PDD図書館管理番号           0000.0000.0125.01

                                                    新字新かなに改めています

                                 一 兵 卒
                                                                 田山花袋:作

 渠(カレ)は歩き出した。
 銃が重い、背嚢(ハイノウ)が重い、脚が重い、アルミニューム製の金椀(カナワン)が腰の剣
に当ってカタカタと鳴る。其音が興奮した神経を夥(オビタダ)しく刺戟するので、幾度
(イクタビ)かそれを直して見たが、何うしても鳴る。カタカタと鳴る。もう厭になって
了(シマ)った。
 病気は本当に治ったので無いから、呼吸(イキ)が非常に切れる。全身には悪熱(アクネツ)
悪寒(オカン)が絶えず往来する。頭脳(アタマ)が火のように熱して、顳需<*1>(コメカミ)が烈し
い脈を打つ。何故、病院を出た? 軍医が後が大切だと言ってあれほど留(ト)めたの
に、何故病院を出た? こう思ったが、渠(カレ)はそれを悔いはしなかった。敵の捨て
て遁げた汚ない洋館の板敷、八畳位の室(ヘヤ)に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽(オトロエ)
と不潔と叫喚(ウメキ)と重苦しい空気と、それに凄(スサマ)じい蠅の群集、よく二十日も辛
抱して居た。麦飯の粥(カユ)に少許(スコシバカリ)の食塩、よくあれでも飢餓を凌(シノ)いだ。
かれは病院の背後(ウシロ)の便所を思出してゾッとした。急造(キュウゴシラエ)の穴の掘りよ
うが浅いので、臭気が鼻と眼とを烈しく撲(ウ)つ。蠅がワンと飛ぶ。石灰(イシバイ)の灰
色に汚れたのが胸をむかむかさせる。
                                             <*1>「ジュ」は「需」に「頁」:補助7225
 あれよりは……彼処(アスコ)に居るよりは、此の濶々(ヒロビロ)とした野の方が好い。ど
れほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何も無い。畑にはもう熟し懸けた高粱<コ
ウリャン>が連って居るばかりだ。けれど新鮮な空気がある。日の光がある、雲がある、
山がある、−−凄じい声が急に耳に入ったので、立留って其方を見た。さっきの汽車
がまだ彼処に居る。釜の無い煙筒(エントツ)の無い長い汽車を、支那苦力<クリー>が幾百人
となく寄ってたかって、丁度蟻が大きな獲物を運んで行くように、えっさらおっさら
押して行く。
 夕日が画(エ)のように斜に射し渡った。
 先程(サッキ)の下士が彼処に乗って居る。あの一段高い米の叺(カマス)の積荷の上に突立っ
て居るのが彼奴(キャツメ)だ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站(アンザンタン)まで乗せ
て行って呉れと頼んだ。すると彼奴(キャツ)め、兵を乗せる車ではない。歩兵が車に乗
るといふ法があるかと呶鳴った。病気だ、御覧の通りの病気で、脚気(カッケ)をわずらっ
て居る。鞍山站の先まで行けば隊が居るに相違ない。武士は相見互(アイミタガイ)という
ことがある、何うか乗せて呉れッて、達(タ)って頼んでも、言うことを聞いて呉れな
かった。兵、兵といって、筋が少いと馬鹿にしやがる。金州でも、得利寺(トクリジ)で
も兵のお蔭で戦争に勝ったのだ。馬鹿奴、悪魔奴!
 蟻だ、蟻だ、本当に蟻だ。まだ彼処に居やがる。汽車もあゝなってはお了(シマ)いだ。
ふと汽車−−豊橋を発った来た時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋め
られて居る。万歳の声が長く長く続く。と忽然(コツゼン)最愛の妻の顔が眼に浮ぶ。そ
れは門出(カドデ)の時の泣顔ではなく、何うした場合であったか忘れたが心から可愛
いと思った時の美しい笑顔(ワライガオ)だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅くなるよ
と揺起す。かれの頭はいつか子供の時代に飛帰って居る。裏の入江の船の船頭が禿頭
(ハゲアタマ)を夕日にてかてかと光らせながら子供の一群に向って呶鳴って居る。其の子
供の群の中にかれも居た。
 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区劃を立てて居りながら、しかもそ
れがすれすれに摺寄(スリヨ)った。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人
のようで、自分で歩いて居るのか居ないのか、それすらはっきりとは解らぬ。
 褐色の道路−−砲車や轍(ワダチ)や靴の跡や草鞋(ワラジ)の跡が深く印(イン)したまゝに
石のように乾いて固くなった路が前に長く通じて居る。こういう満洲の道路にはかれ
は殆ど愛想をつかして了った。何処まで行ったら此の路は無くなるのか。何処まで行っ
たらこんな路は歩かなくってもよくなるのか。故郷(フルサト)のいさご路、雨上りの湿っ
た海岸の砂路(イサゴジ)、あの滑かな心地の好い路が懐かしい。広い大きな道ではある
が、一(ヒトツ)として滑かな平かな処が無い。これが雨が一日降ると、壁土のように柔
かくなって、靴どころか、長い脛(スネ)も其半(ナカバ)を没して了うのだ。大石橋(ダイセキ
キョウ)の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘(ヌカルミ)を三里もこね廻した。背の上から頭の髪ま
ではね上った。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥って少しも動
かぬのを押して押して押し通した。第三聯隊の砲車が先に出て陣地を占領して了わな
ければ明日の戦は出来なかったのだ。そして終夜働いて、翌日はあの戦争。敵の砲弾、
味方の砲弾がぐんぐんと厭な音を立てて頭の上を鳴って通った。九十度近い暑い日が
脳天からじりじり照り附けた。四時過に、適味方の歩兵は共に接近した。小銃の音が
豆を煎(イ)るように聞える。時々シュッシュッと耳の傍(ソバ)を掠(カス)めて行く。列の
中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日に彩(イ
ロド)られて、其の兵士はガックリ前に碚(ノメ)った。胸に弾丸(タマ)が中(アタ)ったのだ。
其の兵士は善い男だった。快活で、洒脱(シャダツ)で、何事にも気が置けなかった。新
城町のもので、若い嚊(カカア)があった筈だ。上陸当座は一緒によく徴発に行ったっけ。
豚を逐い廻したッけ。けれどあの男は最早(モウ)此世の中に居ないのだ。居ないとは何
うしても思えん。思えんが居ないのだ。
 褐色の道路を、糧餉(リョウショウ)を満載した車がぞろぞろ行く。騾車(ラシャ)、驢車(ロ
シャ)、支那人の爺(オヤジ)のウオウオウイウイが聞える。長い鞭(ムチ)が夕日に光って、
一種の音を空気に伝える。路の凹凸が烈しいので、車は波を打つようにしてガタガタ
動いて行く。苦しい、呼吸が苦しい。こう苦しくっては為方(シカタ)が無い。頼んで乗
せて貰おうと思ってかれは駆出した。
 金椀(カナワン)がカタカタ鳴る。烈しく鳴る。背嚢の中の雑品や弾丸袋の弾丸が気(ケ)
たゝましく躍り上る。銃の台が時々脛(スネ)を打って飛び上るほど痛い。
『オーイ、オーイ。』
 声が立たない。
『オーイ、オーイ。』
 全身の力を絞って呼んだ。聞えたに相違ないが振向いても見ない。何うせ碌なこと
ではないと知って居るのだろう。一時思止まったが、また駆出した。そして今度は其
最後の一輛に漸(ヨウヤ)く追着いた。
 米の叺(カマス)が山のように積んである。支那人の爺が振向いた。丸顔の厭な顔だ。
有無を云わせず其の車に飛乗った。そして叺と叺との間に身を横えた。支那人は為方
が無いという風でウォーウォーと馬を進めた。ガタガタと車は行く。
 頭腦(アタマ)がぐらぐらして天地が廻転するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚の腓
(フクラハギ)の処が押附けられるようで、不愉快で、不愉快で為方が無い。やゝもすると
胸がむかつきそうになる。不安の念が凄じい力で全身を襲った。と同時に、恐ろしい
動揺がまた始まって、耳からも頭からも、種々(イロイロ)の声が囁(ササヤ)いて来る。此前
にもこうした不安はあったが、これほどでは無かった。天にも地にも身の置き処が無
いような気がする。
 野から村に入ったらしい。鬱蒼(コンモリ)とした楊(ヤナギ)の緑がかれの上に靡(ナビ)い
た。楊樹(ヤナギ)にさし入った夕日の光が細(コマカ)な葉を一葉々々(ヒトハヒトハ)明らかに見
せて居る。不格好な低い屋根が地震でもあるかのように動揺しながら過ぎて行く。ふ
と気がつくと、車は止って居た。かれは首を挙げて見た。
 楊樹の蔭を成して居る処だ。車輛が五台ほど続いて居るのを見た。
 突然肩を捉(トラ)えるものがある。
 日本人だ、わが同胞だ、下士だ。
『貴様は何だ?』
 かれは苦しい身を起した。
『何うして此の車に乗った?』
 理由を説明するのが辛かった。いや口を利くのも厭なのだ。
『此車(コレ)に乗っちゃいかん。そうでなくってさえ、荷が重過ぎるんだ。お前は十八
聯隊だナ。豊橋だナ。』
 点頭(ウナヅ)いて見せる。
『何うかしたのか。』
『病気で、昨日まで大石橋の病院に居たものですから。』
『病気がもう治ったのか。』
 無意味に点頭(ウナヅ)いた。
『病気で辛いだろうが、下りて呉れ。急いで行かんけりゃならんのだから。遼陽(リョウ
ヨウ)が始ったのでナ。』
『遼陽!』
 此の一語はかれの神経を十分に刺戟した。
『もう始ったんですか。』
『聞えんのかあの砲が……』
 先程から、天末に一種の轟声(トドロキ)が始ったそうなとは思ったが、まだ遼陽では
無いと思って居た。
『鞍山站(アンザンタン)は落ちたですか。』
『一昨日(オトトイ)落ちた。敵は遼陽の手前で一防禦(ヒトフセギ)遣るらしい。今日の六時か
ら始ったという噂だ!』
 一種の遠い微かなる轟(トドロキ)、仔細に聞けば成程砲声だ。例の厭な音が頭上を飛
ぶのだ。歩兵隊が其間を縫って進撃するのだ。血汐が流れるのだ。こう思った渠(カレ)
は一種の恐怖と憧憬(アコガレ)とを覚えた。戦友は戦って居る。日本帝国の為めに血汐
を流して居る。
 修羅(シュラ)の巷(チマタ)が想像される。炸弾(サクダン)の壮観も眼の前に浮ぶ。けれど七
八里を隔てた此の満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いて居るばかり、大軍の潮(ウ
シオ)の如く過ぎ去った村の平和は平生(イツモ)に異らぬ。
『今度の戦争は大きいだろう。』
『左様(ソウ)さ。』
『一日で勝敗がつくまい。』
『無論だ。』
 今の下士は夥伴(ナカマ)の兵士と砲声を耳にしつゝ頻(シキ)りに語合って居る。糧餉(リョ
ウショウ)を満載した車五輛、支那苦力<クリー>の爺連(オヤジレン)も圏(ワ)を為して何事をか饒
舌(シャベ)り立てて居る。驢馬の長い耳に日が射して、おりおりけたゝましい啼声が耳
を劈(ツンザ)く。楊樹の彼方に白い壁の支那民家が五六軒続いて、庭の中に槐(エンジュ)
の樹が高く見える。井戸がある。納屋がある。足の小さい年老いた女が覚束(オボツカ)
なく歩いて行く。楊樹を透(スカ)して向うに、広い広漠たる野が見える。褐色した丘陵
の連続が指(ユビサ)される。其の向うには紫色がかった高い山が蜿蜒(エンエン)として居る。
砲声は其処(ソコ)から来る。

 五輛の車は行って了った。
 渠(カレ)はまた一人取残された。海城から東煙台、甘泉堡(カンセンホウ)、この次の平站部
(ヘイタンブ)所在地は新台子と言って、まだ一里位ある。其処迄行かなければ宿るべき家
も無い。
 行くことにして歩き出した。
 疲れ切って居るから難儀だが、車よりは却(カエ)って好い。胸は依然として苦しいが、
何うも致し方が無い。
 また同じ褐色の路、同じ高粱<コウリャン>の畑、同じ夕日の光、レールには例の汽車が
又通った。今度は下り坂で、速力が非常に早い。釜の附いた汽車よりも早い位に目ま
ぐろしく谷を越えて駛(ハシ)った。最後の車輛に飜(ヒルガエ)った国旗が高粱畑の絶間々
々に見えたり隠れたりして、遂にそれが見えなくなっても、其の車輛の轟は聞える。
其の轟と交って、砲声が間断(シッキリ)なしに響く。
 街道には久しく村落が無いが、西方には楊樹のやゝ暗い繁茂(シゲリ)が到る処にかた
まって、其の間からちらちら白色褐色の民家が見える。人の影は四辺(アタリ)を見廻し
ても無いが、碧(アオ)い細い炊煙は糸のように淋しく立揚<*2>(タチアガ)る。
                                         <*2>「あがる」は「風」偏に「昜」:補助7233
 夕日は物の影を総(スベ)て長く曳(ヒ)くようになった。高粱の高い影は二間幅の広い
路を蔽って、更に向う側の高粱の上に蔽い重(カサナ)った。路傍(ミチバタ)の小さな草の影
も夥(オビタダ)しく長く、東方の丘陵(オカ)は浮出すようにはっきりと見える。さびしい
悲しい夕暮は譬(タト)え難い一種の影の力を以て迫って来た。
 高粱の絶えた処に来た。忽然(コツゼン)、かれは其の前に驚くべき長大なる自己の影
を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀(カナシミ)に打たれ
た。
 草叢(クサムラ)には虫の声がする。故郷の野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つか
ぬことと広い野原とが何となく其の胸を痛めた。一時途絶えた追懐の情が流るゝよう
に漲って来た。
 母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走馬燈(マワリドウロウ)のごとく旋回する。欅(ケ
ヤキ)の樹で囲まれた村の旧家、団欒(ダンラン)せる平和な家庭、続いて其の身が東京に修
業に行った折の若々しさが憶い出される。神楽坂(カグラザカ)の夜の賑いが眼に見える。
美しい草花、雑誌店、新刊の書(ホン)、角を曲ると賑やかな寄席(ヨセ)、待合、三味線の
音(ネ)、仇(アダ)めいた女の声、あの頃は楽しかった。恋した女が仲町(ナカチョウ)に居て、
よく遊びに行った。丸顔の可愛い娘で、今でも恋しい。此の身は田舎(イナカ)の豪家の
若旦那で、金には不自由を感じなかったから、随分面白いことを為(シ)た。それにあ
の頃の友人は皆世に出て居る。此の間も蓋平(ガイヘイ)で第六師団の大尉になって威張っ
て居る奴に邂逅(デックワ)した。
 軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。と、今日は不思議にも平生(フ
ダン)の様に反抗とか犠牲とかいう念は起らずに、恐怖の念が盛(サカン)に燃えた。出発
の時、此の身は国に捧げ、君に捧げて遺憾が無いと誓った。再びは帰って来る気は無
いと、村の学校で雄々しい演説を為た。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そ
う言っても勿論死ぬ気はなかった。心の底には花々しい凱旋を夢みて居た。であるの
に、今忽然起ったのは死に対する不安である。自分はとても生きて還ることは覚束(オ
ボツカ)ないという気が烈しく胸を衝いた。此の病、此の脚気、仮令(タトイ)此の病は治っ
たにしても戦場は大なる牢獄である。いかに藻掻(モガ)いても焦(アセ)ってもこの大な
る牢獄から脱することは出来ぬ。得利寺で戦死した兵士が其の以前かれに向って、
『何うせ遁れられぬ穴だ。思い切よく死ぬサ。』と言ったことを思出した。
 かれは疲労と病気と恐怖とに襲われて、如何にしてこの恐しい災厄を遁るべきかを
考えた。脱走? それも好い、けれど捕えられた暁(アカツキ)には、此の上も無い汚名を
被った上に同じ死? さればとて前進すれば必ず戦争の巷(チマタ)の人とならなければ
ならぬ。戦争の巷に入(イ)れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今初めて、病院を
退院したことの愚をひしと胸に思当った。病院から後送されるようにすればよかった
……と思った。
 もう駄目だ、万事休す、遁れるに路が無い。消極的の悲観が恐ろしい力で其胸を襲っ
た。と、歩く勇気も何も無くなって了った。止度(トメド)なく涙が流れた。神が此の世
にいますなら、何うか救けて下さい、何うか遁路(ニゲミチ)を教えて下さい。これから
は何(ド)んな難儀もする! どんな善事もする! どんなことにも背(ソム)かぬ。
 渠(カレ)はおいおい声を挙げて泣出した。
 胸が間断(シッキリ)なしに込み上げて来る。涙は小児でもあるように頬を流れる。自分
の体が此の世の中になくなるということが痛切に悲しいのだ。かれの胸には此迄幾度
も祖国を思うの念が燃えた。海上の甲板で、軍歌を歌った時には悲壮の念が全身に充
ち渡った。敵の軍艦が突然出て来て、一砲弾の為めに沈められて、海底の藻屑(モクズ)
となっても遺憾が無いと思った。金州の戦場では、機関銃の死の叫びの唯中を地に伏
しつゝ、勇ましく進んだ。戦友の血に塗(マミ)れた姿に胸を撲(ウ)ったこともないでは
ないが、これも国の為めだ、名誉だと思った。けれど人の血の流れたのは自分の血の
流れたのではない。死と相面しては、いかなる勇者も戦慄する。
 脚が重い、気怠(ケダル)い、胸がむかつく。大石橋から十里、二日の路、夜露、悪寒
(オカン)、確かに持病の脚気が昂進したのだ。流行胃腸熱は治ったが、急性の脚気が襲っ
て来たのだ。脚気衝心(ショウシン)の恐しいことを自覚してかれは戦慄した。何うしても
免れることが出来ぬのかと思った。と、居ても立っても居られなくなって、体がしび
れて脚がすくんだ−−おいおい泣きながら歩く。
 野は平和である。赤い大きい日は地平線上に落ちんとして、空は半ば金色(コンジキ)
半ば暗碧色(アンペキショク)になって居る。金色の鳥の翼のような雲が一片動いて行く。高
粱の影は影と蔽い重って、荒涼たる野には秋風が渡った。遼陽方面の砲声も今まで盛
に聞えて居たが、いつか全く途絶えて了った。
 二人連の上等兵が追い越した。
 すれ違って、五六間先に出たが、ひとりが戻って来た。
『おい、君、何うした?』
 かれは気が附いた。声を挙げて泣いて歩いて居たのが気恥かしかった。
『おい、君?』
 再び声を懸った。
『脚気なもんですから。』
『脚気?』
『はア。』
『それは困るだろう。余程悪いのか。』
『苦しいのです。』
『それア困ったナ、脚気では衝心でもすると大変だ。何処(ドコ)まで行くんだ。』
『隊が鞍山站の向うに居るだろうと思うんです。』
『だって、今日其処まで行けはせん。』
『はア。』
『まア、新台子まで行くさ。其処に兵站部があるから行って医師に見て貰うさ。』
『まだ遠いですか?』
『もうすぐ其処だ。それ向うに丘が見えるだろう。丘の手前に鉄道線路があるだろう。
其処に国旗が立って居る、あれが新台子の兵站部だ。』
『其処に医師が居るでしょうか。』
『軍医が一人居る。』
 蘇生したような気がする。
 で、二人に跟(ツ)いて歩いた。二人は気の毒がって、銃と背嚢(ハイノウ)とを持って呉
れた。
 二人は前に立って話しながら行く。遼陽の今日の戦争の話である。
『様子は解らんかナ。』
『まだ遣ってるんだろう。煙台で聞いたが、敵は遼陽の一里手前で一支(ヒトササ)えして
居るそうだ。何んでも首山堡(シュザンポウ)とか言った。』
『後備が沢山行くナ。』
『兵が足りんのだ。敵の防禦陣地はすばらしいものだそうだ。』
『大きな戦争になりそうだナ。』
『一日砲声がしたからナ。』
『勝てるかしらん。』
『負けちゃ大変だ。』
『第一軍も出たんだろうナ。』
『勿論さ。』
『一つ旨く背後を断って遣り度い。』
『今度は屹度旨く遣るよ。』
 と行って耳を傾けた。砲声がまた盛に聞え出した。

 新台子の兵站部は今雑沓を極めて居た。後備旅団の一箇聯隊が着いたので、レイル
の上、家屋(イエ)の蔭、糧餉(リョウショウ)の傍(ソバ)などに軍帽と銃剣とが充ち満ちて居た。
レイルを挟んで敵の鉄道援護の営舎が五棟(イツムネ)ほど立って居るが、国旗の飜った兵
站本部は、雑沓を重ねて、兵士が黒山のように集って、長い剣を下げた士官が幾人(イ
クタリ)となく出たり入ったりして居る。兵站部の三箇(ミッツ)大釜には火が盛に燃えて、
烟(ケムリ)が薄暮の空に濃く靡いて居た。一箇(ヒトツ)の釜は飯が既に炊(タ)けたので、炊
事軍曹が大きな声を挙げて、部下を叱咤(シッタ)して、集る兵士に頻りに飯の分配を遣っ
て居る。けれど此の三箇の釜は到底この多数の兵士に夕飯(ユウメシ)を分配することが出
来ぬので、其大部分は白米を飯盒(ハンゴウ)に貰って、各自に飯を作るべく野に散った。
やがて野の処々に高粱の火が幾つとなく燃された。
 家屋の彼方では、徹夜して戦場に送るべき弾薬弾丸の箱を汽車の貨車に積込んで居
る。兵士、輸卒の群が一生懸命に奔走して居るさまが薄暮の微かな光に絶え絶えに見
える。一人の下士が貨車の貨物の上に高く立って、頻りにその指揮をして居た。
 日が暮れても戦争は止まぬ。鞍山站の馬鞍のような山が暗くなって、其の向うから
砲声が断続する。
 渠(カレ)は此処に来て軍医をもとめた。けれど軍医どころの騒ぎではなかった。一兵
卒が死のうが生きようがそんなことを問う場合ではなかった。渠(カレ)は二人の兵士の
尽力の下に、纔(ワズ)かに一盒(イチゴウ)の飯を得たばかりではあった。為方(シカタ)がな
い、少し待て。この聯隊の兵が前進して了ったら、軍医をさがして、伴(ツ)れて行っ
て遣るから、先づ落着いて居れ。此処から真直に三四町(チョウ)行くと一棟(ヒトムネ)の洋
館がある。其の洋館の入口には、酒保(シュホ)が今朝から店を開いて居るからすぐ解る。
其の奥に入って、寝て居れとのことだ。
 渠はもう歩く勇気は無かった。銃と背嚢とを二人から受取ったが、それを背負うと
危く倒れそうになった。眼がぐらぐらする。胸がむかつく。脚が気怠(ケダル)い。頭脳
(アタマ)が烈しく旋回する。
 けれど此処に倒れるわけには行かない。死ぬにも隠家を求めなければならぬ。そう
だ、隠家……。何んな処でも好い。静かな処に入って寝たい、休息したい。
 闇の路が長く続く。ところどころに兵士が群を成して居る。不図(フト)豊橋の兵営を
憶い出した。酒保に行って隠れてよく酒を飲んだ。酒を飲んで、軍曹をなぐって、重
営倉に処せられたことがあった。路がいかにも遠い。行っても行っても洋館らしいも
のが見えぬ。三四町と言った。三四町どころか、もう十町も来た。間違ったのかと思っ
て振返る−−兵站部は燈火(トモシビ)の光、篝火(カガリビ)の光、闇の中を行違う兵士の
黒い群、弾薬箱を運ぶ懸声が夜の空気を劈(ツンザ)いて響く。
 此処等はもう静かだ。四辺(アタリ)に人の影も見えない。俄(ニワ)かに苦しく胸が迫っ
て来た。隠家がなければ、此処で死ぬのだと思って、がっくり倒れた。けれども不思
議にも前のように悲しくもない。思い出もない。空の星の閃(ヒラメ)きが眼に入った。
首を挙げてそれとなく四辺を瞬<*3>(ミマワ)した。
                                       <*3>「みまわす」は「目」偏に「旬」:補助4674
 今まで見えなかった一棟の洋館がすぐ其の前にあるのに驚いた。家の中には燈火が
見える。丸い赤い提燈(チョウチン)が見える。人の声が耳に入る。
 銃を力に辛うじて立上った。
 成程、其の家屋の入口に酒保らしいものがある。暗いからわからぬが、何か釜らし
いものが戸外(オモテ)の一隅(カタスミ)にあって、薪(タキギ)の余燼(モエサシ)が赤く見えた。薄
い煙が提燈を掠(カス)めて淡く靡いて居る。提燈に、しるこ一杯五銭と書いてあるのが、
胸が苦しくって苦しくって為方がないにも拘(カカワ)らずはっきりと眼に映じた。
『しるこはもうお終いか。』
 と言ったのは、其前に立って居る一人の兵士であった。
『もうお終いです。』
 という声が戸内(ウチ)から聞える。
 戸内を覗くと明かなる光、西洋蝋<*4>燭(ロウソク)が二本裸で点(トモ)って居て、罎詰(ビ
ンヅメ)小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、肥った、口髭(クチヒ
ゲ)の濃い、莞爾(ニコニコ)した三十男が坐って居た。店では一人の兵士がタオルを展(ヒロ)
げて見て居た。
                                      <*4>「ロウ」は「虫」偏に「臘」-「月」:補助5988
 傍を見ると、暗いながら、低い石階(イシダン)が眼に入った。此処だなとかれは思っ
た。兎に角休息することが出来ると思うと、言うに言われぬ満足を先づ心に感じた。
静かにぬき足して其の石階を登った。中は暗い。よく判らぬが廊下になって居るらし
い。最初の戸と覚しき処を押して見たが開かない。二歩(フタアシ)三歩(ミアシ)進んで次の
戸を押したが矢張開かない。左の戸を押しても駄目だ。
 猶奥へ進む。
 廊下は突当って了った。右にも左にも道が無い。困って右を押すと、突然、闇が破
れて扉が明いた。室内が見えるという程ではないが、そことなく星明りがして、前に
硝子窓があるのが解る。
 銃を置き、背嚢を下し、いきなりかれは横に倒れた。そして重苦しい呼吸(イキ)をつ
いた。まアこれで安息所を得たと思った。
 満足と共に新しい不安が頭(カシラ)を擡(モタ)げて来た。倦怠、疲労、絶望に近い感情
が鉛のごとく重苦しく全身を圧した。思い出が皆な片々(キレギレ)で、電光(イナビカリ)の
ように早いかと思うと牛の喘歩(アエギ)のように遅い。間断(シッキリ)なしに胸が騒ぐ。
 重い、気怠(ケダル)い脚が一種の圧迫を受けて疼痛(イタミ)を感じて来たのは、かれ自
らにも好く解った。腓(フクラハギ)のところどころがづきづきと痛む。普通の疼痛ではな
く、丁度こむらが反(カエ)った時のようである。
 自然と体を藻掻(モガ)かずには居られなくなった。綿のように疲れ果てた身でも、
この圧迫には敵(カナ)わない。
 無意識に輾転(テンテン)反側した。
 故郷(フルサト)のことを思わぬではない、母や妻のことを悲まぬではない。此の身がこ
うして死ななければならぬかと嘆かぬではない。けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そ
んなものは何うでも好い。疼痛、疼痛、その絶大な力と戦わねばならぬ。
 潮(ウシオ)のように押寄せる。暴風(アラシ)のように荒れわたる。脚を固い板の上に立て
て倒して、体を右に左にもが<*5>いた。『苦しい……』と思わず知らず叫んだ。
                                         <*5>「もがく」は「足」偏に「宛」:補助6392
 けれど実際はまたそう苦しいとは感じて居なかった。苦しいには違いないが、更に
大なる苦痛に耐えなければならぬと思う努力が少くとも其の苦痛を軽くした。一種の
力は波のように全身に漲った。
 死ぬのは悲しいという念よりもこの苦痛に打克とうという念の方が強烈であった。
一方には極めて消極的な涙脆(ナミダモロ)い意気地ない絶望が漲ると共に、一方には人間
の生存に対する権利というような積極的な力が強く横たわった。
 疼痛は波のように押寄せては引き、引いては押寄せる。押寄せる度に脣(クチビル)を
噛み、歯をくいしばり、脚を両手でつかんだ。
 五官の他(ホカ)にある別種の官能の力が加わったかと思った。暗かった室がそれとはっ
きり見える。暗色の壁に添うて高い卓<テーブル>が置いてある。上に白いのは確かに紙
だ。硝子窓の半分が破れて居て、星がきらきらと大空にきらめいて居るのが認められ
た。右の一隅(カタスミ)には、何かごたごた置かれてあった。
 時間の経って行くのなどはもうかれには解らなくなった。軍医が来て呉れゝば好い
と思ったが、それを続けて考える暇(イトマ)はなかった。新しい苦痛が増した。
 床(トコ)近く蟋蟀(コオロギ)が鳴いて居た。苦痛に悶えながら、『あ、蟋蟀が鳴いて居
る……』とかれは思った。其の哀切な虫の調(シラベ)が何だか全身に沁(シ)み入るよう
に覚えた。
 疼痛、疼痛、かれは更に輾転反側した。

『苦しい! 苦しい! 苦しい!』
 続けざまにけたゝましく叫んだ。
『苦しい、誰か……誰か居らんか。』
 と暫くしてまた叫んだ。
 強烈なる生存の力ももう余程衰えて了った。意識的に救助を求めると言うよりは、
今は殆(ホトン)ど夢中である。自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪の叫び、人間の悲
鳴!
『苦しい! 苦しい!』
 其の声がしんとした室に凄じく漂い渡る。此室には一月前まで露国の鉄道援護の士
官が起臥して居た。日本兵が始めて入った時、壁には黒く煤(スス)けた基督<キリスト>の像
が懸けてあった。昨年の冬は、満洲の野に降頻(フリシキ)る風雪をこの硝子窓から眺めて、
其の士官はウオッカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外の兵士が立って居た。日本
兵の為すに足らざるを言って、虹のごとき気焔を吐いた。其の室に、今、垂死(スイシ)
の兵士の叫喚(ウメキ)が響き渡る。
『苦しい、苦しい、苦しい!』
 寂(シン)として居る。蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いて居る。満洲の広漠た
る野には、遅い月が昇ったと見えて、四辺(アタリ)が明るくなって、硝子窓の外は既に
其の光を受けて居た。
 叫喚、悲鳴、絶望、渠(カレ)は室(ヘヤ)の中をのたうち廻った。軍服の釦鈕<ボタン>は外
れ、胸の辺(アタリ)は掻(カキ)むしられ、軍帽は頷紐(アゴヒモ)をかけたまゝ押潰され、顔か
ら頬に懸けては、嘔吐した汚物が一面に附着した。
 突然明らかな光線が室に射したと思うと、扉(ト)の処に、西洋蝋<*4>燭を持った一
人の男の姿が浮彫のように顕われた。其の顔だ。肥った口髭のある酒保の顔だ。けれ
ど其の顔には莞爾(ニコニコ)した先程(サッキ)の愛嬌は無く、真面目な蒼(アオ)い暗い色が上っ
て居た。黙って室の中へ入って来たが、其処に唸(ウナ)って転がって居る病兵を蝋<*4>
燭で照らした。病兵の顔は蒼褪(アオザ)めて、死人のように見えた。嘔吐した汚物が其
処に散らばって居た。
『何うした? 病気か?』
『あゝ苦しい、苦しい……』
 と烈しく叫んで輾転した。
 酒保の男は手を附けかねてしばし立って見て居たが、其の儘、蝋<*4>燭の蝋<*4>を
垂(タ)らして、卓の上にそれを立てて、そゝくさと扉の外へ出て行った。蝋<*4>燭の
光で室は昼のように明るくなった。隅に置いた自分の背嚢と銃とがかれの眼に入った。
 蝋<*4>燭の火がちかちかする。蝋<*4>が涙のようにだらだら流れる。
 暫くして先の酒保の男は一人の兵士を伴って入って来た。この向うの家屋(イエ)に寝
て居た行軍中の兵士を起して来たのだ。兵士は病兵の顔と四方のさまとを見廻したが、
今度は肩章を仔細に検(ケン)した。
 二人の対話が明かに病兵の耳に入る。
『十八聯隊の兵だナ。』
『左様(ソウ)ですか。』
『いつから此処に来てるんだ?』
『少しも知らんかったです。いつから来たんですか。私は十時頃ぐっすり寝込んだん
ですが、ふと目を覚ますと、唸声(ウナリゴエ)がする、苦しい苦しいという声がする。何
うしたんだろう、奥には誰も居ぬ筈だがと思って、不審にして暫く聞いて居たです。
すると、其の叫声は愈々(イヨイヨ)高くなりますし、誰か来て呉れ! と言う声が聞えま
すから、来て見たんです。脚気ですナ、脚気衝心ですナ。』
『衝心?』
『とても助からんですナ。』
『それア、気の毒だ。兵站部に軍医が居るだろう?』
『居ますがナ……こんな遅く、来て呉れやしませんよ。』
『何時だ。』
 自ら時計を出して見て、『道理(モットモ)だ』という顔をして、そのまゝ隠袋<ポケット>
に収めた。
『何時です?』
『二時十五分。』
 二人は黙って立って居る。
 苦痛が叉押寄せて来た。唸声、叫声が堪え難い悲鳴に続く。
『気の毒だナ。』
『本当に可哀想です。何処の者でしょう。』
 兵士がかれの隠袋<ポケット>を探った。軍隊手帳を引出すのが解る。かれの眼には其
の兵士の黒く逞(タクマ)しい顔と軍隊手帳を読む為に卓上の蝋<*4>燭に近く歩み寄った
さまが映った。三河国渥美(アツミ)郡福江村加藤平作……と読む声が続いて聞えた。故
郷のさまが今一度其の眼前(メノマエ)に浮ぶ。母の顔、妻の顔、欅(ケヤキ)で囲んだ大きな
家屋、裏から続いた滑(ナメラ)かな磯、馴染(ナジミ)の漁夫(リョウシ)の顔……。
 二人は黙って立って居る。其の顔は蒼く暗い。おりおり其の身に対する同情の言葉
が交される。彼は既に死を明かに自覚して居た。けれどそれが別段苦しくも悲しくも
感じない。二人の問題にして居るのはかれ自身のことではなくて、他に物体があるよ
うに思われる。唯、此の苦痛、堪え難い此の苦痛から脱(ノガ)れ度(タ)いと思った。
 蝋<*4>燭がちらちらする。蟋蟀(コオロギ)が同じくさびしく鳴いて居る。

 黎明(レイメイ)に兵站部の軍医が来た。けれど其の一時間前に、渠(カレ)は既に死んで居
た。一番の汽車が開路々々の懸声と共に、鞍山站(アンザンタン)に向って発車した頃は、
その残月が薄く白けて、淋しく空に懸って居た。
 暫くして砲声が盛に聞え出した。九月一日の遼陽攻撃は始まった。
                                            (『早稲田文学』明治四十一年一月)