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芭蕉堂(ばしょうどう)(1997年10月21日撮影)
東京都文京区関口2−11−3 関口芭蕉庵の庭内
額
芭蕉堂
 芭蕉(1644〜1694)は本名が松尾甚七郎宗房(むねふさ)という下級武士で、1677〜1680(延宝 5〜延宝 8)ここ神田上水の掘割(ほりわり)工事に従事しました。
 その時の工事現場小屋とも水番屋ともいわれているのが、後の寛延(かんえん)(1748〜1751)年間に山口素堂(やまぐち・そどう)(1642〜1716)の弟子の長谷川馬光(はせがわ・ばこう)や中川宗瑞(なかがわ・そうずい)などの俳人が集(つど)った関口(せきぐち)の芭蕉庵(ばしょうあん)(75.6KB)です。当初は竜隠庵(りゅうげあん)ともよばれていたようです。ちなみに胸突坂(むなつきざか)をはさんだお隣りは水神社(30.4KB)です。

 芭蕉三十三回忌の1726(享保11)、芭蕉堂が建てられて芭蕉の像が祀(まつ)られました。さらに高弟の宝井其角(たからい・きかく)(1661〜1707)・服部嵐雪(はっとり・らんせつ)(1654〜1707)・向井去来(むかい・きょらい)(1651〜1704)・内藤丈草(ないとう・じょうそう)(1662〜1704)の像も納められました。

 1750(寛延 3)宗瑞馬光らは「芭蕉翁之墓」として芭蕉の句「五月雨(さみだれ)に かくれるものや 瀬田(せた)の橋」の書かれた短冊(たんざく)を埋めた「さみだれ塚」(84.6KB)を築きました。石碑の裏には「祖翁瀬田のはしの吟詠(ぎんえい)を以(もっ)て是(これ)を建てさみだれ塚と称す 寛延三年八月十二日……」と刻(きざ)まれているとのことです。

 1938(昭和13)3月、庵(いおり)は近火で類焼し8月には復旧しましたが、1945(昭和20)5月戦災に遭()い、芭蕉堂のみ残りました。その他も戦後に復旧され、ひょうたん池(70.9KB)など往時(おうじ)を偲(しの)ぶことができます。バナナのような芭蕉の木(64.1KB)も植えられています。


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丈草と嵐雪 芭蕉 其角と去来
丈草と嵐雪(31.2KB)芭蕉(34.6KB)其角と去来(30.0KB)

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