勢力の回復をはかる朝定は山内上杉憲政(のりまさ)(1523〜1579)(関東管領(かんとうかんれい))・足利晴氏(はるうじ)(?〜1560)(古河公方(こがくぼう))の援けを得て、1545(天文14.10.)福島綱成(北条綱成)(つなしげ)(1515〜1587)が守る3千の河越城を総勢8万余騎の大軍で包囲します。
翌年春、氏康が今川氏親と争っているのに乗じて朝定ら上杉・足利の連合軍は兵糧(ひょうろう)の尽きた落城寸前の川越城を攻めます。氏康は8千騎を率(ひき)いて援軍に駆けつけ、4月20日夜陰(やいん)に乗じて襲撃し、城兵も降参を装って夜襲しました。
多勢をたよりに油断していた上杉・足利の連合軍は敗走、混乱の中で朝定は戦死して扇谷上杉は滅びました。◎この戦いで上杉家は勢力が全く衰え、後北条氏が関東の覇権(はけん)を手中(しゅちゅう)にしました。
もちろん、徳川家康(1542〜1616)が1590(天正18)江戸に入城する前のお話です。
◎なお、東明寺は「小江戸」観光コースからちょっと離れていますが、菓子屋横丁(34.4KB)(1999年5月2日撮影)から歩いて数分です。
上杉憲政が大軍を布陣した砂久保(すなくぼ)陣場は、川越城から西南約4キロの地点で、砂久保の稲荷神社(55.7KB)(1999年6月5日撮影)が市指定の史跡となっています。
川越の地図があったら、川越城や東明寺、砂久保の位置関係を見てみるとおもしろいですよ。
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