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【 】は傍点を示す。

一休和尚 

巌谷小波:作

問 紫野(むらさきの)あつて、鳶色野(とびいろの)無きは、是(これ)如何(いかに)?
答 大徳寺(だいとくじ)あつて、小徳寺無きが如し。
問 一休和尚あつて、二休和尚無きは、是(これ)如何(いかに)?
答 日本お伽噺あつて、三本お伽噺無きが期し。
                 問 三日坊主(みつかばうず)
 月 日             答 一休和尚


『門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚、めで度くもありめで度くも無し』と、これはまことに名高い歌で。その意味(わけ)は、『お正月になると、何處でも門松を立てゝ、めで度(たい)めで度と云つて居るが、あれはまことに馬鹿げた話。人間はお正月の來る度に、一つ宛(づつ)年を取つて、段々死期(しにめ)に近くなつて行()くのだから、丁度(ちやうど)門松は、冥土へ行く道中の、一里塚と同し事だ。それを考へると、お正月位おめで度くないものは無い。』と、かう云ふ事を云つたのですが、全體この歌は、何()う云ふ人が詠()んだかと云ふと、是は今から五百年程も前に、大徳寺(だいとくじ)の一休(いつきう)禪師(ぜんじ)と云ふ、豪(えら)い坊さんが詠()んだのでございます。 此の一休と云ふ坊さんは、幼少(ちいさ)い時の名を千菊丸(せんぎくまる)と云ふて、應永(おうえい)元年の正月の元日、而(しか)も旭日の昇るのを相圖(あひづ)に、おぎやアと生まれたのでございますが、實は恐多(おそれおほ)くも、當時(とき)の天子樣、後小松天皇樣の、御胤(おたね)だと云ふ事でございます。
 幼少(ちいさ)い時分から普通(なみ)の人間とは異(かは)つて、まことに利發な兒でございましたので、かういふ兒は寧(いつ)そ坊さんにして學問をさせた方が、後(のち)に立派な豪(えら)い者に成れるだらうと、丁度その六歳(むツつ)の時、紫野(むらさきの)の大徳寺へ入れて、養叟(やうそう)禪師(ぜんじ)と云ふ人のお弟子にしまして、それからは名も坊さんらしく、一休といふ名に改めました。
 處が、元より天性(うまれつき)怜悧(りかう)な兒ですから、お經でも習字(てならひ)でも、その記憶(おぼえ)の早い事と云つたら、他(ほか)のお弟子が十遍習つても、中々覺えられない事なども、たつた一度で呑込んでしまひ、自分より年長(としうへ)の者の、まだ知らない事までも、よく心得て居るといふ位ですから、お師匠さんもョもしがつて、頻(しき)りに可愛がつて居りました。
 或日の事でございます。一人の武士(さむらひ)が、獸(けだもの)の革で拵(こしら)へた袴(はかま)を穿()いて、此の大徳寺へ尋ねて參りました。一休は是を見て、突然(いきなり)一枚の紙へ、
一 此(この)寺(てら)の内へ革の類(たぐひ)堅く禁制なり。若()し革の物入()る時は、其身に必ず【ばち】當るべし。

と、かう書いて表へ張り出しました。武士(さむらひ)はこれを見て、『小僧奴()、乃公(おれ)が革の袴を穿いて居るもんだから、こんな事を云つてからかふ氣だな。よし、それぢやア此方(こつち)も困らしてやるぞ。』と、やがて一休の側(そば)へ來まして、『おいおい、お前は革の物禁制だと云ふが、此のお寺の中にだつて、太鼓(たいこ)と云ふ物があるぢやないか。太鼓は革で拵(こしら)へたものだぜ。あれは一體如何(どう)したものだ。』と、一番遣()り込める心算(つもり)で云ふと、一休は少しも驚かず、『それだから御覽なさい、この通り【ばち】が當るぢやありませんか。』と、云ひながらドンドン叩いて、『如何(どう)です。貴郎(あなた)もこの太鼓のやうに、【ばち】を當てゝあげましやうか。』と、反對(あべこべ)に遣り込めましたので、武士(さむらひ)は頭を掻いて、『成る程、これは一言(ごん)も無い。』と、閉口してしまひましたが、『よし覺えてろ。今度(こんだ)乃公(おれ)の家へ來たら、屹度(きつと)此の意趣返しをしてやるぞ。』と、機會(おり)を伺(うかが)つて居ります中、やがて二三日經つてから、一休はお師匠樣のお伴(とも)で、その武士(さむらひ)の處へ參りました。
 すると、共の門の前の橋の側に、一本の制札(せいさつ)が立てゝあつて、
 一 此の【はし】渡る可からず
と、書いてございます。お師匠樣はこれを見て、『如何(どう)だ小僧、この橋を渡られなければ、彼方(むかふ)の家へ行く事が出來ないぢやないか。』と云ひますと、一休は平氣な顏で、『關(かま)はないから中央(まんなか)を通つて入()らつしやい。』と、自分が先に立て、其橋の中央(まんなか)を、わざと大手(おほで)を振つて渡つて行きました。と、以前の武士(さむらひ)は、急いで中から出て來て、『こりやこりや此の制札が見えんのか、何故(なぜ)此のはしを渡つて來た?』と、恐ろしい聲して叱りつけますと、一休はニツコリ笑つて、『【はし】渡るべからずとあつたから、中央(まんなか)ばかり通つて來た。』と、澄まして答へましたので、流石の武士(さむらひ)も舌を卷いて、『成る程、これは豪(えら)い小僧だ。迚(とて)も乃公達(おれたち)の手には合はぬ。』と、大層感心したさうでございます。
 それから又、或時お師匠樣のお留守番をして居りますと、餘所(よそ)から圓いお饅頭(まんぢう)を一個(ひとつ)貰ひました。其處(そこ)で其お饅頭を、少し割つて袂の中に隱し、御師匠樣のお歸來(かへり)を待つて、剩餘(のこり)を半分出しますと、お師匠樣はその饅頭を手に取りながら、『はてな、月の破片(かけら)は何處にあるな。』と仰有(おつしや)いましたので、一休は直ぐに答へて、『雲に隱れて居りました。』と、云いながら袂から出しました。是はお月樣も圓いもの、お饅頭も圓いものですから、お饅頭をお月樣に譬(たと)へて、遠廻はしに尋ねましたのを、直ぐにそれと悟つて、袂にあるのを、雲に隱れて居たと、矢張(やつぱ)りお月樣の事で答へましたので。まだ十歳(とう)か十一の兒にしては、まことに氣の利いた返答でしたから、お師匠樣も喜んで、直ぐそのお饅頭を、みんな御褒美に下ださいました。
 又、或晩の事でございます、一休は小用(こよう)に行かうと思つて、一人臥床(ねどこ)を出まして、椽側を通つて參りますと、お師匠樣のお居間の方で、何だかお魚を燒くやうな臭氣(にほひ)が、プンプン匂つて參りますから、『はてな。一體坊さんは精進(しやうじん)で、お魚なんぞ喰べてはならんと、平常(ふだん)からお師匠樣が、嚴しく仰有(おつしや)つて置きながら、御自分ばかりは關(かま)はないで、お魚をあがると云ふ法があるものか。』と、つかつかそのお居間へやつて參り、『へい、何ぞ御用でございますか。』と、唐突(だしぬけ)に首を突込みますと、お師匠樣も驚いて、『誰も呼びはせんぞ。彼方(あつち)へ行(いつ)てろ行てろ!』『へい、參れと仰有(おつしや)るなら參りますが、お師匠樣、其處(そこ)で今召上つてらつしやるのは、一體何でございます?』と、尋ねますと、お師匠樣も仕方がございませんから、『これは鹽引(しほびき)の鮭(さけ)だ。』『へい。……それは何樣(どん)な木に實()るものでございます?』『いやこれは木の實では無い。鮭といふ魚(さかな)の類(たぐひ)だ。』一休は不思議さうな顏をしまして、『ヘエ、鮭といふ魚? 魚? お師匠樣、お魚は喰べても關(かま)はないのでございますか。』『いや關(かま)はんと云ふ事は無いが、乃公(おれ)はちやんと此の鮭に、引導(いんだう)が渡してあるから、喰べても罰(ばち)は當らないのだ。』『ヘエ、なんと云ふ引導(いんだう)でございます?』『汝(なんぢ)元來(ぐわんらい)枯木(こぼく)に似たり。放たんとすれど、再び水中に游泳すること能(あた)はざらん。しかず、吾が腹中に入()りて、佛果(ぶつくわ)を得んには、喝(くわつ)! と斯うだ。』『それは一體何の事でございます?』『五月蠅(うるさ)い奴だな。此の引導(いんだう)の譯(わけ)は、よく聞いて置け! 斯(かう)云ふ事だ。汝(おまへ)は魚だけれども、もう死んでしまへば枯木(かれき)も同然、可哀さうだからと云ツて水の中へ入れてやつた處で、元の通り泳ぐことも出來まい。そんなら寧(いつ)そ乃公(おれ)のお腹(なか)へ這入つて、乃公(おれ)と一所に成佛(じやぶつ)するがいゝと、かう云つて喰べてやれば、鮭もさぞ難有い事だらう。南無阿彌陀佛々々々々々々!』と、さも勿體を付けて話しますと、一休は嬉しがつて、『難有うございます。お蔭樣で引導の譯が分りました。』と、急いで自分の臥床(ねどこ)へ歸りましたが、やがて其翌日(あくるひ)になりますと、一休はお庭のお池から、大きな鯉を捕(つかま)へて來て、臺所の俎板(まないた)の上で、これを料理仕初めましたから、他のお弟子は驚いて、直ぐにお師匠樣へ告訴(いひつ)けますと、お師匠樣も驚いて、臺所へ來て小言(こごと)を云ひましたが、一休は落付いたもので、『いや、御心配には及びません。此の鯉にはもうちやんと引導が渡してございますから、私(わたくし)が喰べましても關(かま)はないのでございます。』と云ひますから、『さては此の小僧、昨夜(ゆふべ)乃公(おれ)の鮭を喰べたのを見て、直ぐとこんな眞似をするのだな。』と、お師匠樣も苦笑(にがわら)をしながら、『まてまて、それでは一つ智慧を試してやらう。』と、やがて又一休に向ひ、『それでは何と云ふ引導を渡した?』と尋ねますと、一休は澄ました顏で、『エヘン! 汝元來生木(なまき)に似たり。放たざらんとすれど、動(やや)もすれば水中へ逃れ入()らんとす。濁(にご)れる池中(ちちう)に住まんよりは、寧(むし)ろ吾が腹に入(いつ)て糞(ふん)と成れ! 喝(くわつ)! かう云つてやりました。』と、立派に返答を致しました。これは、鯉がまだ生きて居りますから、如何(どう)かして元のお池へ歸らうと思つて、頻(しき)りにピンピン跳()ねますが、あんな汚(きたな)いお池へ歸る位なら、もつと奇麗な乃公(おれ)のお腹(なか)の中へ、這入てしまふ方がいゝぢやないかと、かう云ふ事を云つたので。隨分自分勝手な引導でございますが、小兒(こども)にしては如何にも氣轉の利いた言葉ですから、流石のお師匠樣も、もう小言が云へなくなつて、其儘引込んでしまつたさうでございます。
 かう云ふ風(ふう)で、その爲()る事爲()す事が、一々人を驚かす程の、智慧のある事ばかりですから、實に不思議な小僧だ、末ョもしいお弟子だと、段々評判に成りまして、終(しまひ)には此の事が、當時(とき)の將軍義滿(よしみつ)公の、お耳へも這入るやうになりました。
 すると義滿公は、『さう云ふ面白い小僧が居るなら、一度呼んで智惠を試して見たいものだ。』と、わざわざ大徳寺へお使者(つかひ)で、一休を御殿へお召しに成りました。此時一休は、お師匠樣の養叟(やうそう)禪師と一所に、初めて御殿へ上りましたが。見ると、正面には將軍義滿公、其の左右には、山名、畠山、細川、一色(いつしき)などゝ云ふ、立派なお大名がずらりと列(なら)んで、何だか恐ろしい權式でございます。けれども一休は【びく】ともしません。義滿公の御前(ごぜん)へ出て、まづ丁寧にお辭儀を致しますと、義滿公は莞爾(につこり)笑つて、『大徳寺の怜悧(りかう)な小僧と云ふのは、一休其方(そのはう)の事か。』と仰有(おつしや)ると、一休は少し顏をあげて、『別に怜悧(りかう)な事もございませんが、世間には馬鹿が多いと見えまして、私(わたくし)の樣な者でも、何()うやら目に立つのでござりましやう。』『うむ面白い。其の返答からして怜悧(りかう)らしいな。處で今日は其方に難題を出すが、直ぐに此處(ここ)で返答を致すのだぞ。』『畏(かしこま)りましてござります。』『それでは一休、其方の後(うしろ)の衝立(つひたて)に、虎が一匹畫()いてあるが、あれを目前(めのまへ)で縛つて見ろ。』と、仰有(おつしや)いますから、その衝立(つひたて)を振向いて見ますと、成程大きな虎が畫()いてございます。けれどもそれは畫()の虎ですから、如何(どう)したつて縛ることは出來ません。で、何と云ふかと思つて、將軍を初め一座の大名達は、一同(みんな)一休の顏を見て居りますと、一休は格別困つた樣子も無く、やがて繩を持つて參りまして、『はい、何時(いつ)でも縛つて御覽に入れますから、何方(どなた)かあれを追ひ出して下さいまし!』と、大名達を見廻はしましたが、元より畫に書いた虎ですもの、誰が何と云つたつて、動く筈はございませんから、一同(みんな)只顏を見合はしたばかりで、一言(ごん)の返答も出來ずに居りますと、義滿公はポンと膝をお打ちに成つて、『おゝ、一休出來(でか)した。其方(そのはう)の返答が好()いによつて、其虎は免(ゆる)してつかはす。棄て置け棄て置け!』と、大層お褒めなさいました。
 それから又義滿公は、今度はお庭の松樹(まつのき)をお指しなすつて、『如何(どう)だ一休、あの松樹は曲(まがつ)てるが、眞直(まつすぐ)か。』と仰有(おつしや)いますと、何と思つたか一休、『左樣でございます。あの松位眞直(まつすぐ)なものは御在(ござい)ますまい。』と、申しますから、義滿公は不思議に思召(おぼしめし)て、『あの松は、あの通り、曲り屈(くね)つて居るものを、何と思つて其方は、眞直だと申すのだ?』と、重ねてお尋ねに成りますと、一休は眞顏(まじめ)になつて、『さうです、大層曲り屈(くね)つて居りますが、その曲り屈(くね)つた形を、曲り屈(くね)つたまゝに見せて居りますから、まことに正直なものでござります。世間には、隨分曲り屈(くね)つた者でも、外面(うはべ)を眞直に見せやうと思つて、頻(しき)りに表を飾る者がございますが、それから見ますと、此松位正直な眞直な者はございますまい。』と、憶面(おくめん)も無く申しましたから、義滿公は舌を卷いて、『成る程其方は怜悧(りかう)な奴だ。今に定めし豪(えら)い者に成るだらう。』と、頻りに感心なさいまして、それから又御褒美の品を、澤山賜つたといふ事でございます。
 これほど怜悧(りかう)な人でしたが、又學問には大層身を入れたもので、丁度廿二の時でございました、江州(ごうしう)の堅田(かただ)といふ處に、宗曇(さうどん)和尚といふ、名高い坊さんが居りまして、學問も深ければ、智惠も澤山あるといふ事を、兼てから聞いて居りましたから、如何(どう)かして其のお弟子に成つて、十分修業をしやうと思ひまして、わざわざ京都から山を越えて、江州の堅田へやつて參りました。
 さて宗曇(さうどん)和尚の處へ參りまして、お目に掛り度いと申しましたが、何と思つたか宗曇(さうどん)は、門を堅く〆め切つて、中々會つてやりません。けれども一休は、『この儘歸つては何の役にも立たない。何時(いつ)まで掛(かかつ)ても關(かま)はないから、明く迄此處で待てゝやらう。』と、此方(こつち)も隨分強情です、門の前に蹲踞(しやが)んだぎり、ちつとも動かずに居りましたが、其中に日は暮れて、お腹(なか)は減()る、寒くは成る、どうも苦しくつてたまりませんが、此處が辛抱の仕所(しどころ)だと、ぢつと我慢をして、とうとう夜の明けるまで、何處へも行かずに居りましたから、宗曇和尚もこれを見て、『成る程これは感心な男だ。』と、翌日(あくるひ)は直ぐ門の内(なか)へ入れて、それからは丁寧に、物を教へてやりましたので、一休も喜こんで、一生懸命に勉強しましたか、智惠も學問も、どんどん進んで參りました。
 かう云ふ風(ふう)で一休は、性來(うまれつい)て怜悧(りかう)な上に、學問にも亦精(せい)を出しましたから、云はゞ鬼に鐵棒(かなぼう)でございます。忽ちの中に豪(えら)い坊さんに成りまして、お師匠樣の養叟(やうさう)禪師が、年を取つて死んでしまつてから、とうとう大徳寺の和尚に直(なほ)つて、一休樣一休樣と、世間の人や、大勢の坊さんにも、尊敬(あが)められる身分に成りましたが。かう成ると又をかしなもので、あまり一休を難有がる處から、『實に一休樣は豪(えら)い方だ、自分が召上つたお魚を、水の中へお吐きなさると、直ぐそのお魚が生き返つて、ピンピン泳いで廻はるさうだが、何と豪いものでは無いか、活佛(いきぼとけ)樣とはあのお方の事だらう。』と、こんな評判をするやうに成りました。すると一休は、此事を聞込(ききこん)で、『ハヽヽ、馬鹿な事を云ふ奴等だ。何ぼ乃公(おれ)が豪(えら)いと云つたつて、手品師(てづまつかひ)ぢやあるまいし、喰べた魚を生かして出すやうな、そんな事が出來るものか。そんな事を眞()に受けられては、却(かへつ)て此方(こつち)の迷惑だ。だが、其方(そつち)でさう思つてるなら、此方(こつち)にも仕樣があるぞ。』と、やがて市中(まち)の賑かさうな處へ、
一 來(きた)る何日(なんにち)、さがり松の邊(ほとり)、紫野に於いて、魚を喰(くら)つて其儘元の魚に吐き出し、水中に躍(おど)らしむる事なり。御望(おんのぞみ)の御方々、御見物に御出(おいで)待ち奉(たてまつ)る。
            太夫(たいふ)は天下(てんかの)老和尚一休大禪師

と、かう云ふ高札(たかふだ)を出しました。世間の人は是を見て、『さては評判ばかりでは無く、ほんとにさう云ふ事をなさるのか。是は何より見物(みもの)だぞ早く行つて見て來やう。』と、男も女も、大人も小兒(こども)も、吾も吾もと先を爭つて、其日の朝早くから、どんどん大徳寺へ押しかけて參りました。
 見ると、お座敷の正面には、大きな盥(たらひ)へ水を入れて、其側には立派なお膳に、種々(いろいろ)なお魚がちやんと料理して、さも甘味(おいし)さうに列べてあります。
 やがて時刻が參りますと、一休和尚は紫の法衣(ころも)で、手に拂子(ほつす)を持ちながら、徐々(しづしづ)と出て參りましたが、見物の方には目も呉れず、唐突(いきなり)お箸を取りあげて、お膳の上のお魚を、さも甘味(おいし)さうにムシヤムシヤムシヤと、一つも殘さず喰べてしまひました。
『さアこれからが見物(みもの)だぞ。』と、お庭に列んで居る見物人は、みんな一生懸命に目を見張つて、『今にあのお口から、生きた魚が飛び出すのだな。』と待ち構へて居りますと、一休はやがて立ち上つて、『いや、皆さん大きに御苦勞御苦勞、よく見物にお入來(いで)ぢやつた。しかし今日はお氣の毒ぢやが、腹の工合(ぐあひ)が惡いと見えて、魚が滿足に出さうもないによつて、口から吐くのは廢止(やめ)にして、今に尻から押し出さうと思ふ。』と、云つたぎりツイと立つて、共儘奧へ這入つてしまひましたから、見物人は呆氣(あつけ)に取られて、『何の事だ馬鹿々々しい。』と、小言を云ふ者もあれば、『坊さんの癖に嘘を吐()く。』と、腹を立てる者もあつて、ワイワイ喧(やかま)しく云つて居りましたが、其中に少し怜悧(りかう)さうな男は、『いや、實に一休樣は豪(えら)いお方だ。一體ほんとの佛法には、不思議といふものは無い筈なのに、喰べた魚を生かして吐くなどと、不思議な事を云ひ囃(はや)すのは、世間の人の了簡(りやうけん)違ひだから、そんな事は出來ないものだと、その迷(まよひ)を解く爲めに、あゝ云ふ事をしてお見せなすつたのだ。實に豪いお方だ。』と、頻(しき)りに感心して歸つたさうですが、成る程一休の了簡も、矢張り其心算(つもり)であつたのでしやう。
 さて一休は、此話からいよいよ名高く成りまして、日本國中誰知らぬ者も無い位でしたが、其頃又將軍家の御家臣(ごけらい)で、蜷川(にながは)新右衞門と云ふ人が御在(ござい)ました。此人は武士(さむらひ)でございますが、至つて學問が好きで、よく此の大徳寺へ遊びに來まして、一休と種々(いろいろ)な話をして見ますのに、いかにも豪い坊さんですから、後(のち)には其のお弟子同樣に成つて、頻りに問答を致しました。問答といふのは、此のお寺の宗旨(しうし)にある、學問の一つでございまして、種々(いろいろ)な至難(むづかし)い問を出すのを、巧く答へるのでございますが、これは大分硬いお話で、容易にお解(わか)りになりますまいから、態(わざ)と此處には申しますまい。
 此通(このとほり)一休と云ふ坊さんは、まことに豪い人でしたが、又至つて氣作(きさく)な、面白い坊さんで、或年のお正月などには、何處から持ち出したか、一個(ひとつ)の大きな髑髏(されかうべ)を、杖の頭(さき)に指しあげて、世間の人がおめで度がつて、騷ぎ廻つて居る中を、『御用心御用心。』と云ひながら、持つて廻つたと云ふ事です。
 初めにも申しました、『門松(かどまつ)は冥土(めいど)の旅の一里塚めで度くもありめで度くもなし。』と云ふ、あの歌を詠()んだのは、丁度其時の事で。『世間の人は、誰でも今に死んでしまふ、死んでしまへば此の通り、髑髏(されかうべ)に成つてしまふのだから、ウカウカしては居られないぞ。御用心々々々!』と、氣を付けてやつたのでございます。是は其頃の世間の人が、兎角美()い衣服(きもの)着たり、甘(うま)い物喰べたりして、遊んでばかり居るといふ、まことに好()くない風俗(ふう)でしたから、それを誡(いまし)めたものでございましやう。
 さて一休は、かう云ふ面白い坊さんでしたから、其一代の中(うち)には、斯(かう)云()ふ面白いお話の種を、澤山殘して置きましたが、文明(ぶんめい)十三年の四月、八十七まで長生(ながいき)をして、めで度く大往生を遂げました。大往生とは、まことに安々と死んでしまふことで、豪(えら)い人で無ければ、中々出來ることではございません。
       めでたしめでたし!。