PDD図書館管理番号 0000.0000.0224.00 ( ) はひらがなのルビ。 【 】は傍点を示す。 読みの「'イ」は「ゐ」を示す。 菊の紋 巌谷小波:作  むかしむかしまづある處に、廣い野原があつて、其處(ソコ)に可愛らし い菊の花が二輪(リン)、奇麗に咲いて居りました。  二輪(フタツ)とも同じ根から生へて、同(オンナ)じ形に咲いて居るのですか ら、云はゞ同胞(キヤウダイ)ですが、只その色が異(チガ)つて居ますから、 黄色い方をお黄(キイ)ちやん、白い方をお白(シロ)ちやんと云つて居ました。  晝間は一所(イツシヨ)の日向(ヒナタ)で遊び、夜は同し露を喰べて、誠に仲 よく咲いて居りましたが。或る日の事、其處へ一人の老爺(オヂイ)さんが やつて參りまして、此の二輪の菊の花を、つくづくと眺めて居つた末が、 やがてお黄(キイ)ちやんに向ひまして、 (老) お前はほんとに奇麗な花だが、何と私(ワシ)と一所に、自家(ウチ) のお庭へ來る氣はないか。 と、云ひますから、黄菊は不思議に思ひまして、 (黄) それは何しに行(ユ)くんです? と尋ねますと、老爺(オヂイ)さんはニコニコしながら、 (老) 一躰(イツタイ)私(ワシ)は、此の近所に居る菊作人(キクツクリ)だが、こ れからお前を自家(ウチ)へ連れてつて、もつと大きな、もつと奇麗な、 好(イ)い花にしてあげやうと思つてさ。 (黄) お前さん許(トコ)へゆくと、もつと大きな、もつと奇麗な、好(イ) い花になれますか。 (老) はア成るとも成るとも。こんな野原に居るのとは違つて、甘(ウ マ)いものも澤山(タント)喰べされりやア、美(イ)い衣服(キモノ)もどつさり 着せてやるから、厭でも立派な花に成れるのさ。 と、善(ヨ)い事づくめで申しましたから、お黄ちやんはムラムラと其氣 になりまして、 (黄) まア好いこと。妾(アタイ)行(ユ)き度いワ。 (老) さうか。そんなら直ぐに連れてつてやらう。ドレ、それぢやア 【おんぶ】しな。 と、やがて黄菊をば拔き取りまして、自分の家(ウチ)へ連れて行かうとし ます。  先刻(サツキ)からこれを見て居たお白ちやんは、お黄ちやんばかり連れ てつて、自分は【置いてきぼり】にされるんですから、羨ましいやら、 心細いやらに、老爺(オヂイ)さんの袂(タモト)をつかまへまして、 (白) アラお黄ちやん行(ユ)くの? そんならあたいも連れてつて頂 戴なア…… と云ひますと、老爺(オヂイ)さんは恐い目をしまして、 (老) いけないいけない。お前はいけないよ。 (白) だつて今迄一所に居たんだから、單獨(ヒトリ)になつちやア淋し いワ。 (老) そんな事を云つたつて、お前は何にも色がないぢやないか。そ んな色の無いものを、いくら骨折て仕込んだつて、碌(ロク)な物になり やしないから、お前は失張り野原に居て、芒(ススキ)とでも遊んで居る がいゝのさ。 と、そつけもなくはねつけまして、黄菊ばかりを【おんぶ】して、サツ サと行てしまいました。  さて黄菊のお黄ちやんは、老爺(オヂイ)さんに連れられまして、其自家 (ウチ)へ行て見ますと、前に聞いた通り、老爺さんが大層可愛がつてくれ まして、まづ今迄の垢(アカ)を落とし、衣服(キモノ)も好(イ)い衣服(キモノ)と 着かへさせ、食事(ゴゼン)も甘(オイシ)い物ばかり喰べさせ、また居所('イド コロ)だつて、今までの樣な、青天井(アホテンジヤウ)の野原とはちがつて、ち やんと屋根のある、奇麗な花壇に置てくれて、荒い風にも當てませんか ら、お黄ちやんは、裏店(ウラダナ)の兒が、俄(ニハカ)に御殿へ上つたやうに、 只もう嬉しくつて嬉しくつて今迄仲好くして居たお白ちやんの事なんか は、まるで忘れてしまひました。  さうして段々月日が立ちますと、案(アン)の條(デウ)甘(オイ)しい物の效 驗(キキメ)で、躰(セイ)が追々に伸び、花瓣(ハナビラ)も次第に大きく成て、今 までとはまるで別の樣な、見事な花に成りました。  すると、或日の事で、そこの村のお庄屋さんが、老爺(オヂイ)さんの處 へやつて來まして、 (庄) コレコレ老爺(オヂイ)さん。お前の處にほんとの菊の花はないか ネ。 と、云ひますから、老爺(オヂイ)さんは變に思ひまして、 (老) これはお庄屋樣、よく入らつしやいました。しかし妙な事を仰 有(オツシヤ)るぢやありませんか、私(ワタクシ)は長年菊を作つて居りますが、 まだ僞(ウソ)の菊といふのを作つた事は厶(ゴザ)いませんが…… (庄) イヤ、それは道理(モツトモ)だが。實は此の土地の殿樣が、今度(コ ノタビ)菊の御紋をば、御定紋(ゴヂヤウモン)になさるに就ては、その形を 取るために、いろいろの菊を御覽に成たところ、どうも花瓣(ハナビラ) が長かつたり、色が交つたりして、殿樣の仰有るやうな、十六瓣(ヒラ) の色の白い、純粹(ホント)の菊といふものは見當らないのさ。そこでお 前は菊作人(キクツクリ)だから、お前の處へ來たらあるだらうと思つて、 それでわざわざ尋ねに來たんだが、なんとさう云ふ純粹(ホント)の菊は あるまいか。 と云ひますと、老爺(オヂイ)さんは小首を傾けましたが、 (老) イヤさう云ふ菊はありませんが、茲に私が丹精して拵(コシラ)へ た菊があるんです。これを一つ御覽下さい。これなら屹度御氣に入り ましやう。 と、例のお黄(キイ)ちやんを自慢さうに見せましたが、お庄屋さんは頭(カ シラ)をふつて、 (庄) イヤイヤ。そんな變形花(カハリバナ)ぢやアいけない、此方(コツチ) は純粹(ホント)の菊が欲しいんだ。だが無けりや仕方が無い、また他を 探しましやう。 と、そのまゝ老爺(オヂイ)さん處を出まして、それから廣い野原の方へ、 腕を組んでやつて來ましたが、不圖(フト)聞くと、路傍(ミチバタ)に何だか 泣いてる者があります。  オヤ何だらうと、立ち留つてよく見ますと、小さい、白い、菊の花で すから、 (庄) オイオイ、お前は菊の花ぢやないか。何をそんなに泣いてるん だ? と聞きますと、菊は涙を啜(スス)りながら、 (白) ハイ、妾(ワタクシ)はお白ちやんと云つて、白い菊でございますが、 姉さんのお黄(キイ)ちやんは、菊屋の爺(オヂ)さんに連れてかれて、甘 (オイ)しい物を喰べたり、好(イ)い衣服(キモノ)を着たりしてますけども、 妾(ワタシ)は白いから、いけないツて、【置いてきぼり】にされました から、それで泣いてるんで厶(ゴザ)います。 と、云ふ顏をつくづくと見ますと、まぎれもない十六瓣(ヒラ)で、色も眞 白な菊ですから、お庄屋さんは横手を打ち、 (庄) イヤこれだこれだ。殿樣の仰有るのは是に差異(チガヒ)ない。 と、云ひながらお白ちやんを抱き起し、 (庄) コレ泣くな泣くな。お前ははんとに善(イ)い菊だのウ。菊屋の 老爺(オヤヂ)は馬鹿だから、お前を構はずに行たけども、乃公(オイラ)の 方には、お前が直ぐにお役に立つのだ。もう泣くにやおよばないから、 直ぐに乃公(オイラ)と一所にお出で! と、思ひがけない言葉ですから、お白ちやんは驚きまして、 (白) ……オヤ……それぢや妾(ワタシ)がお役に立つの。 (庄) お役に立つどころぢやない。殿樣はさぞお喜悦(ヨロコビ)だらう。 それでお前がこれから御殿へ上つて、殿樣の御紋になれば、菊屋の花 壇に居るよりは、どんなに出世か知れやしない。さアさア、泣かずに 一所にお出で。 と、これからお庄屋さんは、自分の家へ連れてゆき、すつかり奇麗に手 を入れて、立派な駕籠(オカゴ)で御殿に上げました處、殿樣は殊の外のお 喜悦(ヨロコビ)で、直ぐに此の白菊をば、お家の御定紋になさいましたが、 黄菊のお黄(キイ)ちやんは、相變らず菊屋の花壇に居て、奇麗に咲いて居 るばかり、流石に見物には褒められましたが、紋に成て殘りもせず、や がて素枯(スガ)れてしまひました。