【佐藤 春夫】1892. 4. 9(明治25)〜1964. 5. 6(昭和39)
詩人・小説家・評論家。戒名(かいみょう)は凌霄院殿詞誉紀精春日大居士。和歌山県東牟婁郡(ひがしむろぐん)新宮町(しんぐうちょう)(現在の新宮市)生れ。
古木鉄太郎(こぎ・てつたろう)の義兄。妻千代子は谷崎潤一郎の元夫人。1909(明治42)慶応義塾大学に入学、のち中退。
新詩社同人となり生田長江(いくた・ちょうこう)・与謝野寛(よさの・ひろし)・永井荷風(かふう)に師事。「スバル」・「三田文学」で詩文を発表。のち小説に転ずる。
谷崎潤一郎の妻千代子と恋愛関係となるが、谷崎は妻の妹との恋愛から結婚を望み、春夫と妻の恋愛をいったんは許し、妻を譲ると約束。しかし谷崎は土壇場(どたんば)で翻意(ほんい)(小田原事件)。1921(大正10)春夫は谷崎と絶交。
1930. 5.(昭和 5)春夫と千代子の連名で、千代子が長女鮎子を伴い離別して春夫に嫁ぐ旨(むね)を発表。同年8月に谷崎は千代夫人と離婚し三者合意を声明。
1938(昭和13)従軍作家として武漢(ぶかん)作戦に従軍、1943(昭和18)マレー・ジャワに従軍。
1948(昭和23)芸術院会員。1960(昭和35)文化勲章、受章。
ラジオの録音中に急死。
作品は詩集『殉情詩集』・『佐久の草笛』・『我が一九三二年』、1918(大正 7)小説『田園の憂鬱』・『都会の憂鬱』・『女誡扇綺譚』・『晶子曼陀羅』など。◎墓石を見ると夫人の文字(秋紅)が黒くなっていますが、もとは赤い字だったと思われます。
それは夫を亡くした夫人が生前に夫婦の墓を作るとき、自分の戒名に朱を入れる習慣があるからです。この場合、未亡人(恐ろしい表現です)は赤い信女(しんにょ)と呼ばれます。
まさに偕老同穴(かいろうどうけつ)、夫人の春夫に対する想いが伝わってきます。
伝通院墓地の著名人の墓 千姫(徳川家康の孫娘)
墓所霊廟の索引に戻る |