PDD図書館管理番号 0000.0000.0219.30 ( ) はひらがなのルビ。 浦島さん 太宰 治:作  浦島太郎という人は、丹後(タンゴ)の水江(ミズノエ)とかいうところに実 在していたようである。丹後といえば、いまの京都府の北部である。あ の北海岸の某寒村に、いまもなお、太郎をまつった神社があるとかいう 話を聞いた事がある。私はその辺に行ってみた事が無いけれども、人の 話に依(ヨ)ると、何だかひどく荒涼たる海浜らしい。そこにわが浦島太 郎が住んでいた。もちろん、ひとり暮しをしていたわけではない。父も 母もある。弟も妹もある。また、おおぜいの召使いもいる。つまり、こ の海岸で有名な、旧家の長男であったわけである。旧家の長男というも のには、昔も今も一貫した或る特徴があるようだ。趣味性、すなわち、 之(コレ)である。善(ヨ)く言えば、風流。悪く言えば、道楽。しかし、道 楽とは言っても、女狂いや酒びたりの所謂(イワユル)、放蕩(ホウトウ)とは大い に趣きを異にしている。下品にがぶがぶ大酒を飲んで素姓の悪い女にひっ かかり、親兄弟の顔に泥を塗るというような荒(スサ)んだ放蕩者は、次男、 三男に多く見掛けられるようである。長男にはそんな野蛮性が無い。先 祖伝来の所謂恆産(コウサン)があるものだから、おのずから恆心も生じて、 なかなか礼儀正しいものである。つまり、長男の道楽は、次男三男の酒 乱の如(ゴト)くムキなものではなく、ほんの片手間の遊びである。そう して、その遊びに依って、旧家の長男にふさわしいゆかしさを人に認め てもらい、みずからもその生活の品位にうっとりする事が出来たら、そ れでもうすべて満足なのである。 「兄さんには冒険心が無いから、駄目ね。」とことし十六のお転婆(テン バ)の妹が言う。「ケチだわ。」 「いや、そうじゃない。」と十八の乱暴者の弟が反対して、「男振りが よすぎるんだよ。」  この弟は、色が黒くて、ぶおとこである。  浦島太郎は、弟妹たちのそんな無遠慮な批評を聞いても、別に怒りも せず、ただ苦笑して、 「好奇心を爆発させるのも冒険、また、好奇心を抑制するのも、やっぱ り冒険、どちらも危険さ。人には、宿命というものがあるんだよ。」と 何の事やら、わけのわからんような事を悟り澄ましたみたいな口調で言 い、両腕をうしろに組み、ひとり家を出て、あちらこちら海岸を逍遙(ショ ウヨウ)し、 苅薦(カリゴモ)の 乱れ出(イ)づ 見ゆ 海人(アマ)の釣船  などと、れいの風流めいた詩句の断片を口ずさみ、 「人は、なぜお互い批評し合わなければ、生きて行けないのだろう。」 という素朴の疑問に就(ツ)いて鷹揚(オウヨウ)に首を振って考え、「砂浜の 萩(ハギ)の花も、這(ハ)い寄る小蟹(コガニ)も、入江に休む鴈(カリ)も、何も この私を批評しない。人間も、須(スベカラ)くかくあるべきだ。人おのお の、生きる流儀を持っている。その流儀を、お互い尊敬し合って行く事 が出来ぬものか。誰にも迷惑をかけないように努めて上品な暮しをして いるのに、それでも人は、何のかのと言う。うるさいものだ。」と幽(カ ス)かな溜息(タメイキ)をつく。 「もし、もし、浦島さん。」とその時、足許(アシモト)で小さい声。  これが、れいの問題の亀(カメ)である。別段、物識(モノシ)り振るわけで はないが、亀にもいろいろの種類がある。淡水に住むものと、鹹水(カンス イ)に住むものとは、おのずからその形状も異っているようだ。弁天様の 池畔(チハン)などで、ぐったり寝そべって甲羅(コウラ)を干しているのは、あ れは、いしがめとでもいうのであろうか、絵本には時々、浦島さんが、 あの石亀の背に乗って小手(コテ)をかざし、はるか竜宮を眺(ナガ)めてい る絵があるようだが、あんな亀は、海へ這入(ハイ)ったとたんに鹹水にむ せて頓死(トンシ)するだろう。しかし、お祝言(シュウゲン)の時などの島台の、 れいの蓬莱山(ホウライサン)、尉姥(ジョウバ)の身辺に鶴(ツル)と一緒に侍(ハベ)っ て、鶴は千年、亀は万年とか言われて目出度(メデタ)がられているのは、 どうやらこの石亀のようで、すっぽん、たいまいなどのいる島台はあま り見かけられない。それゆえ、絵本の画伯もつい、(蓬莱も竜宮も、同 じ様な場所なんだから)浦島さんの案内役も、この石亀に違いないと思 い込むのも無理のない事である。しかしどうも、あの爪(ツメ)の生(ハ)え たぶざいくな手で水を掻(カ)き、海底深くもぐって行くのは、不自然の ように思われる。ここはどうしても、たいまいの手のような広い鰭状(ヒ レジョウ)の手で悠々(ユウユウ)と水を掻きわけてもらわなくてはならぬところ だ。しかしまた、いや決して物識り振るわけではないが、ここにもう一 つ困った問題がある。たいまいの産地は、本邦では、小笠原(オガサワラ)、 琉球(リュウキュウ)、台湾などの南の諸地方だという話を聞いている。丹後の 北海岸、すなわち日本海のあの辺の浜には、たいまいは、遺憾ながら這 (ハ)い上って来そうも無い。それでは、いっそ浦島さんを小笠原か、琉 球のひとにしようかとも思ったが、しかし、浦島さんは昔から丹後の水 江の人ときまっているらしく、その上、丹後の北海岸には浦島神社が現 存しているようだから、いかにお伽噺(トギバナシ)は絵空事(エソラゴト)とき まっているとは言え、日本の歴史を尊重するという理由からでも、そん なあまりの軽々しい出鱈目(デタラメ)は許されない。どうしても、これは、 小笠原か琉球のたいまいに、日本海までおいでになってもらわなければ ならぬ。しかしまた、それは困る、と生物学者のほうから抗議が出て、 とかく文学者というものには科学精神が欠如している、などと軽蔑(ケイベ ツ)せられるのも不本意である。そこで、私は考えた。たいまいの他(ホカ) に、掌の鰭状を為(ナ)している鹹水産の亀は、無いものか。赤海亀、と かいうものが無かったか。十年ほど前、(私も、としをとったものだ) 沼津の海浜の宿で一夏を送った事があったけれども、あの時、あの浜に、 甲羅の直径五尺ちかい海亀があがったといって、漁師たちが騒いで、私 もたしかにこの眼で見た。赤海亀、という名前だったと記憶する。あれ だ。あれにしよう。沼津の浜にあがったのならば、まあ、ぐるりと日本 海のほうにまわって、丹後の浜においでになってもらっても、そんなに 生物学界の大騒ぎにはなるまいだろうと思われる。それでも潮流がどう のこうのとか言って騒ぐのだったら、もう、私は知らぬ。その、おいで になるわけのない場所に出現したのが、不思議さ、ただの海亀ではある まい、と言って澄ます事にしよう。科学精神とかいうものも、あんまり、 あてになるものじゃないんだ。定理、公理も仮説じゃないか。威張っちゃ いけねえ。ところで、その赤海亀は、(赤海亀という名は、ながったら しくて舌にもつれるから、以下、単に亀と呼称する)頸(クビ)を伸ばし て浦島さんを見上げ、 「もし、もし。」と呼び、「無理もねえよ。わかるさ。」と言った。浦 島は驚き、 「なんだ、お前。こないだ助けてやった亀ではないか。まだ、こんなと ころに、うろついていたのか。」  これがつまり、子供のなぶる亀を見て、浦島さんは可哀想(カワイソウ)に と言って買いとり海へ放してやったという、あの亀なのである。 「うろついていたのか、とは情無い。恨むぜ、若旦那(ワカダンナ)。私は、 こう見えても、あなたに御恩がえしをしたくて、あれから毎日毎晩、こ の浜へ来て若旦那のおいでを待っていたのだ。」 「それは、浅慮というものだ。或いは、無謀とも言えるかも知れない。 また子供たちに見つかったら、どうする。こんどは、生きては帰られま い。」 「気取っていやがる。また捕(ツカ)まえられたら、また若旦那に買っても らうつもりさ。浅慮で悪うござんしたね。私は、どうしたって若旦那に、 もう一度お目にかかりたかったんだから仕様がねえ。この仕様がねえ、 というところが惚(ホ)れた弱味よ。心意気を買ってくんな。」  浦島は苦笑して、 「身勝手な奴(ヤツ)だ。」と呟(ツブヤ)く。亀は聞きとがめて、 「なあんだ、若旦那。自家撞着(ジカドウチャク)していますぜ。さっきご自 分で批評がきらいだなんておっしゃってた癖に、ご自分では、私の事を 浅慮だの無謀だの、こんどは身勝手だの、さかんに批評してやがるじゃ ないか。若旦那こそ身勝手だ。私には私の生きる流儀があるんですから ね。ちっとは、みとめて下さいよ。」と見事に逆襲した。  浦島は赤面し、 「私のは批評ではない、これは、訓戒というものだ。諷諌(フウカン)、といっ てもよかろう。諷諌、耳に逆うもその行を利す、というわけのものだ。」 ともっともらしい事を言ってごまかした。 「気取らなけれあ、いい人なんだが。」と亀は小声で言い、「いや、も う私は、何も言わん。私のこの甲羅の上に腰かけて下さい。」  浦島は呆(アキ)れ、 「お前は、まあ、何を言い出すのです。私はそんな野蛮な事はきらいで す。亀の甲羅に腰かけるなどは、それは狂態と言ってよかろう。決して 風流の仕草ではない。」 「どうだっていいじゃないか、そんな事は。こっちは、先日のお礼とし て、これから竜宮城へ御案内しようとしているだけだ。さあ早く私の甲 羅に乗って下さい。」 「何、竜宮?」と言って噴(フ)き出し、「おふざけでない。お前はお酒 でも飲んで酔っているのだろう。とんでもないことを言い出す。竜宮と いうのは昔から、歌に詠(ヨ)まれ、また神仙譚(シンセンタン)として伝えられ ていますが、あれはこの世には無いもの、ね、わかりますか? あれは、 吉来、私たち風流人の美しい夢、あこがれ、と言ってもいいでしょう。」 上品すぎて、少しきざな口調になった。  こんどは亀のほうで噴き出して、 「たまらねえ。風流の講釈は、あとでゆっくり伺いますから、まあ、私 の言う事を信じてとにかく私の甲羅に乗って下さい。あなたはどうも冒 険の味を知らないからいけない。」 「おや、お前もやっぱり、うちの妹と同じ様な失礼な事を言うね。いか にも私は、冒険というものはあまり好きでない。たとえば、あれは、曲 芸のようなものだ。派手なようでも、やはり下品(ゲボン)だ。邪道、と 言っていいかも知れない。宿命に対する諦観(テイカン)が無い。伝統に就(ツ) いての教養が無い。めくら蛇(ヘビ)におじず、とでもいうような形だ。 私ども正統の風流の士のいたく顰蹙(ヒンシュク)するところのものだ。軽蔑 している、と言っていいかも知れない。私は先人のおだやかな道を、まっ すぐに歩いて行きたい。」 「ぷ!」と亀はまた噴き出し、「その先人の道こそ、冒険の道じゃあり ませんか。いや、冒険なんて下手(ヘタ)な言葉を使うから何か血なまぐさ くて不衛生な無頼漢みたいな感じがして来るけれども、信じる力とでも 言い直したらどうでしょう。あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲い ていると信じ得た人だけが、何の躊躇(チュウチョ)もなく藤蔓(フジヅル)にす がって向う側に渡って行きます。それを人は曲芸かと思って、或いは喝 采(カッサイ)し、或いは何の人気取りめがと顰蹙します。しかし、それは絶 対に曲芸師の綱渡りとは違っているのです。藤蔓にすがって谷を渡って いる人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冒険をし ているなんて、そんな卑俗な見栄(ミエ)みたいなものは持ってやしないん です。なんの冒険が自慢になるものですか。ばかばかしい。信じている のです。花のある事を信じ切っているのです。そんな姿を、まあ、仮に 冒険と呼んでいるだけです。あなたに冒険心が無いというのは、あなた には信じる能力が無いという事です。信じる事は、下品(ゲボン)ですか。 信じる事は、邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は、信じない事を誇 りにして生きているのだから、しまつが悪いや。それはね、頭のよさじゃ ないんですよ。もっと卑しいものなのですよ。吝嗇(リンショク)というもの です。損をしたくないという事ばかり考えている証拠ですよ。御安心な さい。誰も、あなたに、ものをねだりやしませんよ。人の深切(シンセツ)を さえ、あなたたちは素直に受け取る事を知らないんだからなあ。あとの お返しが大変だ、なんてね。いや、どうも、風流の士なんてのは、ケチ なもんだ。」 「ひどい事を言う。妹や弟にさんざん言われて、浜へ出ると、こんどは 助けてやった亀にまで同じ様な失敬な批評を加えられる。どうも、われ とわが身に伝統の誇りを自覚していない奴は、好き勝手な事を言うもの だ。一種のヤケと言ってよかろう。私には何でもよくわかっているのだ。 私の口から言うべき事では無いが、お前たちの宿命と私の宿命には、た いへんな階級の差がある。生れた時から、もう違っているのだ。私のせ いではない。それは天から与えられたものだ。しかし、お前たちには、 それがよっぽど口惜(クヤ)しいらしい。何のかのと言って、私の宿命をお 前たちの宿命にまで引き下げようとしているが、しかし、天の配剤、人 事の及ばざるところさ。お前は私を竜宮へ連れて行くなどと大法螺(オオボ ラ)を吹いて、私と対等の附合いをしようとたくらんでいるらしいが、も ういい、私には何もかもよくわかっているのだから、あまり悪あがきし ないでさっさと海の底のお前の住居へ帰れ。なんだ、せっかく私が助け てやったのに、また子供たちに捕まったら何にもならぬ。お前たちこそ、 人の深切を素直に受け取る法を知らぬ。」 「えへへ、」と亀は不敵に笑い、「せっかく助けてやったは恐れいる。 紳士は、これだから、いやさ。自分がひとに深切を施すのは、たいへん の美徳で、そうして内心いささか報恩などを期待しているくせに、ひと の深切には、いやもうひどい警戒で、あいつと対等の附合いになっては かなわぬなどと考えているんだから、げっそりしますよ。それじゃ私だっ て言いますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が亀で、そうして、 いじめている相手は子供だったからでしょう。亀と子供じゃあ、その間 にはいって仲裁しても、あとくされがありませんからね。それに、子供 たちには、五文のお金でも大金ですからね。しかし、まあ、五文とは値 切ったものだ。私は、も少し出すかと思った。あなたのケチには、呆れ ましたよ。私のからだの値段が、たった五文かと思ったら、私は情無かっ たね。それにしてもあの時、相手が亀と子供だったから、あなたは五文 でも出して仲裁したんだ。まあ、気まぐれだね。しかし、あの時の相手 が亀と子供でなく、まあ、たとえば荒くれた漁師が病気の乞食(コジキ)を いじめていたのだったら、あなたは五文はおろか、一文だって出さず、 いや、ただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違いないんだ。あなたた ちは、人生の切実の姿を見せつけられるのを、とても、いやがるからね。 それこそ御自身の高級な宿命に、糞尿(フンニョウ)を浴びせられたような気 がするらしい。あなたたちの深切は、遊びだ。享楽だ。亀だから助けた んだ。子供だからお金をやったんだ。荒くれた漁師と病気の乞食の場合 は、まっぴらなんだ。実生活の生臭い風にお顔を撫(ナ)でられるのが、 とてもとても、いやなんだ。お手を、よごすのがいやなのさ。なんてね、 こんなのを、聞いたふうの事、と言うんですよ、浦島さん。あなたは怒 りゃしませんね。だって、私はあなたを好きなんだもの、いや、怒るか な? あなたのように上流の宿命を持っているお方たちは、私たち下賤 (ゲセン)のものに好かれる事をさえ不名誉だと思っているらしいのだから 始末がわるい。殊(コト)に私は亀なんだからな。亀に好かれたんじゃあ気 味がわるいか、しかし、まあ勘弁して下さいよ、好き嫌(キラ)いは理窟(リ クツ)じゃ無いんだ。あなたに助けられたから好きというわけでも無いし、 あなたが風流人だから好きというのでも無い。ただ、ふっと好きなんだ。 好きだから、あなたの悪口を言って、あなたをからかってみたくなるん だ。これがつまり私たち爬虫類(ハチュウルイ)の愛情の表現の仕方なのさ。ど うもね、爬虫類だからね、蛇の親類なんだからね、信用のないのも無理 がねえよ。しかし私は、エデンの園の蛇じゃない、はばかりながら日本 の亀だ。あなたに竜宮行きをそそのかして堕落させようなんて、たくら んでいるんじゃねえのだ。心意気を買ってくんな。私はただ、あなたと 一緒に遊びたいのだ。竜宮へ行って遊びたいのだ。あの国には、うるさ い批評なんか無いのだ。みんな、のんびり暮しているよ。だから、遊ぶ にはもって来いのところなんだ。私は陸にもこうして上って来れるし、 また海の底へも、もぐって行けるから、両方の暮しを比較して眺(ナガ) める事が出来るのだが、どうも、陸上の生活は騒がしい。お互い批評が 多すぎるよ。陸上生活の会話の全部が、人の悪口か、でなければ自分の 広告だ。うんざりするよ。私もちょいちょいこうして陸に上って来たお 蔭(カゲ)で、陸上生活に少しかぶれて、それこそ聞いたふうの批評なん かを口にするようになって、どうもこれはとんでもない悪影響を受けた ものだと思いながらも、この批評癖にも、やめられぬ味がありまして、 批評の無い竜宮城の暮しにもちょっと退屈を感ずるようになったのです。 どうも、悪い癖を覚えたものです。文明病の一種ですかね。いまでは私 は、自分が海の魚だか陸の虫だか、わからなくなりましたよ。たとえば あの、鳥だか獣だかわからぬ蝙蝠(コウモリ)のようなものですね。悲しき性 (サガ)になりました。まあ海底の異端者とでもいったようなところです かね。だんだん故郷の竜宮城にも居にくくなりましてね、しかし、あそ こは遊ぶには、いいところだ、それだけは保証します。信じて下さい。 歌と舞いと、美食と酒の国です。あなたたち風流人には、もって来いの 国です。あなたは、さっき批評はいやだとつくづく慨歎していたではあ りませんか。竜宮には批評はありませんよ。」  浦島は亀の驚くべき饒舌(ジョウゼツ)に閉口し切っていたが、しかし、 その最後の一言に、ふと心をひかれた。 「本当になあ、そんな国があったらなあ。」 「あれ、まだ疑っていやがる。私は嘘(ウソ)をついているのじゃありませ ん。なぜ私を信じないんです。怒りますよ。実行しないで、ただ、あこ がれて溜息(タメイキ)をついているのが風流人ですか。いやらしいものだ。」  性温厚の浦島も、そんなにまでひどく罵倒(バトウ)されては、このまま 引下るわけにも行かなくなった。 「それじゃまあ仕方が無い。」と苦笑しながら、「仰せに随(シタガ)って、 お前の甲羅に腰かけてみるか。」 「言う事すべて気にいらん。」と亀は本気にふくれて、「腰かけて【み る】か、とは何事です。腰かけて【みる】のも、腰かけるのも、結果に 於(オ)いては同じじゃないか。疑いながら、ためしに右へ曲るのも、信 じて断乎(ダンコ)として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どっちに したって引返すことは出来ないんだ。試みたとたんに、あなたの運命が ちゃんときめられてしまうのだ。人生には試みなんて、存在しないんだ。 やって【みる】のは、やったのと同じだ。実にあなたたちは、往生際(オ ウジョウギワ)が悪い。引返す事が出来るものだと思っている。」 「わかったよ、わかったよ。それでは信じて乗せてもらおう!」 「よし来た。」  亀の甲羅に浦島が腰をおろしたとみるみる亀の背中はひろがって畳二 枚くらい敷けるくらいの大きさになり、ゆらりと動いて海にはいる。汀 (ミギワ)から一丁ほど泳いで、それから亀は、 「ちょっと眼をつぶって。」ときびしい口調で命令し、浦島は素直に眼 をつぶると夕立ちの如(ゴト)き音がして、身辺ほのあたたかく、春風に 似て春風よりも少し重たい風が耳朶(ジダ)をなぶる。 「水深千尋(センヒロ)。」と亀が言う。  浦島は船酔いに似た胸苦しさを覚えた。 「吐いてもいいか。」と眼をつぶったまま亀に尋ねる。 「なんだ、ヘどを吐くのか。」と亀は以前の剽軽(ヒョウキン)な口調にかえっ て、「きたねえ船客だな。おや、馬鹿正直に、まだ眼をつぶっていやが る。これだから私は、太郎さんが好きさ。もう眼をあいてもよござんす よ。眼をあいて、よもの景色をごらんになったら、胸の悪いのなんかす ぐになおってしまいます。」  眼をひらけば冥茫模糊(メイボウモコ)、薄みどり色の奇妙な明るさで、そ うしてどこにも影が無く、ただ茫々たるものである。 「竜宮か。」と浦島は寝呆(ネボ)けているような間(マ)伸びた口調で言っ た。 「何を言ってるんだ。まだやっと水深千尋じゃないか。竜宮は海底一万 尋だ。」 「へええ。」浦島は妙な声を出した。「海ってものは、広いもんだね え。」 「浜育ちのくせに、山奥の猿(サル)みたいな事を言うなよ。あなたの家の 泉水よりは少し広いさ。」  前後左右どちらを見ても、ただ杳々茫々(ヨウヨウボウボウ)、脚下を覗(ノゾ) いてもやはり際限なく薄みどり色のほの明るさが続いているばかりで、 上を仰いでも、これまた蒼穹(ソウキュウ)に非(アラ)ざる洸洋(コウヨウ)たる大洞 (ダイドウ)、ふたりの話声の他(ホカ)には、物音一つ無く、春風に似て春風 よりも少しねばっこいような風が浦島の耳朶をくすぐっているだけであ る。  浦島はやがて遙(ハル)か右上方に幽(カス)かな、一握りの灰を撤(マ)いた くらいの汚点を認めて、 「あれは何だ。雲かね?」と亀に尋ねる。 「冗談言っちやいけねえ。海の中に雲なんか流れていやしねえ。」 「それじゃ何だ。墨汁一滴を落したような感じだ。単なる塵芥(ジンカイ) かね。」 「間抜けだね、あなたは。見たらわかりそうなものだ。あれは、鯛(タイ) の大群じゃないか。」 「へえ? 微々たるものだね。あれでも二、三百匹はいるんだろうね。」 「馬鹿だな。」と亀はせせら笑い、「本気で云っているのか?」 「それじゃあ、二、三千か。」 「しっかりしてくれ。まず、ざっと五、六百万。」 「五、六百万? おどかしちゃいけない。」  亀はにやにや笑って、 「あれは、鯛じゃないんだ。海の火事だ。ひどい煙だ。あれだけの煙だ と、そうさね、日本の国を二十ほど寄せ集めたくらいの広大な場所が燃 えている。」 「嘘をつけ。梅の中て火が燃えるもんか。」 「浅慮、浅慮。水の中だって酸素があるんですからね。火の燃えないわ けはない。」 「ごまかすな。それは無智な詭弁(キベン)だ。冗談はさて置いて、いった いあの、ゴミのようなものは何だ。やっぱり、鯛かね? まさか、火事 じゃあるまい。」 「いや、火事だ。いったい、あなた、陸の世界の無数の河川が昼夜をわ かたず、海にそそぎ込んでも、それでも海の水が増しもせず減りもせず、 いつも同じ量をちゃんと保って居られるのは、どういうわけか、考えて みた事がありますか。海のほうだって困りますよ。あんなにじゃんじゃ ん水を注ぎ込まれちゃ、処置に窮しますよ。それでまあ時々、あんな工 合いにして不用な水を焼き捨てるのですな。やあ、燃える、燃える、大 火事だ。」 「なに、ちっとも煙が広がりゃしない。いったい、あれは、何さ。さっ きから、少しも動かないところを見ると、さかなの大群でもなさそうだ。 意地わるな冗談なんか云わないで、教えておくれ。」 「それじゃ教えてあげましょう。あれはね、月の影法師です。」 「また、かつぐんじゃないのか?」 「いいえ、海の底には、陸の影法師は何も写りませんが、天体の影法師 は、やはり真上から落ちて来ますから写るのです。月の影法師だけでな く、星辰の影法師も皆、写ります。だから、竜宮では、その影法師をた よりに暦を作り、四季を定めます。あの月の影法師は、まんまるより少 し欠けていますから、きょうは十三夜かな?」  真面目(マジメ)な口調でそういうので、浦島も、或いはそうかも知れぬ と思ったが、しかし、何だかへんだとも思った。でもまた、見渡す限り、 ただ薄みどり色の茫洋乎(ボウヨウコ)たる大空洞の片隅(カタスミ)に、幽かな黒 一点をとどめているものが、たといそれは嘘にしても月の影法師だと云 われて見ると、鯛の大群や火事だと思って眺めるよりは、風流人の浦島 にとって、はるかに趣きがあり、郷愁をそそるに足るものがあった。  そのうちに、あたりは異様に暗くなり、ごうという凄(スサマ)じい音と 共に烈風の如きものが押し寄せて来て、浦島はもう少しで亀の背中から ころげ落ちるところであった。 「ちょっとまた眼をつぶって。」と亀は厳粛な口調で言い、「ここはちょ うど、竜宮の入口になっているのです。人間が海の底を探検しても、た いていここが海底のどんづまりだと見極(ミキワ)めて引き上げて行くので す。ここを越えて行くのは、人間では、あなたが最初で、また最後かも 知れません。」  くるりと亀はひっくりかえったように、浦島には思われた。ひっくり かえったまま、つまり、腹を上にしたまま泳いで、そうして浦島は亀の 甲羅にくっついて、宙返りを半分しかけたような形で、けれどもこぼれ 落ちる事もなく、さかさにすっと亀と共に上の方へ進行するような、ま ことに妙な錯覚を感じたのである。 「眼をあいてごらん。」と亀に言われた時には、しかし、もうそんな、 さかさの感じは無く、当り前に亀の甲羅の上に坐って、そうして、亀は 下へ下へと泳いでいる。  あたりは、あけぼのの如き薄明で、脚下にぼんやり白いものが見える。 どうも、何だか、山のようだ。塔が連立しているようにも見えるが、塔 にしては洪大(コウダイ)すぎる。 「あれは何だ。山か。」 「そうです。」 「竜宮の山か。」興奮のため声が嗄(シワガ)れていた。 「そうです。」亀は、せっせと泳ぐ。 「まっ白じゃないか。雪が降っているのかしら。」 「どうも、高級な宿命を持っている人は、考える事も違いますね。立派 なものだ。海の底にも雪が降ると思っているんだからね。」 「しかし、海の底にも火事があるそうだし、」と浦島は、さっきの仕返 しをするつもりで、「雪だって降るだろうさ。何せ、酸素があるんだか ら。」 「雪と酸素じゃ縁が遠いや。縁があっても、まず、風と桶屋(オケヤ)ぐら いの関係じゃないか。ばかばかしい。そんな事で私をおさえようたって 駄目さ。どうも、お上品なお方たちは、洒落(シャレ)が下手だ。雪はよい よい帰りはこわいってのはどんなもんだい。あんまり、うまくもねえか。 それでも酸素よりはいいだろう。さんそネッと来るか。はくそみたいだ。 酸素はどうも、助からねえ。」やはり、口では亀にかなわない。  浦島は苦笑しながら、 「ところで、あの山は、」と云いかけると、亀はまたあざ笑い、 「ところで、とは大きく出たじゃないか。ところであの山は、雪が降っ ているのではないのです。あれは真珠の山です。」 「真珠?」と浦島は驚き、「いや、嘘だろう。たとい真珠を十万粒二十 万粒積み重ねたって、あれくらいの高い山にはなるまい。」 「十万粒、二十万粒とは、ケチな勘定の仕方だ。竜宮では真珠を一粒二 粒なんて、そんなこまかい算(カゾ)え方(カタ)はしませんよ。一山(ヒトヤマ)、 二山(フタヤマ)、とやるね。一山は約三百億粒だとかいう話だが、誰もそれ をいちいち算えた事も無い。それを約百万山くらい積み重ねると、まず ざっとあれくらいの峯が出来る。真珠の捨場には困っているんだ。もと をただせば、さかなの糞(フン)だからね。」  とかくして竜宮の正門に着く。案外に小さい。真珠の山の裾(スソ)に螢 光を発してちょこんと立っている。浦島は亀の甲羅(コウラ)から降りて、 亀に案内をせられ、小腰をかがめてその正門をくぐる。あたりは薄明で ある。そうして森閑(シンカン)としている。 「静かだね。おそろしいくらいだ。地獄じゃあるまいね。」 「しっかりしてくれ、若旦那(ワカダンナ)。」と亀は鰭(ヒレ)でもって浦島の 背中を叩(タタキ)き、「王宮というものは皆このように静かなものだよ。 丹後の浜の大漁踊りみたいな馬鹿騒ぎを年中やっているのが竜宮だなん て陳腐な空想をしていたんじゃねえのか。あわれなものだ。簡素幽邃(ユ ウスイ)というのが、あなたたちの風流の極致だろうじゃないか。地獄とは、 あさましい。馴れてくると、この薄暗いのが、何とも言えずやわらかく 心を休めてくれる。足許(アシモト)に気をつけて下さいよ。滑ってころんだ りしては醜態だ。あれ、あなたはまだ草履(ゾウリ)をはいているね。脱ぎ なさいよ、失礼な。」  浦島は赤面して草履を脱いだ。はだしで歩くと、足の裏がいやにぬら ぬらする。 「何だこの道は。気持が悪い。」 「道じゃない。ここは廊下ですよ。あなたは、もう竜宮城へはいってい るのです。」 「そうかね。」と驚いてあたりを見廻したが、壁も柱も何も無い。薄闇 (ウスヤミ)が、ただ漾々(ヨウヨウ)と身辺に動いている。 「竜宮には雨も降らなければ、雪も降りません。」と亀はへんに慈愛深 げな口調で教える。「だから、陸上の家のようにあんな窮屈な屋根や壁 を作る必要は無いのです。」 「でも、門には屋根があったじゃないか。」 「あれは、目じるしです。門だけではなく、乙姫(オトヒメ)のお部屋にも、 屋根や壁はあります。しかし、それもまた乙姫の尊厳を維持するために 作られたもので、雨露を防ぐためのものではありません。」 「そんなものかね。」と浦島はなおもけげんな顔つきで、「その乙姫の 部屋というのは、どこにあるの? 見渡したところ冥途(メイド)もかくや、 蕭寂(ショウジャク)たる幽境、一木一草も見当らんじゃないか。」 「どうも田舎者(イナカモノ)には困るね。でっかい建物(タテモノ)や、ごてごて した装飾には口をあけておったまげても、こんな幽邃の美には一向に感 心しない。浦島さん、あなたの上品(ジョウボン)もあてにならんね。もっ とも丹後の荒磯(アライソ)の風流人じゃ無理もないがね。伝統の教養とやら も、聞いて冷汗が出るよ。正統の風流人とはよくも言った。こうして実 地に臨んでみると、田舎者まる出しなんだから恐れいる。人真似(ヒトマネ) こまねの風流ごっこは、まあ、これからは、やめるんだね。」  亀の毒舌は竜宮に着いたら、何だかまた一段と凄(スゴ)くなって来た。  浦島は心細さ限り無く、 「だって、何も見えやしないんだもの。」とほとんど泣き声で言った。 「だから、足許に気をつけなさいって、言ってるじゃありませんか。こ の廊下は、ただの廊下じゃないんですよ。魚の掛橋ですよ。よく気をつ けてごらんなさい。幾億という魚がひしとかたまって、廊下の床(ユカ)み たいな工合いになっているのですよ。」  浦島はぎょっとして爪先(ツマサ)き立った。どうりで、さっきから足の 裏がぬらぬらすると思っていた。見ると、なるほど、大小無数の魚ども がすきまもなく背中を並べて、身動きもせず凝(ジ)っとしている。 「これは、ひどい。」と浦島は、にわかにおっかなびっくりの歩調になっ て、「悪い趣味だ。これがすなわち簡素幽邃の美かね。さかなの背中を 踏んづけて歩くなんて、野蛮きわまる事じゃないか。だいいちこのさか なたちに気の毒だ。こんな奇妙な風流は、私のような田舎者にはわかり ませんねえ。」とさっき田舎者と言われた鬱憤(ウップン)をここに於いて はらして、ちょっと溜飲(リュウイン)がさがった。 「いいえ、」とその時、足許で細い声がして、「私たちはここに毎日集 まって、乙姫さまの琴の音(ネ)に聞き惚(ホ)れているのです。魚の掛橋は 風流のために作っているのではありません。かまわず、どうかお通り下 さい。」 「そうですか。」と浦島はひそかに苦笑して、「私はまた、これも竜宮 の装飾の一つかと思って。」 「それだけじゃあるまい。」亀はすかさず口をはさんで、「ひょっとし たら、この掛橋も浦島の若旦那を歓迎のために、乙姫さまが特にさかな たちに命じて、」 「あ、これ、」と浦島は狼狽(ロウバイ)し、赤面し、「まさか、それほど 私は自惚(ウヌボ)れてはいません。でも、ね、お前はこれを廊下の床(ユカ) のかわりだなんていい加減を言うものだから、私も、つい、その、さか なたちが踏まれて痛いかと思ってね。」 「さかなの世界には、床(ユカ)なんてものは必要がありません。これがま あ、陸上の家にたとえたならば、廊下の床(ユカ)にでも当るかと思って私 はあんな説明をしてあげたので、決していい加減を言ったんじゃない。 なに、さかなたちは痛いなんて思うもんですか。海の底では、あなたの からだだって紙一枚の重さくらいしか無いのですよ。何だか、ご自分の からだが、ふわふわ浮くような気がするでしょう?」  そう言われてみると、ふわふわするような感じがしないでもない。浦 島は、重ね重ね、亀から無用の嘲弄(チョウロウ)を受けているような気がし て、いまいましくてならぬ。 「私はもう何も信じる気がしなくなった。これだから私は、冒険という ものはいやなんだ。だまされたって、それを看破する法が無いんだから ね。ただもう、道案内者の言う事に従っていなければいけない。これは こんなものだと言われたら、それっきりなんだからね。実に、冒険は人 を欺く。琴の音(ネ)も何も、ちっとも聞えやしないじゃないか。」とつ いに八つ当りの論法に変じた。  亀は落ちついて、 「あなたはどうも陸上の平面の生活ばかりしているから、目標は東西南 北のいずれかにあるとばかり思っていらっしゃる。しかし、海にはもう 二元の方向がある。すなわち、上と下です。あなたはさっきから、乙姫 の居所を前方にばかり求めていらっしゃる。ここにあなたの重大なる誤 謬(ゴビュウ)が存在していたわけだ。なぜ、あなたは頭上を見ないのです。 また、脚下を見ないのです。海の世界は浮いて漂っているものです。さっ きの正門も、また、あの真珠の山だって、みんな少し浮いて動いている のです。あなた自身がまた上下左右にゆられているので、他の物の動い ているのが、わからないだけなのです。あなたは、さっきからずいぶん 前方にお進みになったように思っていらっしゃるかも知れないけれど、 まあ、同じ位置ですね。かえって後退しているかも知れない。いまは潮 の関係で、ずんずんうしろに流されています。そうして、さっきから見 ると、百尋(ヒャクヒロ)くらいみんな一緒に上方に浮きました。まあ、とに かくこの魚の掛橋をもう少し渡ってみましょう。ほうら、魚の背中もだ んだんまばらになって来たでしょう。足を踏みはずさないように気をつ けて下さいよ。なに、踏みはずしたって、すとんと落下する気づかいは ありませんがね、何せ、あなたも紙一枚の重さなんだから。つまり、こ の橋は断橋なのです。この廊下を渡っても前方には何も無い。しかし、 脚下を見よです。おい、さかなども、少しどけ、若旦那が乙姫さまに逢 (ア)いに行くのだ。こいつらは、こうして竜宮城の本丸(ホンマル)の天蓋(テン ガイ)をなしているようなものです。海月(クラゲ)なす漂える天蓋、とでも 言ったら、あなたたち風流人は喜びますかね。」  さかなたちは、静かに無言で左右に散る。かすかに、琴の音が脚下に 聞える。日本の琴の音によく似ているが、しかしあれほど強くはなく、 もっと柔かで、はかなく、そうしてへんに嫋々(ジョウジョウ)たる余韻があ る。菊の露。薄ごろも。夕空。きぬた。浮寝。きぎす。どれでもない。 風流人の浦島にも、何だか見当のつかぬ可憐(カレン)な、たよりない、け れども陸上では聞く事の出来ぬ気高い凄(サビ)しさが、その底に流れて いる。 「不思議な曲ですね。あれは、何という曲ですか。」  亀もちょっと耳をすまして聞いて、 「聖諦(セイテイ)。」と一言、答えた。 「せいてい?」 「神聖の聖の字に、あきらめ。」 「ああ、そう、聖諦。」と呟いて浦島は、はじめて海の底の竜宮の生活 に、自分たちの趣味と段違いの崇高なものを感得した。いかにも自分の 上品(ジョウボン)などは、あてにならぬ。伝統の教養だの、正統の風流だ のと自分が云うのを聞いて亀が冷汗をかくのも無理がない。自分の風流 は人真似こまねだ。田舎の山猿にちがいない。 「これからは、お前の言う事は何でも信じるよ。聖諦。なるほどなあ。」 浦島は呆然(ボウゼン)とつっ立ったまま、なおもその不思議な聖諦の曲に 耳を傾けた。 「さあ、ここから飛び降りますよ。あぷない事はありません。こうして 両腕をひろげて一歩足を踏み出すと、ゆらゆらと気持よく落下します。 この魚の掛橋の尽きたところから真っすぐに降りて行くと、ちょうど竜 宮の正殿の階段の前に着くのです。さあ、何をぼんやりしているのです。 飛び降りますよ、いいですか。」  亀はゆらゆら沈下する。浦島も気をとり直して、両腕をひろげ、魚の 掛橋の外に一歩、足を踏み出すと、すっと下に気持よく吸い込まれ、頬 が微風に吹かれているように涼しく、やがてあたりが、緑の樹蔭(コカゲ) のような色合いになり、琴の音もいよいよ近くに聞えて来たと思ううち に、亀と並んで正殿の階段の前に立っていた。階段とは言っても、段々 が一つづつ分明になっているわけではなく、灰色の鈍く光る小さい珠(タ マ)の敷きつめられたゆるい傾斜の坂のようなものである。 「これも真珠かね。」と浦島は小声で尋ねる。  亀は、あわれむような眼で浦島の顔を見て、 「珠を見れば、何でも真珠だ。真珠は、捨てられて、あんなに高い山に なっているじゃありませんか。まあ、ちょっとその珠を手で掬(スク)って ごらんなさい。」  浦島は言われたとおりに両手で珠を掬おうとすると、ひやりと冷い。 「あ、霰(アラレ)だ!」 「冗談じゃない。ついでにそれを口の中に入れてごらん。」  浦島は素直に、その氷のように冷たい珠を、五つ六つ頬張(ホオバ)った。 「うまい。」 「そうでしょう? これは、海の桜桃(オウトウ)です。これを食べると三百 年間、老いる事が無いのです。」 「そうか、いくつ食べても同じ事か。」と風流人の浦島も、ついたしな みを忘れて、もっと掬って食べようという気勢を示した。「私はどうも、 老醜というものがきらいでね。死ぬのは、そんなにこわくもないけれど、 どうも老醜だけは私の趣味に合わない。もっと、食べて見ようかしら。」 「笑っていますよ。上をごらんなさい。乙姫さまがお迎えに出ています。 やあ、きょうはまた一段とお綺麗(キレイ)。」  桜桃の坂の尽きるところに、青い薄布を身にまとった小柄の女性が幽 (カス)かに笑いながら立っている。薄布をとおして真白い肌(ハダ)が見え る。浦島はあわてて眼をそらし、 「乙姫か。」と亀に囁(ササヤ)く。浦島の顔は真赤である。 「きまっているじゃありませんか。何をへどもどしているのです。さあ、 早く御挨拶(ゴアイサツ)をなさい。」  浦島はいよいよまごつき、 「でも、何と言ったらいいんだい。私のようなものが名乗りを挙げてみ たって、どうにもならんし、どだいどうも、私たちの訪間は唐突(トウトツ) だよ。意味が無いよ。帰ろうよ。」と上級の宿命の筈(ハズ)の浦島も、 乙姫の前では、すっかり卑屈になって逃支度(ニゲジタク)をはじめた。 「乙姫さまは、あなたの事なんか、もうとうにご存じですよ。階前万里 というじゃありませんか。観念して、ただていねいにお辞儀しておけば いいのです。また、たとい乙姫さまが、あなたの事を何もご存じ無くっ たって、乙姫さまは警戒なんてケチくさい事はてんで知らないお方です から、何も斟酌(シンシャク)には及びません、遊びに来ましたよ、と言えば いい。」 「まさか、そんな失礼な。ああ、笑っていらっしゃる。とにかく、お辞 儀をしよう。」  浦島は、両手が自分の足の爪先にとどくほどのていねいなお辞儀をし た。  亀は、はらはらして、 「ていねいすぎる。いやになるね。あなたは私の恩人じゃないか。も少 し威厳のある態度を示して下さいよ。へたへたと最敬礼なんかして、上 品(ジョウボン)もくそもあったものじゃない。それ、乙姫さまのお招きだ。 行きましょう。さあ、ちゃんと胸を張って、おれは日本一の好男子で、 そうして、最上級の風流人だというような顔をして威張って歩くのです よ。あなたは私たちに対してはひどく高慢な乙な構え方をするけれども、 女には、からきし意気地(イクジ)が無いんですね。」 「いやいや、高貴なお方には、それ相当の礼を尽さなければ。」と緊張 のあまり声がしゃがれて、足がもつれ、よろよろと千鳥足で階段を昇り、 見渡すと、そこは万畳敷とでも云っていいくらいの広い座敷になってい る。いや、座敷というよりは、庭園と言った方が適切かも知れない。ど こから射(サ)して来るのか樹蔭(コカゲ)のような緑色の光線を受けて、模 糊(モコ)と霞(カス)んでいるその万畳敷とでも言うべき広場には、やはり霰 のような小粒の珠が敷きつめられ、ところどころに黒い岩が秩序無くこ ろがっていて、そうしてそれっきりである。屋根はもちろん、柱一本も 無く、見渡す限り廃墟(ハイキョ)と言っていいくらいの荒涼たる大広場であ る。気をつけて見ると、それでも小粒の珠のすきまから、ちょいちょい 紫色の小さい花が顔を出しているのが見えて、それがまた、かえって淋 (サビ)しさを添え、これが幽邃の極というのかも知れないが、しかし、 よくもまあ、こんな心細いような場所で生活が出来るものだ、と感歎の 溜息(タメイキ)に似たものがふうと出て、さらにまた思いをあらたにして乙 姫の顔をそっと盗み見た。  乙姫は無言で、くるりとうしろを向き、そろそろと歩き出す。その時 はじめて気がついたのであるが、乙姫の背後には、めだかよりも、もっ と小さい金色の魚が無数にかたまってぴらぴら泳いで、乙姫が歩けばそ のとおりに従って移動し、そのさまは金色の雨がたえず乙姫の身辺に降 り注いでいるようにも見えて、さすがにこの世のものならぬ貴(トウト)い 気配が感ぜられた。  乙姫は身にまとっている薄布をなびかせ裸足(ハダシ)で歩いているが、 よく見ると、その青白い小さい足は、下の小粒の珠を踏んではいない。 足の裏と珠との間がほんのわずか隙(ス)いている。あの足の裏は、いま だいちども、ものを踏んだ事が無いのかも知れぬ。生れたばかりの赤ん 坊の足の裏と同じようにやわらかくて綺麗なのに違いない、と思えば、 これという目立った粉飾一つも施していない乙姫のからだが、いよいよ 真の気品を有しているものの如く、奥ゆかしく思われて来た。竜宮に来 てみてよかった、と次第にこのたびの冒険に感謝したいような気持が起っ て来て、うっとり乙姫のあとについて歩いていると、 「どうです、悪くないでしょう。」と亀は、低く浦島の耳元に囁き、鰭 でもって浦島の横腹をちょこちょことくすぐった。 「ああ、なに、」と浦島は狼狽して、「この花は、この紫の花は綺麗だ ね。」と別の事を言った。 「これですか。」と亀はつまらなそうに、「これは海の桜桃の花です。 ちょっと菫(スミレ)に似ていますね。この花びらを食べると、それは気持 よく酔いますよ。竜宮のお酒です。それから、あの岩のようなもの、あ れは藻(モ)です。何万年も経(タ)っているので、こんな岩みたいにかたまっ ていますが、でも、羊羹(ヨウカン)よりも柔いくらいのものです。あれは、 陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。岩によって一つづつみん な味わいが違います。竜宮ではこの藻を食べて、花びらで酔い、のどが 乾(カワ)けば桜挑を含み、乙姫さまの琴の音に聞き惚れ、生きている花吹 雪(ハナフブキ)のような小魚たちの舞いを眺めて暮しているのです。どうで すか、竜宮は歌と舞いと、美食と酒の国だと私はお誘いする時にあなた に申し上げた筈ですが、どうですか、御想像と違いましたか?」  浦島は答えず、深刻な苦笑をした。 「わかっていますよ。あなたの御想像は、まあドンジャンドンジャンの 大騒ぎで、大きなお皿に鯛(タイ)のさしみやら鮪(マグロ)のさしみ、赤い着 物を着た娘っ子の手踊り、そうしてやたらに金銀珊瑚(サンゴ)綾錦(アヤニシキ) のたぐいが、−−」 「まさか、」と浦島もさすがに少し不愉快そうな顔になり、「私はそれ ほど卑俗な男ではありません。しかし、私は自分を孤独な男だと思って いた事などありましたが、ここへ来て真に孤独なお方にお目にかかり、 私のいままでの気取った生活が恥ずかしくてならないのです。」 「あのかたの事ですか?」と亀は小声で言って無作法に乙姫のほうを顎 (アゴ)でしゃくり、「あのかたは、何も孤独じゃありませんよ。平気な ものです。野心があるから、孤独なんて事を気に病むので、他の世界の 事なんかてんで問題にしてなかったら、百年千年ひとりでいたって楽な ものです。それこそ、れいの批評が気にならない者にとってはね。とこ ろで、あなたは、どこへ行こうてんですか?」 「いや、なに、べつに、」と浦島は、意外の問に驚き、「だって、お前、 あのお方が、−−」 「乙姫はべつにあなたを、どこかへ案内しようとしているわけじゃあり ません。あのかたは、もう、あなたの事なんか忘れていますよ。あのか たは、これからご自分のお部屋に帰るのでしょう。しっかりして下さい。 ここが竜宮なんです、この場所が。ほかにどこも、ご案内したいような ところもありません。まあ、ここで、お好きなようにして遊んでいるの ですね。これだけじゃ、不足なんですか。」 「いじめないでくれよ。私は、いったいどうしたらいいんだ。」と浦島 はべそをかいて、「だって、あのお方がお迎えに出て下さっていたので、 ベつに私は自惚れたわけじゃないけど、あのお方のあとについて行くの が礼儀だと思ったんだよ。ベつに不足だなんて考えてやしないよ。それ だのに私に何か、別ないやらしい下心でもあるみたいなへんな言い方を するんだもの。お前は、じっさい意地が悪いよ。ひどいじゃないか。私 は生れてから、こんなに体裁(テイサイ)の悪い思いをした事は無いよ。本当 にひどいよ。」 「そんなに気にしちゃいけない。乙姫は、おっとりしたものです。そ りゃ、陸上からはるばるたずねて来た珍客ですもの、それにあなたは、 私の恩人ですからね、お出迎えするのは当り前ですよ。さらにまた、あ なたは、気持はさっぱりしているし、男っぷりは佳(ヨ)し、と来ている から。いや、これは冗談ですよ、へんにまた自惚れられちゃかなわない。 とにかく、乙姫はご自分の家へやって来た珍客を階段まで出迎えて、そ うして安心して、あとはあなたのお気の向くままに勝手に幾日でもここ で遊んでいらっしゃるようにと、素知らぬ振りしてああしてご自分のお 部屋に引き上げて行くというわけのものじゃないんですかね。実は私た ちにも、乙姫の考えている事はあまりよく判(ワカ)らないのです。何せ、 どうにも、おっとりしていますから。」 「いや、そう言われてみると、私には、少し判りそうな気がして来たよ。 お前の推察も、だいたいに於いて間違いはなさそうだ。つまり、こんな のが、真の貴人の接待法なのかも知れない。客を迎えて客を忘れる。し かも客の身辺には美酒珍味が全く無雑作に並べ置かれてある。歌舞音曲 も別段客をもてなそうという露骨な意図でもって行われるのではない。 乙姫は誰に聞かせようという心も無くて琴をひく。魚どもは誰に見せよ うという衒(テラ)いも無く自由に嬉々(キキ)として舞い遊ぶ。客の讃辞(サン ジ)をあてにしない。客もまた、それにことさらに留意して感服したよ うな顔つきをする必要も無い。寝ころんで知らん振りしていたって構わ ないわけです。主人はもう客の事なんか忘れているのだ。しかも、自由 に振舞ってよいという許可は与えられているのだ。食いたければ食うし、 食いたくなければ食わなくていいんだ。酔って夢うつつに琴の音を聞い ていたって、敢(ア)えて失礼には当らぬわけだ。ああ、客を接待するに は、すべからくこのようにありたい。何のかのと、ろくでも無い料理を うるさくすすめて、くだらないお世辞を交換し、おかしくもないのに、 矢鱈(ヤタラ)におほほと笑い、まあ! なんて珍らしくもない話に大仰に 驚いて見せたり、一から十まで嘘(ウソ)ばかりの社交を行い、天晴(アッパ) れ上流の客あしらいをしているつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎 どもに、この竜宮の鷹揚(オウヨウ)なもてなし振りを見せてやりたい。あい つらはただ、自分の品位を落しやしないか、それだけを気にしてわくわ くして、そうして妙に客を警戒して、ひとりでからまわりして、実意な んてものは爪(ツメ)の垢(アカ)ほども持ってやしないんだ。なんだい、あ りゃ。お酒一ぱいにも、飲ませてやったぞ、いただきましたぞ、という ような証文を取りかわしていたんじゃ、かなわない。」 「そう、その調子。」と亀は大喜びで、「しかし、あまりそんなに興奮 して心臓麻痺(マヒ)なんか起されても困る。ま、この藻の岩に腰をおろし て、桜桃の酒でも飲むさ。桜桃の花びらだけでは、はじめての人には少 し匂(ニオ)いが強すぎるかも知れないから、桜桃五、六粒と一緒に舌の上 に載せると、しゅっと溶けて適当に爽涼(ソウリョウ)のお酒になります。ま ぜ合せの仕方一つで、いろんな味に変化しますから、まあ、ご自分で工 夫して、お好きなようなお酒を作ってお飲みなさい。」  浦島はいま、ちょっと強いお酒を飲みたかった。花びら三枚に、桜桃 二粒を添えて舌端に載せるとたちまち口の中一ぱいの美酒、含んでいる だけでも、うっとりする。軽快に喉(ノド)をくすぐりながら通過して、 体内にぽっと灯(アカ)りがともったような嬉(ウレ)しい気持になる。 「これはいい。まさに、憂いの玉帚(タマハハキ)だ。」 「憂い?」と亀はさっそく聞きとがめ、「何か憂鬱(ユウウツ)な事でもある のですか?」 「いや、べつに、そんなわけではないが、あははは、」とてれ隠しに無 理に笑い、それから、ほっと小さな溜息をつき、ちらと乙姫のうしろ姿 を眺める。  乙姫は、ひとりで黙って歩いている。薄みどり色の光線を浴び、すき とおるようなかぐわしい海草のようにも見え、ゆらゆら揺蕩(ヨウトウ)しな がらたったひとりで歩いている。 「どこへ行くんだろう。」と思わず呟(ツブヤ)く。 「お部屋でしょう。」亀は、きまりきっているというような顔つきで、 澄まして答える。 「さっきから、お前はお部屋お部屋と言っているが、そのお部屋はいっ たい、どこにあるの? 何も、どこにも、見えやしないじゃないか。」  見渡すかぎり平坦(ヘイタン)の、曠野(コウヤ)と言っていいくらいの鈍く光 る大広間で、御殿(ゴテン)らしいものの影は、どこにも無い。 「ずっと向う、乙姫の歩いて行く方角の、ずっと向うに、何か見えませ んか。」と亀に言われて、浦島は、眉(マユ)をひそめてその方向を凝視し、 「ああ、そう言われて見ると、何かあるようだね。」  ほとんど一里も先と思われるほどの遠方、幽潭(ユウタン)の底を覗(ノゾ) いた時のような何やら朦朧(モウロウ)と烟(ケム)ってたゆとうているあたりに、 小さな純白の水中花みたいなものが見える。 「あれか。小さいものだね。」 「乙姫がひとりおやすみになるのに、大きい御殿なんか要(イ)らないじゃ ありませんか。」 「そう言えば、まあ、そうだが、」と浦島はさらに桜桃の酒を調合して 飲み、「あのお方は、何かね、いつもあんなに無口なのかね。」 「ええ、そうです。言葉というものは、生きている事の不安から、芽ば えて来たものじゃないですかね。腐った土から赤い毒きのこが生(ハ)え て出るように、生命の不安が言葉を醗<*>酵(ハッコウ)させているのじゃな いのですか。よろこびの言葉もあるにはありますが、それにさえなお、 いやらしい工夫がほどこされているじゃありませんか。人間は、よろこ びの中にさえ、不安を感じているのでしょうかね。人間の言葉はみんな 工夫です。気取ったものです。不安の無いところには、何もそんな、い やらしい工夫など必要ないでしょう。私は乙姫が、ものを言ったのを聞 いた事が無い。しかし、また、黙っている人によくありがちの、皮裏の 陽秋というんですか、そんな胸中ひそかに辛辣(シンラツ)の観察を行うなん て事も、乙姫は決してなさらない。何も考えてやしないんです。ただあ あして幽かに笑って琴をかき鳴らしたり、またこの広間をふらふら歩き まわって、桜桃の花びらを口に含んだりして遊んでいます。実に、のん びりしたものです。」 <*>醗:「酉」偏+「發」:補助6687 「そうかね。あのお方も、やっぱりこの桜桃の酒を飲むかね。まったく、 これは、いいからなあ。これさえあれば、何も要(イ)らない。もっとい ただいてもいいかしら。」 「ええ、どうぞ。ここへ来て遠慮なんかするのは馬鹿げています。あな たは無限に許されているのです。ついでに何か食べてみたらどうです。 目に見える岩すべて珍味です。油っこいのがいいですか。軽くちょっと 酸(ス)っぱいようなのがいいですか。どんな味のものでもありますよ。」 「ああ、琴の音が聞える。寝ころんで聞いてもいいんだろうね。」無限 に許されているという思想は、実のところ生れてはじめてのものであっ た。浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向にながながと寝そべ り、「ああ、あ、酔って寝ころぶのは、いい気持だ。ついでに何か、食 べてみようかな。雉(キジ)の焼肉みたいな味の藻があるかね。」 「あります。」 「それと、それから、桑の実のような味の藻は?」 「あるでしょう。しかしあなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね。」 「本性暴露さ。私は田舎者(イナカモノ)だよ。」と言葉つきさえ、どこやら 変って来て、「これが風流の極致だってさ。」  眼を挙げて見ると、はるか上方に、魚の天蓋(テンガイ)がのどかに浮び 漂っているのが、青く霞(カス)んで見える。とたちまち、その天蓋から一 群の魚がむらむらとわかれて、おのおの銀鱗(ギンリン)を光らせて満天に 雪の降り乱れるように舞い遊ぶ。  竜宮には夜も昼も無い。いつも五月の朝の如く爽(サワ)やかで、樹蔭の ような緑の光線で一ぱいで、浦島は幾日をここで過したか、見当もつか ぬ。その間、浦島は、それこそ無限に許されていた。浦島は、乙姫のお 部屋にも、はいった。乙姫は何の嫌悪(ケンオ)も示さなかった。ただ、幽 かに笑っている。  そうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れな い。陸上の貧しい生活が恋しくなった。お互い他人の批評を気にして、 泣いたり怒ったり、ケチにこそこそ暮している陸上の人たちが、たまら なく可憐で、そうして、何だか美しいもののようにさえ思われて来た。  浦島は乙姫に向って、さようなら、と言った。この突然の暇乞(イトマゴ) いもまた、無言の微笑でもって許された。つまり、何でも許された。始 めから終りまで、許された。乙姫は、竜宮の階段まで見送りに出て、黙っ て小さい貝殻を差し出す。まばゆい五彩の光を放っているきっちり合っ た二枚貝である。これが所謂(イワユル)、竜宮のお土産(ミヤゲ)の玉手箱であっ た。  行きはよいよい帰りはこわい。また亀の背に乗って、浦島はぼんやり 竜宮から離れた。へんな憂愁が浦島の胸中に湧(ワ)いて出る。ああ、お 礼を言うのを忘れた。あんないいところは、他に無いのだ。ああ、いつ までも、あそこにいたほうがよかった。しかし、私は陸上の人間だ。ど んなに安楽な暮しをしていても、自分の家が、自分の里が、自分の頭の 片隅(カタスミ)にこびりついて離れぬ。美酒に酔って眠っても、夢は、故郷 の夢なんだからなあ。げっそりするよ。私には、あんないいところで遊 ぶ資格は無かった。 「わあ、どうも、いかん。淋しいわい。」と浦島はやけくそに似た大き い声で叫んだ。「なんのわけだかわからないが、どうも、いかん。おい、 亀。何とか、また景気のいい悪口でも言ってくれ。お前は、さっきから 何も一ことも、ものを言わんじゃないか。」  亀は先刻から、ただ黙々と鰭(ヒレ)を動かしているばかり。 「怒っているのかね。私が竜宮から食い逃げ同様で帰るのを、お前は、 怒っているのかね。」 「ひがんじゃいけねえ。陸上の人はこれだからいやさ。帰りたくなった ら帰るさ。どうでも、あなたの気の向いたように、とはじめから何度も 言ってるじゃないか。」 「でも、何だかお前、元気が無いじゃないか。」 「そう言うあなたこそ、妙にしょんぼりしているぜ。私や、どうも、お 迎えはいいけれど、このお見送りってやつは苦手だ。」 「行きはよいよい、かね。」 「洒落(シャレ)どころじゃありません。どうも、このお見送りってやつは、 気のはずまねえものだ。溜息ばかり出て、何を言ってもしらじらしく、 いっそもう、この辺でお別れしてしまいたいようなものだ。」 「やっぱり、お前も淋(サビ)しいのかね。」浦島は、ほろりとして、 「こんどはずいぶん、お前のお世話にもなったね。お礼を言います。」  亀は返事をせず、なんだそんなこと、と言わぬばかりにちょっと甲羅 (コウラ)をゆすって、そうしてただ、せっせと泳ぐ。 「あのお方は、やっぱりあそこで、たったひとりで遊んでいるのだろう ね。」浦島は、いかにもやるせないような溜息をついて、「私にこんな 綺麗な貝をくれたが、これはまさか、食べるものじゃないだろうな。」  亀はくすくす笑い出し、 「ちょっと竜宮にいるうちに、あなたも、ばかに食い意地が張って来ま したね。それだけは、食べるものでは無いようです。私にもよくわかり ませんが、その貝の中に何かはいっているのじゃないんですか?」と亀 は、ここに於いて、かのエデンの園の蛇(ヘビ)の如く、何やら人の好奇 心をそそるような妙な事を、ふいと言った。やはりこれも、爬虫類(ハチュ ウルイ)共通の宿命なのであろうか。いやいや、そうきめてしまうのは、こ の善良の亀に対して気の毒だ。亀自身も以前、浦島に向って、「しかし、 私は、エデンの園の蛇ではない、はばかりながら日本の亀だ。」と豪語 している。信じてやらなけりや可哀想(カワイソウ)だ。それにまた、この亀 のこれまでの浦島に対する態度から判断しても、決してかのエデンの園 の蛇の如く、佞奸(ネイカン)邪智にして、恐ろしい破滅の誘惑を囁くような 性質のものでは無いように思われる。それどころか、所謂さつきの鯉(コ イ)の吹流しの、愛すべき多弁家に過ぎないのではないかと思われる。つ まり、何の悪気も無かったのだ。私は、そのように解したい。亀は、さ らにまた言葉をつづけて、「でも、その貝は、あけて見ないほうがいい かも知れません。きっとその中には竜宮の精気みたいなものがこもって いるのでしょうから。それを陸上であけたら、奇怪な蜃気楼(シンキロウ)が 立ち昇り、あなたを発狂させたり何かするかも知れないし、或いはまた、 海の潮が噴出して大洪水を起す事なども無いとは限らないし、とにかく 海底の酸素を陸上に放散させては、どうせ、ろくな事が起らないような 気がしますよ。」と真面目(マジメ)に言う。浦島は亀の深切を信じた。 「そうかも知れないね。あんな高貴な竜宮の雰囲気(フンイキ)が、もしこの 貝の中にひめられてあるとしたら、陸上の俗悪な空気にふれた時には、 戸惑いして、大爆発でも起すかも知れない。まあ、これはこうして、い つまでも大事に、家の宝として保存して置くことにしよう。」  既に海上に浮ぶ。太陽の光がまぶしい。ふるさとの浜が見える。浦島 はいまは一刻も早く、わが家に駈(カ)け込み、父母弟妹、また大勢の使 用人たちを集めて、つぶさに竜宮の模様を物語り、冒険とは信じる力だ、 この世の風流なんてものはケチくさい猿真似(サルマネ)だ、正統というのは、 あれは通俗の別称さ、わかるかね、真の上品(ジョウボン)というのは聖諦 (セイテイ)の境地さ、ただのあきらめじゃ無いぜ、わかるかね、批評なんて うるさいものは無いんだ、無限に許されているんだ、そうしてただ微笑 があるだけだ、わかるかね、客を忘れているのだ、わかるまい、などと それこそ、たったいま聞いて来たふうの新知識を、めちゃ苦茶に振りま わして、そうしてあの現実主義の弟のやつが、もし少しでも疑うような 顔つきを見せた時には、すなわちこの竜宮の美しいお土産をあいつの鼻 先につきつけて、ぎゃふんと参らせてやろう、と意気込み、亀に別離の 挨拶(アイサツ)するのも忘れて汀(ミギワ)に飛び降り、あたふたと生家に向っ て急げば、 ドウシタンデショウ モトノサト ドウシタンデショウ モトノイエ ミワタスカギリ カレノハラ ヒトノカゲナク ミチモナク マツフクカゼノ オトバカリ  という段どりになるのである。浦島は、さんざん迷った末に、とうと うかの竜宮のお土産の貝殻をあけて見るという事になるのであるが、こ れに就(ツ)いて、あの亀が責任を負う必要はないように思われる。「あ けてはならぬ」と言われると、なお、あけて見たい誘惑を感ずると云う 人間の弱点は、この浦島の物語に限らず、ギリシャ神諾のパンドラの箱 の物語に於いても、それと同様の心理が取りあつかわれているようだ。 しかし、あのパンドラの箱の場合は、はじめから神々の復讐(フクシュウ)が 企図せられていたのである。「あけてはならぬ」という一言が、パンド ラの好奇心を刺戟(シゲキ)して、必ずや後日パンドラが、その箱をあけて 見るにちがいないという意地悪い予想のもとに「あけるな」という禁制 を宣告したのである。それに引きかえ、われわれの善良な亀は、まった くの深切から浦島にそれを言ったのだ。あの時の亀の、余念なさそうな 言い方に依(ヨ)っても、それは信じていいと思う。あの亀は正直者だ。 あの亀には責任が無い。それは私も確信をもって証言できるのであるが、 さて、もう一つ、ここに妙な腑(フ)に落ちない問題が残っている。浦島 は、その竜宮のお土産をあけて見ると、中から白い煙が立ち昇り、たち まち彼は三百歳だかのお爺(ジイ)さんになって、だから、あけなきゃよ かったのに、つまらない事になった、お気の毒に、などというところで おしまいになるのが、一般に伝えられている「浦島さん」物語であるが、 私はそれに就いて深い疑念にとらわれている。するとこの竜宮のお土産 も、あの人間のもろもろの禍(ワザワイ)の種の充満したパンドラの箱の如 く、乙姫の深刻な復讐、或いは懲罰の意を秘めた贈り物であったのか。 あのように何も言わず、ただ微笑して無限に許しているような素振りを 見せながらも、皮裏にひそかに峻酷(シュンコク)の陽秋を蔵していて、浦島 のわがままを一つも許さず、厳罰を課する意味であの貝殻を与えたのか。 いや、それほど極端の悲観論を称(トナ)えずとも、或いは、貴人というも のは、しばしば、むごい嘲弄(チョウロウ)を平気でするものであるから、乙 姫もまったく無邪気の悪戯(イタズラ)のつもりで、こんなひとのわるい冗 談をやらかしたのか。いずれにしても、あの真の上品(ジョウボン)の筈(ハズ) の乙姫が、こんな始末の悪いお土産を与えたとは、不可解きわまる事で ある。パンドラの箱の中には、疾病(シッペイ)、恐怖、怨恨(エンコン)、哀愁、 疑惑、嫉妬(シット)、憤怒(フンヌ)、憎悪(ゾウオ)、呪詛(ジュソ)、焦慮、後悔、 卑屈、貪慾(ドンヨク)、虚偽、怠惰、暴行などのあらゆる不吉の妖魔(ヨウマ) がはいっていて、パンドラがその箱をそっとあけると同時に、羽蟻(ハアリ) の大群の如く一斉に飛び出し、この世の隅(スミ)から隅まで残るくまなく はびこるに到(イタ)ったという事になっているが、しかし、呆然たるパン ドラが、うなだれて、そのからっぽの箱の底を眺めた時、その底の闇(ヤ ミ)に一点の星のように輝いている小さな宝石を見つけたというではない か。そうして、その宝石には、なんと、「希望」という字がしたためら れていたという。これに依って、パンドラの蒼白(ソウハク)の頬にも、幽か に血の色がのぼったという。それ以来、人間は、いかなる苦痛の妖魔に 襲われても、この「希望」に依って、勇気を得、困難に堪(タ)え忍ぶ事 が出来るようになったという。それに較(クラ)べて、この竜宮のお土産は、 愛嬌(アイキョウ)も何もない。ただ、煙だ。そうして、たちまち三百歳のお 爺さんである。よしんば、その「希望」の星が貝殻の底に残っていたと したところで、浦島さんは既に三百歳である。三百歳のお爺さんに「希 望」を与えたって、それは悪ふざけに似ている。どだい、無理だ。それ では、ここで一つ、れいの「聖諦」を与えてみたらどうか。しかし、相 手は三百歳である。いまさら、そんな気取ったきざったらしいものを与 えなくたって、人間三百歳にもなりゃ、いい加減、諦めているよ。結局、 何もかも駄目である。救済の手の差し伸べようが無い。どうにも、これ はひどいお土産をもらって来たものだ。しかし、ここで匙(サジ)を投げ たら、或いは、日本のお伽噺(トギバナシ)はギリシャ神話よりも残酷であ る。などと外国人に言われるかも知れない。それはいかにも無念な事だ。 また、あのなつかしい竜宮の名誉にかけても、何とかして、この不可解 のお土産に、貴い意義を発見したいものである。いかに竜宮の数日が陸 上の数百年に当るとは言え、何もその歳月を、ややこしいお土産などに して浦島に持たせてよこさなくてもよさそうなものだ。浦島が竜宮から 海の上に浮かび出たとたんに、白髪の三百歳に変化したというのなら、 まだ話がわかる。また、乙姫のお情で、浦島をいつまでも青年にして置 くつもりだったのならば、そんな危険な「あけてはならぬ」品物を、わ ざわざ浦島に持たせてよこす必要は無い。竜宮のどこかの隅に捨てて置 いたっていいじゃないか。それとも、お前のたれた糞尿(フンニョウ)は、お 前が持って帰ったらいいだろう、という意味なのだろうか。それでは、 何だかひどく下等な「面当(ツラア)て」みたいだ。まさかあの聖諦の乙姫 が、そんな長屋の夫婦喧嘩(ゲンカ)みたいな事をたくらむとは考えられな い。どうも、わからぬ。私は、それに就いて永い間、思案した。そうし て、このごろに到って、ようやく少しわかって来たような気がして来た のである。  つまり、私たちは、浦島の三百歳が、浦島にとって不幸であったとい う先入感に依って誤られて来たのである。絵本にも、浦島は三百歳になっ て、それから、「実に、悲惨な身の上になったものさ。気の毒だ。」な どというような事は書かれていない。   タチマチ シラガノ オジイサン  それでおしまいである。気の毒だ、馬鹿だ、などというのは、私たち 俗人の勝手な盲断に過ぎない。三百歳になったのは、浦島にとって、決 して不幸では【なかった】のだ。  貝殻の底に、「希望」の星があって、それで救われたなんてのは、考 えてみるとちょっと少女趣味で、こしらえものの感じが無くもないよう な気もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自体で救われているのである。 貝殻の底には、何も残っていなくたっていい。そんなものは問題でない のだ。曰(イワ)く、   年月は、人間の救いである。   忘却は、人間の救いである。  竜宮の高貴なもてなしも、この素晴らしいお土産に依って、まさに最 高潮に達した観がある。思い出は、遠くへだたるほど美しいというでは ないか。しかも、その三百年の招来をさえ、浦島自身の気分にゆだねた。 ここに到っても、浦島は、乙姫から無限の許可を得ていたのである。淋 しくなかったら、浦島は、貝穀をあけて見るような事はしないだろう。 どう仕様も無く、この貝殻一つに救いを求めた時には、あけるかも知れ ない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である、これ以上の説 明はよそう。日本のお伽噺には、このような深い慈悲がある。  浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたという。 [以 上]