この有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王(たるひと・しんのう)の銅像は大熊氏広の作品で、千代田区の三宅坂の旧陸軍参謀本部前に1903(明治36)建立されましたが、道路拡張のため1962(昭和37)ここへ移設したものです。【熾仁親王(たるひと・しんのう)】 1835. 3.17(天保 6. 2.19)〜1895. 1.15(明治28)
有栖川宮9世。幼名は歓宮。幟仁(たかひと)親王の第1王子、母は佐伯祐子。京都生れ。
親子(ちかこ)内親王、のちの和宮(かずのみや)と婚姻の内旨を受けていましたが、大老井伊直弼(いい・なおすけ)の公武合体策のため解消したことは有名です。
1868(慶応 4)には東征大総督となり参謀西郷隆盛(たかもり)とともに東下(とうげ)し、3月5日駿府(すんぷ)(現在の静岡市)に入城しました。実はこの時3月7日には、のちに北白川宮能久(よしひさ)親王となられる、上野寛永寺の輪王寺宮(りんのうじのみや)公現(こうげん)親王が訪ねています。江戸城留守役の田安慶頼(たやす・よしより)らに頼まれたもので、同年1月の鳥羽伏見(とば・ふしみ)の戦いで江戸に逃げ帰った将軍徳川慶喜(よしのぶ)の恭順を告げ征討の中止を懇願しましたが受け入れられませんでした。そこで輪王寺宮はさらに京都にのぼり直接朝廷に嘆願しようとしましたが、有栖川宮から「上洛(じょうらく)に及ばぬ。帰って不逞(ふてい)の輩(やから)を鎮(しず)めよ」と忠告されて江戸に帰されています。
まだ独身だった有栖川宮のキビシサが感じられます。二十歳にもなっていない輪王寺宮はどう思われたのでしょう。上野戦争では、輪王寺宮はただ彰義隊(しょうぎたい)に担ぎ出されただけでなく、胸に青い炎を燃やしたと思います。有栖川宮は1870(明治 3. 2.)水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の11女貞子、つまり慶喜の妹と結婚していますが、また、有栖川宮のお気持ちはいかがだったのでしょうか。
有栖川宮も北白川宮(輪王寺宮)も1895(明治28)病死しました。
切手は死後の1896. 8. 1(明治29)日清戦争戦勝記念に発行された有栖川宮の肖像です。
切手の写真はGamaさんから提供を受けたものでPDDではありません。
GamaさんのHPの日本切手のコーナーには「明治天皇大婚25年記念」などいろいろ紹介されています。是非ご覧ください。
ここの地は江戸時代には盛岡藩主南部氏美濃守の下屋敷でしたが、明治維新の際に朝廷へ上納されたものです。現在も南部坂の地名が残っています。
1896(明治29)有栖川宮御用地となり、1913(大正 2)高松宮(たかまつのみや)(昭和天皇の弟宮)に受け継がれました。1934(昭和 9)高松宮から東京市に公園として寄贈され、有栖川宮記念公園が開園されました。
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