PDD図書館管理番号 0000.0000.0219.10 ( ) はひらがなのルビ。 前 書 き 太宰 治:作 「あ、鳴った。」  と言って、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬの だが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空(ボウクウ) 頭巾(ズキン)をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕(ゴウ)にはいる。既に、 母は二歳の男の子を背負って壕の奥にうずくまっている。 「近いようだね。」 「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」 「そうかね。」と父は不満そうに、「しかし、これくらいで、ちょうど いいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」 「でも、もすこし広くしてもいいでしょう。」 「うむ、まあ、そうだが、いまは土が凍って固くなっているから掘るの が困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言って、母をだまらせ、 ラジオの防空情報に耳を澄ます。  母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出 ましょう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃 太郎、カチカチ山、舌切雀(シタキリスズメ)、瘤取(コブト)り、浦島さんなど、 父は子供に読んで聞かせる。  この父は服装もまずしく、容貌(ヨウボウ)も愚なるに似ているが、しか し、元来ただものでないのである。物語を創作するというまことに奇異 なる術を体得している男なのだ。  ムカシ ムカシノオ話ヨ  などと、間(マ)の抜けたような妙な声で絵本を読んでやりながらも、 その胸中には、またおのずから別個の物語が饂<*1>醸(ウンジョウ)せられて いるのである。 <*1>饂:「酉」偏+(「饂」-「食」):補助6679 [以 上]