PDD図書館管理番号 0000.0000.0169.X0 新字新かなに変換している ( ) はひらがなのルビ <*99> は注釈がある 風の又三郎 宮沢賢治:作     九 月 一 日  どっどど どどうど どどうど どどう  青いくるみも吹きとばせ  すっぱいかりんも吹きとばせ  どっどど どどうど どどうど どどう  谷川の岸に小さな学校がありました。  教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけであとは一年から六年までみん なありました。運動場もテニスコートのくらいでしたがすぐうしろは栗(クリ)の木のあ るきれいな草の山でしたし運動場の隅(スミ)にはごぼごぼつめたい水を噴(フ)く岩穴も あったのです。  さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り 日光は運動場いっぱい でした。黒い雪袴(ユキバカマ)をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいっ て来て、まだほかに誰も来ていないのを見て 「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大悦(オオヨロコ)びで門 をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくり して棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはとうと う泣き出してしまいました。というわけは そのしんとした朝の教室のなかにどこか ら来たのか まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃん と座(スワ)っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机 だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり眼 (メ)をりんと張ってそっちの方をにらめていましたら、ちょうどそのとき川上から 「ちょうはあかぐり ちょうはあかぐり。」と高く叫ぶ声がしてそれからまるで大き な烏(カラス)のように嘉助(カスケ)が かばんをかゝえてわらって運動場へかけて来ました。 と思ったらすぐそのあとから佐太郎だの耕助だのどやどややってきました。 「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまえて云い ました。するとその子もわあと泣いてしまいました。おかしいとおもってみんながあ たりを見ると教室の中にあの赤毛のおかしな子がすましてしゃんとすわっているのが 目につきました。みんなはしんとなってしまいました。だんだんみんな女の子たちも 集まって来ましたが誰も何とも云えませんでした。  赤毛の子どもは一向(イッコウ)こわがる風(フウ)もなくやっぱりちゃんと座って、じっと 黒板を見ています。  すると六年生の一郎が来ました。一郎はまるでおとなのようにゆっくり大股(オオマタ) にやってきて、みんなを見て「何した。」とききました。みんなははじめてがやがや 声をたてゝその教室の中の変な子を指しました。一郎はしばらくそっちを見ていまし たがやがて鞄(カバン)をしっかりかゝえてさっさと窓の下へ行きました。  みんなもすっかり元気になってついて行きました。 「誰だ、時間にならなぃに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の 中へ顔をつき出して云いました。 「お天気のいゝ時教室さ入ってるづど先生にうんと叱(シカ)らえるぞ。」窓の下の耕助 が云いました。 「叱らえでもおら知らなぃよ。」嘉助が云いました。 「早ぐ出はって来(コ) 出はって来。」一郎が云いました。けれどもそのこどもはきょ ろきょろ室(ヘヤ)の中やみんなの方を見るばかりでやっばりちゃんとひざに手をおいて 腰掛(コシカケ)に座っていました。  ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこな鼠(ネズミ)いろのだぶだぶの 上着を着て白い半ずぼんをはいて、それに赤い革(カワ)の半靴(ハングツ)をはいていたの です。それに顔と云ったらまるで熟した苹果(リンゴ)のよう殊(コト)に眼はまん円(マル)で まっくろなのでした。一向(イッコウ)語(コトバ)が通じないようなので一郎も全く困ってし まいました。 「あいつは外国人だな。」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いま した。ところが五年生の嘉助がいきなり「あゝ 三年生さ入るのだ。」と叫びました ので「あゝそうだ。」と小さいこどもらは思いましたが一郎はだまってくびをまげま した。  変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けています。  そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうし ろの山の萱(カヤ)や栗の木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもは何 だかにやっとわらってすこしうごいたようでした。すると嘉助がすぐ叫びました。 「あゝわかった。あいつは風の又三郎(マタサブロウ)だぞ。」そうだっとみんなもおもっ たとき俄(ニワ)かにうしろの方で五郎が「わあ、痛ぃじゃあ。」と叫びました。みんな そっちへ振り向きますと五郎が耕助に足のゆびをふまれてまるで怒って耕助をなぐり つけていたのです。すると耕助も怒って「わあ、われ悪くてでひと撲(ハダ)ぃだなあ。」 と云ってまた五郎をなぐろうとしました。五郎はまるで顔中涙(ナミダ)だらけにして耕 助に組み付こうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押えてしまいま した。「わあい、喧嘩(ケンカ)するなったら、先生ぁちゃんと職員室に来てらぞ。」と 一郎が云いながらまた教室の方を見ましたら一郎は俄かにまるでぽかんとしてしまい ました。たったいままで教室にいたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなも まるでせっかく友達になった子うまが遠くへやられたよう、せっかく捕(ト)った山雀 (ヤマガラ)に遁(ニ)げられたように思いました。  風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた云わせうしろの山の萱をだんだん上 流の方へ青じろく波だてゝ行きました。 「わあうなだ喧嘩したんだがら又三郎居(イ)なぐなったな。」嘉助が怒って云いまし た。みんなもほんとうにそう思いました。五郎はじつに申し訳(ワケ)ないと思って足の 痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。 「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」 「二百十日で来たのだな。」「靴はいでだたぞ。」 「服も着ぃてだたぞ。」「髪赤くておがしやづだったな。」 「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かげ乗(ノ)せでったぞ。」二年生の子が云 いました。見るとその子の机の上に汚いは石かけが乗っていたのです。 「そうだ。ありゃ。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」 「そだなぃでぁ。あいづぁ休み前に嘉助石ぶっつけだのだな。」「わあい。そだなぃ でぁ。」と云っていたときこれはまた何という訳でしょう。先生が玄関から出て来た のです。先生はぴかぴか光る呼子(ヨビコ)を右手にもってもう集れの仕度をしているの でしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現(ゴンゲン)さまの 尾っぽ持ちのようにすまし込んで白いシャッポをかぶって先生についてすぱすぱとあ るいて来たのです。  みんなはしいんとなってしまいました。やっと一郎が、「先生お早うございます。」 と云いましたので、みんなもついて「先生お早うございます。」と云っただけでした。 「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼子をビルルと吹 きました。それはすぐ谷の向うの山へひゞいて、またピルルルと低く戻(モド)ってき ました。  すっかりやすみの前の通りだとみんなが思いながら六年生は一人 五年生は七人  四年生は六人 一二年生は十二人 組ごとに一列に縦にならびました。  二年は八人一年生は四人前へならえをしてならんだのです。するとその間あのおか しな子は何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌を噛(カ)むようにして じろじろみんなを見ながら先生のうしろに立っていたのです。すると先生は高田さん こっちへおはいりなさいと云いながら五年生の列のところへ連れて行って丈(タケ)を嘉 助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。みんなはふりかえっ てじっとそれを見ていました。先生はまた玄関の前に戻(モド)って  前へならえと号令をかけました。  みんなはもう一ぺん前へならえをしてすっかり列をつくりましたがじつはあの変な 子がどういう風にしているのか見たくてかわるがわるそっちをふりむいたり横眼でに らんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならえでもなんでも知ってるら しく平気で両腕(リョウウデ)を前へ出して指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらいにし ていたものですから嘉助は何だかせなかがかゆいかくすぐったいという風にもじもじ していました。「直れ。」先生がまた号令をかけました。「一年から順に前へおい。」  そこで一年生はあるき出しまもなく二年生もあるき出してみんなの前をぐるっと通っ て右手の下駄箱(ゲタバコ)のある入口に入って行きました。四年生があるき出すとさっ きの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときど きふりかえって見あとのものもじっと見ていたのです。  まもなくみんなははきものを下駄箱に入れて教室へ入って、ちょうど外へならんだ ときのように組ごとに一列に机に座りました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうし ろに座りました。ところがもう大さわぎです。 「わあ、おらの机さ石かけ入ってるぞ。」 「わあ、おらの机代ってるぞ。」 「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れて来たじゃあ。」 「わあい、さの、木ぺん貸せ、木ぺん貸せったら。」 「わぁがない。ひとの雑記帳とってって。」  そのとき先生が入って来ましたのでみんなもさわぎながらとにかく立ちあがり一郎 がいちばんうしろで「礼。」と云いました。  みんなはおじぎをする間はちょっとしんとなりましたがそれから又がやがやがやが や云いました。 「しずかに、みなさん。しずかにするのです。」先生が云いました。 「叱(シ)っ、悦治(エツジ)、やがましったら。嘉助ぇ、喜っこぅ。わあい。」と一郎が 一番うしろからあまりさわぐものを一人づつ叱りました。  みんなはしんとなりました。先生が云いました。「みなさん、長い夏のお休みは面 白かったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし林の中で鷹(タカ)にも負けないく らい高く叫んだりまた兄さんの草刈りについて上の野原へ行ったりしたでしょう。け れどももう昨日で休みは終りました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋は 一番からだこゝろもひきしまって勉強のできる時だといってあるのです。ですから、 みなさんも今日から又いっしょにしっかり勉強しましょう。それからこのお休みの間 にみなさんのお友達が一人ふえました。それはそこに居る高田さんです。その方のお 父さんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになっていられるのです。高 田さんはいままでは北海道の学校に居(オ)られたのですが今日からみなさんのお友達 になるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾いや魚とりに行くとき も高田さんをさそうようにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手 をあげてごらんなさい。」  すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢よく手をあげましたので、 ちょっと先生はわらいましたがすぐ、 「わかりましたね、ではよし。」と云いましたのでみんなは火の消えたように一ぺん に手をおろしました。  ところが嘉助がすぐ 「先生。」といってまた手をあげました。 「はい、」先生は嘉助を指さしました。 「高田さん名は何て云うべな。」「高田三郎さんです。」 「わあ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手を叩(タタ)いて机の 中で踊(オド)るようにしましたので、大きな子どもらはどっと笑いましたが下の子ど もらは何か怖(コワ)いという風にしいんとして三郎の方を見ていたのです。先生はまた 云いました。 「今日はみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ 出してください。私がいま集めに行きますから。」  みんなはばたばた鞄をあけたり風呂敷をといたりして通信簿と宿題を机の上に出し ました。  そして先生が一年生の方から順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっ としました。という訳はみんなのうしろのところにいつか一人の大人が立っていたの です。その人は白いだぶだぶの麻服(アサフク)を着て黒いてかてかした半巾(ハンケチ)をネク タイの代りに首に巻いて手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇(アオ)ぎながら少し 笑ってみんなを見おろしていたのです。さあみんなはだんだんしぃんとなってまるで 堅くなってしまいました。ところが先生は別にその人を気にかける風もなく順々に通 信簿を集めて三郎の席まで行きますと三郎は通信簿も宿題帖もない代りに両手をにぎ りこぶしにして二つ机の上にのせていたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、み んなのを集めてしまうとそれを両手でそろえながらまた教壇(キョウダン)に戻りました。 「では宿題帖はこの次の土曜日に直して渡しますから、今日持って来なかった人は、 あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんと勇治さんと良作さん とですね。では今日はこゝまでです。あしたからちゃんといつもの通りの仕度をして お出でなさい。それから四年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除をし ましょう。ではこゝまで。」  一郎が気を付けと云いみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人も扇を下にさげ て立ちました。 「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それか らずうっと下の組の子どもらは一目散(イチモクサン)に教室を飛び出しましたが四年生の子 どもらはまだもじもじしていました。  すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇を 下りてその人のところへ行きました。 「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。 「じきみんなとお友達になりますから、」先生も礼を返しながら云いました。 「何分どうかよろしくおねがいいたします。それでは。」  その人はまたていねいに礼をして眼で三郎に合図(アイズ)すると自分は玄関の方へま わって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を眼をりんとはってだまっ て昇降口(ショウコウグチ)から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下の方へ歩い て行きました。  運動場を出るときその子はこっちをふりむいて、じっと学校やみんなの方をにらむ ようにすると、またすたすた白服の大人について歩いて行きました。 「先生、あの人は高田さんのお父さんですか。」一郎が箒(ホウキ)をもちながら先生に ききました。 「そうです。」 「何の用で来たべ。」 「上の野原の入口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るように する為(タメ)だそうです。」 「どごらあだりだべな。」 「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから少し川下 へ寄った方なようです。」 「モリブデン何にするべな。」 「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」 「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が云いました。 「又三郎だなぃ 高田三郎だじゃ。」佐太郎が云いました。 「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤にしてがん張りました。 「嘉助、うなも残ってらば掃除してすけろ。」一郎が云いました。 「わぁい。やんたじゃ。今日四年生ど六年生だな。」  嘉助は大急ぎで教室をはねだして遁げてしまいました。  風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り雑巾(ゾウキン)を入れたバケツにも 小さな黒い波をたてました。     九 月 二 日  次の日一郎<*1>はあのおかしな子供が今日からほんとうに学校へ来て本を読んだり するかどうか早く見たいような気がしていつもより早く嘉助をさそいました。ところ が嘉助の方は一郎よりもっとそう考えていたと見えてとうにごはんもたべふろしきに 包んだ本ももって家の前へ出て一郎を待っていたのでした。二人は途中もいろいろそ の子のことを談(ハナシ)しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがも う七八人集まっていて棒かくしをしていましたがその子はまだ来ていませんでした。 また昨日のように教室の中に居るのかと思って中をのぞいて見ましたが教室の中はし いんとして誰も居ず黒板の上には昨日掃除のとき雑巾で拭いた痕(アト)が乾いてぼんや り白い縞(シマ)になっていました。 <*1> この日一日分は孝一を一郎に、地文の又三郎を三郎に変えている。 「昨日のやつまだ来てないな。」一郎が云いました。 「うん。」嘉助も云ってそこらを見まわしました。  一郎はそこで鉄棒の下へ行ってぢゃみ上りというやり方で無理やりに鉄棒の上にの ぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くとそこへ腰掛けて昨日三郎の行った方をじっ と見おろして待っていました。谷川はそっちの方へきらきら光ってながれて行きその 下の山の上の方では風も吹いているらしくときどき萱(カヤ)が白く波立っていました。 嘉助もやっぱり柱の下でじっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんな に永く待つこともありませんでした。それは突然三郎がその下手のみちから灰いろの 鞄(カバン)を右手にかゝえて走るようにして出て来たのです。 「来たぞ。」と一郎が思わず下に居る嘉助へ叫ぼうとしていますと早くも三郎はどて をぐるっとまわってどんどん正門を入って来ると 「お早う。」とはっきり云いました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが 一人も返事をしたものがありませんでした。それは返事をしないのではなくて、みん なは先生にはいつでも「お早うございます」というように習っていたのですがお互に 「お早う」なんて云ったことがなかったのに三郎にそう云われても一郎や嘉助はあん まりにわかで又勢がいゝのでとうとう臆(オク)せてしまって一郎も嘉助も口の中でお早 うというかわりにもにゃもにゃっと云ってしまったのでした。ところが三郎の方はべ つだんそれを苦にする風もなく二三歩又前へ進むとじっと立ってそのまっ黒な眼でぐ るっと運動場じゅうを見まわしました。そしてしばらく誰か遊ぶ相手がないかさがし ているようでした。けれどもみんなきろきろ三郎の方は見ていてももじもじしてやは り忙(セワ)しそうに棒かくしをしたり三郎の方へ行くものがありませんでした。三郎は ちょっと工合(グアイ)が悪いようにそこにつっ立っていましたが又運動場をもう一度見 まわしました。それからぜんたいこの運動場は何間あるかというように正面から玄関 まで大股(オオマタ)に歩数を数えながら歩きはじめました。一郎は急いで鉄棒をはねおり て嘉助とならんで息をこらしてそれを見ていました。  そのうち三郎は向うの玄関の前まで行ってしまうとこっちへ向いてしばらく諳算(ア ンザン)をするように少し首をまげて立っていました。  みんなはやはりきろきろそっちを見ています。三郎は少し困ったように両手をうし ろへ組むと向う側の土手の方へ職員室の前を通って歩きだしました。  その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさ あっと塵(チリ)があがりそれが玄関の前まで行くときりきりとまわって小さなつむじ風 になって黄いろな塵は瓶(ビン)をさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼ りました。すると嘉助が突然(トツゼン)高く云いました。「そうだ。やっぱりあいづ又 三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」「うん。」一郎はどうだかわ からないと思いながらもだまってそっちを見ていました。三郎はそんなことにはかま わず土手の方へやはりすたすた歩いて行きます。  そのとき先生がいつものように呼子をもって玄関を出て来たのです。 「お早うございます。」小さな子どもらはみんな集まりました。 「お早う。」先生はちらっと運動場を見まわしてから「ではならんで。」と云いなが らプルルッと笛を吹きました。  みんなは集まってきて昨日のとおりきちんとならびました。三郎も昨日云われた所 へちゃんと立っています。先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしな がら号令をだんだんかけてとうとうみんなは昇降口(ショウコウグチ)から教室へ入りました。 そして礼がすむと先生は「ではみなさん、今日から勉強をはじめましょう。みなさん はちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生と二年生の人はお習字のお手本と 硯(スズリ)と紙を出して、四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して五年生と六年生 の人は国語の本を出してください。」  さあ、するとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも三郎のすぐ 横の四年生の机の佐太郎がいきなり手をのばして二年生のかよの鉛筆をひらりととっ てしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは「うわあ兄(アイ)な木ぺん 取てわかんないな。」と云いながら取り返そうとしますと佐太郎が「わあこいつおれ のだなあ。」と云いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとは支那(シナ)人がおじぎ するときのように両手を袖(ソデ)へ入れ机へぴったり胸をくっつけました。するとか よは立って来て、 「兄な 兄なの木ぺんは昨日小屋で無くしてしまったけなあ。よこせったら。」と云 いながら一生けん命とり返そうとしましたがどうしても佐太郎は机にくっついた大き な蟹(カニ)の化石(カセキ)みたいになっているのでとうとうかよは立ったまゝ口を大きく まげて泣きだしそうになりました。すると三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困っ たようにしてこれを見ていましたがかよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見ると だまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の眼の前の机に置きまし た。すると佐太郎はにわかに元気になってむっくり起き上がりました。そして「呉(ク) れる?」と三郎にきゝました。三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟(カクゴ)し たように「うん。」と云いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの 鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。  先生は向うで一年生の子の硯に水をついでやったりしていましたし嘉助は三郎の前 ですから知りませんでしたが一郎はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。  そしてまるで何と云ったらいゝかわからない変な気持ちがして歯をきりきり云わせ ました。 「では二年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみましょう。 これを勘定(カンジョウ)してごらんなさい。」先生は黒板に25−12=<*2>と書きまし た。二年生のこどもはみんな一生けん命にそれを雑記帖にうつしました。かよも頭を 雑記帖へくっつけるようにしています。 「四年生の人はこれを置いて。」17×4=<*3>と書きました。四年生は佐太郎をは じめ喜蔵も甲助もみんなそれをうつしました。 <*2>,<*3> 活字では以下のように縦書き。 25 17     -12 X 4     ~~~ ~~~     「五年生の人は読本(トクホン)の(二字空白)頁の(二字空白)課をひらいて声をたてないで 読めるだけ読んでごらんなさい。わからない字は雑記帖へ拾って置くのです。」五年 生もみんな云われたとおりしはじめました。 「一郎さんは読本の(二字空白)頁をしらべてやはり知らない字を書き抜いてくださ い。」  それがすむと先生はまた教壇を下りて一年生と二年生の習字を一人一人見てあるき ました。  三郎は両手で本をちゃんと机の上へもって云われたところを息もつかずじっと読ん でいました。けれども雑記帖へは字を一つも書き抜いていませんでした。それはほん とうに知らない字が一つもないのかたった一本の鉛筆を佐太郎にやってしまったため かどっちともわかりませんでした。  そのうち先生は教壇へ戻(モド)って二年生と四年生の算術の計算をして見せてまた 新しい問題を出すと今度は五年生の生徒の雑記帖へ書いた知らない字を黒板へ書いて それにかなとわけをつけました。そして「では嘉助さんこゝを読んで。」と云いまし た。嘉助は二三度ひっかゝりながら先生に教えられて読みました。  三郎もだまって聞いていました。先生も本をとってじっと聞いていましたが十行ば かり読むと「そこまで、」と云ってこんどは先生が読みました。  そうして一まわり済むと先生はだんだんみんなの道具をしまわせました。それから 「ではこゝまで。」と云って教壇に立ちますと一郎がうしろで「気を付けい。」と云 いました。そして礼がすむとみんなは順に外へ出てこんどは外へならばずにみんな別 れ別れになって遊びました。  二時間目は一年生から六年生までみんな唱歌でした。そして先生がマンドリンを持っ て出て来てみんなはいままでに唱(ウタ)ったのを先生のマンドリンについて五つもうた いました。  三郎もみんな知っていてみんなどんどん歌いました。そしてこの時間は大へん早く たってしまいました。  三時間目になるとこんどは二年生と四年生が国語で五年生と六年生が数学でした。 先生はまた黒板へ問題を書いて五年生と六年生に計算させました。しばらくたって一 郎が答えを書いてしまうと、三郎の方をちょっと見ました。すると三郎はどこから出 したか小さな消し炭(ズミ)で雑記帖の上へがりがりと大きく運算していたのです。     九 月 四 日 、日 曜  次の朝、空はよく晴れて谷川はさらさら鳴りました。一郎は途中で嘉助と佐太郎と 悦郎をさそって、一緒(イッショ)に三郎のうちの方へ行きました。学校の少し下流で谷川 をわたって、それから岸で楊(ヤナギ)の枝をみんなで一本づつ折って青い皮をくるくる 剥(ハ)いで鞭(ムチ)を拵(コシラ)えて手でひゅうひゅう振りながら上の野原への路(ミチ)をだ んだんのぼって行きました。みんなは早くも登りながら息をはあはあしました。 「三郎ほんとにあそごの湧水(ワキミズ)まで来て待ぢでるべが。」 「待ぢでるんだ。又三郎偽(ウソ)こがなぃもな。」 「あゝ暑う、風吹げばいゝな。」 「どごがらだが風吹いでるぞ。」 「又三郎吹がせでらべも。」 「何だがお日さんぼやっとして来たな。」  空に少しばかりの白い雲が出ました。そしてもう大分のぼっていました。谷のみん なの家がずうっと下に見え一郎のうちの木小屋の屋根が白く光っています。  路が林の中に入り、しばらく路はじめじめして、あたりは見えなくなりました。そ して間もなくみんなは約束の湧水の近くに来ました。するとそこから、 「おうい。みんな来たかい。」と三郎の高く叫ぶ声がしました。  みんなはまるでせかせかと走ってのぼりました。向うの曲り角の処(トコロ)に三郎が 小さな唇をきっと結んだまゝ四人のかけ上って来るのを見ていました。  四人はやっと三郎の前まで来ました。けれどもあんまり息がはあはあしてすぐには 何も云(イ)えませんでした。嘉助などはあんまりもどかしいもんですから、空へ向い て、 「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐いてしまおうとしました。すると三郎は大きな声 で笑いました。 「ずいぶん待ったぞ。それに今日は雨が降るかもしれないそうだよ。」 「そだら早ぐ行ぐべすさ。おらまんつ水呑(ノ)んでぐ。」  四人は汗をふいて、しゃがんでまっ白な岩からごぼごぼ噴きだす冷たい水を何べん も掬(スク)ってのみました。 「ぼくのうちはこゝからすぐなんだ。ちょうどあの谷の上あたりなんだ。みんなで帰 りに寄ろうねえ。」 「うん。まんつ、野原さ行ぐべすさ。」  みんなが又あるきはじめたとき湧水は何かを知らせるようにぐうっと鳴り、そこら の樹(キ)もなんだかざあっと鳴ったようでした。  五人は林の裾(スソ)の藪(ヤブ)の間を行ったり岩かけの小さく崩(クズ)れる所を何べん も通ったりして、もう上の野原の入口に近くなりました。  みんなはそこまで来ると来た方からまた西の方をながめました。光ったり陰ったり 幾通りにも重なったたくさんの丘の向うに川に沿ったほんとうの野原が、ぼんやり碧 (アオ)くひろがっているのでした。 「ありゃ、あいづ川だぞ。」 「春日明神(カスガミョウジン)さんの帯のようだな。」三郎が云いました。 「何のようだど。」一郎がききました。 「春日明神さんの帯のようだ。」 「うな神さんの帯見だごとあるが。」 「ぼく北海道で見たよ。」  みんなは何のことだかわからずだまってしまいました。  ほんとうにそこはもう上の野原の入口で、きれいに刈られた草の中に一本の巨(オオ) きな栗(クリ)の木が立って、その幹は根もとの所がまっ黒に焦げて巨きな洞(ホラ)のよう になり、その枝には古い繩(ナワ)や、切れたわらじなどがつるしてありました。 「もう少し行ぐづどみんなして草刈ってるぞ。それがら馬の居るどごもあるぞ。」一 郎は云いながら先に立って刈った草のなかの一ぽんみちをぐんぐん歩きました。  三郎はその次に立って、 「こゝには熊居ないから馬をはなして置いてもいゝなあ。」と云って歩きました。  しばらく行くとみちばたの大きな楢(ナラ)の木の下に、繩で編んだ袋が投げ出してあっ て、沢山(タクサン)の草たばがあっちにもこっちにもころがっていました。  せなかに(二字空白)をしょった二匹の馬が、一郎を見て鼻をぷるぷる鳴らしました。 「兄な。居るが。兄な。来たぞ。」一郎は汗を拭(ヌグ)いながら叫びました。 「おゝい。あゝい。其処(ソコ)に居ろ。今行ぐぞ。」ずうっと向うの窪(クボ)みで、一 郎の兄さんの声がしました。  陽(ヒ)はぱっと明るくなり、兄さんがそっちの草の中から笑って出て来ました。 「善(ユ)ぐ来たな。みんなも連れで来たのが。善ぐ来た。戻りに馬こ連(ツレ)でてけろ な。今日ぁ、午(ヒル)まがらきっと曇る。俺(オラ)もう少し草集めて仕舞(シム)がらな、う なだ遊ばばあの土手の中さ入ってろ。まだ牧場の馬二十疋ばがり居るがらな。」  兄さんは向うへ行こうとして、振り向いて又云いました。 「土手がら外さ出はるなよ。迷ってしまうづど危なぃがらな。午まになったら又来る がら。」 「うん。土手の中に居るがら。」  そして一郎の兄さんは、行ってしまいました。  空にはうすい雲がすっかりかゝり、太陽は白い鏡のようになって、雲と反対に馳(ハ) せました。風が出て来てまだ刈っていない草は一面に波を立てます。一郎はさきにたっ て小さなみちをまっすぐに行くと、まもなくどてになりました。その土手の一とこち ぎれたところに二本の丸太の棒を横にわたしてありました。悦治がそれをくぐろうと すると、嘉助が、 「おらこったなもの外(ハズ)せだぞ。」と云いながら片っ方のはじをぬいて下におろ しましたのでみんなはそれをはね越えて中へ入りました。向うの少し小高いところに てかてか光る茶いろの馬が七疋(ヒキ)ばかり集まって、しっぽをゆるやかにばしゃばしゃ ふっているのです。 「この馬みんな千円以上するづもな。来年がらみんな競馬さも出はるのだづじゃい。」 一郎はそばへ行きながら云いました。  馬はみんないままでさびしくって仕様(シヨウ)なかったというように一郎だちの方へ 寄ってきました。  そして鼻づらをずうっとのばして何かほしそうにするのです。 「ははあ、塩をけろづのだな。」みんなは云いながら手を出して馬になめさせたりし ましたが、三郎だけは馬になれていないらしく気味(キミ)悪そうに手をポケットへ入れ てしまいました。 「わあ又三郎馬怖(オッカ)ながるじゃい。」と悦治が云いました。  すると三郎は、 「怖くなんかないやい。」と云いながら、すぐポケットの手を馬の鼻づらへのばしま したが馬が首をのばして舌をべろりと出すと、さっと顔いろを変えてすばやくまた手 をポケットへ入れてしまいました。 「わあい、又三郎馬怖ながるじゃい。」悦治が又云いました。すると三郎はすっかり 顔を赤くしてしばらくもじもじしていましたが、 「そんなら、みんなで競馬やるか。」と云いました。  競馬ってどうするのかとみんな思いました。  すると三郎は、 「ぼく競馬何べんも見たぞ。けれどもこの馬みんな鞍(クラ)がないから乗れないや。み んなで一疋づつ馬を追って、はじめに向うの、そら、あの巨(オオ)きな樹のところに着 いたものを一等にしよう。」 「そいづ面白(オモシエ)な。」嘉助が云いました。 「叱(シカ)らえるぞ。牧夫(ボクフ)に見っ附けらえでがら。」 「大丈夫だよ。競馬に出る馬なんか練習をしていないといけないんだい。」三郎が云 いました。 「よし、おらこの馬だぞ。」 「おら、この馬だぞ。」 「そんならぼくはこの馬でもいゝや。」  みんなは楊(ヤナギ)の枝や萱(カヤ)の穂で、しゅうと云いながら馬を軽く打ちました。  ところが馬はちっともびくともしませんでした。やはり下へ首を垂れて草をかいだ り首をのばして、そこらのけしきをもっとよく見るというようにしているのです。  一郎がそこで両手をぴしゃんと打ち合せて、だあ、と云いました。  すると俄(ニワ)かに、七疋ともまるでたてがみをそろえてかけ出したのです。 「うまぁい。」  嘉助ははね上って走りました。けれどもそれはどうも競馬にはならないのでした。  第一、馬はどこまでも顔をならべて走るのでしたし、それにそんなに競馬するくら い早く走るのでもなかったのです。それでもみんなは面白がって、だあだと云いなが ら一生けん命そのあとを追いました。  馬はすこし行くと立ちどまりそうになりました。みんなもすこしはあはあしました が、こらえてまた馬を追いました。するといつか馬はぐるっとさっきの小高いところ をまわって、さっき五人ではいって来たどての切れた所へ来たのです。 「あ、馬出はる、馬出はる。押えろ、押えろ。」一郎はまっ青になって叫びました。  じっさい馬はどての外へ出たらしいのでした。どんどん走って、もうさっきの丸太 の棒を越えそうになりました。  一郎はまるであわてて、 「どう、どう、どうどう。」と云いながら一生けん命走って行ってやっとそこへ着い てまるでころぶようにしながら手をひろげたときは、もう二疋は外へ出ていたのです。 「早ぐ来て押えろ。早ぐ来て。」一郎は息も切れるように叫びながら丸太棒(マルタンボウ) をもとのようにしました。  四人は走って行って急いで丸太をくぐって外へ出ますと、二疋の馬はもう走るでも なく、どての外に立って草を口で引っぱって抜くようにしています。 「そろそろど押えろよ。そろそろど。」と云いながら一郎は一ぴきのくつわについた 札のところをしっかり押えました。嘉助と三郎がもう一疋を押えようとそばへ寄りま すと、馬はまるで愕(オドロ)いたようにどてへ沿って一目散(イチモクサン)に南の方へ走って しまいました。 「兄(アイ)な、馬ぁ逃げる、馬ぁ逃げる。兄な。馬逃げる。」とうしろで一郎が一生け ん命叫んでいます。三郎と嘉助は一生けん命馬を追いました。  ところが、馬はもう今度こそほんとうに遁(ニ)げるつもりらしかったのです。まる で一丈ぐらいある草をわけて、高みになったり低くなったり、どこまでも走りました。  嘉助はもう足がしびれてしまって、どこをどう走っているのかわからなくなりまし た。  それから、まわりがまっ蒼(サオ)になって、ぐるぐる廻(マワ)り、とうとう深い草の中 に倒れてしまいました。馬の赤いたてがみと、あとを追って行く三郎の白いシャッポ が終りにちらっと見えました。  嘉助は仰向(アオム)けになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻り、 そのこちらを薄い鼠色の雲が、速く速く走っています。そしてカンカン鳴っています。  嘉助はやっと起き上って、せかせか息しながら馬の行った方に歩き出しました。草 の中には、今馬と三郎が通った痕(アト)らしく、かすかな路のようなものがありました。 嘉助は笑いました。そして、(ふん、なあに馬何処(ドコ)かで、こわくなってのっこ り立ってるさ。)と思いました。  そこで嘉助は、一生けん命それを跡(ツ)けて行きました。ところがその路のような ものは、まだ百歩も行かないうちに、おとこえしや、すてきに背の高い薊(アザミ)の中 で、二つにも三つにも分かれてしまって、どれがどれやら一向(イッコウ)わからなくなっ てしまいました。  嘉助は、 「おうい。」と叫びました。 「おう。」とどこかで三郎が叫んでいるようです。  思い切って、そのまん中のを進みました。けれどもそれも、時々断(キ)れたり、馬 の歩かないような急な所を横様(ヨコザマ)に過ぎたりするのでした。  空はたいへん暗く重くなり、まわりがぼうっと霞(カス)んで来ました。冷たい風が、 草を渡りはじめ、もう雲や霧が、切れ切れになって、眼の前をぐんぐん通り過ぎて行 きました。 (あゝ、こいつは悪くなって来た。みんな悪いことはこれから集(タガ)ってやって来 るのだ。)と嘉助は思いました。全くその通り、俄かに馬の通った痕は、草の中で無 くなってしまいました。 (あゝ、悪くなった、悪くなった。)嘉助は胸をどきどきさせました。  草がからだを曲げて、パチパチ云ったり、さらさら鳴ったりしました。霧が殊に滋 (シゲ)くなって、着物はすっかりしめってしまいました。  嘉助は咽喉(ノド)一杯叫びました。 「一郎、一郎、こっちさ来う。」  ところが何の返事も聞えません。黒板から降る白墨(ハクボク)の粉のような、暗い冷 たい霧の粒が、そこら一面踊りまわり、あたりが俄かにシインとして、陰気(インキ)に 陰気になりました。草からは、もう雫(シズク)の音がポタリポタリと聞えて来ます。  嘉助は、もう早く一郎たちの所へ戻ろうとして急いで引っ返しました。けれどもど うも、それは、前に来た所とは違っていたようでした。第一、薊があんまり沢山あり ましたし、それに草の底にさっき無かった岩かけが、度々(タビタビ)ころがっていまし た。そしてとうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなり眼の前に現れました。す すきがざわざわっと鳴り、向うの方は底知れずの谷のように、霧の中に消えているで はありませんか。  風が来ると、芒(ススキ)の穂は細い沢山の手を一ぱいのばして、忙(セワ)しく振って、 「あ、西さん、あ、東さん。あ、西さん。あ、南さん。あ、西さん。」なんて云って いる様(ヨウ)でした。  嘉助はあんまり見っともなかったので、目を瞑(ツブ)って横を向きました。そして 急いで引っ返しました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは沢 山の馬の蹄(ヒヅメ)の痕で出来上がっていたのです。嘉助は、夢中で、短い笑い声をあ げて、その道をぐんぐん歩きました。  けれども、たよりのないことは、みちのはゞが五寸ぐらいになったり、又三尺ぐら いに変ったり、おまけに何だかぐるっと廻っているように思われました。そして、と うとう、大きなてっぺんの焼けた栗の木の前まで来た時、ぼんやり幾(イク)つにも岐(ワ カ)れてしまいました。  其処(ソコ)は多分は、野馬の集まり場所であったでしょう、霧の中に円(マル)い広場の ように見えたのです。  嘉助はがっかりして、黒い道を又戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、 少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図(アイズ)をしてでも居るように、一面の草 が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。  空が光ってキインキインと鳴っています。それからすぐ眼の前の霧の中に、家の形 の大きな黒いものがあらわれました。嘉助はしばらく自分の眼を疑(ウタガ)って立ちど まっていまたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ま すと、それは冷たい大きな黒い岩でした。  空がくるくるくるっと白く揺(ユ)らぎ、草がバラッと一度に雫を払いました。 (間違って原の向う側へ下りれば、又三郎もおれも、もう死ぬばかりだ。)嘉助は、 半分思う様(ヨウ)に半分つぶやくようにしました。それから叫びました。 「一郎、一郎、居るが。一郎。」  又明るくなりました。草がみな一斉に悦(ヨロコ)びの息をします。 「伊佐戸(イサド)の町の、電気工夫の童(ワラス)ぁ、山男に手足ぃ縛(シバ)らえてたふうだ」 といつか誰かの話した言葉が、はっきり耳に聞えて来ます。  そして、黒い路が、俄(ニワ)かに消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしい んとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。  空が旗のようにぱたぱた光って飜(ヒルガ)えり、火花がパチパチパチッと燃えました。 嘉助はとうとう草の中に倒れてねむってしまいました。 *  そんなことはみんなどこかの遠いできごとのようでした。  もう、又三郎がすぐ眼の前に足を投げだしてだまって空を見あげているのです。い つかいつもの鼠(ネズミ)いろの上着の上にガラスのマントを着ているのです。それから 光るガラスの靴(クツ)をはいているのです。  又三郎の肩には栗の木の影(カゲ)が青く落ちています。又三郎の影はまた青く草に 落ちています。そして風がどんどんどんどん吹いているのです。又三郎は笑いもしな ければ物も云いません。たゞ小さな唇を強そうにきっと結んだまゝ黙ってそらを見て います。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラ ギラ光りました。 *  ふと嘉助は眼をひらきました。灰いろの霧が速く速く飛んでいます。  そして馬がすぐ眼の前にのっそりと立っていたのです。その眼は嘉助を怖(オソ)れて 横の方を向いていました。  嘉助ははね上って馬の名札を押えました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなっ た唇をきっと結んでこっちへ出てきました。  嘉助はぶるぶるふるえました。 「おうい。」霧の中から一郎の兄さんの声がしました。雷もごろごろ鳴っています。 「おゝい、嘉助。居るが。嘉助。」一郎の声もしました。嘉助はよろこんでとびあが りました。 「おゝい。居る、居る。一郎。おゝい。」  一郎の兄さんと一郎が、とつぜん、眼の前に立ちました。嘉助は俄(ニワ)かに泣き出 しました。 「探(サガ)したぞ。危ながったぞ。すっかりぬれだな。どう。」一郎の兄さんはなれ た手付きで馬の首を抱(ダ)いて、もってきたくつわをすばやく馬のくちにはめました。 「さあ、あべさ。」 「又三郎びっくりしたべぁ。」一郎が三郎に云いました。三郎はだまって、やっぱり きっと口を結んでうなずきました。  みんなは一郎の兄さんについて、緩(ユル)い傾斜を、二つ程昇り降りしました。それ から、黒い大きな路について、暫(シバラ)く歩きました。  稲光(イナビカリ)が二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼く匂(ニオイ)がし て、霧の中を煙がほっと流れています。  一郎の兄さんが叫びました。 「おじいさん。居だ、居だ。みんな居だ。」  おじいさんは霧の中に立っていて、 「あゝ心配した、心配した。あゝ好(ヨ)がった。おゝ嘉助。寒がべぁ、さあ入れ。」 と云いました。嘉助は一郎と同じように、やはりこのおじいさんの孫なようでした。  半分に焼けた大きな栗の木の根もとに、草で作った小さな囲(カコ)いがあって、チョ ロチョロ赤い火が燃えていました。  一郎の兄さんは馬を楢(ナラ)の木につなぎました。  馬もひひんと鳴いています。 「おゝむぞやな。な、何ぼが泣いだがな。そのわろは金山掘りのわろだな。さあさあ みんな、団子(ダンゴ)たべろ。食べろ。な。今こっちを焼ぐがらな。全体何処(ドコ)迄 (マデ)行ってだった。」 「笹長根(ササナガネ)の下(オ)り口だ。」と一郎の兄さんが答えました。 「危(アブナ)ぃがった。危ぃがった。向うさ降りだら馬も人もそれっ切りだったぞ。さ あ嘉助、団子喰べろ。このわろもたべろ。さあさあ、こいづも食べろ。」 「おじいさん。馬置いでくるが。」と一郎の兄さんが云いました。 「うんうん。牧夫来るどまだやがましがらな。したども、も少し待で。又すぐ晴れる。 あゝ心配した。俺(オラ)も虎(トラ)こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつ好(ヨ)がっ た。雨も晴れる。」 「今朝ほんとに天気好がったのにな。」 「うん。又好ぐなるさ。あ、雨漏(モ)って来たな。」  一郎の兄さんが出て行きました。天井(テンジョウ)がガサガサガサガサ云います。おじ いさんが笑いながらそれを見上げました。  兄さんが又はいって来ました。 「おじいさん。明るぐなった。雨ぁ霽(ハ)れだ。」 「うんうん、そうが。さあみんなよっく火にあだれ、おら又草刈るがらな。」  霧がふっと切れました。陽(ヒ)の光がさっと流れて入りました。その太陽は、少し 西の方に寄ってかゝり、幾片(イクキレ)かの蝋(ロウ)のような霧が、逃げおくれて仕方なし に光りました。  草からは雫がきらきら落ち、総(スベ)ての葉も茎も花も、今年の終りの陽(ヒ)の光を 吸っています。  はるかな西の碧(アオ)い野原は、今泣きやんだようにまぶしく笑い、向うの栗の木は 青い後光(ゴコウ)を放(ハナ)ちました。  みんなはもう疲れて一郎をさきに野原をおりました。湧水(ワキミズ)のところで三郎 はやっぱりだまって、きっと口を結んだまゝみんなに別れじぶんだけお父さんの小屋 の方へ帰って行きました。  帰りながら嘉助が云いました。 「あいづやっぱり風の神だぞ。風の神の子っ子だぞ。あそごさ二人して巣食ってるん だぞ。」 「そだなぃよ。」一郎が高く云いました。     九 月 五 日  次の日は朝のうちは雨でしたが、二時間目からだんだん明るくなって、三時間目の 終りの十分休みにはとうとうすっかりやみ、あちこちに削(ケズ)ったような青ぞらも できて、その下をまっ白な鱗雲(ウロコグモ)がどんどん東に走り、山の萱(カヤ)からも栗の 木からも残りの雲が湯気(ユゲ)のように立ちました。 「下(サガ)がったら葡萄蔓(ブドウヅル)とりに行がなぃが。」耕助が嘉助にそっと云い ました。 「行ぐ行ぐ。三郎も行がなぃが。」嘉助がさそいました。耕助は、 「わあい、あそご三郎さ教えるやなぃじゃ。」と云いましたが三郎は知らないで、 「行くよ。ぼくは北海道でもとったぞ。ぼくのお母さんは樽(タル)へ二っつ漬(ツ)けた よ。」と云いました。 「葡萄とりにおらも連れでがなぃが。」二年生の承吉も云いました。 「わがなぃじゃ。うなどさ教えるやなぃじゃ。おら去年な新らしいどご目附(メツ)た じゃ。」  みんなは学校の済むのが待ち遠しかったのでした。五時間目が終ると、一郎と嘉助 が佐太郎と耕助と悦治と三郎と六人で学校から上流(カミ)の方へ登って行きました。少 し行くと一けんの藁(ワラ)やねの家があって、その前に小さなたばこ畑がありました。 たばこの木はもう下の方の葉をつんであるので、その青い茎が林のようにきれいにな らんでいかにも面白そうでした。  すると三郎はいきなり、 「何だい、此(コ)の葉は。」と云いながら葉を一枚むしって一郎に見せました。する と一郎はびっくりして、 「わあ、又三郎、だばごの葉とるづど専売局(センバイキョク)にうんと叱(シカ)られるぞ。わ あ、又三郎何(ナ)してとった。」と少し顔いろを悪くして云いました。みんなも口々 に云いました。 「わあい。専売局でぁ。この葉一枚づつ数えで帖面(チョウメン)さつけでるだ。おら知ら なぃぞ。」 「おらも知らなぃぞ。」 「おらも知らなぃぞ。」みんな口をそろえてはやしました。  すると三郎は顔をまっ赤にして、しばらくそれを振り廻(マワ)して何か云おうと考え ていましたが、 「おら知らないでとったんだい。」と怒ったように云いました。  みんなは怖(コワ)そうに、誰(ダレ)か見ていないかというように向うの家を見ました。 たばこばたけからもうもうとあがる湯気の向うで、その家はしいんとして誰も居たよ うではありませんでした。 「あの家、一年生の小助の家だじゃい。」嘉助が少しなだめるように云いました。と ころが耕助ははじめからじぶんの見附けた葡萄藪(ヤブ)へ、三郎だのみんなあんまり 来て面白くなかったもんですから、意地悪くもいちど三郎に云いました。 「わあ三郎、なんぼ知らなぃたってわがなぃんじゃ。わあい、三郎。もどの通りにし てまゆんだであ。」  三郎は困ったようにしてまたしばらくだまっていましたが、 「そんなら、おいら此処(ココ)へ置いてくからいゝや。」と云いながらさっきの木の根 もとへそっとその葉を置きました。すると一郎は、 「早くあべ。」と云って先にたってあるきだしましたのでみんなもついて行きました が、耕助だけはまだ残って、 「ほう、おら知らなぃぞ。ありゃ、又三郎の置いた葉、あすごにあるじゃい。」なん て云っているのでしたがみんながどんどん歩きだしたので耕助もやっとついて来まし た。  みんなは萱(カヤ)の間の、小さなみちを山の方へ少しのぼりますと、その南側に向い た窪(クボ)みに栗の木があちこち立って、下には葡萄がもくもくした大きな藪になっ ていました。 「こゞおれ見っ附(ケ)だのだがら、みんなあまりとるやなぃぞ。」耕助が云いました。  すると三郎は、 「おいら栗の方をとるんだい。」といって石を拾って一つの枝へ投げました。青いい がが一つ落ちました。  三郎はそれを棒きれで剥(ム)いて、まだ白い栗を二つとりました。みんなは葡萄の 方へ一生けん命でした。  そのうち耕助がも一つの藪へ行こうと一本の栗の木の下を通りますと、いきなり上 から雫(シズク)が一ぺんにざっと落ちてきましたので、耕助は肩からせなかから水へ入っ たようになりました。耕助は愕(オドロ)いて口をあいて上を見ましたら、いつか木の上 に三郎がのぼっていて、なんだか少しわらいながらじぶんも袖ぐちで顔をふいていた のです。 「わあい、又三郎何する。」耕助はうらめしそうに木を見あげました。 「風が吹いたんだい。」三郎は上でくっくっわらいながら云いました。  耕助は樹(キ)の下をはなれてまた別の藪で葡萄をとりはじめました。もう耕助はじ ぶんでも持てないくらいあちこちへためていて、口も紫(ムラサキ)いろになってまるで大 きく見えました。 「さあ、この位持って戻らなぃが。」一郎が云いました。 「おら、もっと取ってぐじゃ。」耕助が云いました。  そのとき耕助はまた頭からつめたい雫をざあっとかぶりました。耕助はまたびっく りしたように木を見上げましたが今度は三郎は樹の上には居ませんでした。  けれども樹の向う側に三郎の鼠(ネズミ)いろのひじも見えていましたし、くっくっ笑 う声もしましたから、耕助はもうすっかり怒ってしまいました。 「わあい又三郎、まだひとさ水掛げだな。」 「風が吹いたんだい。」  みんなはどっと笑いました。 「わあい又三郎、うなそごで木ゆすったけあなあ。」  みんなはどっとまた笑いました。  すると耕助はうらめしそうにだまって三郎の顔を見ながら、 「うあい又三郎、汝(ウナ)などぁ、世界になくてもいいなあ。」  すると三郎はずるそうに笑いました。 「やあ耕助君、失敬(シッケイ)したねえ。」  耕助は何かもっと別のことを云おうと思いましたが、あんまり怒ってしまって考え 出すことが出来ませんでしたので又同じように叫びました。 「うあい、うあいだ、又三郎、うなみだぃな風など世界中になくてもいゝなあ、うわ あい。」 「失敬したよ、だってあんまりきみもぼくへ意地悪をするもんだから。」三郎は少し 眼をパチパチさせて気の毒そうに云いました。  けれども耕助のいかりは仲々解けませんでした。そして三度同じことをくりかえし たのです。 「うわい、又三郎、風などぁ世界中に無くてもいいなあ、うわい。」  すると、三郎は少し面白くなった様(ヨウ)で、またくっくっ笑いだしてたずねました。 「世界中に無くってもいゝってどう云うんだい。いゝと箇條(カジョウ)をたてゝいって ごらん。そら。」三郎は先生みたいな顔つきをして指を一本だしました。  耕助は試験の様だしつまらないことになったと思って大へん口惜(クヤ)しかったので すが仕方なくしばらく考えてから云いました。 「汝(ウナ)など悪戯(イタズラ)ばりさな、傘(カサ)ぶっ壊(カ)したり。」 「それからそれから。」三郎は面白そうに一足進んで云いました。 「それがら樹折ったり転覆(オッケァ)したりさな。」 「それから、それからどうだい。」 「家もぶっ壊さな。」 「それから、それから、あとはどうだい。」 「あかしも消さな。」 「それからあとは? それからあとは? どうだい。」 「シャップもとばさな。」 「それから? それからあとは? あとはどうだい。」 「笠(カサ)もとばさな。」 「それからそれから。」 「それがら、ラ、ラ、電信ばしらも倒さな。」 「それから? それから? それから?」 「それがら屋根もとばさな。」 「アアハハハ屋根は家のうちだい。どうだいまだあるかい。それから、それから?」 「それだがら、ララ、それだがらラムプも消さな。」 「アアハハハハ、ラムプはあかしのうちだい。けれどそれだけかい。え、おいそれか ら? それからそれから。」  耕助はつまってしまいました。大抵(タイテイ)もう云ってしまったのですから、いくら 考えてももう出ませんでした。  三郎はいよいよ面白そうに指を一本立てながら、 「それから? それから? えゝ? それから?」と云うのでした。  耕助は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。 「風車もぶっ壊さな。」  すると三郎はこんどこそまるで飛び上がって笑ってしまいました。みんなも笑いま した。笑って笑って笑いました。  三郎はやっと笑うのをやめて云いました。 「そらごらん、とうとう風車などを云っちゃったろう。風車なら風を悪く思っちゃい ないんだよ。勿論(モチロン)時々こわすこともあるけれども、廻してやる時の方がずっと 多いんだ。風車ならちっとも風を悪く思っていないんだ。それに第一お前のさっきか らの数えようはあんまりおかしいや。ララ、ララ、ばかりでいたんだろう。おしまい にとうとう風車なんか数えちゃった。あゝおかしい。」  三郎は又泪(ナミダ)の出るほど笑いました。  耕助もさっきからあんまり困ったために怒っていたのもだんだん忘れて来ました。 そしてつい三郎と一しょに笑い出してしまったのです。すると三郎もすっかりきげん を直して、 「耕助君、いたずらをして済まなかったよ。」と云いました。 「さあそれでぁ行ぐべな。」と一郎は云いながら三郎にぶどうを五ふさばかりくれま した。  三郎は白い栗をみんなに二つづつ分けました。そしてみんなは下のみちまでいっしょ に下りて、あとはめいめいのうちへ帰ったのです。     九 月 七 日  次の朝は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。 ところが今日も二時間目ころからだんだん晴れて間もなく空はまっ青になり、日はか んかん照って、お午(ヒル)になって一、二年が下ってしまうとまるで夏のように暑くなっ てしまいました。  ひるすぎは先生もたびたび教壇で汗を拭(フ)き、四年生の習字も五年生六年生の図 画も、まるでむし暑くて、書きながらうとうとするのでした。  授業が済むとみんなはすぐ川下の方へそろって出掛けました。嘉助が、 「又三郎、水泳ぎに行がなぃが。小さいやづど今ころみんな行ってるぞ。」と云いま したので三郎もついて行きました。  そこはこの前上の野原へ行ったところよりもも少し下流で、右の方からも一つの谷 川がはいって来て、少し広い河原(カワラ)になり、すぐ下流は巨(オオ)きなさいかちの樹 の生えた崖(ガケ)になっているのでした。 「おゝい。」とさきに来ているこどもらがはだかで両手をあげて叫びました。一郎や みんなは、河原のねむの木の間をまるで徒競争(トキョウソウ)のように走って、いきなりき ものをぬぐとすぐどぶんどぶんと水に飛び込んで両足をかわるがわる曲げて、だぁん だぁんと水をたゝくようにしながら斜(ナナ)めにならんで向う岸へ泳ぎはじめました。 前に居たこどもらもあとから追い付いて泳ぎはじめました。  三郎もきものをぬいでみんなのあとから泳ぎはじめましたが、途中で声をあげてわ らいました。  すると向う岸についた一郎が、髪をあざらしのようにして唇(クチビル)を紫にしてわ くわくふるえながら、 「わあ又三郎、何(ナ)してわらった。」と云いました。  三郎はやっぱりふるえながら水からあがって、 「この川冷たいなあ。」と云いました。 「又三郎何してわらった?」一郎はまたききました。  三郎は、 「おまえたちの泳ぎ方はおかしいや。なぜ足をだぶだぶ鳴らすんだい。」と云いなが らまた笑いました。 「うわあい。」と一郎は云いましたが、何だかきまりが悪くなったように、 「石取りさなぃが。」と云いながら白い円い石をひろいました。 「するする。」こどもらがみんな叫びました。 「おれそれでぁあの木の上がら落すがらな。」と一郎は云いながら崖の中ごろから出 ているさいかちの木へするする昇って行きました。そして、 「さあ落すぞ。一二三。」と云いながらその白い石をどぶーん、と淵(フチ)へ落しまし た。  みんなはわれ勝に岸からまっさかさまに水にとび込んで青白いらっこのような形を して底へ潜って、その石をとろうとしました。  けれどもみんな底まで行かないに息がつまって浮かびだして来て、かわるがわるふ うとそこらへ霧をふきました。  三郎はじっとみんなのするのを見ていましたが、みんなが浮かんできてからじぶん もどぶんとはいって行きました。けれどもやっぱり底まで届かずに浮いてきたのでみ んなはどっと笑いました。そのとき向うの河原のねむの木のところを大人が四人、肌 (ハダ)ぬぎになったり、網をもったりしてこっちへ来るのでした。  すると一郎は木の上でまるで声をひくくしてみんなに叫びました。 「おゝ、発破(ハッパ)だぞ。知らないふりしてろ。石とりやめで早ぐみんな下流(シモ)さ さがれ。」そこでみんなは、なるべくそっちを見ないふりをしながら、いっしょに下 流の方へ泳ぎました。一郎は、木の上で手を額にあてて、もう一度よく見きわめてか ら、どぶんと逆(サカサ)まに淵へ飛びこみました。それから水を潜(クグ)って、一ぺんに みんなへ追いたのです。  みんなは、淵の下流の、瀬になったところに立ちました。 「知らないふりして遊んでろ。みんな。」一郎が云いました。みんなは、砥石(トイシ) をひろったり、鶺鴒(セキレイ)を追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかない ふりをしていました。  すると向うの淵の岸では、下流の坑夫をしていた庄助が、しばらくあちこち見まわ してから、いきなりあぐらをかいて砂利(ジャリ)の上へ坐(スワ)ってしまいました。それ からゆっくり腰からたばこ入れをとって、きせるをくわえてぱくぱく煙をふきだしま した。奇体(キタイ)だと思っていましたら、また腹かけから何か出しました。 「発破だぞ、発破だぞ。」とみんな叫びました。  一郎は手をふってそれをとめました。庄助は、きせるの火をしずかにそれへうつし ました。うしろに居た一人はすぐ水に入って網をかまえました。庄助はまるで落ちつ いて、立って一あし水に入るとすぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ 投げこみました。するとまもなく、ぼぉというようなひどい音がして水はむくっと盛 りあがり、それからしばらくそこらあたりがきぃんと鳴りました。  向うの大人たちはみんな水へ入りました。 「さあ、流れて来るぞ。みんなとれ。」と一郎が云いました。まもなく耕助は小指ぐ らいの茶いろなかじかが横向きになって流れて来たのをつかみましたし、そのうしろ では嘉助が、まるで瓜(ウリ)をすするときのような声を出しました。それは六寸ぐらい ある鮒(フナ)をとって、顔をまっ赤にしてよろこんでいたのです。それからみんなとっ て、わあわあよろこびました。 「だまってろ、だまってろ。」一郎が云いました。  そのとき向うの白い河原を肌ぬぎになったり、シャツだけ着たりした大人が五六人 かけて来ました。そのうしろからはちょうど活動写真のように、一人の網シャツを着 た人が、はだか馬に乗ってまっしぐらに走って来ました。みんな発破の音を聞いて見 に来たのです。  庄助はしばらく腕を組んでみんなのとるのを見ていましたが、 「さっぱり居なぃな。」と云いました。すると三郎がいつの間にか庄助のそばへ行っ ていました。そして中位の鮒を二疋、 「魚返すよ。」といって河原へ投げるように置きました。すると庄助が、 「何だいこの童(ワラス)ぁ、きたないやづだな。」と云いながらじろじろ三郎を見まし た。  三郎はだまってこっちへ帰ってきました。  庄助は変な顔をしてみています。みんなはどっとわらいました。  庄助はだまってまた上流(カミ)へ歩きだし、ほかのおとなたちもついて行きました。 網シャツの人は馬に乗って、またかけて行きました。耕助が泳いで行って三郎の置い て来た魚を持ってきました。みんなそこでまたわらいました。 「発破かけだら、雑魚(ザコ)撒(マ)かせ。」嘉助が河原の砂っぱの上で、ぴょんぴょん はねながら高く叫びました。  みんなはとった魚を石で囲んで、小さな生洲(イケス)をこしらえて、生き返っても、 もう遁(ニ)げて行かないようにして、また上流のさいかちの樹へのぼりはじめました。  ほんとうに暑くなって、ねむの木もまるで夏のようにぐったり見えましたし、空も まるで底なしの淵のようになりました。  そのころ誰かが、 「あ、生洲、打壊(ブッコワ)すとこだぞ。」と叫びました。見ると一人の変に鼻の尖(トガ) った、洋服を着てわらじをはた人が、手にはステッキみたいなものをもって、みんな の魚をぐちゃぐちゃ掻(カ)きまわしているのでした。  その男はこっちへびちゃびちゃ岸をあるいて来ました。 「あ、あいづ、専売局だぞ。専売局だぞ。」佐太郎が云いました。 「又三郎、うなのとった煙草(タバコ)の葉めっけたんだで、うな、連れでぐさ来たぞ。」 嘉助が云いました。 「何だい。こわくないや。」三郎はきっと口をかんで云いました。 「みんな又三郎のごと囲(カコ)んでろ、囲んでろ。」と一郎が云いました。  そこでみんなは三郎をさいかちの樹のいちばん中の枝に置いて、まわりの枝にすっ かり腰かけました。  その男はこっちへびちゃびちゃ岸をあるいて来ました。 「来た来た、来た来た。来たっ。」とみんなは息をこらしました。  ところがその男は、別に三郎をつかまえる風でもなく、みんなの前を通りこして、 それから淵のすぐ上流の浅瀬をわたろうとしました。それもすぐに河をわたるでもな く、いかにもわらじや脚絆(キャハン)の汚くなったのをそのまゝ洗うというふうに、もう 何べんも行ったり来たりするもんですからみんなはだんだん怖くなくなりましたが、 その代り気持ちが悪くなってきました。  そこでとうとう一郎が云いました。 「お、おれ先に叫ぶから、みんなあとから一二三で叫ぶこだ。いいか。  あんまり川を濁(ニゴ)すなよ、  いつでも先生(センセ)云うでなぃか、一、二ぃ、三。」 「あんまり川を濁すなよ、  いつでも先生云うでなぃか。」  その人はびっくりしてこっちを見ましたけれども、何を云ったのかよくわからない というようすでした。そこでみんなはまた云いました。 「あんまり川を濁すなよ、  いつでも先生、云うでなぃか。」  鼻の尖った人はすぱすぱと、煙草を吸うときのような口つきで云いました。 「この水呑(ノ)むのか、ここらでは。」 「あんまり川をにごすなよ、  いつでも先生云うでなぃか。」  鼻の尖った人は少し困ったようにして、また云いました。 「川をあるいてわるいのか。」 「あんまり川をにごすなよ、  いつでも先生云うでなぃか。」  その人はあわてたのをごまかすように、わざとゆっくり川をわたって、それからア ルプスの探検みたいな姿勢をとりながら、青い粘土と赤砂利の崖をななめにのぼって、 崖の上のたばこ畠へはいってしまいました。  すると三郎は、 「何だい、ぼくを連れにきたんじゃないや。」と云いながらまっさきにどぶんと淵へ とび込みました。  みんなも何だか、その男にも三郎にも気の毒なようなおかしながらんとした気持ち になりながら、一人づつ木からはね下りて、河原に泳ぎついて、魚を手拭(テヌグイ)に つつんだり手にもったりして家(ウチ)に帰りました。     九 月 八 日  次の朝、授業の前みんなが運動場で鉄棒にぶら下ったり、棒かくしをしたりしてい ますと、少し遅れて佐太郎が何かを入れた笊(ザル)をそっと抱えてやって来ました。 「何だ何だ。何だ。」とすぐみんな走って行ってのぞき込みました。  すると佐太郎は袖(ソデ)でそれをかくすようにして、急いで学校の裏の岩穴のこと ろへ行きました。みんなはいよいよあとを追って行きました。  一郎がそれをのぞくと、思わず顔いろを変えました。  それは魚の毒もみにつかう山椒(サンショ)の粉で、それを使うと発破(ハッパ)と同じよう に巡査(ジュンサ)に押えられるのでした。ところが佐太郎はそれを岩穴の横の萱(カヤ)の 中へかくして、知らない顔をして運動場へ帰りました。  そこでみんなはひそひそ時間になるまでひそひそその話ばかりしていました。  その日も十時ごろからやっぱり昨日のように暑くなりました。みんなはもう授業の 済むのばかり待っていました。  二時になって五時間目が終わると、もうみんな一目散(イチモクサン)に飛びだしました。 佐太郎も又笊をそっと袖でかくして、耕助だのみんなに囲(カコ)まれて、河原へ行きま した。三郎は嘉助と行きました。みんなは町の祭のときの瓦斯<ガス>のような匂(ニオイ) の、むっとするむねの河原を急いで抜けて、いつものさいかち淵に着きました。すっ かり夏のような立派な雲の峰が東でむくむく盛りあがり、さいかちの木は青く光って 見えました。  みんな急いで着物をぬいで淵の岸に立つと、佐太郎が一郎の顔を見ながら云いまし た。 「ちゃんと一列にならべ。いいか、魚浮いて来たら泳いで行ってとれ。とった位与(ヤ) るぞ。いいか。」  小さなこどもらは、よろこんで顔を赤くして、押しあったりしながらぞろっと淵を 囲みました。  ぺ吉だの三四人はもう泳いで、さいかちの木の下まで行って待っていました。  佐太郎が大威張(オオイバ)りで、上流(カミ)の瀬(セ)に行って笊をじゃぶじゃぶ水で洗い ました。  みんなはしぃんとして、水をみつめて立っていました。  三郎は水を見ないで向うの雲の峰の上を通る黒い鳥を見ていました。一郎も河原に 坐って石をこちこち叩(タタ)いていました。  ところが、それからよほどたっても魚は浮いて来ませんでした。  佐太郎は大へんまじめな顔で、きちんと立って水を見ていました。昨日発破をかけ たときなら、もう十疋もとっていたんだとみんなは思いました。またずいぶんしばら くみんなはしぃんとして待ちました。けれどもやっぱり魚は一ぴきも浮いて来ません でした。 「さっぱり魚、浮かばなぃな。」耕助が叫びました。佐太郎はびくっとしましたけれ ども、まだ一しんに水を見ていました。 「魚さっぱり浮かばないな。」ぺ吉がまた向うの木の下で云いました。するともう、 みんなはがやがやと云い出して、みんな水に飛び込んでしまいました。  佐太郎はしばらくきまり悪そうに、しゃがんで水を見ていましたけれど、とうとう 立って、 「鬼っこしないか。」と云いました。 「する、する。」みんなは叫んで、じゃんけんをするために、水の中から手を出しま した。泳いでいたものは、急いでせいの立つところまで行って手を出しました。  一郎も河原から来て手を出しました。そして一郎ははじめに、昨日あの変な鼻の尖っ た人の上(ノボ)って行った崖の下の、青いぬるぬるした粘土のところを【根っこ】に きめました。そこに取りついていれば、鬼は押さえることができないというのでした。 それから、【はさみ無しの一人まけかち】でじゃんけんをしました。  ところが悦治は、ひとり【はさみ】を出したので、みんなにうんとはやされたほか に鬼になりました。悦治は唇を紫いろにして河原を走って、喜作を押さえたので鬼は 二人になりました。それからみんなは、砂っぱの上や淵を、あっちへ行ったりこっち へ来たり、押さえたり押さえられたり、何べんも【鬼っこ】をしました。  しまいにとうとう三郎一人が鬼になりました。三郎はまもなく吉郎(キチロウ)をつかま えました。みんなはさいかちの木の下に居てそれを見ていました。すると三郎が、 「吉郎君、きみは上流から追って来るんだよ。いゝか。」と云いながら、じぶんはだ まって立って見ていました。  吉郎は口をあいて手をひろげて、上流から粘土の上を追って来ました。  みんなは淵へ飛び込む仕度をしました。一郎は楊(ヤナギ)の木にのぼりました。その とき吉郎が、あの上流の粘土が足についていたために、みんなの前ですべってころん でしまいました。  みんなは、わあわあ叫んで、吉郎をはねこえたり、水に入ったりして、上流の青い 粘土の根に上ってしまいました。 「又三郎、来(コ)。」嘉助は立って口を大きくあいて、手をひろげて三郎をばかにし ました。すると三郎はさっきからよっぽど怒っていたと見えて、 「ようし、見ていろよ。」と云いながら本気になって、ざぶんと水に飛び込んで、一 生けん命、そっちの方へ泳いで行きました。  三郎の髪の毛が赤くてばしゃばしゃしているのに、あんまり永く水につかって唇も すこし紫いろなので、子どもらはすっかり恐がってしまいました。  第一、その粘土のところはせまくて、みんながはいれなかったのに、それに大へん つるつるすべる坂になっていましたから、下の方の四五人などは上の人につかまるよ うにして、やっと川へすべり落ちるのをふせいでいたのでした。一郎だけが、いちば ん上で落ちついて、さあみんな、とか何とか相談らしいことをはじめました。みんな もそこで頭をあつめて聞いています。三郎はぼちゃぼちゃ、もう近くまで行きました。  みんなはひそひそはなしています。すると三郎は、いきなり両手でみんなへ水をか け出しました。みんなが、ばたばた防いでいましたら、だんだん粘土がすべって来て、 なんだかすこうし下へずれたようになりました。  三郎はよろこんで、いよいよ水をはねとばしました。  すると、みんなはぼちゃんぼちゃんと一度にすべって落ちました。三郎はそれを片っ ぱしからつかまえました。一郎もつかまりました。嘉助がひとり、上をまわって泳い で遁(ニ)げましたから、三郎はすぐに追い付いて押さえたほかに、腕をつかんで四五 へんぐるぐる引っぱりまわしました。嘉助は水を呑(ノ)んだと見えて、霧をふいてご ぼごぼむせて、 「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と云いました。小さな子どもらは みんな砂利(ジャリ)に上ってしまいました。  三郎はひとりさいかちの樹の下に立ちました。  ところが、そのときはもうそらがいっぱいの黒い雲で、楊も変に白っぽくなり、山 の草はしんしんとくらくなり、それは何とも云われない恐ろしい景色にかわっていま した。  そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろと雷が鳴り出しました。と思 うと、まるで山つなみのような音がして、一ぺんに夕立がやって来ました。風までひゅ うひゅう吹きだしました。  淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなってし まいました。  みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ遁げこみました。すると三郎も 何だかはじめて怖くなったと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいってみ んなの方へ泳ぎだしました。  すると、誰ともなく、  「雨はざっこざっこ雨三郎、   風はどっこどっこ又三郎。」 と叫んだものがありました。  みんなもすぐ声をそろえて叫びました。  「雨はざっこざっこ雨三郎、   風はどっこどっこ又三郎。」  三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるようにして淵からとびあがって、 一目散にみんなのところに走って来て、がたがたふるえながら、 「いま叫んだのはおまえらだちかい。」とききました。 「そでない、そでない。」みんな一しょに叫びました。  ぺ吉がまた一人出て来て、 「そでない。」と云いました。  三郎は気味悪そうに川のほうを見ていましたが、色のあせた唇を、いつものように きっと噛(カ)んで、「何だい。」と云いましたが、からだはやはりがくがくふるえて いました。  そしてみんなは、雨のはれ間を待って、めいめいのうちへ帰ったのです。     九 月 十 二 日 、第 十 二 日  どっどど どどうど どどうど どどう  青いくるみも吹きとばせ  すっぱいかりんも吹きとばせ  どっどど どどうど どどうど どどう  どっどど どどうど どどうど どどう  先頃、三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中で又きいたのです。  びっくりして跳(ハ)ね起きて見ると、外ではほんとうにひどく風が吹いて、林はま るで咆(ホ)えるよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが、障子(ショウジ)や棚(タナ)の 上の提灯(チョウチン)箱や、家中いっぱいでした。一郎はすばやく帯(オビ)をして、そして 下駄(ゲタ)をはいて土間(ドマ)を下り、馬屋の前を通って潜(クグ)りをあけましたら、 風がつめたい雨の粒と一緒(イッショ)にどっと入って来ました。  馬屋のうしろの方で何か戸がばたっと倒れ、馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。  一郎は風が胸の底まで滲(シ)み込んだように思ってはあと息を強く吐きました。そ して外へかけだしました。  外はもうよほど明るく、土はぬれて居りました。家の前の栗(クリ)の木の列は変に青 く白く見えて、それがまるで風と雨とで今洗濯(センタク)をするとでも云う様に、烈(ハゲ) しくもまれていました。  青い葉も幾枚(イクマイ)も吹き飛ばされ、ちぎれた青い栗のいがは黒い地面にたくさん 落ちていました。空では雲がけわしい灰色に光り、どんどんどんどん北の方へ吹きと ばされていました。  遠くの方の林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっと聞え たりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をもっ て行かれそうになりながら、だまってその音をきゝすまし、じっと空を見上げました。  すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれども又じっとその鳴って 吠(ホ)えてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどかとなってく るのでした。  昨日まで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風が、今朝夜あけ方俄(ニワ) かに一斉に斯(コ)う動き出して、どんどんどんどんタスカロラ海溝(カイコウ)の北のはし をめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあとなって、 自分までが一緒に空を翔(カ)けて行くような気持ちになって、大急ぎでうちの中へは いると胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました。 「あゝひで風だ。今日は煙草(タバコ)も粟もすっかりやらえる。」と一郎のおじいさん が潜(クグ)りのところに立って、じっと空を見ています。一郎は急いで井戸からバケ ツに水を一ぱい汲(ク)んで台所をぐんぐん拭きました。  それから金(カナ)だらいを出して顔をぶるぶる洗うと、戸棚(トダナ)から冷たいごはん と味噌(ミソ)をだして、まるで夢中でざくざく喰べました。 「一郎、いまお汁(ツケ)できるから少し待ってだらよ。何して今朝そったに早く学校へ 行がなぃやなぃがべ。」  お母さんは馬にやる(不詳)を煮るかまどに木をいれながらききました。 「うん。又三郎が飛んでったかも知れなぃもや。」 「又三郎って何だてや。鳥にだてが。」 「うん。又三郎って云うやづよ。」一郎は急いでごはんをしまうと、椀(ワン)をこちこ ち洗って、それから台所の釘にかけてある油合羽(アブラガッパ)を着て、下駄(ゲタ)をもっ てはだしで嘉助をさそいに行きました。  嘉助はまだ起きたばかりで、 「いまごはんをたべて行ぐがら。」と云いましたので、一郎はしばらくうまやの前で 待っていました。  まもなく嘉助は小さい簑(ミノ)を着て出て来ました。  烈しい風と雨にぐしょぬれになりながら二人はやっと学校へ来ました。昇降口から はいって行きますと教室はまだしいんとしていましたが、ところどころの窓のすきま から雨が板にはいって板はまるでざぶざぶしていました。一郎はしばらく教室を見ま わしてから、 「嘉助、二人して水掃(ハ)ぐべな。」と云ってしゅろ箒(ホウキ)をもって来て水を窓の下 の孔(アナ)へはき寄せていました。  すると、もう誰か来たのかというように奥から先生が出てきましたが、ふしぎなこ とには先生があたり前の単衣(ヒトエ)をきて赤いうちわをもっているのです。 「たいへん早いですね。あなた方二人で教室の掃除をしているのですか。」先生がき きました。 「先生お早うございます。」一郎が云いました。 「先生お早うございます。」嘉助も云いましたが、すぐ、 「先生、又三郎今日来るのすか。」ときゝました。  先生はちょっと考えて、 「又三郎って高田さんですか。えゝ、高田さんは昨日お父さんといっしょにもう外(ホ カ)へ行きました。日曜なのでみなさんにご挨拶(アイサツ)するひまがなかったのです。」 「先生飛んで行ったのですか。」嘉助がきゝました。 「いいえ、お父さんが会社から電報で呼ばれたのです。お父さんはもういちどちょっ とこっちへ戻(モド)られるそうですが高田さんはやっぱり向うの学校に入るのだそう です。向うにはお母さんも居られるのですから。」 「何(ナ)して会社で呼ばったべす。」と一郎がききました。 「こゝのモリブデンの鉱脈は、当分手をつけないことになった為(タメ)なそうです。」 「そうだなぃな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」嘉助が高く叫びました。  宿直室の方で何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっ ちへ行きました。  二人はしばらくだまったまゝ、相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を 見合わせたまゝ立ちました。  風はまだやまず、窓ガラスは雨つぶのために曇りながら、またがたがた鳴りました。