PDD図書館管理番号 0000.0000.0191.00 【 】は傍点付きを示す。 ( ) はひらがなのルビ。 < > はカタカナのルビ。 読みの「'イ」は「ゐ」を示す。 読みの「'エ」は「ゑ」を示す。 城のある町にて 梶井基次郎:作 ある午後 「高いとこの眺めは、アアツ(と咳をして)また格段でごわすな」  片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持つてゐる。頭が奇麗に禿げて ゐて、カンカン帽子を冠つてゐるのが、まるで栓をはめたやうに見える。 −−そんな老人が朗らかにさう云ひ捨てたまま峻(タカシ)の脇を歩いて行 つた。云つておいて此方を振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向 けたままで、さも【やれやれ】と云つた風に石垣のはなのベンチへ腰を かけた。−−  町を外れてまだ二里程の間は平坦な緑。I彎の濃い藍(ア'イ)がそれの 彼方に擴つてゐる。裾のぼやけた、そして全體もあまりかつきりしない 入道雲が水平線の上に靜かに蟠(ワダカマ)つてゐる。−− 「ああ、さうですなあ」少し間誤(マゴ)つきながらさう答へた時の自分 の聲の後味がまだ喉や耳のあたりに殘つてゐるやうな氣がされて、その 時の自分と今の自分とが變にそぐはなかつた。なんの拘(コダハ)りもしら ないやうなその老人に對する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先程の 靜かな展望のなかへ吸ひ込まれて行つた。−−風がすこし吹いて、午後 であつた。  一つには、可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考へて見たい といふ若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出て此の 地の姉の家へやつて來た。  ぼんやりしてゐて、それが他所(ヨソ)の子の泣聲だと氣がつくまで、死 んだ妹の聲の氣持がしてゐた。 「誰だ。暑いのに泣かせたりなんぞして」  そんなことまで思つてゐる。  彼女が【こと】切れた時よりも、火葬場での時よりも、變つた土地へ 來てするこんな經驗の方に「失つた」といふ思ひは強く刻まれた。 「たくさんの蟲が、一匹の死にかけてゐる蟲の周圍に集つて、悲しんだ り泣いたりしてゐる」と友人に書いたやうな、彼女の死の前後の苦しい 經驗がやつと薄い面紗<ヴエイル>のあちらに感ぜられるやうになつたのも 此の土地へ來てからであつた。そしてその思ひにも落ちつき、新らしい 周圍にも心が馴染(ナジ)んで來るに隨つて、峻には珍らしく靜かな心持 がやつて來るやうになつた。いつも都會に住み慣れ、殊に最近は心の休 む隙もなかつた後で、彼はなほさらこの靜けさの中で恭(ウヤ)うやしくな つた。道を歩くのにも出來るだけ疲れないやうに心掛ける。棘(トゲ)一 つ立てないやうにしよう。指一本詰めないやうにしよう。ほんの些細な ことがその日の幸福を左右する。−−迷信に近い程そんなことが思はれ た。そして旱(ヒデリ)の多かつた夏にも雨が一度來、二度來、それがあが る度毎に稍稍(ヤヤ)秋めいたものが肌に觸れるやうに氣候もなつて來た。  さうした心の靜けさとかすかな秋の先驅は、彼を部屋の中の書物や妄 想にひきとめてはおかなかつた。草や蟲や雲や風景を眼の前へ据ゑて、 祕かに抑へて來た心を燃えさせる。−−ただそのことだけが仕甲斐(シガ イ)のあることのやうに峻には思へた。 「家の近所のお城跡がありまして峻の散歩には丁度良いと思ひます」姉 が彼の母の許へ寄來(ヨコ)した手紙にこんなことが書いてあつた。着いた 翌日の夜、義兄と姉とその娘と四人で初めて此の城跡へ登つた。旱の爲 【うんか】がたくさん田に湧いたのを除蟲燈で殺してゐる。それがもう あと二三日だからといふので、それを見にあがつたのだつた。平野は見 渡す限り除蟲燈の海だつた。遠くになると星のやうに瞬(マタタ)いてゐる。 山の峽間(ハザマ)が【ぼう】と照されて、そこから大河のやうに流れ出て ゐる所もあつた。彼はその異常な光景に昂奮して涙ぐんだ。風のない夜 で涼みかたがた見物に來る町の人びとで城跡は賑はつてゐた。暗(ヤミ)の なかから白粉(オシロイ)を厚く塗つた町の娘達がはしやいだ眼を光らせた。  今、空は悲しいまで晴れてゐた。そしてその下に町は甍(イラカ)を竝べ てゐた。  白堊(ハクア)の小學校。土藏作りの銀行。寺の屋根。そして其處此處、 西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から 萠え出てゐる。或る家の裏には芭蕉の葉が垂れてゐる。糸杉の卷きあが つた葉も見える。重ね綿のやうな恰好に刈られた松も見える。みな黝(ク ロズ)んだ下葉と新らしい若葉で、いい風な緑色の容積を造つてゐる。  遠くに赤いポストが見える。  乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。  日をうけて赤い切地を張つた張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。 −−  夜になると火の點いた町の大通りを、自轉車でやつて來た村の青年達 が、大勢連れで遊廓の方へ乘つてゆく。店の若い衆なども浴衣(ユカタ)が けで、晝見る時とはまるで異つた風に身體をくねらせながら、白粉を塗 つた女をからかつてゆく。−−さうした町も今は屋根瓦の間へ挾まれて しまつて、そのあたりに幟(ノボリ)をたくさん立てて芝居小屋がそれと察 しられるばかりである。  西日を除(ヨ)けて、一階も二階も三階も、西の窓すつかり日覆をした 旅館が稍々近くに見えた。何處からか材木を叩く音が−−もともと高く もない音らしかつたが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。  次つぎ止まるひまなしに【つくつく】法師が鳴いた。「文法の語尾の 變化をやつてゐるやうだな」ふとそんなに思つて見て、聞いてゐると不 思議に興が乘つて來た。「チユクチユクチユク」と始めて「オーシ、チ ユクチユク」を繰返へす、そのうちにそれが「チユクチユク、オーシ」 になつたり「オーシ、チユクチユク」にもどつたりして、しまひに「ス ツトコチーヨ」「スツトコチーヨ」になつて「ヂー」と鳴きやんでしま ふ。中途に横から「チユクチユク」とはじめるのが出て來る。するとま た一つのは「スツトコチーヨ」を終つて「ヂー」に移りかけてゐる。三 重四重、五重にも六重にも重なつて鳴いてゐる。  峻は此の間、やはりこの城跡のなかにある社(ヤシロ)の櫻の木で法師蝉 が鳴くのを、一尺程の間近で見た。華車(キヤシヤ)な骨に石鹸<シヤボン>玉の やうな薄い羽根を張つた、身體の小さい昆蟲に、よくあんな高い音が出 せるものだと、驚きながら見てゐた。その高い音と關係があると云へば、 ただその腹から尻尾へかけての伸縮であつた。柔毛(ニコゲ)の密生してゐ る、節を持つた、その部分は、まるでエンヂンの或る部分のやうな正確 さで動いてゐた。−−その時の恰好が思ひ出せた。腹から尻尾へかけて ブリツとした膨(フク)らみ。隅ずみまで力ではち切つたやうな伸び縮み。 −−そしてふと蝉一匹の生物が無上に勿體(モツタイ)ないものだといふ氣持 に打たれた。  時どき、先程の老人のやうにやつて來ては涼をいれ、景色を眺めては また立つてゆく人があつた。  峻が此處へ來る時によく見る、亭(チン)の中で晝寢をしたり海を眺めた りする人がまた來てゐて、今日は子守娘と親しさうに話をしてゐる。  蝉取竿を持つた子供があちこちする。蟲籠を持たされた兒は、時どき 立留つては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りに隨(ツ)いてゆく。 物を云はないでゐて變に芝居のやうな面白さが感じられる。  またあちらでは女の子達が【米つきばつた】を捕へては、「ねぎさん 米つけ、何とか何とか」と云ひながら米をつかせてゐる。【ねぎさん】 といふのは此の土地の言葉で神主のことを云ふのである。峻は善良な長 い顏の先に短い二本の觸角を持つた、さう思へばいかにも神主めいた 【ばつた】が、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつ くその恰好が呑氣(ノンキ)なものに思ひ浮んだ。  女の子が追ひかける草のなかを、ばつたは二本の脚を伸し、日の光を 羽根一ぱいに負ひながら、何匹も飛び出した。  時どき烟(ケムリ)を吐く煙突があつて、田野はその邊りから展(ヒラ)けて ゐた。レムブラントの素描めいた風景が散(チラ)ばつてゐる。  黝(クロ)い木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭(タイシヤ)の煉瓦 の煙突。  小さい輕便が海の方からやつて來る。  海からあがつて來た風は輕便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなび ける。  見てゐると煙のやうではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽 車が走つてゐるやうである。  サヽヽヽと日が翳(カゲ)る。風景の顏色が見る見る變つてゆく。  遠く海岸に沿つて斜に入り込んだ入江が見えた。−−峻は此の城跡へ 登る度、幾度となくその入江を見るのが癖になつてゐた。  海岸にしては大きい立木が所どころ繁つてゐる。その蔭にちよつぴり 人家の屋根が覗いてゐる。そして入江には舟が舫(モヤ)つてゐる氣持。  それはただそれだけの眺めであつた。何處を取り立てて特別心を惹(ヒ) くやうなところはなかつた。それでゐて變に心が惹かれた。  なにかある。本當になにかがそこにある。と云つてその氣持を口に出 せば、もう空ぞらしいものになつてしまふ。  例へばそれを故のない淡い憧憬と云つた風の氣持、と名づけて見よう か。誰かが「さうぢやないか」と尋ねて呉れたとすれば彼はその名づけ 方に贊成したかも知れない。然し自分では「まだなにか」といふ氣持が する。  人種の異つたやうな人びとが住んでゐて、此の世と離れた生活を營ん でゐる。−−そんなやうな所にも思へる。とはいへそれはあまりお伽話 (トギバナシ)めかした、ぴつたりしないところがある。  なにか外國の畫で、彼處に似た所が描いてあつたのが思ひ出せない爲 ではないかとも思つて見る。それにはコンステイブルの畫を一枚思ひ出 してゐる。やはりそれでもない。  では一體何だらうか。このパノラマ風の眺めは何に限らず一種の美し さを添へるものである。然し入江の眺めはそれに過ぎてゐた。そこに限 つて氣韻が生動してゐる。そんな風に思へた。−−  空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青より稍々(ヤヤ)温い深青に 映つた。白い雲がある時は海も白く光つて見えた。今日は先程の入道雲 が水平線の上へ擴つてザボンの内皮の色がして、海も入江の眞近までそ の色に映つてゐた。今日も入江はいつもうやうに謎をかくして靜まつて ゐた。  見てゐると、獸のやうにこの城のはなから悲しい唸聲(ウナリゴ'エ)を出 して見たいやうな氣になるのも同じであつた。息苦しい程妙なものに思 へた。  夢で不思議な所へ行つてゐて、此處は來た覺えがあると思つてゐる。 −−丁度それに似た氣持で、えたいの知れない想ひ出が湧いて來る。 「あゝかゝる日のかゝるひととき」 「あゝかゝる日のかゝるひととき」  何時用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。− − 「ハリケンハツチのオートバイ」 「ハリケンハツチのオートバイ」  先程の女の子らしい聲が峻の足の下で次つぎに高く響いた。丸の内の 街道を通つてゆくらしい自動自轉車の爆音がきこえてゐた。  この町のある醫者がそれに乘つて歸つて來る時刻であつた。その爆音 を聞くと峻の家の近所にゐる女の子は我勝ちに「ハリケンハツチのオー トバイ」と叫ぶ。「オートバイ」と云つてゐる兒もある。  三階の旅館は日覆をいつの間にか外した。  遠い物干臺の赤い張物板ももう見つからなくなつた。  町の屋根からは煙。遠い山からは蜩(ヒグラシ)。 手品と花火  これはまた別の日。  夕飯と風呂を濟ませて峻(タカシ)は城へ登つた。  薄暮の空に、時どき、數里離れた市で花火をあげるのが見えた。氣が つくと綿で包んだやうな音がかすかにしてゐる。それが遠いので間の拔 けた時に鳴つた。いいものを見る、と彼は思つてゐた。  ところへ十七程を頭に三人連れの男の兒が來た。これも食後の涼みら しかつた。峻に氣を兼ねてか靜かに話をしてゐる。  口で教へるのにも氣がひけたので、彼はわざと花火のあがる方を熱心 なふりをして見てゐた。  末遠いパノラマのなかで、花火は星水母(ホシクラゲ)ほどのさやけさに光 つては消えた。海は暮れかけてゐたが、その方はまだ明るみが殘つてゐ た。  暫くすると少年達もそれに氣がついた。彼は心の中で喜んだ。 「四十九」 「ああ。四十九」  そんなことを云ひあひながら、一度あがつて次あがるまでの時間を數 へてゐる。彼はそれらの會話をきくともなしに聞いてゐた。 「××ちやん。花は」 「フロラ」一番年のいつたのがそんなに答へてゐる。−−  城でのそれを憶ひ出しながら、彼は家へ歸つて來た。家の近くまで來 ると、隣家の人が峻の顏を見た。そして慌てたやうに 「歸つておいでなしたぞな」と家へ云ひ入れた。  奇術が何とか座にかかつてゐるのを見にゆかうかと云つてゐたのを、 峻がぽつと出てしまつたので騷いでゐたのである。 「あ。どうも」と云ふと、義兄は笑ひながら 「はつきり云ふとかんのがいかんのやさ」と姉に背負はせた。姉も笑ひ ながら衣服を出しかけた。彼が城へ行つてゐる間に姉も信子(義兄の妹) もこつてり化粧をしてゐた。  姉が義兄に 「あんた、扇子は?」 「衣嚢(カクシ)にあるけど……」 「さうやな。あれも汚れてますで……」  姉が合點合點などしてゆつくり搜しかけるのを、じゆうじゆうと音を させて煙草を呑んでゐた兄は 「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度しやんし」と云つて煙管の詰 つたのを氣にしてゐた。  奧の間で信子の仕度を手傳つてやつてゐた義母が 「さあ、こんなは奈何(ドウ)やな」と云つて團扇(ウチハ)を二三本寄せて持 つて來た。砂糖屋などが配つて行つた團扇である。  姉が種々(イロイロ)と衣服を着こなしてゐるのを見ながら、彼は信子がど んな心持で、またどんな風で着附けをしてゐるだらうなど、奧の間の氣 配に心をやつたりした。  やがて仕度が出來たので峻はさきへ下りて下駄を穿いた。 「勝子(姉夫婦の娘)がそこらにゐますで、よぼつてやつとくなさい」 と義母が云つた。  袖の長い衣服を着て、近所の子等のなかに雜(マジ)つてゐる勝子は、 呼ばれたまま、まだなにか云ひあつてゐる。 「『カ』ちうとこへ行くの」 「かつどうや」 「活動や、活動やあ」と二三人の女の子がはやした。 「ううん」と勝子は首をふつて 「『ヨ』ちつとこへ行くの」とまたやつてゐる。 「ようちえん?」 「いやらし。幼稚園、晩にはあれへんわ」  義兄が出て來た。 「早うお出でな。放つといてゆくぞな」  姉と信子が出て來た。白粉を濃くはいた顏が夕暗に浮んで見えた。さ つきの團扇を一つづつ持つてゐる。 「お待ち遠さま。勝子は。勝子、扇持つてるか」  勝子は小さい扇をちらと見せて纏ひつきかけた。 「そんならお母さん、行つて來ますで……」  姉がさう云ふと 「勝子、歸ろ歸ろ云はんのやんな」と義母は勝子に云つた。 「云はんのやんな」勝子は返事のかはりに口眞似をして峻の手のなかへ 入つて來た。そして峻は手をひいて歩き出した。  往來に涼み臺を出してゐる近所の人びとが、通りすがりに、今晩は、 今晩は、と聲をかけた。 「勝ちやん。此處何て【とこ】?」彼はそんなことを訊いて見た。 「しやうせんかく」 「朝鮮閣?」 「ううん、しやうせんかく」 「朝鮮閣?」 「しやう−せん−かく」 「朝−鮮−閣?」 「うん」と云つて彼の手をぴしやと叩いた。  しばらくして勝子から 「しやせんかく」といひ出した。 「朝鮮閣」  牴牾(モドカ)しいのは此方だ、と云つた風に寸分違はないやうに似せて ゆく。それが遊戲になつてしまつた。しまひには彼が「松仙閣」といつ てゐるのに、勝子の方では知らずに「朝鮮閣」と云つてゐる。信子がそ れに氣がついて笑ひ出した。笑はれると勝子は冠を曲げてしまつた。 「勝子」今度は義兄の番だ。 「ちがひますともわらびます」 「ううん」鼻ごゑをして、勝子は義兄を打つ眞似をした。義兄は知らん 顏で 「ちがひますともわらびます。あれ何やつたな。勝子。一遍峻さんに聞 かしたげなさい」  泣きさうに鼻をならし出したので信子が手をひいてやりながら歩き出 した。 「これ……それから何といふ積りやつたんや?」 「これ、蕨(ワラビ)とは違ひますつて云ふ積りやつたんやなあ」信子がそ んなに云つて庇護(カバ)つてやつた。 「一體何處の人にそんなことを云ふたんやな?」今度は半分信子に訊い てゐる。 「吉峰さんのをぢさんにやなあ」信子は笑ひながら勝子の顏を覗いた。 「まだあつたぞ。もう一つ【どえらい】のがあつたぞ」義兄がおどかす やうにさう云ふと、姉も信子も笑ひ出した。勝子は本式に泣きかけた。  城の石垣に大きな電燈がついてゐて、後ろの木々に皎々(カウカウ)と照つ てゐる。その前の木々は反對に黒ぐろとした蔭になつてゐる。その方で 蝉がヂツヂヂツヂと鳴いた。  彼は一人後ろになつて歩いてゐた。  彼が此の土地へ來てから、かうして一緒に出歩くのは今夜がはじめて であつた。若い女達と出歩く。そのことも彼の經驗では、極めて稀であ つた。彼はなんとなしに幸福であつた。  少し我儘(ワガママ)なところのある彼の姉と觸れ合つてゐる態度に、少 しも無理がなく、−−それを器用にやつてゐるのではなく、生地(キヂ) からの平和な生れ附きでやつてゐる。信子はそんな娘であつた。  義母などの信心から、天理教樣に拜んで貰へと云はれると、素直に拜 んで貰つてゐる。それは指の傷だつたが、そのため評判の琴も彈かない でゐた。  學校の植物の標本を造つてゐる。用事に町へ行つたついでなどに、雜 草をたくさん風呂敷へ入れて歸つて來る。勝子が欲しがるので勝子にも 頒(ワ)けてやつたりなどして、獨りせつせと【おし】をかけてゐる。  勝子が彼女の冩眞帖を引き出して來て、彼のところへ持つて來た。そ れを極り惡さうにもしないで、彼の聞くことを穩かにはきはきと受け答 へする。−−信子はそんな好もしいところを持つてゐた。  今彼の前を、勝子の手を曵いて歩いてゐる信子は、家の中で肩縫揚げ のしてある衣服を着て、足をによきによき出してゐる彼女とまるで違つ て【おとな】に見えた。その隣に姉が歩いてゐる。彼は姉が以前より少 し痩せて、いくらかでも歩き振りがよくなつたと思つた。 「さあ。あんた。先へ歩いて……」  姉が突然後ろを向いて彼に云つた。 「どうして」今までの氣持で訊かなくともわかつてゐたがわざわざと彼 はとぼけて見せた。そして自分から笑つてしまつた。こんな笑ひ方をし たからにはもう後から歩いてゆく譯にはゆかなくなつた。 「早う。氣持が惡いわ。なあ。信ちやん」 「……」笑ひながら信子も點頭(ウナヅ)いた。  芝居小屋のなかは思つたやうに蒸し暑かつた。  水番といふのか、銀杏返(イテフガヘ)しに結つた、年の老(フ)けた婦(ヲンナ) が、座布團を數だけ持つて、先に立つてばたばた敷いてしまつた。平場 の一番後ろで、峻が左の端、中へ姉が來て、信子が右の端、後ろへ兄が 坐つた。丁度幕間で、階下は七分通り詰つてゐた。  先刻の婦が煙草盆を持つて來た。火が埋(ウヅ)んであつて、暑いのに 氣が利かなかつた。立ち去らずに愚圖愚圖(グズグズ)してゐる。何と云 つたらいいか、この手の婦特有な狡猾(ズル)い顏附で、眼をきよろきよ ろさせてゐる。眼顏で火鉢を指したり、そらしたり、兄の顏を盜み見た りする。此方が見てよくわかつてゐるのにと思ひ、財布の銀貨を袂(タモト) の中で出し惱みながら、彼はその無躾(ブシツケ)に腹が立つた。  義兄は落ちついてしまつて、まるで無感覺である。 「へ、お火鉢」婦はこんなことをそわそわ云つてのけて、忙しさうに揉 手(モミデ)をしながらまた眼をそらす。やつと銀貨が出て婦は歸つて行つ た。  やがて幕があがつた。  日本人のやうではない、皮膚の色が少し黒みがかつた男が不熱心に道 具を運んで來て、時どきぢろぢろと觀客の方を見た。ぞんざいで、面白 く思へなかつた。それが濟むと怪しげな名前の印度人が不作法なフロツ クコートを着て出て來た。何かわからない言葉で喋(トヤベ)つた。唾液を とばしてゐる樣子で、褪(サ)めた唇の兩端に白く唾がたまつてゐた。 「なんて云つたの」姉がこんなに訊いた。すると隣の他處(ヨソ)の人も彼 の顏を見た。彼は閉口してしまつた。  印度人は席へ下りて立會人を物色してゐる。一人の男が腕をつかまれ たまま、危(アヤ)ふ氣(ゲ)な羞笑(ハヂワラヒ)をしてゐた。その男はたうとう 舞臺へ連れてゆかれた。  髮の毛を前へおろして、糊の寢た浴衣を着、暑いのに黒足袋(タビ)を 穿いてゐた。にこにこして立つてゐるのを、先程の男が椅子を持つて來 て坐らせた。  印度人は非道(ヒド)い奴であつた。  握手をしようと云つて男の前へ手を出す。男はためらつてゐたが思ひ 切つて手を出した。すると印度人は自分の手を引き込めて、觀客の方を 向き、その男の手振を醜く眞似て見せ、首根つ子を縮めて、嘲笑(アザワラ) つて見せた。毒々しいものだつた。男は印度人を見、自分の元ゐた席の 方を見て、危(アブ)な氣に笑つてゐる。なにか譯のありさうな笑ひ方だ つた。子供か女房かがゐるのぢやないか。堪らない。と峻は思つた。  握手が失敬になり、印度人の惡ふざけは益々性(タチ)がわるくなつた。 見物はその度に笑つた。そして手品がはじまつた。  紐(ヒモ)があつたのは、切つてもつながつてゐるといふ手品。金屬の瓶 があつたのは、いくらでも水が出るといふ手品。−−極く詰らない手品 で、硝子<ガラス>の卓子<テーブル>の上のものは減つて行つた。まだ林檎(リン ゴ)が殘つてゐた。これは林檎を食つて、食つた林檎の切(キレ)が今度は 火を吹いて口から出て來るといふので、試しに例の男が食はされた。皮 ごと食つたといふので、これも笑はれた。  峻はその箸(ハシ)にも棒にもかからないやうな笑ひ方を印度人がする度 に、何故あの男は何とかしないのだらうと思つてゐた。そして彼自身か なり不愉快になつてゐた。  そのうちに不圖、先程の花火が思ひ出されて來た。 「先程の花火はまだあがつてゐるだらうか」そんなことを思つた。  薄明りの平野のなかへ、星水母(ホシクラゲ)ほどに光つては消える遠い市 の花火。海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいものに思へた。 「花は」 「Flora.」  たしかに「Flower.」とは云はなかつた。  その子供といひ、そのパノラマといひ、どんな手品師も敵(カナ)はない やうな立派な手品だつたやうな氣がした。  そんなことが彼の不愉快を段々と洗つて行つた。いつもの癖で、不愉 快な場面を非人情に見る、−−さうすると反對に面白く見えて來る−− その氣持が【もの】になりかけて來た。  下等な道化に獨り腹を立ててゐた先程の自分が、ちよつと滑稽だつた と彼は思つた。  舞臺の上では印度人が、看板畫そつくりの雰圍氣のなかで、口から盛 に火を吹いてゐた。それには怪しげな美しささへ見えた。  やつと濟むと幕が下りた。 「ああ面白かつた」ちよつと嘘のやうな、とつてつけたやうに勝子が云 つた。云ひ方が面白かつたので皆笑つた。−− 美人の宙釣り。 力業。 オペレツト。淺草氣分。 美人胴切。  そんなプログラムで、晩(オソ)く家へ歸つた。 病  氣  姉が病氣になつた。脾腹(ヒバラ)が痛む、そして高い熱が出る。峻は腸 チブスではないかと思つた。枕元で兄が 「醫者さんを呼びに遣らうかな」と云つてゐる。 「まあよろしいわな。【かい】蟲かも知れませんで」そして峻にともつ かず兄にともつかず 「昨日あないに暑かつたのに、歩いて歸つて來る道で汗がちつとも出な んだの」と弱よわしく云つてゐる。  その前の日の午後、少し浮かぬ顏で遠くから歸つて來るのが見え、勝 子と二人で窓からふざけながら囃(ハヤ)し立てた。 「勝子、あれ何處の人?」 「あら。お母さんや。お母さんや」 「嘘いへ。他所(ヨソ)のをばさんだよ。見ておいで。家へは這入(ハイ)らな いから」  その時の顏を峻は思ひ出した。少し變だつたことは少し變だつた。家 のなかばかりで見慣れてゐる家族を、不圖(フト)往來で他所目(ヨソメ)に見 る−−そんな珍らしい氣持で見た故と峻は思つてゐたが、少し力がない やうでもあつた。  醫者が來て、矢張りチブスの疑ひがあると云つて歸つた。峻は階下で 困つた顏を兄とつき合せた。兄の顏には苦しい微笑が凝つてゐた。  腎臟の故障だつたことがわかつた。舌の苔がなんとかで、と云つて明 瞭にチブスとも云ひ兼ねてゐた由を云つて、醫者も元氣に歸つて行つた。  此の家へ嫁(トツ)いで來てから、病氣で寢たのはこれで二度目だと姉が 云つた。 「一度は北牟婁(キタムロ)で」 「あの時は弱つたな。近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四 里程の道を自轉車で走つて、叩き起して買うたのはまあよかつたやさ。 風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結へつけて戻つて來たら、擦れとりまし てな、これだけ程になつとつた」  兄はその手つきをして見せた。姉の熱のグラフにしても、二時間おき 程の正確なものを造らうとする兄だけあつて、その話には兄らしい味が 出てゐて峻も笑はされた。 「その時は?」 「【かい】蟲をわかしとりましたんぢや」  −−一つには峻自身の不檢束(フシダラ)な生活から、彼は一度肺を惡く したことがあつた。その時義兄は北牟婁でその病氣が癒るやうにと神詣 でをして呉れた。病氣が稍々よくなつて、峻は一度その北牟婁の家へ行 つたことがあつた。其處は山のなかの寒村で、村は百姓と木樵(キコリ)で、 養蠶などもしてゐた。冬になると家の近くの畑まで猪('イノシシ)が芋を堀 りに來たりする。芋は百姓の半分常食になつてゐた。その時はまだ勝子 も小さかつた。近所のお婆さんが來て、勝子の繪本を見ながら講釋して ゐるのに、象のことを鼻捲き象、猿のことを【山の若い衆】とか【やゑ ん】とか呼んでゐた。苗字(メウジ)のないといふ兒がゐるので聞いて見る と木樵の子だからと云つて村の人は當然な顏をしてゐる。小學校には生 徒から名前の呼び棄てにされてゐる、薫といふ校長の娘が教師をしてゐ た。まだそれが十六七の年頃だつた。−−  北牟婁はそんな處であつた。峻は北牟婁での兄の話には興味が持てた。  北牟婁にゐた時、勝子が川へ陷(ハマ)つたことがある。その話が兄の口 から出て來た。  −−兄が心臟脚氣で寢てゐた時のことである。七十を越した、兄の祖 母で、勝子の曾祖母にあたるお祖母(バア)さんが、勝子を連れて川へ茶 碗を漬けに行つた。その川といふのが急な川で、狹かつたが底はかなり 深かつた。お祖母さんは、何時でも兄達が捨てておけといふのに、姉が 留守だつたりすると、勝子などを抱き度がつた。その時も姉は外出して ゐた。  はあ、出て行つたな。と寢床の中で思つてゐると、暫くして變な聲が したので、あつと思つた儘(ママ)、ひかれるやうに大病人が起きて出た。 川は直ぐ近くだつた。見ると、お祖母さんが變な顏をして、「勝子が」 と云つたのだが、そして一生懸命に云はうとしてゐるのだが、そのあと が云へない。 「お祖母さん。勝子が何とした!」 「……」手の先だけが激しくそれを云つてゐる。  勝子が川を流れてゆくのが見えてゐるのだ! 川は丁度雨のあとで水 かさが増してゐた。先に石の橋があつて、水が板石とすれすれになつて ゐる。その先には川の曲るところがあつて、其處は何時も渦が卷いてゐ る所だ。川はそこを曲つて深い沼のやうな所へ入る。橋か曲り角で頭を 打ちつけるか、流れて行つて沼へ沈みでもしやうものなら助からないと ころだつた。  兄はいきなり川へ跳び込んで、あとを追つた。橋までに捕へるつもり だつた。  病氣の身だつた。それでもやつと橋の手前で捕へることは出來た。然 し流れがきつくて橋を力に上らうと思つても到底駄目だつた。板石と水 の隙間は、やつと勝子の頭位は通せる程だつたので、兄は勝子を差し上 げながら水を潛り、下手でやうやくあがれたのだつた。勝子はぐつたり となつてゐた。逆にしても水を吐かない。兄は氣が氣でなく、しきりに 勝子の名を呼びながら、背中を叩いた。  勝子はけろりと氣がついた。氣がついたが早いか、立つと直ぐ踊り出 したりするのだ。兄はばかにされたやうで何だか變だつた。 「このべべ何としたんや」と云つても濡れた衣服をひつぱつて見ても 「知らん」と云つてゐる。足が滑つた拍子に氣絶してをつたので、全く 溺れたのではなかつたと見える。  そして、何とまあ、何時(イツ)もの顏で踊つてゐるのだ。−−  兄の話のあらましはこんなものだつた。丁度近所の百姓家が晝寢の時 だつたので、自分がその時起きてゆかなければどんなに危嶮だつたかと も云つた。  話してゐる方も聞いてゐる方も惹(ヒ)き入れられて、兄が口をつぐむ と、靜かになつた。 「わたしが歸つて行つたらお祖母さんと三人で門で待つてはるの」姉が そんなことを云つた。 「何やら家にゐてられなんだわさ。着物を着かへてお母ちやんを待つと ろと云うたりしてなあ」 「お祖母さんが【ぼけ】はつたのはあれからでしたな」姉は聲を少しひ そませて意味の籠つた眼を兄に向けた。 「それがあつてからお祖母さんが一寸(チヨツト)【ぼけ】みたいになりまし てなあ。何時まで經つてもこれに(と云つて姉を指し)【よしやん】に 濟まん、よしやんに濟まんと云ひましてなあ」 「なんのお祖母さん、そんなことがあらうかさ、と云つてゐるのに……」  それからのお祖母さんは目に見えて【ぼけ】て行つて一年程經つてか ら死んだ。  峻にはそのお祖母さんの運命がなにか慘酷な氣がした。それが故郷で はなく、勝子のお守りでもする氣で出かけて行つた北牟婁の山の中だつ ただけに、もう一つその感じは深かつた。  峻が北牟婁へ行つたのは、その事件の以前であつた。お祖母さんは勝 子の名前を、その當時もう女學校へ上つてゐた筈の信子の名と、よく呼 び違へた。信子はその當時母などと此方にゐた。まだ信子を知らなかつ た峻には、お祖母さんが呼び違へる度毎に、信子といふ名を持つた十四 五の娘が頭に親しく想像された。 勝  子  峻(タカシ)は原つぱに面した窓に倚(ヨ)りかかつて外を眺めてゐた。  灰色の雲が空一帶を罩(コ)めてゐた。それはずつと奧深くも見え、ま た地上低く垂れ下つてゐるやうにも思へた。  あたりのものはみな光を失つて靜まつてゐた。ただ遠い病院の避雷針 だけが、どうしたはずみか白く光つて見える。  原つぱのなかで子供が遊んでゐた。見てゐると勝子もまじつてゐた。 男の兒が一人ゐて、なにか荒い遊びをしてゐるらしかつた。  勝子が男の兒に倒された。起きたところをまた倒された。今度はぎう ぎう押へつけられてゐる。  一體何をしてゐるのだらう。なんだかひどいことをする。さう思つて 峻は目をとめた。  それが濟むと今度は女の子連中が−−それは三人だつたが、改札口へ 竝ぶやうに男の兒の前へ立つた。變な切符切りがはじまつた。女の子の 差し出した手を、その男の兒がやけに引つ張る。その女の子は地面へ叩 きつけられる。次の子も手を出す。その手も引つ張られる。倒された子 は起きあがつて、また列の後ろへつく。  見てゐるとかうであつた。男の兒が手を引つ張る力加減に變化がつく。 女の子の方ではその強弱をおつかなびつくりに期待するのが面白いのら しかつた。  強く引くのかと思ふと、身體つきだけ強さうにして輕く引つ張る。す ると次はいきなり叩きつけられる。次はまた、手を持つたといふ位の輕 さで通す。  男の兒は小さい癖にどうかすると大人の−−それも木挽(コビ)きとか 石工とかの恰好そつくりに見えることのある兒で、今もなにか鼻唄でも 歌ひながらやつてゐるやうに見える。そしていかにも得意氣であつた。  見てゐるとやはり勝子だけが一番餘計強くされてゐるやうに思へた。 彼にはそれが惡くとれた。勝子は婉曲('エンキヨク)に意地惡されてゐるのだ な。−−さう思ふのには、一つは勝子が我儘で、よその子と遊ぶのにも 決して【いい子】にならないからでもあつた。  それにしても勝子にはあの不公平がわからないのかな。いや、あれが わからない筈はない。寧ろ勝子にとつては、わかつてはゐながら痩我慢 を張つてゐるのが本當らしい。  そんなに思つてゐるうちにも、勝子はまたこつぴどく叩きつけられた。 痩我慢を張つてゐるとすれば、倒された拍子に地面と睨(ニラ)めつこをし てゐる時の顏附は、一體どんなだらう。−−立ちあがる時には、もうほ かの子と同じやうな顏をしてゐるが。  よく泣き出さないものだ。  男の兒が不圖した拍子にこの窓を見るかも知れないからと思つて彼は 窓のそばを離れなかつた。  奧の知れないやうな曇り空のなかを、きらりきらり光りながら過(ヨギ) つてゆくものがあつた。  鳩?  雲の色にぼやけてしまつて、姿は見えなかつたが、光の反射だけ、鳥 にすれば三羽程、鳩一流の何處に【あて】があるともない飛び方で舞つ てゐた。 「あゝあ。勝子のやつ奴(メ)、勝手に注文して強くして貰つてゐるのぢ やないかな」そんなことがふつと思へた。何時か峻が抱きすくめてやつ た時、「もつとぎうつと」と何度も抱きすくめさせた。その時のことが 思ひ出せたのだつた。さう思へばそれもいかにも勝子のしさうなことだ つた。峻は窓を離れて部屋のなかへ這入つた。  夜、夕飯が濟んで暫くしてから、勝子が泣きはじめた。峻は二階でそ れを聞いてゐた。しまひにはそれを鎭める姉の聲が高くなつて來て、勝 子もあたりかまはず泣きたてた。あまり聲が大きいので峻は下へおりて 行つた。信子が勝子を抱いてゐる。勝子は片手を電燈の眞下へ引き寄せ られて、針を持つた姉が、掌(テノヒラ)へ針を持つてゆかうとする。 「そとへ行つて棘(トゲ)を立てて來ましたんや。知らんとをつたのが御 飯を食べるとき醤油が染みてな」義母がさう峻に云つた。 「もつとぎうとお出し」姉は怒つてしまつて、邪慳(ジヤケン)に掌を引つ 張つてゐる。その度に勝子は火の附くやうに泣聲を高くする。 「もう知らん、放つといてやる」しまひに姉は掌を振り離してしまつた。 「今は仕樣ないで、××膏をつけてくくつとかうよ」義母が取りなすや うに云つてゐる。信子が藥を出しに行つた。峻は勝子の泣聲に閉口して また二階へあがつた。  藥をつけるのに勝子の泣聲はまだ鎭まらなかつた。 「棘はどうせあの時立てたに違ひない」峻は晝間のことを思ひ出してゐ た。ぴしやつと地面へうつつぶせになつた時の勝子の顏はどんなだつた らう、といふ考へがまた蘇(ヨミガヘ)つて來た。 「ひよつとしてあの時の痩我慢を破裂させてゐるのかも知れない」そん なことを思つて聞いてゐると、その火のつくやうな泣聲が、なにか悲し いもののやうに峻には思へた。 晝と夜  彼は或る日城の傍の崖の蔭に立派な井戸があるのを見つけた。  其處は昔の士(サムラヒ)の屋敷跡のやうに思へた。畑とも庭ともつかない 地面には、梅の老木があつたり南瓜(カボチヤ)が植ゑてあつたり紫蘇(シソ) があつたりした。城の崖からは太い逞しい喬木や古い椿が緑の衝立(ツイタ テ)を作つてゐて、井戸はその蔭に坐つてゐた。  大きな井桁('イゲタ)、堂々とした石の組み樣、がつしりしてゐて立派 であつた。  若い女の人が二人、洗濯物を大盥(オオタラヒ)で濯(スス)いでゐた。  彼のゐた所からは見えなかつたが、その仕掛は【はね】釣瓶(ツルベ)に なつてゐるらしく、汲みあげられて來る水は大きい木製の釣瓶桶に溢れ、 樹々の緑が瑞(ミヅ)みづしく映つてゐる。盥の方の女の人が待つ【ふり】 をすると、釣瓶の方の女の人は水を空けた。盥の水が踊り出して水玉の 虹がたつ。其處へも緑は影を映して、美しく洗はれた花崗岩の疊石の上 を、また女の人の素足の上を水は豐かに流れる。  羨ましい、素晴らしく幸福さうな眺めだつた。涼しさうな緑の衝立の 蔭。確かに清冽で豊かな水。なんとなく魅せられた感じであつた。 けふは青空よい天氣 まへの家でも隣でも 水汲む洗ふ掛ける干す。  國定教科書にあつたのか小學唱歌にあつたのか、少年の時に歌つた歌 の文句が憶ひ出された。その言葉にはたくみも感ぜられなかつたけれど、 彼が少年だつた時代、その歌によつて抱いた【しん】に朗らかな新鮮な 想像が、思ひがけず彼の胸におし寄せた。 かあかあ烏が鳴いてゆく、 お寺の屋根へ、お宮の森へ、 かあかあ烏が鳴いてゆく。  それには畫がついてゐた。  また「四方」とかいふ題で、子供が朝日の方を向いて手を擴げてゐる 圖などの記憶が、次つぎ憶ひ出されて來た。  國定教科書の肉筆めいた楷書の活字。また何といふ畫家の手に成つた ものか、角のないその字體と感じのまるで似た、子供といへば圓顏の優 等生のやうな顏をしてゐると云つた風の、插畫のこと。 「何とか【權所有】」それをゴンシヨイウと、人の前では讀まなかつた が、心のなかで假に極めて讀んでゐたこと。そのなんとか【權所有】の、 これもさう思へば國定教科書に似つかはしい、手紙の文例の宛名のやう な、人の名。そんな奧附の有樣までが憶ひ出された。  −−少年の時にはその畫の通りの所が何處かにあるやうな氣がしてゐ た。さうした單純に正直な兒が何處かにゐるやうな氣がしてゐた。彼に はそんなことが思はれた。  それ等はなにかその頃の憧憬の對象でもあつた。單純で、平明で、健 康な世界。−−今その世界が彼の前にある。思ひもかけず、こんな田舍 ('イナカ)の緑樹の蔭に、その世界はもつと新鮮な形を具へて存在してゐる。  そんな國定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の營むべき生活が指唆(シ サ)されたやうな氣がした。  −−食つてしまひ度くなるやうな風景に對する愛着と、幼い時の回顧 や新らしい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。また時どき寢ら れない夜が來た。  寢られない夜のあとでは、一寸したことに直ぐ底熱い昂奮が起きる。 その昂奮がやむと道端でもかまはない直ぐ横になり度いやうな疲勞が來 る。そんな昂奮は楓(カヘデ)の肌を見てさへ起つた。−−  楓樹の肌が冷えてゐた。城の本丸の彼が何時も坐るベンチの後ろでで あつた。  根方に松葉が落ちてゐた。その上を蟻(アリ)が清らかに匍(ハ)つてゐた。  冷たい楓の肌を見てゐると、【ひぜん】のやうについてゐる蘚(コケ)の 模樣が美しく見えた。  子供の時の茣蓙(ゴザ)遊びの記憶−−殊にその感觸が蘇つた。  やはり楓の樹の下である。松葉が散つて蟻が匍つてゐる。地面には 【でこぼこ】がある。そんな上へ茣蓙を敷いた。 「子供といふものは確かにあの土地の【でこぼこ】を冷たい茣蓙の下に 感じる蹠(アシウラ)の感覺の快さを知つてゐるものだ。そして茣蓙を敷くや 否や直ぐその上へ跳び込んで、着物ぐるみ【ぢか】に地面の上へ轉がれ る自由を樂しんだりする」そんなことを思ひながら彼は直ぐにも頬ぺた を楓の肌につけて冷して見たいやうな衝動を感じた。 「やはり疲れてゐるのだな」彼は手足が輕く熱を持つてゐるのを知つた。 *  *  *  *  * 「私はお前にこんなものをやらうと思ふ。 一つはゼリーだ。ちよつとした人の足音にさへいくつもの波紋が起 り、風が吹いて來ると漣(サザナミ)をたてる。色は海の青色で−−御 覽そのなかをいくつも魚が泳いでゐる。 もう一つは窓掛けだ。織物ではあるが秋草が茂つてゐる叢(クサムラ)に なつてゐる。またそこには見えないが、色づきかけた銀杏(イテフ)の 木がその上に生えてゐる氣持。風が來ると草がさわぐ。そして、御 覽。尺取蟲が枝から枝を匍つてゐる。 この二つをお前にあげる。まだ出來あがらないから待つてゐるがい い。そして詰らない時には、ふつと思ひ出して見るがいい。きつと 愉快になるから。」  彼は或る日葉書へそんなことを書いてしまつた、勿論遊戲ではあつた が。そして此の日頃の晝となし夜となしに、時どきふと感じる氣持のむ づかゆさを幾分はかせたやうな氣がした。夜、靜かに寢られないでゐる と、空を五位が啼(ナ)いて通つた。ふとするとその聲が自分の身體の何 處かでしてゐるやうに思はれることがある。蟲の啼く聲などもへんに部 屋の中でのやうに聞える。 「はあ、來るな」と思つてゐると【えたい】の知れない氣持が起つて來 る。−−これは此頃眠れない夜のお極まりのコースであつた。  變な氣持は、電燈を消し眼をつぶつてゐる彼の眼の前へ、物が盛に運 動する氣配を感じさせた。尨大(ボウダイ)なものの氣配が見るうちに裏返 つて微塵(ミジン)程になる。確かどこかで觸つたことのあるやうな、口へ 含んだことのあるやうな運動である。廻轉機のやうに絶えず廻つてゐる やうで、寢てゐる自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方に あるやうな氣持に直ぐそれが捲き込まれてしまふ。本などを讀んでゐる と時とすると字が小さく見えて來ることがあるが、その時の氣持にすこ し似てゐる。ひどくなると一種の恐怖さへ伴つて來て眼を閉(フサ)いでは ゐられなくなる。  彼は此頃それが妖術が使へさうになる氣持だと思ふことがあつた。そ れはこんな妖術であつた。  子供の時、弟と一緒に寢たりなどすると、彼はよくうつつ伏せになつ て兩手で墻(カキ)を作りながら(それが牧場の積りであつた) 「芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と云ひながら弟をだました。兩手に かこまれて、顏で蓋(フタ)をされた、敷布の上の暗黒のなかに、さう云へ ばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだつた。−−彼は今そんなこと は本當に可能だといふ氣がした。  田園、平野、市街、市場、劇場。船着場や海。さう云つた廣大な、人 や馬車や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなか へ現れて呉れるといい。そしてそれが今にも見えて來さうだつた。耳に もその騷音が傳はつて來るやうに思へた。  葉書へいたづら書をした彼の氣持も、その變てこなむづ痒(ガユ)さか ら來てゐるのだつた。 雨  八月も終りになつた。  信子は明日市の學校の寄宿舍へ歸るらしかつた。指の傷が癒つたので、 天理樣へ御禮に行つて來いと母に云はれ、近所の人に連れられて、その お禮も濟ませて來た。その人がこの近所では最も熱心な信者だつた。 「荷札は?」信子の大きな行李を縛つてやつてゐた兄がさう云つた。 「何を立つて見とるのや」兄が怒つたやうにからかふと、信子は笑ひな がら搜しに行つた。 「ないわ」信子がそんなに云つて歸つて來た。 「カフスの古いので作つたら……」と彼が云ふと、兄は 「いや、まだたくさんあつた筈や。あの抽出(ヒキダ)し見たか」信子は見 たと云つた。 「勝子がまた藏(シマ)ひ込んどるんやないかいな。一遍見てみ」兄がそん なに云つて笑つた。勝子は自分の抽出しへ極く下らないものまで拾つて 來ては藏ひ込んでゐた。 「荷札なら此處や」母がさう云つて、それ見たかといふやうな輕い笑顏 をしながら持つて來た。 「やつぱり年寄がをらんとあかんて」兄はそんな情愛の籠つたことを云 つた。  晩には母が豆を煎(イ)つてゐた。 「峻さん。あんたにこんなのはどうですな」そんなに云つて煎りあげた のを彼の方へ寄せた。 「信子が寄宿舍へ持つて歸るお土産(ミヤゲ)です。一升程も持つて歸つて も、ぢきにぺろつと失くなるのやさうで……」  峻が話を聽きながら豆を咬んでゐると、裏口で音がして信子が歸つて 來た。 「貸して呉れはつたか」 「はあ。裏へおいといた」 「雨が降るかも知れんで、ずつとなかへ引き込んでおいで」 「はあ。ひき込んである」 「吉峰さんのをばさんがあしたお歸りですかて……」信子は何かをかし さうに言葉を杜斷(トギ)らせた。 「あしたお歸りですかて?」母が聞きかへした。  吉峰さんの小母さんに「何時お歸りです。あしたお歸りですか」と訊 かれて、信子が間誤(マゴ)ついて「ええ、あしたお歸りです」と云つた といふ話だつた。母や彼が笑ふと、信子は少し顏を赧(アカ)くした。  借りて來たのは乳母車だつた。 「明日一番で立つのを、行李乘せて停車場まで送つて行(イ)てやります」 母がそんなに云つて譯を話した。  大變だな、と彼は思つてゐた。 「勝子も行くて?」信子が訊くと、 「行くのやと云うて、今夜は早うからおやすみや」と母が云つた。  彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符 を買つて、先へ手荷物で送つてしまつたらいいと思つて、 「僕、今から持つて行つて來ませうか」と云つて見た。一つには、彼自 身【體裁屋】なので、年頃の信子の氣持を先廻りした積りであつた。然 し母と信子があまり「かまはない、かまはない」と云ふのであちらまか せにしてしまつた。  母と娘と姪(メイ)が、夏の朝の明方を三人で、一人は乳母車をおし、一 人は【いでたち】をした一人に手を曵かれ、停車場へ向つてゆく、その 出發を彼は心に浮べて見た。美しかつた。 「お互の心の中でさうした出發の樂しさを【あて】にしてゐるぢやなか らうか」そして彼は心が清く洗はれるのを感じた。  夜はその夜も眠りにくかつた。  十二時頃夕立がした。その續きを彼は心持ちに寢てゐた。  暫くするとそれが遠くからまた歩み寄せて來る音がした。  蟲の聲が雨の音に變つた。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎ て行つた。  蚊帳(カヤ)をまくつて起きて出、雨戸を一枚繰つた。  城の本丸に電燈が輝いてゐた。雨に光澤を得た樹の葉がその灯の下で 數知れない魚鱗のやうな光を放つてゐた。  また夕立が來た。彼は閾(シキ'イ)の上へ腰をかけ、雨で足を冷した。  眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒<ポンプ> へ水を汲みに來た。  雨の脚が強くなつて、【とゆ】がごくりごくり喉を鳴らし出した。  氣がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたつて行つた。  信子の着物が物干竿にかかつたまま雨の中にあつた。筒袖の、平常着 てゐた【ゆかた】で彼の一番眼に慣れた着物だつた。その故か、見てゐ ると不思議な位信子の身體つきが髣髴(ホウフツ)とした。  夕立はまた町の方へ行つてしまつた。遠くでその音がしてゐる。 「チン、チン」 「チン、チン」  鳴きだしたこほろぎの聲にまじつて、質の緻密な玉を硬度の高い金屬 ではじくやうな蟲も鳴き出した。  彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が來るのを待 つてゐた。 千九百二十五年一月 (大正十四年二月発行『青空』二号収録作品)