PDD図書館管理番号 0000.0000.0020.00 水  籠 伊藤左千夫:著  表口の柱へヅウンヅシリと力強く物の障(サワ)った音がする。  此の出水をよい事にして近所の若者どもが、毎日いたづら半分に往来で筏(イカダ)を 漕ぐ。人の迷惑を顧みない無遠慮な奴(ヤツ)どもが、又筏を店の柱へ突き当てたのじゃ なと、こう思いながら窓の格子内(コウシウチ)に立った。固(モト)より相手になる手合では ないが、少し叱りつけてやろうと考えたのである。  格子から予がのぞくとたんに、板塀に取附けてある郵便箱にカサリという音がした。 予は早くも郵便を配達して来たのじゃなと気づく。此二十六日以来三日間というもの、 総ての交通一切杜絶で、郵便は勿論新聞さえ見られなかった際じゃから、郵便配達と 気づいて予は頗る嬉しい。此の水の深いのに感心なことと思いつつ、予は猶予(イトウマ) なく其(ソノ)郵便をとりに降りる。郵便箱へ手を入れながら何の気なしに外(ソト)を見る。 前に表(オモテ)の柱へ響きをさしたのは、郵便配達の舟が触れた音でありしことが解っ た。  郵便の小舟は今我が家を去って、予に其(ソノ)後背(ウシロ)を見せつつ東に向って漕い で居る。屈折した直線の赤筋をかいた小旗を舷(フナバタ)に挿んで、船頭らしい男と配 達夫と二人、漁船やら田舟やら一寸(チョット)判らぬ古ぶねを漕いで居る。水はどろりと して薄黒く、浮苔のヤリが流れる方向もなく点々と青みが散らばって丁度溜り水のよ うな濁水(ニゴリミズ)の上を、元気なくゆらりゆらりと漕いでゆくのである。  いやに熱苦(アツクル)しい、南風が猶天候の不穏を示し、生赤(ナマアカ)い夕焼雲の色も何 となく物凄い。予は多くの郵便物を手にしながら暫く此の気味わるい景色に心を奪わ れた。  高架鉄道の堤とそちこちの人家ばかりとが水の中に取残され、其隙間(スキマ)という 隙間には蟻の穴ほどな余地もなくどっしりと濁水が押詰まっている。道路とは云え心 当てにそう思うばかり、立てば臍を没する水の深さに、日も暮れかかっては、人の子 一人通るものもない。活動ののろい郵便(ユウビン)小舟(コブネ)が猶ゆらゆら漕ぎつつ突 当りのところを右へまがった。薄黒い雲に支えられて光に力のない太陽が、此の水に つかって動きのとれない一群の人家を空しく遠目に視て居られる。一切の草木は病み 萎(シオ)れて衰滅の色を包まず徒(イタズラ)に太陽を仰いでいても、今は太陽の光も之を 救うの力がない。予は身にしみて寂しみを感じた。  静かというは活動力の休息である。静かな景色には動くものがなくても感じは活き 活きとして居る。今日の景色には静かという趣は少しもない。活動力の凋衰から起る 寂しい心細いという様な趣を絵に書いて見たらこんなであろうなどと考える。  毒々しい濁り水の為に、人事の総てを閉塞され、何一つすることも出来ず空しく日 を送って居るは、手足も動かぬ病人が只息(イキ)の通う許りという状態である。  家の中でも深さは股にとどくのである。其を得避(エサ)くる事も出来ないで、巣を破 られた蜂が、其巣跡に空しく屯(タムロ)して居る如くに、このあばら屋に水籠(ミズゴモリ) して居る予を他目(ヨソメ)に見たらば、どんなに寂しく見えるだろう。  乍併(シカシナガラ)われと我を客観して見れば又一種得難い興味もある。人間の体で云 えば病気じゃ、火難が家の死であらば水難は家の病気じゃなどと空想に耽(フケ)りなが ら予は仮床(カリユカ)へ帰った。仮床というは台所の隣間(トナリマ)で、南へ面した一間(ヒトマ) の片端(カタハシ)へ、桶やら箱やら相当に高さのあるものを並べ立てて、古柱や梯子(ハシゴ) の類をよろしく渡した上に板戸を載せ、それに畳を敷いたものである。畳も漸く四畳 しか置けない。それに夫婦のものと児女三人下女一人、都合六人が住んで居る。手も 足も動かせない生活じゃ。立てば頭が天井(テンジョウ)へつかえる。夜になれば蚊が居る。 此四畳のお座敷へ蚊帳(カヤ)二つりという次第ではないか。動けないだけに仕事もない。 着た儘でねる、寐た儘で起きて居る。食物は兄の家から総てを届けてくれる。子供を 水へ落さない様に注意するのが最も重要な事件位のものじゃ。赤ん坊は心配はないが 木綿子(ユウコ)の覚束(オボツカ)なく立って歩くのが秒時も目を離せない。今日は木綿子が よく寝たから天井板を綺麗に掃除したと細君の詞(コトバ)である。今日は腰巻を五遍換 えましたとは下女の愚痴である。それも其筈じゃ。湯を沸(ワカ)して茶を一つ飲もうと いうには、火を拵(コシラ)える材料拾集の為に担当者が腰巻一つはどうしても濡らさね ばならない。それが三度はきまりで外に一度や二度は水へ降りねばならぬ。で天気が よければよいが天気が悪ければ、迚(トテ)も茶を飲むなどという奢(オゴ)りは許されな い。今日位の天気ならばラクだとは異口同音(イクドウオン)の悦びじゃ。追ッつけ夕飯を 届けてくる時刻とて鉄瓶(テツビン)の湯が快活に沸き立って居る。予は同人諸君からの 見舞状を次ぎ次ぎと見る。彼是(カレコレ)して家の中は薄暗くなった。  「おとっさん水が少し引いたよ」  「ウンそうか」  「あの垣根の竹が今朝は未(マ)だ出なかったの……それが今はあんなに出てしまっ て五分許り下が透いたから、なんでも一寸五分位は引いたよ」  「なる程そうだ、よい塩梅(アンバイ)だ。天気にはなるし、少しづつでも水が引けば 寐ても寐心がいい」  「さっきおとっさん面白かったよ。ネイおっかさん、ほんとに可笑(オカ)しかったわ、 大きな鰻(ウナギ)、惜しい事しちゃったの、ネイおっかさん……」  「お妙(タエ)さん、鰻がどうした」  「鰻ネ、大きい鰻がね、おとっさん、あの垣根の杭(クイ)のわきへ口を出してパクパ ク水を飲んでいるのさ。それからどうして捕(ト)ろうかって、皆(ミンナ)が相談してもしょ うがないの。それからおふじが米ざるを持ちだして出掛けたら、おふじが降りると直 ぐ鰻はひっこんでしまったの。ネイおふじ、網ならどうかして捕れたんだよ」  「そうか、そりゃ惜しいことをしたなア、蒲焼(カバヤキ)にしたら定めて五人でたべ 切れない大きいものであったろう。おとっさんに早くそう云えばよかったハヽヽヽ」  「おとっさん嘘(ウソ)でないよ、ネイおふじ、ほんとネイ、おっかさんも見ていたん だよ」  おふじは腰巻の濡(ヌラ)し損(ゾン)をしてしまったけれど、其(ソノ)次手(ツイデ)に火を 起したから、鉄瓶の湯が早く煮立った。それでは鰻が火を起した訣じゃないかと、予 が笑えば、木綿子までが人真似(ヒトマネ)に高笑いをする。住宅の病気も今日は稍(ヤヤ)良 好という日じゃ。いやに熱苦しい南風が一日吹通して、余り心持のよい日ではなかっ たけれど、数日来雨は降る水は増すという、堪(マタ)らぬ不快な籠居(コモリイ)をやってき たのだから、今日は只もう濡れた着物を脱いだような気分であった。それに日の入り と共にいやな南風も西へ廻って空の色がよくなった。明日も快晴であろうと思われる 空の気色(ケシキ)にいよいよ落ちついて熱のさめた跡のような心持で体が軽くなったよ うな気がする。金魚が軒下へ行列して来る。鰌(ドジョウ)が時々プクプク浮いて泡を吹 く。鰻まで出て芝居(シバイ)をやって見せたという有様だったから、まずまずこれまで にはない愉快な日であった。極端に自由を奪われた境涯に居て見ると、らちもない事 にも深き興味を感ずるものである。  人間の家(イエ)も飯(メシ)を炊かぬものであると、朝にも晩にも頗る気楽にゆっくりし たものだ。  「もうランプをつけましょうか」  「まだよかろう」  「それでも余程暗くなってきましたから」  「どうせ何が出来るでなし、そんなに早く明(ア)かしをつける必要もないじゃない か」  こんならちもない押問答をして時間を送って居る。  表のガラス戸にがちゃんと突当ったものがあ。何かと思う間もなくしずしずとガラ ス戸を押あけて人が這入る、バシャンバシャン水音をさして半四郎君が台所へ顔を出 した。  「コリャ思ったより深い、随分非度(ヒド)いなア」  「半四郎さん、どうも御苦労さま、とんだ御厄介で御座います。そこらあぶのう御 座いますからお気をつけなすって……」  「やア今日は君が来てくれたか、どうです随分深いでしょう。上(ア)げ縁(エン)は浮 いてしまったし、ゆか板も所々抜けてるから、君うっかり歩くと落ちるょ、なかなか あぶないぜ」  「コリャ剣呑(ケンノン)だ、なにもう大丈夫、表の硝子(ガラス)一枚破りましたよ、車へ 載せて来ましたからつい梶棒を硝子戸へ突き当ててしまったんです」  「なアにようございますよ、硝子の一枚ばかりあなた……」  「随分御困難ですなア」  「いや有がとう、まアこんな始末さ。それでもお蔭さまで飢と寒さとの憂がないだ け、まず結構な方です。君、人間もこれだけ装飾をはがれると余程奇怪なものですぞ。 此上に寒さに迫られ飢に追われたら全く動物以下じゃな」  「そうですなア向島(ムコウジマ)が一番ひどいそうです。綾瀬川(アヤセガワ)の土手がきれ たというんですから堪(タマ)りませんや。今夜(コンヤ)は又少し増して来ましょう。明朝 (ミョエアサ)の引潮にゃいよいよ水もほんとに引き始めるでしょう」  半四郎は飯櫃(オハチ)と重箱と外(ホカ)に水道の水を大きな牛乳缶二本に入れたのを次々 と運んでくれる。今夕(コンユウ)の分と明朝の分と二回だけの兵糧(ヒョウロウ)を運んでくれ たのである。まア話してゆき給えというても腰をかける場所もない。半四郎君は余り 暗くならぬ内にと云うて帰ってゆく。ランプをつける。半四郎君の出てゆく水の音が 闇に響いてカパンカパンと妙に寂しい音がする。濁水の動く浪畔(ナグロ)にランプの影 がキラキラする。全くの夜(ヨル)となった。そして夜は目に映るものの少ない為か、目 に見た日暮の趣にくらべて今は寂しいというより静かな感じが強い。其静かさの強み に、五六人の人の動きも其話声もランプの光り鉄瓶の煮え音までが、静かに静かにと 上から圧(オサ)えつけられているようである。却って少しの光や音や動きやは、其静か さの強みを一層強く思わせる。湿(シメ)り気(ケ)をふくんだランプの光の下に浮藻(ウキグ サ)的生活のわれわれは食事にかかる。佃煮(ツクダニ)と煮豆(ニマメ)と漬采(ツケナ)という常 式(ジヨウシキ)である。四畳の座敷に六人が居る格で一膳のお膳に七つ八つの椀茶碗が混 雑を極めて据えられた。他目(ヨソメ)とは雲泥の差ある愉快なる晩餐が始まる。一切の 過去を忘れて只其現在を常と観ずれば、如何なる境地にも楽しみは漂うて居る。予は 麦酒(ビール)を抜かせる。  木綿子の挙動には畳四畳の念はない。行きたいようにゆき、動きたいように動いて る。父の顔を見母の顔を見姉の顔を見、煮豆佃煮の御馳走に満悦(マンエツ)して、腹の底 を傾けての笑い、有りたけの声を出しての叫び、此人の為に誰も彼も、総ての憂事(ウ キコト)を忘れさせられる。天地の寂寞(ジャクマク)も水難の悲惨も木綿子の心をば一厘たり とも冒(オカ)すことは出来ない。吾身の存在すら知らない絶対無我の幼児は、真に不思 議な力がある。天を活(イ)かし地を活かし人をも活かすの力を持って居る。他目(ヨソメ) に解(カイ)せられない愉快な晩餐というも全く木綿子の力である。  あぶないてば木綿(ユウ)ちゃん、という呼び声は此(コノ)会食中に許りも十度(トタビ)も 繰返された。あぶないとは何の事か木綿ちゃんの知った事ではない。木綿ちゃんの行 動は天馬(テンマ)空(クウ)を行くが如くで、四畳であろうが、百畳であろうが、木綿ちゃ んにそんな差別はない。人を活(イカ)す力を持てる木綿ちゃんは、又人を殺す力を持っ てる。木綿ちゃんが寐ない内は誰も寐られないのである。若しも木綿ちゃんがわれわ れの不注意の為に、この水に落ちて死ぬような事でもあったら、少くも予一人は精神 的に死するにきまって居る。木綿子は其幼い手足を投げ出して、今は眠についた。窓 先で枝蛙(エダガエル)が鳴く。壁の透間(スキマ)でこおろぎが鳴く。彼等は何を感じて寂し い声を鳴くのか。空は晴れて肌寒く夜は漸く更け渡ったようである。 (明治四十年十一月)