わずかな遺恨(いこん)で本庄助太夫(ほんじょう・すけだゆう)を斬った白井権八(ごんぱち)は、鳥取藩から東国に姿をくらましました。
遺子の助七と助八(助市と助七とも)兄弟は後を追って江戸に出て、箕輪(みのわ)(三ノ輪)に家を借り権八を探します。しかし、1660(万治 3)それが逆に権八に知れてしまい、兄助七は吉原田圃(よしわらたんぼ)で殺されてしまいます。弟の助八はこの井戸で兄の首を洗っているところを、無残にも権八に襲われ討ち果たされてしまいました。仇討(あだう)ちはこのように成就(じょうじゅ)せずに終ることも多かったようです。場合によっては、仇(かたき)に合うこともできず、路銀(ろぎん)も使い果たし病気になって旅の露と消えることもありました。
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