PDD図書館管理番号 0000.0000.0174.00 新字新かなに変換している。 【 】は傍点付きを示す。 ( ) はひらがなのルビ。 鹿踊(シシオド)りのはじまり 宮沢賢治:作  そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕陽は赤くなゝめ に苔(コケ)の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りまし た。わたくしが疲れてそこに睡(ネム)りますと、ざあざあ吹いていた風が、 だんだん人のことばに聞え、やがてそれは、いま北上(キタカミ)の山の方や、 野原に行われていた鹿(シシ)踊りの、ほんとうの精神を語(カタ)りました。  そこらがまだまるっきり、丈高い草や黒い林のままだったとき、嘉十 はおじいさんたちと北上川の東から移って来て、小さな畑を開いて、粟 (アワ)や稗(ヒエ)をつくっていました。  あるとき嘉十は、栗の木から落ちて、少し左の膝(ヒザ)を悪くしまし た。そんなときはいつでも、西の山の中の湯の湧(ワ)くところへ行って、 小屋をかけて泊って療(ナオ)すのでした。  天気のいゝ日に、嘉十も出かけて行きました。糧(カテ)と味噌(ミソ)と鍋 (ナベ)とをしょって、もう銀いろの穂を出したすすきの野原をすこしびっ こをひきながら、ゆっくりゆっくり歩いて行ったのです。  いくつもの小流れや石原を越えて、山脈のかたちも大きくはっきりな り、山の木も一本一本、すぎごけのように見わけられるところまで来た ときは、太陽はもうよほど西に外(ソ)れて、十本ばかりの青いはんのき の木立(コダチ)の上に、少し青ざめてぎらぎら光ってかかりました。  嘉十は芝草の上に、せなかの荷物をどっかりおろして、栃(トチ)と粟と のだんごを出して食べはじめました。すすきは幾(イク)むらも幾むらも、 はては野原いっぱいのように、まっ白に光って波をたてました。嘉十は だんごをたべながら、すすきの中から黒くまっすぐに立っている、はん のきの幹をじつにりっぱだとおもいました。  ところがあんまり一生けん命歩いたあとは、どうもなんだかお腹(ナカ) がいっぱいのような気がするのです。そこで嘉十も、おしまいに栃の団 子(ダンゴ)をとちの実のくらい残しました。 「こいづば鹿(シカ)さ呉(ケ)でやべか。それ、鹿、来て喰(ケ)。」嘉十はひ とりごとのように言って、それをうめばちそうの白い花の下に置きまし た。それから荷物をまたしょって、ゆっくりゆっくり歩きだしました。  ところが少し行ったとき、嘉十はさっきのやすんだところに手拭(テヌグ イ)を忘れて来たのに気が付きましたので急いでまた引っ返しました。あ のはんのきの黒い木立がじき近くに見えていて、そこまで戻るぐらい、 なんの事でもないようでした。  けれども嘉十はぴたりとたちどまってしまいました。  それはたしかに鹿のけはいがしたのです。  鹿が少くても五六疋、湿(シメ)っぽいはなづらをずうっと延ばして、し ずかに歩いているらしいのでした。  嘉十はすすきに触れないように気を付けながら、爪立(ツマダ)てをして、 そっと苔を踏んでそっちの方へ行きました。  たしかに鹿はさっきの栃の団子にやって来たのでした。 「はあ、鹿等(シカダ)あ、すぐに来たもな。」と嘉十は咽喉(ノド)の中で、 笑いながらつぶやきました。そしてからだをかゞめて、そろりそろりと、 そっちに近よって行きました。  一むらのすすきの陰から、嘉十はちょっと顔を出して、びっくりして またひっ込めました。六疋ばかりの鹿が、さっきの芝原を、ぐるぐるぐ るぐる環(ワ)になって廻(マワ)っているのでした。嘉十はすすきの隙間(スキ マ)から、息をこらしてのぞきました。  太陽が、ちょうど一本のはんのきの頂にかかっていましたので、その 梢(コズエ)はあやしく青く光り、まるで鹿の群を見おろしてじっと立って いる青いいきもののようにおもわれました。すすきの穂も、一本づつ銀 いろにかがやき、鹿の毛並(ケナミ)がことにその日はりっぱでした。  嘉十はよろこんで、そっと片膝(カタヒザ)をついてそれに見とれました。  鹿は大きな環をつくって、ぐるぐる廻っていましが、よく見るとどの 鹿も環のまんなかの方に気をとられているようでした。その証拠には、 頭も耳も眼もみんなそっちへ向いて、おまけにたびたび、いかにも引っ ぱられるように、よろよろと二足三足、環からはなれてそっちへ寄って 行きそうにするのでした。  もちろん、その環のまんなかには、さっきの嘉十の栃の団子がひとか け置いてあったのでしたが、鹿どものしきりに気にかけているのは決し て団子ではなくて、そのとなりの草の上にくの字になって落ちている、 嘉十の白い手拭らしいのでした。嘉十は痛い足をそっと手で曲げて、苔 の上にきちんと坐(スワ)りました。  鹿のめぐりはだんだんゆるやかになり、みんなは交(カワ)る交る、前肢 (マエアシ)を一本環の中の方へ出して、今にもかけ出して行きそうにしては、 びっくりしたようにまた引っ込めて、とっとっとっとっしずかに走るの でした。その足音は気持よく野原の黒土の底の方までひゞきました。そ れから鹿どもは廻るのをやめて、みんな手拭のこちらの方に来て立ちま した。  嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえまし た。鹿どもの風にゆれる草穂(クサホ)のような気持が、波になって伝わっ て来たのでした。  嘉十はほんとうにじぶんの耳を疑いました。それは鹿のことばが聞え て来たからです。 「じゃ、おれ行って見(ミ)で来(コ)べが。」 「うんにゃ、危ないじゃ、もう少し見でべ。」  こんなことばも聞えました。 「何時(イツ)だがの狐(キツネ)みだいに口発破(クチハッパ)などさ罹(カカ)ってあ、 つまらないもな。高で栃の団子などでよ。」 「そだそだ、全ぐだ。」  こんなことばも聞きました。 「生(イ)ぎものだがも知れないじゃい。」 「うん。生ぎものらしどごもあるな。」  こんなことばも聞えました。そのうちにとうとう一疋が、いかにも決 心したらしく、せなかをまっすぐにして環からはなれて、まんなかの方 に進み出ました。  みんなは停(トマ)ってそれを見ています。  進んで行った鹿は、首をあらんかぎり延ばし、四本の脚を引きしめ引 きしめ、そろりそろりと手拭に近づいて行きましたが、俄(ニワ)かにひど く飛びあがって、一目散(イチモクサン)に遁(ニ)げ戻ってきました。廻りの五 疋も一ぺんにぱっと四方へちらけようとしましたが、はじめの鹿が、ぴ たりととまりましたのでやっと安心して、のそのそ戻ってその鹿の前に 集まりました。 「なじょだた。なにだた、あの白い長いやづあ。」 「縦に皺(シワ)の寄ったもんだけあな。」 「そだら生ぎものだないがべ、やっぱり蕈(キノコ)などだべが。毒蕈(ブスキ ノコ)だべ。」 「うんにゃ、きのごだない。やっぱり生ぎものらし。」 「そうが。生ぎもので皺うんと寄ってらば、年老(トシヨリ)だな。」 「うん年老の番兵だ。ううはははは。」 「ふふふ青白(アオジロ)の番兵だ。」 「ううははは、青じろ番兵だ。」 「こんどおれ行って見べが。」 「行ってみろ、大丈夫だ。」 「喰(ク)っつがないが。」 「うんにゃ、大丈夫だ。」  そこでまた一疋が、そろりそろりと進んで行きました。五疋はこちら で、ことりことりとあたまを振ってそれを見ていました。  進んで行った一疋は、たびたびもうこわくて、たまらないというよう に、四本の脚を集めてせなかを円くしたり、そっとまたのばしたりして、 そろりそろりと進みました。  そしてとうとう手拭のひと足こっちまで行って、あらんかぎり首を延 ばしてふんふん嗅(カ)いでいましたが、俄かにはねあがって遁(ニ)げて来 ました。みんなもびくっとして一ぺんに遁げ出そうとしましたが、その 一疋がぴたりと停りましたので、やっと安心して五つの頭をその一つの 頭に集めました。 「なじょだた、なして逃げて来た。」 「噛(カ)じるべとしたようだもさ。」 「ぜんたいなにだけあ。」 「わがらないな。とにかぐ白どそれがら青ど、両方のぶぢだ。」 「匂(ニオイ)あなじょだ。匂あ。」 「柳(ヤナギ)の葉みだいな匂だな。」 「はでな、息吐(ツ)でるが、息。」 「さあ、そごば、気付けないがた。」 「こんどあ、おれあ行って見べか。」 「行ってみろ。」  三番目の鹿がまたそろりそろりと進みました。そのときちょっと風が 吹いて、手拭がちらっと動きましたので、その進んで行った鹿はびっく りして立ちどまってしまい、こっちのみんなもびくっとしました。けれ ども鹿はやっとまた気を落ちつけたらしく、またそろりそろりと進んで、 とうとう手拭まで鼻さきを延ばしました。  こっちでは五疋がみんなことりことりとお互にうなづき合って居りま した。  そのとき俄かに進んで行った鹿が、竿立(サオダ)ちになって躍りあがっ て遁げて来ました。 「何して遁げで来た。」 「気味(キビ)悪(ワリ)ぐなてよ。」 「息(イギ)吐(ツ)でるが。」 「さあ、息の音(オド)あ為(サ)ないがけあな。口(クヂ)も無いようだけあ な。」 「あだまあるが。」 「あだまもゆぐわがらないがったな。」 「そだらこんだおれ行って見べが。」  四番目の鹿が出て行きました。これもやっぱりびくびくものです。そ れでもすっかり手拭の前まで行って、いかにも思い切ったらしく、ちょっ と鼻を手拭に押しつけて、それから急いで引っこめて、一目散に帰って 来ました。 「おう、柔(ヤ)っけもんだぞ。」 「泥のようにが。」 「うんにゃ。」 「草のようにが。」 「うんにゃ。」 「【ごまざい】の毛のようにが。」 「うん、あれよりあ、も少し硬(コワ)ぱしな。」 「なにだべ。」 「とにかぐ生ぎもんだ。」 「やっぱりそうだが。」 「うん、汗臭いも。」 「おれも一遍(ヒトガエリ)行ってみべが。」  五番目の鹿がまたそろりそろりと進んで行きました。この鹿はよほど おどけもののようでした。手拭の上にすっかり頭をさげて、それからい かにも不審(フシン)だというように、頭をかくっと動かしましたので、こっ ちの五疋がはねあがって笑いました。  向うの一疋はそこで得意(トク)になって、舌を出して手拭を一つぺろり と嘗(ナ)めましたが、にわかに怖(コワ)くなったと見えて、大きく口をあ けて舌をぶらさげて、まるで風のように飛んで帰って来ました。みんな もひどく愕(オド)ろきました。 「じゃ、じゃ、噛(カ)じらえだが、痛ぐしたが。」 「ブルルルルルル。」 「舌抜がれだが。」 「ブルルルルルル。」 「なにした、なにした。なにした。じゃ。」 「ふう、あゝ、舌縮まってしまったたよ。」 「なじょな味だた。」 「味無いがたな。」 「生きもんだべが。」 「なじょだが判(ワカ)らない。こんどあ、汝(ウナ)あ行ってみろ。」 「お。」  おしまいの一疋がまたそろそろ出て行きました。みんながおもしろそ うに、ことこと頭を振って見ていますと、進んで行った一疋は、しばら く首をさげて手拭を嗅いでいましたが、もう心配もなにもないという風 で、いきなりそれをくわえて戻って来ました。そこで鹿はみなぴょんぴょ ん跳びあがりました。 「おう、うまい、うまい、そいづさえ取ってしめば、あどは何(ナ)って も怖(オ)っかなぐない。」 「きっともて、こいづあ大きな蝸牛(ナメクジラ)の旱(ヒ)からびだのだな。」 「さあ、いゝが、おれ歌(ウダ)うだうはんてみんな廻れ。」  その鹿はみんなのなかにはいって歌いだし、みんなはぐるぐるぐるぐ る手拭を廻りはじめました。 「のはらのまん中の  めっけもの  すっこんずっこの  栃だんご  栃のだんごは    結構(ケッコ)だが  となりにいからだ  ふんながす  青じろ番兵(バンペ)は 気にかがる。  青じろ番兵は    ふんにゃふにゃ  吠(ホ)えるもさないば 泣ぐもさない  瘠(ヤ)せで長くて   ぶぢぶぢで  どごが口だが    あだまだが  ひでりあがりの   なめくじら。」  走りながら廻りながら踊りながら、鹿はたびたび風のように進んで、 手拭を角でついたり足でふんだりしました。嘉十の手拭はかあいそうに 泥がついてところどころ穴さえあきました。  そこで鹿のめぐりはだんだんゆるやかになりました。 「おう、こんだ団子ぉ食(ク)ばがりだじょ。」 「おう、煮(ニ)だ団子だじょ。」 「おう、まん円けじょ。」 「おう、はんぐはぐ。」 「おう、すっこんすっこ。」 「おう、けっこ。」  鹿はそれからみんなばらばらになって、四方から栃のだんごを囲んで 集りました。  そしていちばんはじめに手拭に進んだ鹿から、一口づつ団子をたべま した。六疋めの鹿は、やっと豆粒のくらいをたべただけです。  鹿はそれからまた環になって、ぐるぐるぐるぐるめぐり歩きました。  嘉十はもうあんまりよく鹿を見ましたので、じぶんまでが鹿のような 気がして、いまにも飛び出そうとしましたが、じぶんの大きな手がすぐ 眼にはいりましたので、やっばりだめだとおもいながらまた息をこらし ました。  太陽はこのとき、ちょうどはんのきの梢(コズエ)の中ほどにかかって、 少し黄いろにかゞやいて居りました。鹿のめぐりはまただんだんゆるや かになって、たがいにせわしくうなづき合い、やがて太陽に向いて、そ れを拝むようにしてまっすぐに立ったのでした。嘉十はもうほんとうに 夢のようにそれに見とれていたのです。  一ばん右はじにたった鹿が細い声で歌いました。 「はんの木の  みどりみじんの葉の向(モゴ)さ  じゃらんじゃらんの  お日さん懸(カ)がる。」  その水晶の笛のような声に、嘉十は目をつぶってふるえあがりました。 右から二ばん目の鹿が、俄かに飛びあがって、それから、からだを波の ようにうねらせながら、みんなの間を縫ってはせ廻り、たびたび太陽の 方にあたまをさげました。そうしてじぶんのところに戻るや、ぴたりと とまって歌いました。 「お日さんを  せながさ しょえば はんの木も  くだげで光る  鉄のかんがみ。」 「はあ」と嘉十もこっちでその立派な太陽とはんのきを拝みました。右 から三ばん目の鹿は首をせわしくあげたりさげたりして歌いました。 「お日さんは  はんの木の向(モゴ)さ、降りでても  すすぎ、ぎんがぎが  まぶしまんぶし。」  ほんとうにすすきはみんな、まっ白な火のように燃えたのです。 「ぎんがぎかの  すすぎの中(ナガ)さ立ぢあがる  はんの木(ギ)のすねの  長(ナ)んがい、かげぼうし。」  五番目の鹿がひくく首を垂れて、もうつぶやくように歌い出していま した。 「ぎんがぎがの  すすぎの底の日暮れかだ  苔(コケ)の野はらを  蟻(アリ)こも行(イ)がず。」  このとき鹿はみな首を垂れていましたが、六番目がにわかに首をりん とあげて歌いました。 「ぎんがぎがの  すすぎの底でそっこりと  咲(サ)ぐうめばぢの  愛(エ)どしおえどし。」  鹿はそれからみんな、みじかく笛のように鳴いてはねあがり、はげし くはげしく廻りました。  北から冷たい風が来て、ひゅうっと鳴り、はんの木はほんとうに砕け た鉄の鏡のようにかゞやき、かちんかちんと葉と葉がすれあって、音を たてたようにさえおもわれ、すすきの穂までが鹿にまじって、一しょに ぐるぐるめぐっているように見えました。  嘉十はもうまったくじぶと鹿とのちがいを忘れて、 「ホウ、やれ、やれい」と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。  鹿は驚いて一度に竿(サオ)のように立ちあがり、それから、はやてに吹 かれた木の葉のように、からだを斜めにして逃げ出しました。銀のすす きの波をわけ、かゞやく夕陽の流れをみだして、はるかにはるかに遁(ニ) げて行き、そのとおったあとのすすきは、静かな湖の水脈(ミオ)のように、 いつまでもぎらぎら光って居りました。  そこで嘉十はちょっとにが笑いをしながら、泥のついて穴のあいた手 拭をひろってじぶんもまた西の方へ歩きはじめたのです。  それから、そうそう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなし をすきとおった秋の風から聞いたのです。 (大正十三年発行『注文の多い料理店』収録作品)