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愛国婦人会発祥の地(1997年12月29日撮影)
東京都千代田区九段南1丁目 千代田区役所前
石碑の正面(101KB)
石碑の裏面(83.2KB)
 九段坂の下、九段会館(旧軍人会館)のとなりに区役所はあります。九段会館と区役所の堺の繁みにこの石碑がありました。
 石碑の正面には「小笠原長○書」とありますが、たぶん唐津藩主の家系の人と思います。また、裏面には「会祖/奥村五百子……/銅像跡記念……/昭和三十年……/奥村刀自……」の文字が見えます。
 唐津市には奥村五百子(いおこ)の銅像があるようなので、関連があるのかをメールで唐津市に問い合せてみましたが、残念ながら無名な当館には回答を頂けません(無視)でした。

愛国婦人会
 戦死者の遺族や傷痍(しょうい)軍人(傷病兵)の救護・慰問などを目的とした婦人団体です。
 1900(明治33)義和団事件(北清事変)の戦線慰問から帰った奥村五百子が中心となり、近衛篤麿(このえ・あつまろ)とともに、1901. 2.(明治34)皇族・華族など上流夫人を会員として創設されました。最盛期の会員数は338万人に達しました。
 1931(昭和 6)満州事変の後、1932(昭和 7)大日本(だいにほん)国防婦人会と対立することもあり、1942. 2. 2(昭和17)他の婦人団体とともに大日本婦人会に統合されています。

 大日本国防婦人会は1932. 3.18(昭和 7)大阪の主婦らにより結成された国防婦人会を母体に、軍の指導により同年12月13日全国組織に発展した婦人団体です。こちらは、おなじみの白エプロン(割烹着(かっぽうぎ))にタスキがけの姿で、スローガン「国防は台所から」を掲げていました。
 愛国婦人会大日本国防婦人会大日本連合婦人会などすべての婦人団体を統合して発足した大日本婦人会は、「高度国防国家体制に即応するため、皇国伝統の婦道に則(のっと)り、修身斉家(しゅうしん・せいか)の実(じつ)を挙()ぐる」目的で、20歳未満の未婚者を除くすべての婦人は強制加入させられ、軍部・政府の指導下に大政翼賛会(たいせいよくさんかい)の一翼を担(にな)い、貯蓄増強・廃品回収・国防訓練・兵士の送迎や慰問・遺族の援護など、銃後活動の国家奉仕に動員されています。
 いつの間にか、五百子の見た悲惨な戦場に愛する肉親を送り出し、自らが遺族となる働きに変わっていたのです。
 1945. 6.(昭和20)国民義勇隊女子隊に改組されましたが、敗戦により解散しました。沖縄の惨事を思うと、そのまま戦争を続けていたら恐ろしい結果になっていたことでしょう。

奥村 五百子1845(弘化 2. 5. 3)〜1907. 2. 5(明治40)
◇婦人運動家・社会事業家。肥前(佐賀県)唐津の浄土真宗東本願寺派の僧侶了寛の娘、円心の妹。
 はじめ浄土真宗福成寺の住職に嫁ぎましたが死別し、水戸藩士の鯉淵彦五郎と再婚しています。
 兄円心とともに高杉晋作(しんさく)・野村望東尼(もとに)らと交わり尊王攘夷運動にも参加しました。
 明治維新後、江藤新平(しんぺい)を支持して征韓論を主張、西南戦争には西郷隆盛を援助します。このため夫と離婚することになりました。
 一方、日本軍の援助で保守派の事大党(じだいとう)を打倒しようとして失敗した韓国の亡命志士、金玉均(きん・ぎょくきん)・朴泳孝(ぼく・えいこう)を庇護(ひご)しています。
 1897(明治30)仏教布教の目的で韓国に渡り、1898(明治31)光州に実業学校を設立したのですが誤解を受けて帰国しています。
 1899〜1901(明治32〜明治34)北清事変に際し東本願寺を説いて慰問使を派遣させ、1900(明治33)その一行に加わり戦場の悲惨さを見た体験から、傷病兵の看護と遺族の救護を志して、1901. 2.(明治34)対露主戦派の近衛篤麿とともに愛国婦人会を創立しました。
 1904〜1905(明治37〜明治38)日露戦争では満州に日本軍を慰問しています。



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