PDD図書館管理番号 0000.0000.0006.00 阿 部 一 族 森 鴎外:作 読みの「'イ」は「ヰ」,「'エ」は「ヱ」である。  從四位下(ジユシ'イノゲ)左近衞少將(サコン'エノセウシヤウ)兼(ケン)越中守('エツチユウノ カミ)細川(ホソカハ)忠利(タダトシ)は、寛永(クワンエイ)十八年辛巳(シンシ)の春、餘所 (ヨソ)よりは早く咲く領地肥後國(ヒゴノクニ)の花を見棄てて、五十四萬石の 大名(ダイミヤウ)の晴々しい行列に前後を圍ませ、南より北へ歩みを運ぶ春 と倶(トモ)に、江戸を志して參勤(サンキン)の途(ミチ)に上らうとしてゐるうち、 圖らず病(ヤマヒ)に罹(カカ)つて、典醫の方劑(ハウザイ)も功を奏せず、日に増 し重くなるばかりなので、江戸へは出發日延(ヒノベ)の飛脚(ヒキヤク)が立つ。 徳川將軍は名君の譽(ホマレ)の高い三代目の家光(イヘミツ)で、島原一揆の時 賊將天草四郎時貞(トキサダ)を討ち取つて大功を立てた忠利の身の上を氣 遣(キヅカ)ひ、三月二十日には松平伊豆(イヅノカミ)守、阿部豐後守(ブンゴノカ ミ)、阿部對馬守(ツシマノカミ)の連盟の沙汰書(サタシヨ)を作らせ、針醫以策(イサク) と云ふものを、京都から下向(ゲカウ)させる。續いて二十二日には同じく 執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曾我又左衞門と云ふ侍(サムラヒ)を 上使に遣(ツカハ)す。大名に對する將軍家の取扱としては、鄭重(テイチヨウ)を 極めたものであつた。島原征伐が此年から三年前寛永十五年の春平定し てから後、江戸の邸に添地(ソヘチ)を賜はつたり、鷹狩の鶴を下されたり、 不斷慇懃(インギン)を盡してゐた將軍家の事であるから、此度(コノタビ)の大 病を聞いて、先例の許す限の慰問をさせたのも尤(モツト)もである。  將軍家がかう云ふ手續をする前に、熊本花畑の館(ヤカタ)では忠利の病 が革(スミヤ)かになつて、とうとう三月十七日申(サル)の刻に五十六歳で亡 くなつた。奥方は小笠原(ヲガサハラ)兵部(ヒヤウブ)大輔(タイフ)秀政(ヒデマサ)の 娘を將軍が養女にして妻(メアハ)せた人で、今年四十五歳になつてゐる。 名をお千(セン)の方(カタ)と云ふ。嫡子六丸(ロクマル)は六年前に元服して將軍 家から光(ミツ)の字を賜はり、光貞(ミツサダ)と名告(ナノ)つて、從四位下侍 從兼肥後守(ヒゴノカミ)にせられてゐる。今年十七歳である。江戸參勤中で 遠江國(トホタフミノクニ)濱松(ハママツ)まで歸つたが、訃音(フイン)を聞いて引き返 した。光貞は後名を光尚(ミツヒサ)と改めた。二男鶴千代は小さい時から立 田山(タツタヤマ)の泰勝寺(タイシヨウジ)に遣つてある。京都妙心寺出身の大淵(タ イエン)和尚(ヲシヤウ)の弟子になつて宗玄(ソウゲン)と云つてゐる。三男松之助 は細川家に舊縁のある長岡氏に養はれてゐる。四男勝千代は家臣南條大 膳の養子になつてゐる。女子は二人ある。長女藤姫は松平周防守(スハウノカ ミ)忠弘(タダヒロ)の奥方になつてゐる。二女竹姫は後に有吉(アリヨシ)頼母(タノ モ)英長(ヒデナガ)の妻になる人である。弟には忠利が三齋の三男に生れた ので、四男中務(ナカツカサ)大輔立孝(タツタカ)、五男刑部(ギヤウブ)興孝(オキタカ)、 六男長岡(ナガヲカ)式部(シキブ)寄之(ヨリユキ)の三人がある。妹には稻葉(イナバ) 一道(カズミチ)に嫁した多羅姫(タラヒメ)、烏丸(カラスマル)中納言(チユウナゴン)光賢 (ミツカタ)に嫁した萬姫(マンヒメ)がある。此萬姫の腹に生れた禰々姫(ネネヒメ)が 忠利の嫡子光尚の奥方になつて來るのである。目上には長岡氏を名告(ナ ノ)る兄が二人、前野長岡兩家に嫁した姉が二人ある。隱居三齋(サンサイ)宗 立(ソウリフ)もまだ存命で、七十九歳になつてゐる。此中には嫡子光貞のや うに江戸にゐたり、又京都、其外遠國にゐる人達もあるが、それが後に 知らせを受けて歎いたのと違つて、熊本の館にゐた限の人達の歎きは、 分けて痛切なものであつた。江戸への注進には六島(ムツシマ)少吉(セウキチ)、 津田六左衞門の二人が立つた。  三月二十四日には初七日(シヨナヌカ)の營みがあつた。四月二十八日には それまで館の居間の床板を引き放つて、土中に置いてあつた棺を舁(カ) き上げて、江戸からの指圖に依つて、飽田郡(アキタゴホリ)春日村(カスガムラ) 岫雲院(シウウン'イン)で遺骸を荼毘(*)(ダビ)にして、高麗門(カウライモン)の外の 山に葬つた。此靈屋(ミタマヤ)の下に、翌年の冬になつて、護國山妙解寺(メ ウゲジ)が建立(コンリフ)せられて、江戸品川東海寺から澤庵和尚の同門の啓 室和尚が來て住持になり、それが寺内の臨流庵(リンリウアン)に隱居してから、 忠利の二男で出家してゐた宗玄が、天岸(テンガン)和尚と號して跡續(アトツ ギ)になるのである。忠利の法號は妙解院殿臺雲宗伍(タイウンソウゴ)大居士 (ダイコジ)と附けられた。 (*)「毘」は(「田」偏+「比」),以下同じ  岫雲院で荼毘になつたのは、忠利の遺言('イゴン)によつたのである。 いつの事であつたか、忠利が方目狩(バンガリ)に出て、此岫雲院で休んで 茶を飮んだことがある。その時忠利はふと腮髯(アゴヒゲ)の伸びてゐるの に氣が附いて住持に剃刀(カミソリ)は無いかと云つた。住持が盥(タラヒ)に水 を取つて、剃刀を添へて出した。忠利は機嫌好く兒小姓に髯を剃らせな がら、住持に云つた。「どうぢやな。此剃刀では亡者(マウジヤ)の頭を澤 山剃つたであらうな」と云つた。住持はなんと返事をして好いか分から ぬので、ひどく困つた。此時から忠利は岫雲院の住持と心安くなつてゐ たので、荼毘所(タビシヨ)を此寺に極めたのである。丁度荼毘の最中であ つた。柩(ヒツギ)の供をして來てゐた家臣達の群に、「あれ、お鷹がお鷹 が」と云ふ聲がした。境内(ケイダイ)の杉の木立に限られて、鈍(ニブ)い青 色をしてゐる空の下、圓形の石の井筒('イヅツ)の上に笠のやうに垂れ掛 かつてゐる葉櫻の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでゐたのである。 人々が不思議がつて見てゐるうちに、二羽が尾と嘴を觸れるやうに跡先 に續いて、さつと落して來て、櫻の下の井の中に這入つた。寺の門前で 暫く何かを言ひ爭つてゐた五六人の中から、二人の男が駈け出して、井 の端(ハタ)に來て、石の井筒に手を掛けて中を覗いた。その時鷹は水底深 く沈んでしまつて、齒朶(シダ)の茂みの中に鏡のやうに光つてゐる水面 は、もう元の通りに平らになつてゐた。二人の男は鷹匠衆(タカジヤウシユウ) であつた。井の底にくぐり入つて死んだのは、忠利が愛してゐた有明(ア リアケ)、明石(アカシ)と云ふ二羽の鷹であつた。その事が分かつた時、人々 の間に、「それではお鷹も殉死(ジユンシ)したのか」と囁(*)(ササヤ)く聲が 聞えた。それは殿樣がお隱れになつた當日から一昨日(ヲトツヒ)までに殉死 した家臣が十餘人あつて、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日も一 人切腹したので、家中(カチユウ)誰一人殉死の事を思はずにゐるものは無か つたからである。二羽の鷹はどう云ふ手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、 どうして目に見えぬ獲物を追ふやうに、井戸の中に飛び込んだか知らぬ が、それを穿鑿(センサク)しようなどと思ふものは一人も無い。鷹は殿樣の 御寵愛なされたもので、それが荼毘の當日に、しかもお荼毘所の岫雲院 の井戸に這入つて死んだと云ふ丈の事實を見て、鷹が殉死したのだと云 ふ判斷をするには十分であつた。それを疑つて別に原因を尋ねようとす る餘地は無かつたのである。 (*)「囁」は補助漢字2112(「口」偏+「耳」),以下同じ  中陰(チユウイン)の四十九日が五月五日に濟んだ。これまでは宗玄を始と して、既西堂(キセイダウ)、金兩堂(コンリヤウダウ)、天授庵(テンジユアン)、聽松院 (チヤウシヨウ'イン)、不二庵(フジアン)等の僧侶が勤行(ゴンギヤウ)をしてゐたので ある。扨(サテ)五月六日になつたが、まだ殉死する人がぽつぽつある。殉 死する本人や親兄弟妻子は言ふまでもなく、なんの由縁(ユカリ)も無いも のでも、京都から來るお針醫と江戸から下る御上使との接待の用意なん ぞはうはの空でしてゐて、只殉死の事ばかり思つてゐる。例年簷(ノキ)に 葺(フ)く端午(タンゴ)の菖蒲も摘(ツ)まず、ましてや初幟(ハツノボリ)の祝をす る子のある家も、その子の生れたことを忘れたやうにして、靜まり返つ てゐる。  殉死にはいつどうして極まつたともなく、自然に掟が出來てゐる。ど れ程殿樣を大切に思へばと云つて、誰でも勝手に殉死が出來るものでは 無い。泰平の世の江戸參勤のお供、いざ戰爭と云ふ時の陣中へのお供と 同じ事で、死天(シデ)の山三途(サンヅ)の川のお供をするにも是非殿樣の お許(ユルシ)を得なくてはならない。その許もないのに死んでは、それは 犬死にである。武士は名聞(ミヤウモン)が大切だから、犬死はしない。敵陣 に飛び込んで討死をするのは立派ではあるが、軍令に背いて抜駈(ヌケガケ) をして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じ事で、お許の 無いに殉死しては、これも犬死である。偶(タマ)にさう云ふ人で犬死にな らないのは、値遇(チグウ)を得た君臣の間に默契があつて、お許はなくて もお許があつたのと變らぬのである。佛涅槃(ブツネハン)の後に起つた大乘 の教は、佛のお許はなかつたが、過現未(クワゲンミ)を通じて知らぬ事の無 い佛は、さう云ふ教が出て來るものだと知つて懸許(ケンキヨ)して置いたも のだとしてある。お許が無いのに殉死の出來るのは、金口(コング)で説か れると同じやうに、大乘の教を説くやうなものであらう。  そんならどうしてお許を得るかと云ふと、此度殉死した人々の中の内 藤長十郎元續(モトツグ)が願つた手段などが好い例である。長十郎は平生 (ヘイゼイ)忠利の机廻りの用を勤めて、格別の御懇意を蒙つたもので、病 牀を離れずに介抱をしてゐた。最早(モハヤ)本復(ホンプク)は覺束(オボツカ)な いと、忠利が悟つた時、長十郎に「末期(マツゴ)が近うなつたら、あの不 二と書いてある大文字(ダイモンジ)の懸物を枕許(マクラモト)に懸けてくれ」と 言ひ附けて置いた。三月十七日に容態が次第に重くなつて、忠利が「あ の懸物を懸けえ」と云つた。長十郎はそれを懸けた。忠利はそれを一目 見て、暫く瞑目してゐた。それから忠利が「足がだるい」と云つた。長 十郎は掻卷(カイマキ)の裾を徐(シヅ)かにまくつて、忠利の足をさすりなが ら、忠利の顏をぢつと見ると、忠利もぢつと見返した。 「長十郎お願がござりまする。」 「なんぢや。」 「御病氣はいかにも御重體のやうにはお見受申しまするが、神佛の加護 良藥の功驗で、一日も早う御全快遊ばすやうにと、祈願いたしてをりま する。それでも萬一と申すことがござりまする。若しもの事がござりま したら、どうぞ長十郎奴(メ)にお供を仰せ附けられますやうに。」  かう云ひながら長十郎は忠利の足をそつと持ち上げて、自分の額に押 し當てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでゐた。 「それはいかんぞよ。」かう云つて忠利は今まで長十郎と顏を見合せて ゐたのに、半分寢返りをするやうに脇を向いた。 「どうぞさう仰(オツシ)やらずに。」長十郎は又忠利の足を戴いた。 「いかんいかん。」顏を背向(ソム)けた儘で云つた。  列座の者の中から、「弱輩の身を以て推參ぢや、控へたら好からう」 と云つたものがある。長十郎は當年十七歳である。 「どうぞ。」咽(ノド)に支(ツカ)へたやうな聲で云つて、長十郎は三度目 に戴いた足をいつまでも額に當てて放さずにゐた。 「情の剛(コハ)い奴ぢやな。」聲はおこつて叱るやうであつたが、忠利は 此詞(コトバ)と倶に二度頷(ウナヅ)いた。  長十郎は「はつ」と云つて、兩手で忠利の足を抱へた儘、床の背後(ウ シロ)に俯伏(ウツブ)して、暫く動かずにゐた。その時長十郎が心の中には、 非常な難所を通つて往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたやうな、力 の弛みと心の落着きとが滿ち溢れて、その外の事は何も意識に上らず、 備後疊(ビンゴタタミ)の上に涙の飜(コボ)れるのも知らなかつた。  長十郎はまだ弱輩で何一つ際立つた功績もなかつたが、忠利は始終目 を掛けて側近く使つてゐた。酒が好きで、別人なら無禮のお咎(トガメ)も ありさうな失錯(シツサク)をしたことがあるのに、忠利は「ありは長十郎が したのでは無い、酒がしたのぢや」と云つて笑つてゐた。それでその恩 に報いなくてはならぬ、その過(アヤマチ)を償(ツグノ)はなくてはならぬと思 ひ込んでゐた長十郎は、忠利の病氣が重つてからは、その報謝と賠償と の道は殉死の外無いと牢(カタ)く信ずるやうになつた。併し細かに此男の 心中に立ち入つて見ると、自分の發意で殉死しなくてはならぬと云ふ心 持の旁(カタハラ)、人が自分を殉死する筈のものだと思つてゐるに違ひない から、自分は殉死を餘儀なくせられてゐると、人にすがつて死の方向へ 進んで行くやうな心持が、殆んど同じ強さに存在してゐた。反面から云 ふと、若し自分が殉死せずにゐたら、恐ろしい屈辱を受けるに違ひない と心配してゐたのである。かう云ふ弱みのある長十郎ではあるが、死を 怖れる念は微塵(ミジン)も無い。それだからどうぞ殿樣に殉死を許して戴 かうと云ふ願望は、何物の障礙(シヤウガイ)をも被(カウム)らずに此男の意志 の全幅を領してゐたのである。  暫くして長十郎は兩手で持つてゐる殿樣の足に力が這入つて少し踏み 伸ばされるやうに感じた。これは又だるくおなりになつたのだと思つた ので、又最初のやうに徐(シヅ)かにさすり始めた。此時長十郎の心頭に は老母と妻との事が浮かんだ。そして殉死者の遺族が主家の優待を受け ると云ふことを考へて、それで己(オノレ)は家族を安穩な地位に置いて、 安んじて死ぬることが出來ると思つた。それと同時に長十郎の顏は晴々 した氣色になつた。  四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、始て殉死の事 を明かして暇乞をした。母は少しも驚かなかつた。それは互に口に出し ては言はぬが、けふは倅(セガレ)が切腹する日だと、母も疾(ト)うから思 つてゐたからである。若(モ)し切腹しないとでも云つたら、母はさぞ驚 いたことであらう。  母はまだ貰つたばかりのよめが勝手にゐたのを其席へ呼んで只支度が 出來たかと問うた。よめはすぐに起(タ)つて、勝手から兼ねて用意して あつた杯盤(ハイバン)を自身に運んで出た。よめも母と同じやうに、夫が けふ切腹すると云ふことを疾うから知つてゐた。髪を綺麗に撫で附けて、 好い分の不斷着に着換へてゐる。母もよめも改まつた、眞面目な顏をし てゐるのは同じ事であるが、只よめの目の縁(フチ)が赤くなつてゐるので、 勝手にゐた時泣いたことが分かる。杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を 呼んだ。  四人は默つて杯(サカヅキ)を取り交した。杯が一順した時母が云つた。 「長十郎や。お前の好きな酒ぢや。少し過してはどうぢやな。」 「ほんにさうでござりまするな」と云つて、長十郎は微笑を含んで、心 地(ココチ)好げに杯を重ねた。  暫くして長十郎が母に言つた。「好い心持に醉('エ)ひました。先日か ら彼此と心遣を致しましたせゐか、いつもより酒が利いたやうでござり ます。御免を蒙つてちよつと一休みいたしませう。」  かう云つて長十郎は起つて居間に這入つたが、すぐに部屋の眞ん中に 轉がつて、鼾(イビキ)をかき出した。女房が跡からそつと這入つて枕を出 して當てさせた時、長十郎は「ううん」とうなつて寢返りをした丈で、 又鼾をかき續けてゐる。女房はぢつと夫の顏を見てゐたが、忽ち慌てた やうに起つて部屋に往つた。泣いてはならぬと思つたのである。  家(ウチ)はひつそりとしてゐる。丁度主人の決心を母と妻とが言はずに 知つてゐたやうに、家來も女中も知つてゐたので、勝手からも廐(ウマヤ) の方からも笑聲なぞは聞えない。  母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、ぢつと物を 思つてゐる。主人は居間で鼾をかいて寢てゐる。開け放つてある居間の 窓には、下に風鈴を附けた吊荵(ツリシノブ)が吊つてある。その風鈴が折々 思ひ出したやうに微かに鳴る。その下には丈の高い石の頂(イタダキ)を堀 り窪(クボ)めた手水鉢(テウヅバチ)がある。その上に伏せてある捲物(マキモノ) の柄杓(ヒシヤク)に、やんまが一疋止まつて、羽を山形に垂れて動かずにゐ る。  一時(ヒトトキ)立つ。二時(フタトキ)立つ。もう午(ヒル)を過ぎた。食事の支度 は女中に言ひ附けてあるが、姑(シウトメ)が食べると云はれるか、どうだか 分からぬと思つて、よめは聞きに行かうと思ひながらためらつてゐた。 若し自分丈が食事の事なぞを思ふやうに取られはすまいかとためらつて ゐたのである。  その時兼て介錯(カイシヤク)を頼まれてゐた關小平次が來た。姑はよめを 呼んだ。よめが默つて手を衝いて機嫌を伺つてゐると、姑が云つた。 「長十郎はちよつと一休みすると云うたが、いかい時が立つやうな。丁 度關殿も來られた。もう起して遣つてはどうぢやらうの。」 「ほんにさうでござります。餘り遲くなりません方が。」よめはかう云 つて、すぐに起つて夫を起しに往つた。  夫の居間に來た女房は、先に枕をさせた時と同じやうに、又ぢつと夫 の顏を見てゐた。死なせに起すのだと思ふので、暫くは詞(コトバ)を掛け 兼ねてゐたのである。  熟睡してゐても、庭からさす晝の明りがまばゆかつたと見えて、夫は 窓の方を背にして、顏をこつちへ向けてゐる。 「もし、あなた」と女房は呼んだ。  長十郎は目を醒まさない。  女房がすり寄つて、聳えてゐる肩に手を掛けると、長十郎は「あ、 あゝ」と云つて臂(ヒジ)を伸ばして、兩眼を開いて、むつくり起きた。 「大そう好くお休みになりました。お袋樣が餘り遲くなりはせぬかと仰 やりますから、お起し申しました。それに關樣がお出(イデ)になりまし た。」 「さうか。それでは午になつたと見える。少しの間だと思つたが、酔つ たのと疲れがあつたのとで、時の立つのを知らずにゐた。その代りひど く氣分が好うなつた。茶漬でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなる まい。お母あ樣にも申し上げてくれ。」  武士はいざと云ふ時には飽食はしない。併し又空腹で大切な事に取り 掛かることも無い。長十郎は實際ちよつと寐ようと思つたのだが、覺え ず氣持好く寐過し、午になつたと聞いたので、食事をしようと云つたの である。これから形ばかりであるが、一家(イツケ)四人のものが不斷のや うに膳に向かつて、午の食事をした。  長十郎は心靜かに支度をして、關を連れて菩提所(ボダイシヨ)東光院へ 腹を切りに往つた。  長十郎が忠利の足を戴いて願つたやうに、平生恩顧を受けてゐた家臣 の中で、これと前後して思ひ思ひに殉死の願をして許されたものが、長 十郎を加へて十八人あつた。いづれも忠利の深く信頼してゐた侍共であ る。だから忠利の心では、此人々を子息光尚(ミツヒサ)の保護のために殘し ておきたいことは山々であつた。又此人々を自分と一しよに死なせるの が殘刻(ザンコク)だとは十分感じてゐた。併し彼等一人々々に「許す」と 云ふ一言を、身を割くやうに思ひながら與へたのは、勢(イキオヒ)已(ヤ)む ことを得なかつたのである。  自分の親しく使つてゐた彼等が、命を惜まぬものであるとは、忠利は 信じてゐる。隨つて殉死を苦痛とせぬことも知つてゐる。これに反して 若し自分が殉死を許さずに置いて、彼等が生きながらへてゐたら、どう であらうか。家中一同は彼等を死ぬべき時に死なぬものとし、恩知らず とし、卑怯者として共に齒(ヨハヒ)せぬであらう。それ丈ならば、彼等も 或は忍んで命を光尚に捧げる時の來るのを待つかも知れない。併しその 恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の主人が使つてゐたのだ と云ふものがあつたら、それは彼等の忍び得ぬ事であらう。彼等はどん なにか口惜しい思をするであらう。かう思つて見ると、忠利は「許す」 と云はずにはゐられない。そこで病苦にも増したせつない思をしながら、 忠利は「許す」と云つたのである。  殉死を許した家臣の數が十八人になつた時、五十餘年の久しい間治亂 の中に身を處して、人情世故(セイコ)に飽くまで通じてゐた忠利は病苦の 中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とに就いて考へた。生(シヤウ) あるものは必ず滅する。老木の朽枯れる傍で、若木は茂り榮えて行く。 嫡子光尚の周圍にゐる少壯者(ワカモノ)共から見れば、自分の任用してゐる 老成人等(トシヨリラ)は、もうゐなくて好いのである。邪魔にもなるのであ る。自分は彼等を生きながらへさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚に させたいと思ふが、其奉公を光尚にするものは、もう幾人も出來てゐて、 手ぐすね引いて待つてゐるかも知れない。自分の任用したものは、年來 それぞれの職分を盡して來るうちに、人の怨(ウラミ)をも買つてゐよう。 少くも娼嫉(ソネミ)の的(マト)になつてゐるには違ひない。さうして見れば、 強(シ)いて彼等にながらへてゐろと云ふのは、通達した考ではないかも 知れない。殉死を許して遣つたのは慈悲であつたかも知れない。かう思 つて忠利は多少の慰藉('イシヤ)を得たやうな心持になつた。  殉死を願つて許された十八人は寺本八左衞門直次(ナホツグ)、大塚喜兵 衞種次(タネツグ)、内藤長十郎元續(モトツグ)、太田小十郎正信(マサノブ)、原 田十次郎之直(ユキナホ)、宗像(ムナカタ)加兵衞景定(カゲサダ)、同吉太夫(キチダイ フ)景好(カゲヨシ)、橋谷(ハシタニ)市藏重次(シゲツグ)、井原十三郎吉正(ヨシマサ)、 田中意徳(イトク)、本庄喜助重正(シゲマサ)、伊藤太左衞門方高(マサカタ)、右田 (ミギタ)因幡(イナバ)統安(ムネヤス)、野田喜兵衞重綱(シゲツナ)、津崎五助長季 (ナガス'エ)、小林理右衞門行秀(ユキヒデ)、林與左衞門正定(マササダ)、宮永勝 左衞門宗祐(ムネスケ)の人々である。  寺本が祖先は尾張國(ヲハリノクニ)寺本に住んでゐた寺本太郎と云ふもので あつた。太郎の子内膳正(ナイゼンノシヤウ)は今川家に仕へた。内膳正の子が 左兵衞、左兵衞の子が右衞門佐(ウ'エモンノスケ)、右衞門佐の子が與左衞門で、 與左衞門は朝鮮征伐の時、加藤嘉明(ヨシアキ)に屬して功があつた。與左衞 門の子が八左衞門で、大阪籠城の時、後藤基次(モトツグ)の下で働いた事 がある。細川家に召抱られてから、千石取つて、鐵砲五十挺の頭(カシラ) になつてゐた。四月二十九日に安養寺で切腹した。五十三歳である。藤 本猪左衞門が介錯(カイシヤク)した。大塚は百五十石取の横目役である。四 月二十六日に切腹した。介錯は池田八左衞門であつた。内藤が事は前に 言つた。太田は祖父傳左衞門が加藤清正に仕へてゐた。忠廣が封(ホウ)を 除かれた時、傳左衞門と其子の源左衞門とが流浪した。小十郎は源左衞 門の二男で兒小姓に召し出された者である。百五十石取つてゐた。殉死 の先登(セントウ)は此人で、三月十七日に春日寺で切腹した。十八歳である。 介錯は門司源兵衞がした。原田は百五十石取で、お側(ソバ)に勤めてゐ た。四月二十六日に切腹した。介錯は鎌田源太夫がした。宗像(ムナカタ)加 兵衞、同吉太夫の兄弟は、宗像中納言氏貞(ウジサダ)の後裔で、親(オヤ)清 兵衞景延の代に召し出された。兄弟いづれも二百石取である。五月二日 に兄は流長院、弟は蓮政寺(レンシヤウジ)で切腹した。兄の介錯は高田十兵 衞、弟のは村上市右衞門がした。橋谷は出雲國(イヅモノクニ)の人で、尼子 の末流である。十四歳の時忠利に召し出されて、知行(チギヤウ)百石の側 役を勤め、食事の毒見をしてゐた。忠利は病が重くなつてから、橋谷の 膝を枕にして寢たこともある。四月二十六日に西岸寺で切腹した。丁度 腹を切らうとすると、城の太鼓が微かに聞えた。橋谷は附いて來てゐた 家隷(ケライ)に、外へ出て何時(ナンドキ)か聞いて來いと云つた。家隷は歸つ て、「しまひの四つ丈は聞きましたが、總體の桴數(バチカズ)は分りませ ん」と云つた。橋谷を始(ハジメ)として、一座の者が微笑(ホホ'エ)んだ。橋 谷は「最期(サイゴ)に好う笑はせてくれた」と云つて、家隷に羽織を取ら せて切腹した。吉村甚太夫が介錯した。井原は切米(キリマイ)三人扶持(フチ) 十石を取つてゐた。切腹した時阿部彌一右衞門の家隷(ケライ)林左兵衞が 介錯した。田中は阿菊物語(オキクモノガタリ)を世に殘したお菊が孫で、忠利 が愛宕山(アタゴサン)へ學問に往つた時の幼友達であつた。忠利が其頃出家 しようとしたのを、竊(ヒソ)かに諌(イサ)めたことがある。後に知行二百石 の側役を勤め、算術が達者で用に立つた。老年になつてからは、君前で 頭巾(ヅキン)を被(カム)つた儘安座することを免(ユル)されてゐた。當代に追 腹(オヒバラ)を願つても許されぬので、六月十九日に小脇差を腹に突き立 ててから願書を出して、とうとう許された。加藤安太夫が介錯した。本 庄は丹後國(タンゴノクニ)の者で、流浪してゐたのを三齋公の部屋附本庄久 右衞門が召使つてゐた。仲津で狼藉者を取り押さへて、五人扶持十五石 の切米取(キリマイトリ)にせられた。本庄を名告つたのもその時からである。 四月二十六日に切腹した。伊藤は奥納戸役(オクオナンドヤク)を勤めた切米取 である。四月二十六日に切腹した。介錯は河喜多八助がした。右田は大 伴家(オホトモケ)の浪人で、忠利は知行百石で召し抱へられた。四月二十七 日に自宅で切腹した。六十四歳である。松野右京の家隷田原勘兵衞が介 錯した。野田は天草の家老野田美濃(ミノ)の倅で、切米取に召し出された。 四月二十六日に源覺寺で切腹した。介錯は惠良('エラ)半衞門がした。津 崎の事は別に書く。小林は二人扶持十石の切米取である。切腹の時、高 野勘右衞門が介錯した。林は南郷下田村の百姓であつたのを、忠利が十 人扶持十五石に召し出して、花畑の館の庭方(ニハカタ)にした。四月二十六 日に佛巖寺で切腹した。介錯は仲光半助がした。宮永は二人扶持十石の 臺所役人で、先代に殉死を願つた最初の男であつた。四月二十六日に淨 照寺(ジヤウセウジ)で切腹した。介錯は吉村嘉右衞門がした。此人々の中に はそれぞれの家の菩提所に葬られたのもあるが、又高麗門外の山中にあ る靈屋(オタマヤ)の側(ソバ)に葬られたのもある。  切米取の殉死者はわりに多人數であつたが、中にも津崎五助の事蹟は、 際立つて面白いから別に書くことにする。  五助は二人扶持六石の切米取で、忠利の犬牽(イヌヒキ)である。いつも鷹 狩の供をして野方(ノカタ)で忠利の氣に入つてゐた。主君にねだるやうに して、殉死のお許は受けたが、家老達は皆云つた。「外の方々は高禄を 賜はつて、榮耀(エエウ)をしたのに、そちは殿樣のお犬牽ではないか。そ ちが志は殊勝で、殿樣のお許が出たのは、此上も無い譽ぢや。もうそれ で好い。どうぞ死ぬること丈は思ひ止まつて、御當主に御奉公してくれ い」と云つた。  五助はどうしても聽かずに、五月七日にいつも牽いてお供をした犬を 連れて、追廻田畑(オヒマハシタハタ)の高琳寺(カウリンジ)へ出掛けた。女房は戸口 迄見送りに出て、「お前も男ぢや、お歴々の衆に負けぬ樣におしなされ い」と云つた。  津崎の家では往生院(オウジヤウ'イン)を菩提所にしてゐたが、往生院は上 (カミ)の御由緒(ゴユ'イシヨ)のあるお寺だといふので憚つて、高琳寺を死所 (シニドコロ)と極めたのである。五助が墓地に這入つて見ると、兼て介錯を 頼んで置いた松野縫殿助(ヌヒノスケ)が先に來て待つてゐた。五助は肩に掛 けた淺葱(アサギ)の嚢(フクロ)を卸(オロ)してその中から飯行李(メシカウリ)を出し た。蓋を開けると握飯が二つ這入つて入る。それを犬の前に置いた。犬 はすぐに食はうともせず、尾を掉(フ)つて五助の顏を見てゐた。五助は 人間に言ふやうに犬に言つた。 「おぬしは畜生ぢやから、知らずにをるかも知れぬが、お主(ヌシ)の頭を さすつて下されたことのある殿樣は、もうお亡くなり遊ばされた。それ で御恩になつてゐなされたお歴々は皆けふ腹を切つてお供をなさる。己 (オレ)は下司(ゲス)ではあるが、御扶持を戴いて繋いだ命はお歴々と變つ たことはない。殿樣に可哀がつて戴いた有難さも同じ事ぢや。それで己 は今腹を切つて死ぬるのぢや、己が死んでしまうたら、おぬしは今から 野ら犬になるのぢや。己はそれが可哀さうでならん。殿樣のお供をした 鷹は岫雲院で井戸に飛び込んで死んだ。どうぢや。おぬしも己と一しよ に死うとは思はんかい。若し野ら犬になつても、生きてゐたいと思うた ら、此握飯を食つてくれい。死にたいと思ふなら、食ふなよ。」  かう云つて犬の顏を見てゐたが、犬は五助の顏ばかりを見てゐて、握 飯を食はうとはしない。 「それならおぬしも死ぬるか」と云つて、五助は犬をきつと見詰めた。  犬は一聲鳴いて尾を掉つた。 「好い。そんなら不便(フビン)ぢやが死んでくれい。」かう云つて五助は 犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刃に刺した。  五助は犬の死骸を傍へ置いた。そして懷中から一枚の書き物を出して、 それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸で歌の會の あつた時見覺えた通りに半紙を横に二つに折つて、「家老衆はとまれと まれと仰あれどとめてとまらぬ此五助哉」と、常の詠草のやうに書いて ある。署名はして無い。歌の中に五助としてあるから、二重に名を書か なくても好いと、すなほに考へたのが、自然に故實に叶(*)(カナ)つてゐ た。 (*)「叶」は補助漢字3036(「立心」偏+「篋」-「竹」冠),以下同じ  もうこれで何も手落は無いと思つた五助は「松野樣、お頼申します」 と云つて、安坐して肌をくつろげた。そして犬の血の附いた儘の脇差を 逆手(サカテ)に持つて、「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽は只今 參りますぞ」と高聲に云つて、一聲快(ココロ)よげに笑つて、腹を十文字 に切つた。松野が背後(ウシロ)から首を打つた。  五助は身分の輕いものであるが、後に殉死者の遺族の受けた程の手當 は、跡に殘つた後家が受けた。男子一人は小さい時出家してゐたからで ある。後家は五人扶持を貰ひ、新に家屋敷を貰つて、忠利の三十三回忌 の時まで存命してゐた。五助の甥の子が二代の五助になつて、それから は代々觸組(フレグミ)で奉公してゐた。  忠利の許を得て殉死した十八人の外に、阿部彌一右衞門(ヤイチ'エモン)通 信(ミチノブ)と云ふものがあつた。初は明石氏(ウジ)で、幼名を猪之助('イノ スケ)と云つた。夙(ハヤ)くから忠利の側(ソバ)近く仕へて、千百石餘の身分 になつてゐる。島原征伐の時、子供五人の内三人まで軍功によつて新知 二百石づゝを貰つた。この彌一右衞門は家中でも殉死する筈のやうに思 ひ、當人も亦忠利の夜伽(ヨトギ)に出る順番が來る度に、殉死したいと云 つて願つた。併しどうしても忠利は許さない。 「そちが志は滿足に思ふが、それよりは生きてゐて光尚(ミツヒサ)に奉公し てくれい」と、何度願つても、同じ事を繰り返して云ふのである。  一體忠利は彌一右衞門の言ふことを聽かぬ癖が附いてゐる。これは餘 程古くからの事で、まだ猪之助と云つて小姓を勤めてゐた頃も、猪之助 が「御膳を差し上げませうか」と伺ふと、「まだ空腹にはならぬ」と云 ふ。外の小姓が申し上げると、「好い、出させい」と云ふ。忠利は此男 の顏を見ると、反對したくなるのである。そんなら叱られるかと云ふと、 さうでも無い。此男程精勤をするものは無く、萬事に氣が附いて、手ぬ かりが無いから、叱らうと云つても叱りやうが無い。  彌一右衞門は外(ホカ)の人の言ひ附けられてする事を、言ひ附けられず にする。外の人の申し上げてする事を申し上げずにする。併しする事は いつも肯綮(コウケイ)に中(アタ)つてゐて、間然すべき所が無い。彌一右衞門 は意地ばかりで奉公して行くやうになつてゐる。忠利は初めなんとも思 はずに、只此の男の顏を見ると、反對したくなつたのだが、後には此男 の意地で勤めるのを知つて憎いと思つた。憎いと思ひながら、聰明な忠 利はなぜ彌一右衞門がさうなつたかと囘想して見て、それは自分が爲向 (シム)けたのだと云ふことに氣が附いた。そして自分の反對する癖を改め ようと思つてゐながら、月が累(カサナ)り年が累るに從つて、それが次第 に改めにくゝなつた。  人には誰(タ)が上にも好きな人、厭な人と云ふものがある。そしてな ぜ好きだか、厭だかと穿鑿して見ると、どうかすると捕捉する程の據り どころが無い。忠利が彌一右衞門を好かぬのも、そんなわけである。併 し彌一右衞門と云ふ男はどこかに人と親み難い處を持つてゐるに違ひ無 い。それは親しい友達の少いので分かる。誰でも立派な侍として尊敬は する。併し容易(タヤス)く近づかうと試みるものが無い。稀に物數奇(モノズ キ)に近づかうと試みるものがあつても、暫くするうちに根氣が續かなく なつて遠ざかつてしまふ。まだ猪之助と云つて、前髪のあつた時、度々 話をし掛けたり、何かに手を借して遣つたりしてゐた年上の男が、「ど うも阿部には附け入る隙(ヒマ)が無い」と云つて我(ガ)を折つた。そこら を考へて見ると、忠利が自分の癖を改めたく思ひながら改めることの出 來なかつたのも怪むに足りない。  兎に角彌一右衞門は何度願つても殉死の許を得ないでゐるうちに、忠 利は亡くなつた。亡くなる少し前に、「彌一右衞門奴(メ)はお願と申す ことを申したことはござりません、これが生涯唯一(ユ'イイツ)のお願でご ざります」と云つて、ぢつと忠利の顏を見てゐたが、忠利もぢつと顏を 見返して、「いや、どうぞ光尚に奉公してくれい」と言ひ放つた。  彌一右衞門はつくづく考へて決心した。自分の身分で、此場合に殉死 せずに生き殘つて、家中のものに顏を合せてゐると云ふことは、百人が 百人所詮出來ぬ事と思ふだらう。犬死と知つて切腹するか、浪人して熊 本を去るかの外、爲方(シカタ)があるまい。だが己(オレ)は己だ。好いわ。 武士は妾とは違ふ。主(シユウ)の氣に入らぬからと云つて、立場が無くな る筈は無い。かう思つて一日一日と例の如くに勤めてゐた。  そのうちに五月六日が來て、十八人のものが皆殉死した。熊本中只そ の噂ばかりである。誰はなんと云つて死んだ、誰の死樣(シニヤウ)が誰より も見事であつたと云ふ話の外には、なんの話も無い。彌一右衞門は以前 から人に用事の外の話をし掛けられたことは少かつたが、五月七日から こつちは、御殿の詰所に出てゐて見ても、一層寂しい。それに相役(アヒヤ ク)が自分の顏を見ぬやうにして見るのが分かる。そつと横から見たり、 背後(ウシロ)から見たりするのが分かる。不快で溜らない。それでも己は 命が惜しくて生きてゐるのでは無い、己をどれ程惡く思ふ人でも、命を 惜む男だとはまさかに云ふ事が出來まい、たつた今でも死んで好いのな ら死んで見せると思ふので、昂然と項(ウナジ)を反(ソ)らして詰所へ出て、 昂然と項を反らして詰所から引いてゐた。  二三日立つと、彌一右衞門が耳に怪(ケ)しからん噂が聞え出して來た。 誰が言ひ出した事か知らぬが、「阿部はお許の無いを幸(サイハヒ)に生きて ゐると見える、お許は無うても追腹は切られぬ筈が無い、阿部の腹の皮 は人とは違ふと見える、瓢箪に油でも塗つて切れば好いに」と云ふので ある。彌一右衞門は聞いて思ひの外の事に思つた。惡口が言ひたくばな んとも云ふが好い。併し此彌一右衞門を竪から見ても横から見ても、命 の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言へば言はれたものかな、 好いわ。そんなら此腹の皮を瓢箪に油を塗つて切つて見せう。  彌一右衞門は其日詰所を引くと、急使を以て別家してゐる弟二人を山 崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具を外させ、嫡子權兵衞、 二男彌五兵衞、次にまだ前髪のある五男七之丞(シチノジヨウ)の三人を傍に をらせて、主人は威儀を正して待ち受けてゐる。權兵衞は幼名權十郎と 云つて、島原征伐に立派な働きをして、新知二百石を貰つてゐる。父に 劣らぬ若者である。此度の事に就いては、只一度父に「お許は出ませな んだか」と問うた。父は「うん、出んぞ」と云つた。その外二人の間に はなんの詞(コトバ)も交されなかつた。親子は心の底まで知り抜いてゐる ので、何も言ふには及ばぬのであつた。  間もなく二張(フタハリ)の堤燈(チヤウチン)が門の内に這入つた。三男市太夫、 四男五太夫の二人が殆ど同時に玄關に來て、雨具を脱いで座敷に通つた。 中陰の翌日からじめじめとした雨になつて、五月闇(サツキヤミ)の空が晴れ ずにゐるのである。  障子は開け放してあつても、蒸し暑くて風がない。その癖燭臺の火は ゆらめいてゐる。螢が一匹庭の木立を縫つて通り過ぎた。  一座を見渡した主人が口を開いた。「夜陰に呼びに遣つたのに、皆好 う來て呉れた。家中一般の噂ぢやと云ふから、おぬし達も聞いたに違ひ ない。此彌一右衞門が腹は瓢箪に油を塗つて切る腹ぢやさうな。それぢ やによつて、己は今瓢箪に油を塗つて切らうと思ふ。どうぞ皆で見屆け てくれい。」  市太夫も五太夫も島原の軍功で新知二百石を貰つて別家してゐるが、 中にも市太夫は早くから若殿附になつてゐたので、御代替(ゴダイガハ)り になつて人に羨まれる一人である。市太夫が膝を進めた。「なる程。好 う分かりました。實は傍輩(ハウバイ)が云ふには、彌一右衞門殿は御先代 の御遺言(ゴユ'イゴン)で續いて御奉公なさるさうな。親子兄弟相變らず揃 うてお勤めなさる、めでたい事ぢやと云ふのでござります。其詞(ソコトバ) が何か意味ありげで齒痒(ハガユ)うござりました。」  父彌一右衞門は笑つた。「さうであらう。目の先ばかり見える近眼(チ カメ)共を相手にするな。そこでその死なぬ筈の己が死んだら、お許の無 かつた己の子ぢやと云うて、おぬし達を侮るものもあらう。己の子に生 まれたのは運ぢや。せう事が無い。恥を受ける時は一しよに受けい。兄 弟喧嘩をするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るのを好う見て置け。」  かう言つて置いて、彌一右衞門は子供等の面前で切腹して、自分で首 筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測り兼ねてゐた五人の子供 等は、此時悲しくはあつたが、それと同時にこれまでの不安心な境界(キ ヤウガイ)を一歩離れて、重荷の一つを卸したやうに感じた。 「兄き」と二男彌五兵衞が嫡子に言つた。「兄弟喧嘩をするなと、お父 つさんは言ひ置いた。それには誰も異存はあるまい。己(オレ)は島原で持 場が惡うて、知行(チギヤウ)も貰はずにゐるから、これからはおぬしが厄 介になるぢやらう。ぢやが何事があつても、おぬしが手に慥かな槍一本 はあると云ふものぢや。さう思うてゐてくれい。」 「知れた事ぢや。どうなる事か知れぬが、己が貰ふ知行はおぬしが貰ふ も同じぢや。」かう云つた切(ギ)り權兵衞は腕組をして顏を蹙(シカ)めた。 「さうぢや。どうなる事か知れぬ。追腹はお許の出た殉死とは違ふなぞ と云ふ奴があらうて。」かう云つたのは四男の五太夫である。 「それは目に見えてをる。どう云ふ目に逢うても。」かう言ひさして三 男市太夫は權兵衞の顏を見た。「どう云ふ目に逢うても、兄弟離れ離れ に相手にならずに、固まつて行かうぞ。」 「うん」と權兵衞は云つたが、打ち解けた樣子も無い。權兵衞は弟共を 心にいたはつてはゐるが、やさしく物を言はれぬ男である。それに何事 も一人で考へて、一人でしたがる。相談と云ふものをめつたにしない。 それで彌五兵衞も市太夫も念を押したのである。 「兄(ニ)い樣方が揃うてお出(イデ)なさるから、お父つさんの惡口は、う かと言はれますまい。」これは前髪の七之丞が口から出た。女のやうな 聲ではあつたが、それに強い信念が籠つてゐたので、一座のものの胸を、 暗黒な前途を照らす光明のやうに照らした。 「どりや。おつ母さんに言うて、女子達に暇乞(イトマゴヒ)をさせうか」か う云つて權兵衞が席を起つた。  從四位下侍從兼肥後守光尚(ミツヒサ)の家督相續が濟んだ。家臣にはそれ ぞれ新知(シンチ)、加増(カゾウ)、役替(ヤクガヘ)などがあつた。中にも殉死の 侍十八人の家々は、嫡子にその儘父の跡を繼がせられた。嫡子のある限 りは、いかに幼少でもその數には漏れない。未亡人、老父母には扶持が 與へられる。家屋敷を拝領して、作事までも上(カミ)から爲向(シム)けられ る。先代が格別入懇(ジツコン)にせられた家柄で、死天(シデ)の旅の御供に さへ立つたのだから、家中のものが羨みはしても妬みはしない。  然るに一種變つた跡目の處分を受けたのは、阿部彌一右衞門の遺族で ある。嫡子權兵衞は父の跡をその儘繼ぐことが出來ずに、彌一右衞門が 千五百石の知行は細かに割いて弟達へも配分せられた。一族の知行を合 せて見れば、前に變つたことは無いが、本家を繼いだ權兵衞は、小身も のになつたのである。權兵衞の肩身の狹くなつたことは言ふまでも無い。 弟共も一人一人の知行は殖えながら、これまで千石以上の本家によつて、 大木の蔭に立つてゐるやうに思つてゐたのが、今は橡栗(ドングリ)の背競 (セイクラベ)になつて、難有(アリガタ)いやうで迷惑な思をした。  政道は地道である限は、咎(トガメ)の歸する所を問ふものは無い。一旦 常に變つた處置があると、誰の捌きかと云ふ詮議が起る。當主の御覺(オ オボエ)めでたく、御側去らずに勤めて居る大目附役に、林外記(ゲキ)と云 ふものがある。小才覺があるので、若殿樣時代のお伽(トギ)には相應し てゐたが、物の大體を見る事に於ては及ばぬ所があつて、兎角苛察(カサツ) に傾きたがる男であつた。阿部彌一右衞門は故殿樣のお許を得ずに死ん だのだから、眞の殉死者と彌一右衞門との間には境界を附けなくてはな らぬと考へた。そこで阿部家の俸禄分割の策を獻じた。光尚も思慮ある 大名であつたが、まだ物馴れぬ時の事で、彌一右衞門や嫡子權兵衞と懇 意でないために、思遣(オモヒヤリ)が無く、自分の手元に使つて馴染のある 市太夫がために加増になると云ふ處に目を附けて、外記の言を用ゐたの である。  十八人の侍が殉死した時には、彌一右衞門は御側に奉行してゐたのに 殉死しないと云つて、家中のものが卑んだ。さて僅かに二三日を隔てて 彌一右衞門は立派に切腹したが、事の當否は措いて、一旦受けた侮辱は 容易に消え難く、誰も彌一右衞門を褒めるものが無い。上(カミ)では彌一 右衞門の遺骸を靈屋の側(カタハラ)に葬ることを許したのであるから、跡目 相續の上にも強ひて境界を立てずに置いて、殉死者一同と同じ扱をして 好かつたのである。さうしたなら阿部一族は面目を施して、擧(コゾ)つ て忠勤を勵んだのであらう。然るに上で一段下つた扱をしたので、家中 のものの阿部家侮蔑の念が公(オホヤケ)に認められた形になつた。權兵衞兄 弟は次第に傍輩(ホウバイ)に疎(ウト)んぜられて、怏々(アウアウ)として日を送 つた。  寛永十九年三月十七日になつた。先代の殿樣の一周忌である。靈屋(オ タマヤ)の傍(ソバ)にはまだ妙解寺(メウゲジ)は出來てゐぬが、向陽院と云ふ 堂宇が立つて、そこに妙解院殿の位牌が安置せられ、鏡首座(キヤウシユザ) と云ふ僧が侍從してゐる。忌日(キニチ)に先だつて、紫野大徳寺の天祐和 尚が京都から下向(ゲカウ)する。年忌の營みは晴々しいものになるらしく、 一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかつた。  いよいよ當日になつた。麗(ウララ)らかな日和(ヒヨリ)で、靈屋の傍(ソバ) は櫻の盛りである。向陽院の周圍には幕を引き廻はして、歩卒が警護し て居る。當主が自ら臨場して、先づ先代の位牌に燒香し、次いで殉死者 十九人の位牌に燒香する。それから殉死者遺族が許されて燒香する。同 時に御紋附上下(カミシモ)、同時服(ドウジフク)を拝領する。馬廻(ウママハリ)以上 は長上下(ナガガミシモ)、徒士(カチ)は半上下(ハンガミシモ)である。下々(シモジモ) の者は御香奠を拝領する。  儀式は滞(トドコホリ)なく濟んだが、その間に只一つの珍事が出來(シユツタイ) した。それは阿部權兵衞が殉死者遺族の一人として、席順によつて妙解 院殿の位牌の前に進んだ時、燒香をして退(ノ)きしなに、脇差の小柄(コヅ カ)を抜き取つて髻(モトドリ)を押し切つて、位牌の前に供へたことである。 この場に詰めてゐた侍共も、不意の出來事に驚き呆れて、茫然として見 てゐたが、權兵衞が何事も無いやうに、自若として五六歩退いた時、一 人の侍がやうやう我に返つて、「阿部殿、お待ちなされい」と呼び掛け ながら、追ひ縋つて押し止めた。續いて二三人立ち掛つて、權兵衞を別 間に連れて這入つた。  權兵衞が詰衆に尋ねられて答へた所はかうである。貴殿等は某(ソレガシ) を亂心者のやうに思はれるであらうが、全く左樣なわけでは無い。父彌 一右衞門は一生瑕瑾(カキン)の無い御奉公をいたしたればこそ、故殿樣の お許を得ずに切腹しても、殉死者の列に加へられ、遺族たる某さへ他人 に先だつて御位牌に御燒香いたすことが出來たのである。併し某は不肖 にして父同樣の御奉公が成り難いのを、上(カミ)にも御承知と見えて、知 行を割いて弟共に御遣(オツカハシ)なされた。某は故殿樣にも御當主にも亡 き父にも一族の者共にも傍輩にも面目が無い。かやうに存じてゐるうち、 今日御位牌に御燒香いたす場合になり、咄嗟(トツサ)の間、感慨胸に迫り、 いつその事武士を棄てようと決心いたした。お場所柄を顧みざるお咎(ト ガメ)は甘んじて受ける。亂心などいたさぬと云ふのである。  權兵衞の答を光尚は聞いて、不快に思つた。第一に權兵衞が自分に面 當(ツラアテ)がましい所行(シヨギヤウ)をしたのが不快である。次に自分が外記 の策を納(イ)れて、しなくても好い事をしたのが不快である。まだ二十 四歳の血氣の殿樣で、情を抑へ欲を制することが足りない。恩を以て怨 に報いる寛大の心持に乏しい。即座に權兵衞をおし籠めさせた。それを 聞いた彌五兵衞以下一族のものは門を閉ぢて上の沙汰を待つことにして、 夜陰に一同寄り合つては、窃(ヒソカ)に一族の前途のために評議を凝らし た。  阿部一族は評議の末、此度先代一周忌の法會(ホフ'エ)のために下向して、 まだ逗留してゐる天祐和尚に縋(ス)がることにした。市太夫は和尚の旅 館に往つて一部始終を話して、權兵衞に對する上の處置を輕減して貰ふ やうに頼んだ。和尚はつくづく聞いて云つた。承れば御一家のお成行氣 の毒千萬である。併し上の御政道に對して彼此(カレコレ)云ふことは出來な い。只權兵衞殿に死を賜はるとなつたら、きつと御助命を願つて進ぜよ う。殊に權兵衞殿は既に髻(モトドリ)を拂はれて見れば、桑門(サウモン)同樣 の身の上である。御助命丈はいかやうにも申して見ようと云つた。市太 夫は頼もしく思つて歸つた。一族のものは市太夫の復命を聞いて、一條 の活路を得たやうな氣がした。そのうち日が立つて、天祐和尚の歸京の 時が次第に近づいて來た。和尚は殿樣に逢つて話をする度に、阿部權兵 衞が助命の事を折があつたら言上しようと思つたが、どうしても折が無 い。それは其筈である。光尚はかう思つたのである。天祐和尚の逗留中 に權兵衞の事を沙汰したらきつと助命を請はれるに違ひ無い。大寺の和 尚の詞(コトバ)で見れば、等閑(ナホザリ)に聞き棄てることはなるまい。和 尚の立つのを待つて處置しようと思つたのである。とうとう和尚は空(ム ナ)しく熊本を立つてしまつた。  天祐和尚が熊本を立つや否や、光尚はすぐに阿部權兵衞を井手の口に 引き出して縛首(シバリクビ)にさせた。先代の御位牌に對して不敬な事を 敢てした、上を恐れぬ所行として處置せられたのである。  彌五兵衞以下一同のものは寄り集つて評議した。權兵衞の所行は不埓 (フラチ)には違ひ無い。併し亡父彌一右衞門は兎に角殉死者の中に數へら れてゐる。その相續人たる權兵衞で見れば、死を賜ふことは是非が無い。 武士らしく切腹仰せ付けられれば異存はない。それに何事ぞ、奸盜かな んぞのやうに、白晝に縛首にせられた。此の樣子で推すれば、一族のも のも安隱には差し置かれまい。縱(タト)ひ別に御沙汰が無いにしても、縛 首にせられたものゝ一族が、何の面目があつて、傍輩に立ち交つて御奉 公をしよう。此上は是非に及ばない。何事があらうとも、兄弟分かれ分 かれになるなと、彌一右衞門殿の言ひ置かれたのは此時の事である。一 族討手を引き受けて、共に死ぬる外は無いと、一人の異議を稱へるもの も無く決した。  阿部一族は妻子を引き纏めて、權兵衞が山崎の屋敷に立て籠つた。  隱ならぬ一族の樣子が上に聞えた。横目(ヨコメ)が偵察に出て來た。山 崎の屋敷では門を嚴重に鎖して靜まり返つてゐた。市太夫や五太夫の宅 は空家(アキヤ)になつてゐた。  討手(ウツテ)の手配(テクバリ)が定められた。表門は側者頭(ソバモノガシラ)竹 内(タケノウチ)數馬(カズマ)長政(ナガマサ)が指揮役をして、それに小頭(コガシラ) 添島九兵衞、同(オナジク)野村庄兵衞が隨つてゐる。數馬は千百五十石で 鐵砲組三十挺の頭である。譜第(フダイ)の乙名(オトナ)島徳右衞門が供をす る。添島、野村は當時百石のものである。裏門の指揮役は知行五百石の 側者頭高見權右衞門重政で、これも鐵砲組三十挺の頭である。それに目 附畑十太夫と竹内數馬の小頭で當時百石の千場(チバ)作兵衞とが隨つて ゐる。  討手は四月二十一日に差し向けられることになつた。前晩に山崎の屋 敷の周圍には夜廻が附けられた。夜が更けてから侍分のものが一人覆面 して、塀を内から乘り越えて出たが、廻役の佐分利嘉左衞門が組の足輕 丸山三之丞が討ち取つた。その後夜明まで何事もなかつた。  兼ねて近隣のものには沙汰があつた。縱ひ當番たりとも在宿して火の 用心を怠らぬやうにいたせといふのが一つ。討手でないのに、阿部が屋 敷に入り込んで手出しをすることは嚴禁であるが、落人(オチウド)は勝手 に討ち取れと云ふのが二つであつた。  阿部一族は討手の向ふ日を其前日に聞き知つて、先づ邸内を隈なく掃 除し、見苦しい物は悉く燒き棄てた。それから老若(ラウニヤク)打寄つて酒 宴をした。それから老人や女は自殺し、幼いものは手ん手に刺し殺した。 それから庭に大きい穴を掘つて死骸を埋めた。跡に殘つたのは究竟(クツキ ヤウ)の若者ばかりである。彌五兵衞、市太夫、五太夫、七之丞の四人が 指圖して、障子襖を取り拂つた廣間に家來を集めて、鉦太鼓(カネタイコ)を 鳴らさせ、高聲に念佛をさせて夜の明けるのを待つた。これは老人や妻 子を弔ふためだとは云つたが、實は下人共に臆病の念を起させぬ用心で あつた。  阿部一族の立て籠つた山崎の屋敷は、後に齋藤勘助の住んだ所で、向 ひは山中又左衞門、左右兩隣は柄本(ツカモト)又七助、平山三郎の住ひであ つた。  此中(コノウチ)で柄本が家は、もと天草郡を三分して領してゐた柄本、天 草、志岐の三家の一つである。小西行長が肥後半國を治めてゐた時、天 草、志岐は罪を犯して誅(チユウ)せられ、柄本だけが殘つてゐて、細川家 に仕へた。  又七郎は平生(ヘイゼイ)阿部彌一右衞門が一家と心安くして、主人同志 は固(モト)より、妻女までも互に往來してゐた。中にも彌一右衞門の二男 彌五兵衞は鎗(ヤリ)が得意で、又七郎も同じ技(ワザ)を嗜(タシ)む所から、 親しい中で廣言をし合つて、「お手前が上手でも某(ソレガシ)には叶(カナ) ふまい」、「いや某がなんでお手前に負けよう」などと云つてゐた。  そこで先代の殿樣の病中に、彌一右衞門が殉死を願つて許されぬと聞 いた時から、又七郎は彌一右衞門の胸中を察して氣の毒がつた。それか ら彌一右衞門の追腹、家督相續人權兵衞の向陽院での振舞、それが基に なつての死刑、彌五兵衞以下一族の立籠(タテコモリ)と云ふ順序に、阿部家 が段々否運(ヒウン)に傾いて來たので、又七郎は親身のものにも劣らぬ心 痛をした。  或る日又七郎が女房に言ひ附けて、夜更けてから阿部の屋敷へ見舞に 遣つた。阿部一族は上に叛(ソム)いて籠城めいた事をしてゐるから、男同 志は交通することが出來ない。然るに最初からの行掛かりを知つてゐて 見れば、一族のものを惡人として憎むことは出來ない。ましてや年來懇 意(コンイ)にした間柄である。婦女の身として密(ヒソ)かに見舞ふのは、よ しや後日に發覺したとて申訣(マヲシワケ)の立たぬ事でもあるまいと云ふ考 で、見舞には遣つたのである。女房は夫の詞(コトバ)を聞いて、喜んで心 盡しの品を取り揃へて、夜更けて隣へおとづれた。これもなかなか氣丈 な女で、若し後日に發覺したら、罪を自身に引き受けて、夫に迷惑は掛 けまいと思つたのである。  阿部一族の喜(ヨロコビ)は非常であつた。世間は花咲き鳥歌ふ春である のに、不幸にして神佛にも人間にも見放されて、かく籠居してゐる我々 である。それを見舞うて遣れと云ふ夫も夫、その言附けを守つて來てく れる妻も妻、實に難有い心掛だと、心(シン)から感じた。女達は涙を流し て、かうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人菩提(ボダイ)を弔う てくれるものもあるまい、どうぞ思ひ出したら、一遍の囘向('エカウ)をし て貰ひたいと頼んだ。子供達は門外へ一足も出されぬので、不斷優しく してくれた柄本の女房を見て、右左から取り縋つて、容易(タヤス)く放し て歸さなかつた。  阿部の屋敷へ討手の向ふ前晩になつた。柄本又七郎はつくづく考へた。 阿部一族は自分とは親しい間柄である。それで後日(ゴジツ)の咎(トガメ) もあらうかとは思ひながら、女房を見舞ひにまで遣つた。併しいよいよ 明朝は上(カミ)の討手が阿部家へ來る。これは逆賊を征伐せられるお上の 軍(イクサ)も同じ事である。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするな と云つてあるが、武士たるものが此場合に懷手をして見てゐられたもの では無い。情は情、義は義である。己にはせんやうが有ると考へた。そ こで更闌(カウタ)けて抜足をして、後口から薄暗い庭へ出て、阿部家との 境の竹垣の結繩(ムスビナハ)を悉く切つて置いた。それから歸つて身支度を して、長押(ナゲシ)に懸けた手槍を卸し、鷹の羽の紋の附いた鞘を拂つて、 夜の明けるのを待つてゐた。  討手として阿部の屋敷の表門に向ふことになつた竹内數馬は、武道の 譽ある家に生まれたものである。祖先は細川高國(タカクニ)の手に屬して、 強弓(ガウキユウ)の名を得た島村彈正(ダンジヤウ)貴則(タカノリ)である。享禄四 年に高國が攝津國(セツツノクニ)尼崎に敗れた時、彈正は敵二人を兩腋(リヤウワキ) に挾んで海に飛び込んで死んだ。彈正の子市兵衞は河内(カハチ)の八隅家 (ヤスミケ)に仕へて一時八隅(ヤスミ)と稱したが、竹内越(タケノウチゴエ)を領する ことになつて、竹内(タケノウチ)と改めた。竹内市兵衞の子吉兵衞は小西行 長に仕へて、紀伊國(キイノクニ)太田の城を水攻(ミヅゼメ)にした時の功で、 豐臣太閤に白練(シロネリ)に朱の日の丸の陣羽織を貰つた。朝鮮征伐の時に は小西家の人質(ヒトジチ)として、李王宮(リワウキユウ)に三年押し籠められて ゐた。小西家が滅びてから、加藤清正に千石で召し出されてゐたが、主 君と物爭(モノアラソヒ)をして白晝に熊本城下を立ち退(ノ)いた。加藤家の討 手に備へるために、鐵砲に玉を籠め、火繩に火を附けて持たせて退いた。 それを三齋(サンサイ)が豐前(ブゼン)で千石に召し抱へた。此吉兵衞に五人 の男子があつた。長男は矢張吉兵衞と名告つたが、後剃髪して八隅(ヤスミ) 見山(ケンザン)と云つた。二男は七郎右衞門、三男は次郎太夫、四男は八 兵衞、五男が即ち數馬である。  數馬は忠利(タダトシ)の兒小姓を勤めて、島原征伐の時殿樣の側(ソバ)に ゐた。寛永十五年二月二十五日細川の手のものが城を乘り取らうとした 時、數馬が「どうぞお先手へお遣(ツカハ)し下されい」と忠利に願つた。 忠利は聽かなかつた。押し返してねだるやうに願ふと、忠利が立腹して、 「小倅、勝手にうせをれ」と叫んだ。數馬は其時十六歳である。「あつ」 と云ひさま駈け出すのを見送つて、忠利が「怪我をするなよ」と聲を掛 けた。乙名(オトナ)島(シマ)徳右衞門、草履取一人、槍持一人が跡から續い た。主從四人である。城から打ち出す鐵砲が烈しいので、島が數馬の着 てゐた猩々緋(シヤウジヤウヒ)の陣羽織の裾を掴んで跡へ引いた。數馬は振り 切つて城の石垣に攀(ヨ)ぢ登る。島も是非なく附いて登る。とうとう城 内に這入つて働いて、數馬は手を負つた。同じ場所から攻め入つた柳川 の立花(タチバナ)飛騨守(ヒダノカミ)宗茂(ムネシゲ)は七十二歳の古武者(フルツハモノ) で、此時の働振を見てゐたが、渡邊新彌、仲光内膳と數馬との三人が天 晴(アツパレ)であつたと云つて、三人へ連名の感状を遣つた。落城の後、 忠利は數馬に關兼光(セキ カネミツ)の脇差を遣つて、禄を千百五十石に加増 した。脇差は一尺八寸、直燒無銘(スグヤキムメイ)、横鑢(ヨコヤスリ)、銀の九曜 (クエウ)の三並(ミツナラビ)の目貫(メヌキ)、赤銅縁(シヤクドウブチ)、金拵(キンゴシラヘ) である。目貫の穴は二つあつて、一つは鉛で填(ウ)めてあつた。忠利は 此脇差を秘蔵してゐたので、數馬に遣(ヤ)つてからも、登城の時などに は、「數馬あの脇差を貸せ」と云つて、借りて差したことも度々ある。  光尚(ミツヒサ)に阿部の討手を言ひ附けられて、數馬が喜んで詰所へ下が ると、傍輩の一人が囁(ササヤ)いた。 「奸物にも取柄(トリエ)はある。おぬしに表門の采配を振らせるとは、林 殿にしては好く出來た。」  數馬は耳を欹(ソバダ)てた。「なに此度のお役目は外記(ゲキ)が申し上 げて仰せ附けられたのか。」 「さうぢや。外記殿が殿樣に言はれた。數馬は御先代が出格のお取立を なされたものぢや。御恩報じにあれをお遣りなされいと云はれた。物怪 (モツケ)の幸(サイハヒ)ではないか。」 「ふん」と云つた數馬の眉間には、深い皺が刻まれた。「好いわ。討死 するまでの事ぢや。」かう言ひ放つて、數馬はついと起つて館を下がつ た。  此時の數馬の樣子を光尚が聞いて、竹内の屋敷へ使を遣つて、「怪我 をせぬやうに、首尾好くいたして參れ」と云はせた。數馬は「難有いお 詞(コトバ)を慥(タシ)かに承つたと申し上げて下されい」と云つた。  數馬は傍輩の口から、外記が自分を推して此度の役に當らせたのだと 聞くや否や、即時に討死をしようと決心した。それがどうしても動かす ことの出來ぬ程堅固な決心であつた。外記は御恩報じをさせると云つた と云ふことである。此詞は圖らず聞いたのであるが、實は聞くまでも無 い、外記が薦めるには、さう云つて薦めるに極まつてゐる。かう思ふと、 數馬は立つても据わつてもゐられぬやうな氣がする。自分は御先代の引 立を蒙つたには違ひない。併し元服をしてから後の自分は、謂はば大勢 の近習(キンジユ)の中の一人で、別に出色のお扱を受けてはゐない。御恩 には誰も浴してゐる。御恩報じを自分に限つてしなくてはならぬと言ふ のは、どう云ふ意味か。言ふまでも無い、自分は殉死する筈であつたの に、殉死しなかつたから、命掛の場所に遣ると云ふのである。命は何時 でも喜んで棄てるが、前(サキ)にしおくれた殉死の代りに死なうとは思は ない。今命を惜まぬ自分が、なんで御先代の中陰の果(ハテ)の日に命を惜 んだであらう。謂はれの無い事である。畢竟(ヒツキヤウ)どれ丈の御入懇(ゴ ジツコン)になつた人が殉死すると云ふ、はつきりした境は無い。同じやう に勤めてゐた御近習(ゴキンジユ)の若侍の中に殉死の沙汰が無いので、自 分もながらへてゐた。殉死して好い事なら、自分は誰よりも先にする。 それ程の事は誰の目にも見えてゐるやうに思つてゐた。それに疾(ト)う にする筈の殉死をせずにゐた人間として極印(ゴクイン)を打たれたのは、 かへすがへすも口惜しい。自分は雪(スス)ぐことの出來ぬ汚れを身に受け た。それ程の辱(ハヂ)を人に加へる事は、あの外記でなくては出來まい。 外記としてはさもあるべき事である。併し殿樣がなぜそれをお聽納(キキイ レ)になつたのか。外記に傷けられたのは忍ぶことも出來よう。殿樣に棄 てられたのは忍ぶことが出來ない。島原で城に乘り入らうとした時、御 先代がお呼止なされた。それはお馬廻りのものがわざと先手(サキテ)に加 はるのをお止めなされたのである。此度御當主の怪我をするなと仰やる のは、それとは違ふ。惜しい命をいたはれと仰やるのである。それがな んの難有からう。古い創(キズ)の上を新に鞭うたれるやうなものである。 只一刻も早く死にたい。死んで雪がれる汚れではないが、死にたい。犬 死でも好いから、死にたい。  數馬はかう思ふと、矢も楯も溜まらない。そこで妻子には阿部の討手 を仰せ附けられたと丈、手短に言ひ聞せて、一人ひたすら支度を急いだ。 殉死した人は皆安堵(アンド)して死に就くと云ふ心持でゐたのに、數馬が 心持は苦痛を逃れるために死を急ぐのである。乙名島徳右衞門が事情を 察して、主人と同じ決心をした外には、一家のうちに數馬の心底を汲み 知つたものが無い。今年二十一(二十)歳になる數馬の所へ、去年來た ばかりのまだ娘らしい女房は、當歳の女の子を抱いてうろうろしてゐる ばかりである。  あすは討入と云ふ四月二十日の夜、數馬は行水(ギヤウズ'イ)を使つて、 月題(サカヤキ)を剃つて、髪には忠利に拝領した名香初音(ハツネ)を焚き込め た。白無垢に白襷、白鉢卷きをして、肩に合印(アヒジルシ)の角取紙(スミトリガ ミ)を附けた。腰に帶びた刀は二尺四寸五分の正盛(マサモリ)で、祖先島村彈 正が尼崎で討死して時、故郷に送つた記念(カタミ)である。それに初陣(ウヒ ジン)の時拝領した兼光を差し添へた。門口には馬が嘶(イナナ)いてゐる。  手槍を取つて庭に降り立つ時、數馬は草鞋の緒を男結(ヲトコムスビ)にし て、餘つた緒を小刀で切つて捨てた。  阿部の屋敷の裏門に向ふことになつた高見權右衞門は本(モ)と和田氏 で、近江國(アフミノクニ)和田に住んだ和田但馬守(タヂマノカミ)の裔(ス'エ)である。 初(ハジメ)蒲生(ガマフ)賢秀(カタヒデ)に隨つてゐたが、和田庄五郎の代に細 川家に仕へた。庄五郎は岐阜、關原の戰(タタカヒ)に功のあつたものである。 忠利の兄與一郎忠隆(タダタカ)の下に附いてゐたので、忠隆が慶長五年大 阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘氣を受け、入道休無(ニフダウ キウム)となつて流浪した時、高野山や京都まで供をした。それを三齋が小 倉へ呼び寄せて、高見氏を名告らせ、番頭(バンガシラ)にした。知行五百 石であつた。庄五郎の子が權右衞門である。島原の戰に功があつたが、 軍令に背いた廉(カド)で、一旦役を召し上げられた。それが暫くしてか ら歸參して側者頭(ソバモノガシラ)になつてゐたのである。權右衞門は討入 の支度の時黒羽二重の紋附を着て、兼て秘藏してゐた備前長船(ビゼン ヲ サフネ)の刀を取り出して帶びた。そして十文字の槍を持つて出た。  竹内數馬の手に島徳右衞門がゐるやうに、高見權右衞門は一人の小姓 を連れてゐる。阿部一族の事のあつた二三年前の夏の日に、此小姓は非 番で部屋に晝寢をしてゐた。そこへ相役の一人が供先から歸つて眞裸(マ ハダカ)になつて、手桶を提げて井戸へ水を汲みに行き掛けたが、ふと此 小姓の寢てゐるのを見て、「己(オレ)がお供から歸つたに、水も汲んでく れずに寢てをるかい」と云ひざまに枕を蹴(ケツ)た。小姓は跳ね起きた。 「なる程。目が醒めてをつたら、水も汲んで遣らう。ぢやが枕を足蹴(ア シゲ)にすると云ふことがあるか。此儘には濟まんぞ。」かう云つて抜打 (ヌキウチ)に相役を大袈裟(オホゲサ)に切つた。  小姓は靜かに相役の胸の上に跨がつて止めを刺して、乙名(オトナ)の小 屋へ往つて仔細を話した。「即座に死ぬる筈でござりましたが、御不審 もあらうかと存じまして」と、肌を脱いで切腹しようとした。乙名が 「先づ待て」と云つて權右衞門に告げた。權右衞門はまだ役所から下が つて、衣服も改めずにゐたので、其儘館(ヤカタ)へ出て忠利に申し上げた。 忠利は「尤(モツトモ)の事ぢや、切腹には及ばぬ」と云つた。此時から小姓 は權右衞門に命を捧げて奉公してゐるのである。  小姓は箙(エビラ)を負ひ半弓を取つて、主の傍に引き添つた。  寛永十九年四月二十一日は麥秋(ムギアキ)に好くある薄曇の日であつた。  阿部一族の立て籠つてゐる山崎の屋敷に討ち入らうとして、竹内數馬 の手のものは拂曉に表門の前に來た。夜通し鉦太鼓(カネタイコ)を鳴らして ゐた屋敷の内が、今はひつそりとして空家(アキヤ)かと思はれる程である。 門の扉は鎖(トザ)してある。板塀の上に二三尺伸びてゐる夾竹桃の木末 (ウラ)には、蜘(クモ)のいが掛かつてゐて、それに夜露が眞珠のやうに光つ てゐる。燕が一羽どこからか飛んで來て、つと塀の内に入つた。  數馬は馬を乘り放つて降り立つて、暫く樣子を見てゐたが、「門を開 (ア)けい」と云つた。足輕が二人塀を乘り越して内に這入つた。門の廻 りには敵は一人もゐないので、錠前を打ちこはして貫(クワン)の木を抜い た。  隣家の柄本又七郎は數馬の手のものが門を開ける物音を聞いて、前夜 結繩を切つて置いた竹垣を踏み破つて、駈け込んだ。毎日のやうに往來 (ユキキ)して、隅々まで案内を知つてゐる家である。手槍を構へて臺所の 口から、つと這入つた。座敷の戸を締め切つて、籠み入る討手のものを 一人々々討ち取らうとして控へてゐた一族の中で、裏口に人のけはひの するのに、先づ氣の附いたのは彌五兵衞である。これも手槍を提げて臺 所へ見に出た。  二人は槍の穂先と穂先とが觸れ合ふ程に相對した。「や、又七郎か」 と彌五兵衞が聲を掛けた。 「おう。兼ての廣言がある。おぬしが槍の手並を見に來た。」 「好うわせた。さあ。」  二人は一歩しざつて槍を交へた。暫く戰つたが、槍術は又七郎の方が 優れてゐたので、彌五兵衞の胸板をしたたかに衝き抜いた。彌五兵衞は 槍をからりと棄てて、座敷の方へ引かうとした。 「卑怯ぢや。引くな。」又七郎が叫んだ。 「いや逃げはせぬ。腹を切るのぢや」言ひ棄てて座敷に這入つた。  その刹那(セツナ)に「をぢ樣、お相手」と叫んで、前髪の七之丞が電光 の如くに飛んで出て、又七郎の太股を衝いた。入懇(ジツコン)の彌五兵衞 に深手(フカデ)を負はせて、覺えず氣が弛んでゐたので、手錬(シユレン)の又 七郎も少年の手に掛かつたのである。又七郎は槍を棄てて其場に倒れた。  數馬は門内に入つて人數を屋敷の隅々に配つた。さて眞つ先に玄關に 進んで見ると、正面の板戸が細目に開けてある。數馬が其戸に手を掛け ようとすると、島徳右衞門が押し隔(ヘダ)てて、詞(コトバ)せはしく囁(ササ ヤ)いた。 「お待なさりませ。殿は今日の總大將ぢや。某(ソレガシ)がお先をいたし ます。」  徳右衞門は戸をがらりと開けて飛び込んだ。待ち構へてゐた市太夫の 槍に、徳右衞門は右の目を衝かれてよろよろと數馬に倒れ掛つた。 「邪魔ぢや。」數馬は徳右衞門を押し退(ノ)けて進んだ。市太夫、五太 夫の槍が左右のひはらを衝き抜いた。  添島九兵衞、野村庄兵衞が續いて驅け込んだ。徳右衞門も痛手に屈せ ず取つて返した。  此時裏門を押し破つて這入つた高見權右衞門は十文字槍を揮つて、阿 部の家來共を衝きまくつて座敷に來た。千場作兵衞も續いて籠み入つた。  裏表二手のもの共が入り違へて、をめき叫んで衝いて來る。障子襖は 取り拂つてあつても、三十疊に足らぬ座敷である。市街戰の慘状が野戰 より甚だしいと同じ道理で、皿に盛られた百蟲の相啖(アヒクラ)ふにも譬へ つべく、目も當てられぬ有樣である。  市太夫、五太夫は相手嫌はず槍を交へてゐるうち、全身に數へられぬ 程の創を受けた。それでも屈せずに、槍を棄てて刀を抜いて切り廻つて ゐる。七之丞はいつの間にか倒れてゐる。  太股を衝かれた柄本又七郎が臺所に伏してゐると、高見の手のものが 見て、「手をお負なされたな、お見事ぢや、早うお引きなされい」と云 つて、奥へ通り抜けた。 「引く足があれば、わしも奥へ這入るが」と、又七郎は苦々しげに云つ て齒咬(ハガミ)をした。そこへ主(シユウ)の跡を慕つて入り込んだ家來の一 人が駈け附けて、肩に掛けて退いた。  今一人の柄本家の被官天草平九郎と云ふものは、主の退口(ノキクチ)を守 つて、半弓を以て目に掛かる敵を射てゐたが、其場で討死した。  竹内數馬の手では島徳右衞門が先づ死んで、次いで小頭添島九兵衞が 死んだ。  高見權右衞門が十文字槍を揮つて働く間、半弓を持つた小姓はいつも 槍脇を詰めて敵を射てゐたが、後には刀を抜いて切つて廻つた。ふと見 れば鐵砲で權右衞門をねらつてゐるものがある。 「あの丸(タマ)はわたくしが受け止めます」と云つて、小姓が權右衞門の 前に立つと、丸が來て中(アタ)つた。小姓は即死した。竹内の組から抜い て高見に附けられた小頭千場作兵衞は重手(オモデ)を負つて臺所に出て、 水瓶(ミヅガメ)の水を呑んだが、其儘そこにへたばつてゐた。  阿部一族は最初に彌五兵衞が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はと うとう皆深手に息が切れた。家來も多くは討死した。  高見權右衞門は裏表の人數を集めて、阿部が屋敷の裏手にあつた物置 小屋を崩させて、それに火を掛けた。風のない日の薄曇の空に、烟が眞 つ直に升(ノボ)つて、遠方から見えた。それから火を踏み消して、跡を 水でしめして引き上げた。臺所にゐた千場作兵衞、其外重手を負つたも のは家來や傍輩が肩に掛けて續いた。時刻は丁度未(ヒツジ)の刻であつた。  光尚(ミツヒサ)は度々家中の主立つたものの家へ遊びに往くことがあつた が、阿部一族を討ちに遣つた二十一日の日には、松野左京の屋敷へ拂曉 から出掛けた。  館のあるお花畠からは、山崎はすぐ向うになつてゐるので、光尚が館 を出る時、阿部の屋敷の方角に人聲物音がするのが聞えた。 「今討入つたな」と云つて、光尚は駕籠に乘つた。  駕籠がやうやう一町ばかり行つた時、注進があつた。竹内數馬が討死 をしたことは、此時分(ワ)かつた。  高見權右衞門は討手の總勢を率ゐて、光尚のゐる松野の屋敷の前まで 引き上げて、阿部の一族を殘らず討ち取つたことを執奏(シツソウ)して貰つ た。光尚はぢきに逢はうと云つて、權右衞門を書院の庭に廻らせた。  丁度卯の花の眞つ白に咲いてゐる垣の間に、小さい枝折戸(シヲリド)の あるのを開けて這入(ハイ)つて、權右衞門は芝生の上に突居(ツイ'イ)た。光 尚が見て、「手を負つたな、一段骨折であつた」と聲を掛けた。黒羽二 重の衣服が血みどれになつて、それに引上(ヒキアゲ)の時小屋の火を踏み 消した時飛び散つた炭や灰がまだらに附いてゐたのである。 「いえ。かすり創(キズ)でござりまする。」權右衞門は何者かに水落(ミヅ オチ)をしたたか衝かれたが懷中してゐた鏡に中つて穂先がそれた。創は 僅かに血を鼻紙ににじませた丈である。  權右衞門は討入の時の銘々の働きを精しく言上(ゴンジヤウ)して、第一 の功を單身で彌五兵衞に深手を負はせた隣家の柄本又七郎に讓つた。 「數馬はどうぢやつた。」 「表門から一足先に駈け込みましたので見屆けません。」 「さやうか。皆のものに庭へ這入れと云へ。」  權右衞門が一同を呼び入れた。重手で自宅へ舁(カ)いて行かれた人達 の外は、皆芝生に平伏した。働いたものは血によごれてゐる。小屋を燒 く手傳ばかりしたものは、灰ばかりあびてゐる。その灰ばかりあびた中 に、畑十太夫がゐた。光尚が聲を掛けた。 「十太夫。そちの働きはどうぢやつた。」 「はつ」と云つた切り默つて伏してゐた。十太夫は大兵(ダイヒヤウ)の臆病 者で、阿部が屋敷を外をうろついてゐて、引上の前に小屋に火を掛けた 時、やつとおづおづ這入つたのである。最初討手に仰せ附けられた時に、 お次へ出る所を劒術者新免(シンメン)武藏(ムサシ)が見て、「冥加至極の事ぢ や、隨分お手柄をなされい」と云つて背中をぽんと打つた。十太夫は色 を失つて、弛んでゐた袴の紐を締め直さうとしたが、手が震えて締まら なかつたさうである。  光尚は座を起つ時云つた。「皆出精(シユツセイ)であつたぞ。歸つて休息 いたせ。」  竹内數馬の幼い娘には養子をさせて家督相續を許されたが、此家は後 に絶えた。高見權右衞門は三百石、千場(チバ)作兵衞、野村庄兵衞は各 五十石の加増を受けた。柄本又七郎へは米田(コメダ)堅物(ケンモツ)が承つて 組頭(クミガシラ)谷(タニ)内藏之允(クラノスケ)を使者に遣つて、賞詞(ホメコトバ)が あつた。親戚朋友がよろこびを言ひに來ると、又七郎は笑つて、「元龜 (ゲンキ)天正(テンシヤウ)の頃は、城攻(シロゼメ)野合(ノアハ)せが朝夕の飯同樣で あつた、阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子ぢや」と云つ た。二年立つて、正保(シヤウホウ)元年の夏、又七郎は創が癒えて光尚に拝 謁した。光尚は鐵砲十挺を預けて、「創が根治するやうに湯治がしたく ばいたせ、又府外に別莊地を遣(ツカハ)すから、場所を望め」と云つた。 又七郎は益城(マシキ)小池村に屋敷地を貰つた。その背後が籔山である。 「籔山も遣さうか」と、光尚が云はせた。又七郎はそれを辭退した。竹 は平日も御用に立つ。戰爭でもあると、竹束が澤山いる。それを私(ワタク シ)に拝領しては氣が濟まぬと云ふのである。そこで籔山は永代御預けと 云ふことになつた。  畑十太夫は追放せられた。竹内數馬の兄八兵衞は私に討手に加はりな がら、弟の討死の場所に居合せなかつたので、閉門を仰せ附けられた。 又馬廻(ウママハリ)の子で近習(キンジユ)を勤めて居た某(ソレガシ)は、阿部の屋 敷に近く住まつてゐたので、「火の用心をいたせ」と云つて當番を免(ユ ル)され、父と一しよに屋根に上つて火の子を消してゐた。後に切角當番 を免された思召(オボシメシ)に背いたと心附いてお暇(イトマ)を願つたが、光 尚は「そりや臆病では無い、以後はも少し氣を附けるが好いぞ」と云つ て、其儘勤めさせた。此近習は光尚の亡くなつた時殉死した。  阿部一族の死骸は井出の口に引き出して、吟味せられた。白川で一人 一人の創を洗つて見た時、柄本又七郎の槍に胸板を衝き抜かれた彌五兵 衞の創は、誰の受けた創よりも立派であつたので、又七郎はいよいよ面 目を施した。 (大正二年一月『中央公論』第二十八年第一號)