PDD図書館管理番号 0000.0000.0219.40 ( ) はひらがなのルビ。 カチカチ山 太宰 治:作  カチカチ山の物語に於(オ)ける兎(ウサギ)は少女、そうしてあの惨(ミジ) めな敗北を喫する狸(タヌキ)は、その兎の少女を恋している醜男(ブオトコ)。 これはもう疑いを容(イ)れぬ儼然(ゲンゼン)たる事実のように私には思わ れる。これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あた りで行われた事件であるという。甲州の人情は、荒っぽい。そのせいか、 この物語も、他のお伽噺(トギバナシ)に較(クラ)べて、いくぶん荒っぽく出 来ている。だいいち、どうも、物語の発瑞(ホッタン)からして酷だ。婆汁な んてのは、ひどい。お道化(ドケ)にも洒落(シャレ)にもなってやしない。狸 も、つまらない悪戯(イタズラ)をしたものである。縁の下に婆さんの骨が 散らばっていたなんて段に到(イタ)ると、まさに陰惨の極度であって、所 謂(イワユル)児童読物としては、遺憾ながら発売禁止の憂目に遭(ア)わざる を得ないところであろう。現今発行せられているカチカチ山の絵本は、 それゆえ、狸が婆さんに怪我(ケガ)をさせて逃げたなんて工合いに、賢 明にごまかしているようである。それはまあ、発売禁止も避けられるし、 大いによろしい事であろうが、しかし、たったそれだけの悪戯に対する 懲罰としてはどうも、兎の仕打は、執拗(シツヨウ)すぎる。一撃のもとに倒 すというような颯爽(サッソウ)たる仇討(アダウ)ちではない。生殺しにして、 なぶって、なぶって、そうして最後は泥舟でぶくぶくである。その手段 は、一から十まで詭計(キケイ)である。これは日本の武士道の作法ではな い。しかし、狸が婆汁などという悪どい欺術を行ったのならば、その返 報として、それくらいの執拗のいたぶりを受けるのは致(イタ)し方(カタ)の 無いところでもあろうと合点(ガテン)のいかない事もないのであるが、童 心に与える影響ならびに発売禁止のおそれを顧慮して、狸が単に婆さん に怪我をさせて逃げた罰として兎からあのようなかずかずの恥辱と苦痛 と、やがてぶていさい極(キワ)まる溺死(デキシ)とを与えられるのは、いさ さか不当のようにも思われる。もともとこの狸は、何の罪とがも無く、 山でのんびり遊んでいたのを、爺(ジイ)さんに捕えられ、そうして狸汁 にされるという絶望的な運命に到達し、それでも何とかして一条の血路 を切りひらきたく、もがき苦しみ、窮余の策として婆さんを欺き、九死 に一生を得たのである。婆汁なんかをたくらんだのは大いに悪いが、し かし、このごろの絵本のように、逃げるついでに婆さんを引掻(ヒッカ)い て怪我させたくらいの事は、狸もその時は必死の努力で、謂(イ)わば正 当防衛のために無我夢中であがいて、意識せずに婆さんに怪我を与えた のかも知れないし、それはそんなに憎むべき罪でも無いように思われる。 私の家の五歳の娘は、器量も父に似て頗(スコブ)るまずいが、頭脳もまた 不幸にも父に似て、へんなところがあるようだ。私が防空壕(ボウクウゴウ) の中で、このカチカチ山の絵本を読んでやったら、 「狸さん、可哀想(カワイソウ)ね。」  と意外な事を口走った。もっとも、この娘の「可哀想」は、このごろ の彼女の一つ覚えで、何を見ても「可哀想」を連発し、以(モッ)て子に甘 い母の称讃(ショウサン)を得ようという下心が露骨に見え透いているのであ るから、格別おどろくには当らない。或いは、この子は、父に連れられ て近所の井(イ)の頭(カシラ)動物園に行った時、檻(オリ)の中を絶えずチョコ チョコ歩きまわっている狸の一群を眺(ナガ)め、愛すべき動物であると 思い込み、それゆえ、このカチカチ山の物語に於いても、理由の如何(イ カン)を問わず、狸に贔屓(ヒイキ)していたのかも知れない。いずれにしても、 わが家の小さい同情者の言は、あまりあてにならない。思想の根拠が、 薄弱である。同情の理由が、朦朧(モウロウ)としている。どだい、何も、問 題にする価値が無い。しかし私は、その娘の無責任きわまる放言を聞い て、或る暗示を与えられた。この子は、何も知らずにただ、このごろ覚 えた言葉を出鱈目(デタラメ)に呟(ツブヤ)いただけの事であるが、しかし、 父はその言葉に依(ヨ)って、なるほど、これでは少し兎の仕打がひどす ぎる、こんな小さい子供たちなら、まあ何とか言ってごまかせるけれど も、もっと大きい子供で、武士道とか正々堂々とかの観念を既に教育せ られている者には、この兎の懲罰は所謂「やりかたが汚(キタナ)い」と思 われはせぬか、これは問題だ、と愚かな父は眉(マユ)をひそめたというわ けである。  このごろの絵本のように、狸が婆さんに単なる引掻き傷を与えたくら いで、このように兎に意地悪く飜弄(ホンロウ)せられ、背中は焼かれ、その 焼かれた個所には唐辛子(トウガラシ)を塗られ、あげくの果には泥舟に乗せ られて殺されるという悲惨の運命に立ち到るという筋書では、国民学校 にかよっているほどの子供ならば、すぐに不審を抱(イダ)くであろう事 は勿論(モチロン)、よしんば狸が、不埒(フラチ)な婆汁などを試みたとしても、 なぜ正々堂々と名乗りを挙げて彼に膺懲(ヨウチョウ)の一太刀(ヒトタチ)を加え なかったか。兎が非力であるから、などはこの場合、弁解にならない。 仇討ちは須(スベカラ)く正々堂々たるべきである。神は正義に味方する、 かなわぬまでも、天誅(テンチュウ)! と一声叫んで真正面からおどりかかっ て行くべきである。あまりにも腕前の差がひどかったならば、その時に は臥薪嘗胆(ガシンショウタン)、鞍馬山(クラマヤマ)にでもはいって一心に剣術の修 行をする事だ。昔から日本の偉い人たちは、たいていそれをやっている。 いかなる事情があろうと、詭計を用いて、しかもなぶり殺しにするなど という仇討物語は、日本に未(イマ)だ無いようだ。それをこのカチカチ山 ばかりは、どうも、その仇討ちの仕方が芳(カンバ)しくない。どだい、男 らしくないじゃないか、と子供でも、また大人でも、いやしくも正義に あこがれている人間ならば、誰でもこれに就(ツ)いてはいささか不快の 情を覚えるのではあるまいか。  安心し給(タマ)え。私もそれに就いて、考えた。そうして、兎のやり方 が男らしくないのは、それは当然だという事がわかった。この兎は男じゃ ないんだ。それは、たしかだ。この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、 色気は無いが、しかし、美人だ。そうして、人間のうちで最も残酷なの は、えてして、このたちの女性である。ギリシャ神話には美しい女神(メ ガミ)がたくさん出て来るが、その中でも、ヴィナスを除いては、アルテ ミスという処女神が最も魅力ある女神とせられているようだ。ご承知の ように、アルテミスは月の女神で、額には青白い三日月が輝き、そうし て敏捷(ビンショウ)できかぬ気で、一口で言えばアポロンをそのまま女にし たような神である。そうして下界のおそろしい猛獣は全部この女神の家 来である。けれども、その姿態は決して荒くれて岩乗(ガンジョウ)な大女 ではない。むしろ小柄で、ほっそりとして、手足も華奢(キャシャ)で可愛(カ ワイ)く、ぞっとするほどあやしく美しい顔をしているが、しかし、ヴィ ナスのような「女らしさ」が無く、乳房(チブサ)も小さい。気にいらぬ者 には平気で残酷な事をする。自分の水浴しているところを覗(ノゾ)き見 (ミ)した男に、颯(サ)っと水をぶっかけて鹿(シカ)にしてしまった事さえあ る。水浴の姿をちらと見ただけでも、そんなに怒るのである。手なんか 握られたら、どんなにひどい仕返しをするかわからない。こんな女に惚 (ホ)れたら、男は惨憺(サンタン)たる大恥辱を受けるにきまっている。けれ ども、男は、それも愚鈍の男ほど、こんな危険な女性に惚れ込み易(ヤス) いものである。そうして、その結果は、たいていきまっているのである。  疑うものは、この気の毒な狸を見るがよい。狸は、そのようなアルテ ミス型の兎の少女に、かねてひそかに思慕の情を寄せていたのだ。兎が、 このアルテミス型の少女だったと規定すると、あの狸が婆汁か引掻き傷 かいずれの罪を犯した場合でも、その懲罰が、へんに意地くね悪く、そ うして「男らしく」ないのが当然だと、溜息(タメイキ)と共に首肯せられな ければならぬわけである。しかも、この狸たるや、アルテミス型の少女 に惚れる男のごたぶんにもれず、狸仲間でも風采(フウサイ)あがらず、ただ 団々として、愚鈍大食の野暮天(ヤボテン)であったというに於いては、そ の悲惨のなり行きは推するに余りがある。  狸は爺さんに捕えられ、もう少しのところで狸汁にされるところであっ たが、あの兎の少女にひとめまた逢(ア)いたくて、大いにあがいて、やっ と逃(ノガ)れて山へ帰り、ぶつぶつ何か言いながら、うろうろ兎を捜し 歩き、やっと見つけて、 「よろこんでくれ! おれは命拾いをしたぞ。爺さんの留守をねらって、 あの婆さんを、えい、とばかりにやっつけて逃げて来た。おれは運の強 い男さ。」と得意満面、このたびの大厄難突破の次第を、唾(ツバキ)を飛 ばし散らしながら物語る。  兎はぴょんと飛びしりぞいて唾を避け、ふん、といったような顔つき で話を聞き、 「何も私が、よろこぶわけは無いじゃないの。きたないわよ、そんなに 唾を飛ばして。それに、あの爺さん婆さんは、私のお友達よ。知らなかっ たの?」 「そうか、」と狸は愕然(ガクゼン)として、「知らなかった。かんべんし てくれ。そうと知っていたら、おれは、狸汁にでも何にでも、なってやっ たのに。」と、しょんぼりする。 「いまさら、そんな事を言ったって、もうおそいわ。あのお家の庭先に 私が時々あそびに行って、そうして、おいしいやわらかな豆なんかごち そうになったのを、あなただって知ってたじゃないの。それだのに、知 らなかったなんて嘘(ウソ)ついて、ひどいわ。あなたは、私の敵よ。」と むごい宣告をする。兎にはもうこの時すでに、狸に対して或る種の復讐 (フクシュウ)を加えてやろうという心が動いている。処女の怒りは辛辣(シンラツ) である。殊(コト)にも醜悪な魯鈍(ロドン)なものに対しては容赦が無い。 「ゆるしてくれよ。おれは、ほんとに、知らなかったのだ。嘘なんかつ かない。信じてくれよ。」と、いやにねばっこい口調で歎願して、頸(ク ビ)を長くのばしてうなだれて見せて、傍(ソバ)に木の実が一つ落ちてい るのを見つけ、ひょいと捨って食べて、もっと無いかとあたりをきょろ きょろ見廻しながら、「本当にもう、お前にそんなに怒られると、おれ はもう、死にたくなるんだ。」 「何を言ってるの。食べる事ばかり考えてるくせに。」兎は軽蔑(ケイベツ) し果てたというように、つんとわきを向いてしまって、「助平(スケベイ) の上に、また、食い意地がきたないったらありゃしない。」 「見のがしてくれよ。おれは、腹がへっているんだ。」となおもその辺 を、うろうろ捜し廻りながら、「まったく、いまのおれのこの心苦しさ が、お前にわかってもらえたらなあ。」 「傍へ寄って来ちや駄目だって言ったら。くさいじゃないの。もっとあっ ちへ離れてよ。あなたは、とかげを食べたんだってね。私は聞いたわよ。 それから、ああ可笑(オカ)しい、ウンコも食べたんだってね。」 「まさか。」と狸は力弱く苦笑した。それでも、なぜだか、強く否定す る事の能(アタ)わざる様子で、さらにまた力弱く、「まさかねえ。」と口 を曲げて言うだけであった。 「上品ぶったって駄目よ。あなたのそのにおいは、ただの臭(クサ)みじゃ ないんだから。」と兎は平然と手きびしい引導を渡して、それから、ふ いと別の何か素晴らしい事でも思いついたらしく急に眼を輝かせ、笑い を噛<*1>(カ)み殺しているような顔つきで狸のほうに向き直り、「それ じゃあね、こんど一ぺんだけ、ゆるしてあげる。あれ、寄って来ちゃ駄 目だって言うのに。油断もすきもなりゃしない。よだれを拭(フ)いたら どう? 下顎(シタアゴ)がべろべろしてるじゃないの。落ちついて、よく お聞き。こんど一ぺんだけは特別にゆるしてあげるけれど、でも、条件 があるのよ。あの爺さんは、いまごろはきっとひどく落胆して、山に柴 刈(シバカ)りに行く気力も何も無くなっているでしょうから、私たちはそ の代りに柴刈りに行ってあげましょうよ。」 <*1>噛:「口」偏+「齒」:補助2258 「一緒に? お前も一緒に行くのか?」狸の小さい濁った眼は歓喜に燃 えた。 「おいや?」 「いやなものか。きょうこれから、すぐに行こうよ。」よろこびの余り、 声がしゃがれた。 「あしたにしましょう、ね、あしたの朝早く。きょうはあなたもお疲れ でしょうし、それに、おなかも空(ス)いているでしょうから。」といや に優しい。 「ありがたい! おれは、あしたお弁当をたくさん作って持って行って、 一心不乱に働いて十貫目の柴を刈って、そうして爺さんの家へとどけて あげる。そうしたら、お前は、おれをきっと許してくれるだろうな。仲 よくしてくれるだろうな。」 「くどいわね。その時のあなたの成績次第でね。もしかしたら、仲よく してあげるかも知れないわ。」 「えへへ、」と狸は急にいやらしく笑い、「その口が憎いや。苦労させ るぜ、こんちきしょう。おれは、もう、」と言いかけて、這(ハ)い寄っ て来た大きな蜘蛛(クモ)を素早くぺろりと食べ、「おれは、もう、どんな に嬉(ウレ)しいか、いっそ、男泣きに泣いてみたいくらいだ。」と鼻をす すり、嘘泣きをした。  夏の朝は、すがすがしい。河口湖の湖面は朝霧に覆(オオ)われ、白く眼 下に烟(ケム)っている。山頂では狸と兎が朝露を全身に浴びながら、せっ せと柴を刈っている。  狸の働き振りを見ると、一心不乱どころか、ほとんど半狂乱に近いあ さましい有様である。ううむ、ううむ、と大袈娑(オオゲサ)に唸(ウナ)りな がら、めちゃ苦茶に鎌(カマ)を振りまわして、時々、あいたたたた、など と聞えよがしの悲鳴を挙げ、ただもう自分がこのように苦心惨憺してい るというところを兎に見てもらいたげの様子で、縦横無尽に荒れ狂う。 ひとしきり、そのように凄(スサマ)じくあばれて、さすがにもうだめだ、 というような疲れ切った顔つきをして鎌を投げ捨て、 「これ、見ろ。手にこんなに豆が出来た。ああ、手がひりひりする。の どが乾(カワ)く。おなかも空(ス)いた。とにかく、大労働だったからなあ。 ちょっと休息という事にしようじゃないか。お弁当でも開きましょうか ね。うふふふ。」とてれ隠しみたいに妙に笑って、大きいお弁当箱を開 く。ぐいとその石油罐(セキユカン)ぐらいの大きさのお弁当箱に鼻先を突込 んで、むしゃむしゃ、がつがつ、ぺっぺっ、という騒々しい音を立てな がら、それこそ一心不乱に食べている。兎はあっけにとられたような顔 をして、柴刈りの手を休め、ちょっとそのお弁当箱の中を覗(ノゾ)いて、 あ! と小さい叫びを挙げ、両手で顔を覆った。何だか知れぬが、その お弁当箱には、すごいものがはいっていたようである。けれども、きょ うの兎は、何か内証の思惑でもあるのか、いつものように狸に向って侮 辱の言葉も吐かず、先刻から無言で、ただ技巧的な微笑を口辺に漂わせ てせっせと柴を刈っているばかりで、お調子に乗った狸のいろいろな狂 態をも、知らん振りして見のがしてやっているのである。狸の大きいお 弁当箱の中を覗いて、ぎょっとしたけれども、やはり何も言わず、肩を きゅっとすくめて、またもや柴刈りに取りかかる。狸は兎にきょうはひ どく寛大に扱われるので、ただもうほくほくして、とうとうやっこさん も、おれのさかんな柴刈姿には惚(ホ)れ直したかな? おれの、この、 男らしさには、まいらぬ女もあるまいて、ああ、食った、眠くなった、 どれ一眠り、などと全く気をゆるしてわがままいっぱいに振舞い、ぐう ぐう大鼾(オオイビキ)を掻(カ)いて寝てしまった。眠りながらも、何のたわ けた夢を見ているのか、惚れ薬ってのは、あれは駄目だぜ、きかねえや、 などわけのわからぬ寝言を言い、眼をさましたのは、お昼ちかく。 「ずいぶん眠ったのね。」と兎は、やはりやさしく、「もう私も、柴を 一束こしらえたから、これから背負って爺さんの庭先まで持って行って あげましょうよ。」 「ああ、そうしよう。」と狸は大あくびしながら腕をぽりぽり掻いて、 「やけにおなかが空(ス)いた。こうおなかが空(ス)くと、もうとても、眠っ て居られるものじゃない。おれは敏感なんだ。」ともっともらしい顔で 言い、「どれ、それではおれも刈った柴を大急ぎで集めて、下山としよ うか。お弁当も、もう、からになったし、この仕事を早く片づけて、そ れからすぐに食べ物を捜さなくちゃいけない。」  二人はそれぞれ刈った柴を背負って、帰途につく。 「あなた、さきに歩いてよ。この辺には、蛇(ヘビ)がいるんで、私こわ くて。」 「蛇? 蛇なんてこわいもんか。見つけ次第おれがとって、」食べる、 と言いかけて、口ごもり、「おれがとって、殺してやる。さあ、おれの あとについて来い。」 「やっぱり、男のひとって、こんな時にはたのもしいものねえ。」 「おだてるなよ。」とやにさがり、「きょうはお前、ばかにしおらしい じゃないか。気味がわるいくらいだぜ。まさか、おれをこれから爺さん のところに連れて行って、狸汁にするわけじゃあるまいな。あははは。 そいつばかりは、ごめんだぜ。」 「あら、そんなにへんに疑うなら、もういいわよ。私がひとりで行くわ よ。」 「いや、そんなわけじゃない。一緒に行くがね、おれは蛇だって何だっ てこの世の中にこわいものなんかありゃしないが、どうもあの爺さんだ けは苦手だ。狸汁にするなんて言いやがるから、いやだよ。どだい、下 品じゃないか。少くとも、いい趣味じゃないと思うよ。おれは、あの爺 さんの庭先の手前の一本榎(イッポンエノキ)のところまで、この柴を背負って 行くから、あとはお前が運んでくれよ。おれは、あそこで失敬しようと 思うんだ。どうもあの爺さんの顔を見ると、おれは何とも言えず不愉快 になる。おや? 何だい、あれは。へんな音がするね。なんだろう。お 前にも、聞えないか? 何だか、カチ、カチ、と音がする。」 「当り前じゃないの? ここは、カチカチ山だもの。」 「カチカチ山? ここがかい?」 「ええ、知らなかったの?」 「うん。知らなかった。この山に、そんな名前があるとは今日まで知ら なかったね。しかし、へんな名前だ。嘘(ウソ)じゃないか?」 「あら、だって、山にはみんな名前があるものでしょう? あれが富士 山だし、あれが長尾山だし、あれが大室山(オオムロヤマ)だし、みんなに名前 があるじゃないの。だから、この山はカチカチ山っていう名前なのよ。 ね、ほら、カチ、カチって音が聞える。」 「うん、聞える。しかし、へんだな。いままで、おれはいちども、この 山でこんな音を聞いた事が無い。この山で生れて、三十何年かになるけ れども、こんな、−−」 「まあ! あなたは、もうそんな年なの? こないだ私に十七だなんて 教えたくせに、ひどいじゃないの。顔が皺(シワ)くちゃで、腰も少し曲っ ているのに、十七とは、へんだと思っていたんだけど、それにしても、 二十も年(トシ)をかくしているとは思わなかったわ。それじゃあなたは、 四十ちかいんでしょう、まあ、ずいぶんね。」 「いや十七だ、十七。十七なんだ。おれがこう腰をかがめて歩くのは、 決してとしのせいじゃないんだ。おなかが空(ス)いているから、自然に こんな恰好(カッコウ)になるんだ。三十何年、というのは、あれは、おれの 兄の事だよ。兄がいつも口癖のようにそう言うので、つい、おれも、うっ かり、あんな事を口走ってしまったんだ。つまり、ちょっと伝染したっ てわけさ。そんなわけなんだよ、君。」狼狽(ロウバイ)のあまり、君とい う言葉を使った。 「そうですか。」と兎は冷静に、「でも、あなたにお兄さんがあるなん て、はじめて聞いたわ。あなたはいつか私に、おれは淋(サビ)しいんだ、 孤独なんだよ、親も兄弟も無い、この孤独の淋しさが、お前、わからん かね、なんておっしゃってたじゃないの。あれは、どういうわけなの?」 「そう、そう、」と狸は、自分でも何を言っているのか、わからなくな り、「まったく世の中は、これでなかなか複雑なものだからねえ、そん なに一概には行かないよ。兄があったり無かったり。」 「まるで、意味が無いじゃないの。」と兎もさすがに呆(アキ)れ果て、 「めちゃ苦茶ね。」 「うん、実はね、兄はひとりあるんだ。これは言うのもつらいが、飲ん だくれのならず者でね、おれはもう恥ずかしくて、面目なくて、生れて 三十何年間、いや、兄がだよ、兄が生れて三十何年間というもの、この おれに、迷惑のかけどおしさ。」 「それも、へんね。十七のひとが、三十何年間も迷惑をかけられたなん て。」  狸は、もう聞えぬ振りして、 「世の中には、一口で言えない事が多いよ。いまじゃもう、おれのほう から、あれは無いものと思って、勘当して、おや? へんだね、キナく さい。お前、なんともないか?」 「いいえ。」 「そうかね。」狸は、いつも臭いものを食べつけているので、鼻には自 信が無い。けげんな面持て頸(クビ)をひねり、「気のせいかなあ。あれ あれ、何だか火が燃えているような、パチパチボウボウって音がするじゃ ないか。」 「そりゃあその筈(ハズ)よ。ここは、パチパチのボウボウ山だもの。」 「嘘つけ。お前は、ついさっき、ここはカチカチ山だって言った癖に。」 「そうよ、同じ山でも、場所に依(ヨ)って名前が違うのよ。富士山の中 腹に小富士という山があるし、それから大室山だって長尾山だって、み んな富士山と続いている山じゃないの。知らなかったの?」 「うん、知らなかった。そうかなあ、ここがパチパチのボウボウ山とは、 おれが三十何年間、いや、兄の話に依れば、ここはただの裏山だったが、 いや、これは、ばかに暖くなって来た。地震でも起るんじゃねえだろう か。何だかきょうは薄気味の悪い日だ。やあ、これは、ひどく暑い。きゃ あっ! あちちちち、ひでえ、あちちちち、助けてくれ、柴が燃えてる。 あちちちち。」  その翌(アク)る日(ヒ)、狸は自分の穴の奥にこもって唸(ウナ)り、 「ああ、くるしい。いよいよ、おれも死ぬかも知れねえ。思えば、おれ ほど不仕合せな男は無い。なまなかに男振りが少し佳(ヨ)く生れて来た ばかりに、女どもが、かえって遠慮しておれに近寄らない。いったいに、 どうも、上品に見える男は損だ。おれを女ぎらいかと思っているのかも 知れねえ。なあに、おれだって決して聖人じゃない。女は好きさ。それ だのに、女はおれを高邁(コウマイ)な理想主義者だと思っているらしく、な かなか誘惑してくれない。こうなればいっそ、大声で叫んで走り狂いた い。おれは女が好きなんだ! あ、いてえ、いてえ。どうも、この火傷 (ヤケド)というものは始末がわるい。ずきずき痛む。やっと狸汁から逃(ノ ガ)れたかと思うと、こんどは、わけのわからねえボウボウ山とかいう のに足を踏み込んだのが、運のつきだ。あの山は、つまらねえ山であっ た。柴がボウボウ燃え上るんだから、ひどい。三十何年、」と言いかけ て、あたりをぎょろりと見廻し、「何を隠そう、おれあことし三十七さ、 へへん、わるいか、もう三年経(タ)てば四十だ、わかり切った事だ、理 の当然というものだ、見ればわかるじゃないか。あいたたた、それにし ても、おれが生れてから三十七年間、あの裏山で遊んで育って来たのだ か、ついぞいちども、あんなへんな目に遭(ア)った事が無い。カチカチ 山だの、ボウボウ山だの、名前からして妙に出来てる。はて、不思議 だ。」とわれとわが頭を殴(ナグ)りつけて思案にくれた。  その時、表で行商の呼売りの声がする。 「仙金膏(センキンコウ)はいかが。やけど、切傷、色黒に悩むかたはいない か。」  狸は、やけど切傷よりも、色黒と聞いてはっとした。 「おうい、仙金膏。」 「へえ、どちらさまで。」 「こっちだ、穴の奥だよ。色黒にもきくかね。」 「それはもう、一日で。」 「ほほう、」とよろこび、穴の奥からいざり出て、「や! お前は、 兎。」 「ええ、兎には違いありませんが、私は男の薬売りです。ええ、もう三 十何年間、この辺をこうして売り歩いています。」 「ふう、」と狸は溜息(タメイキ)をついて首をかしげ、「しかし、似た兎も あるものだ。三十何年間、そうか、お前がねえ。いや、歳月の話はよそ う。糞面白(クソオモシロ)くもない。しつっこいじゃないか。まあ、そんなわ けのものさ。」としどろもどろのごまかし方をして、「ところで、おれ にその薬を少しゆずってくれないか。実はちょっと悩みのある身なので な。」 「おや、ひどい火傷ですねえ。これは、いけない。ほって置いたら、死 にますよ。」 「いや、おれはいっそ死にてえ。こんな火傷なんかどうだっていいんだ。 それよりも、おれは、いま、その、容貌(ヨウボウ)の、−−」 「何を言っていらっしゃるんです。生死の境じゃありませんか。やあ、 背中が一ばんひどいですね。いったい、これはどうしたのです。」 「それがねえ、」と狸は口をゆがめて、「パチパチのボウボウ山とかい うきざな名前の山に踏み込んだばっかりにねえ、いやもう、とんだ事に なってねえ、おどろきましたよ。」  兎は思わず、くすくす笑ってしまった。狸は、兎がなぜ笑ったのかわ からなかったが、とにかく自分も一緒に、あはははと笑い、 「まったくねえ。ばかばかしいったらありゃしないのさ。お前にも忠告 して置きますがね、あの山へだけは行っちゃいけないぜ。はじめ、カチ カチ山というのがあって、それからいよいよパチパチのボウボウ山とい う事になるんだが、あいつあいけない。ひでえ事になっちゃう。まあ、 いい加減に、カチカチ山あたりでごめんこうむって来るんですな。へた にボウボウ山などに踏み込んだが最後、かくの如(ゴト)き始末だ。あい ててて。いいですか。忠告しますよ。お前はまだ若いようだから、おれ のような年寄りの言は、いや、年寄りでもないが、とにかく、ばかにし ないで、この友人の言だけは尊重して下さいよ。何せ、体験者の言なの だから。あいてててて。」 「ありがとうございます。気をつけましょう。ところで、どうしましょ う、お薬は。御深切な忠告を聞かしていただいたお礼として、お薬代は 頂戴(チョウダイ)いたしません。とにかく、その背中の火傷に塗ってあげま しょう。ちょうど折よく私が来合せたから、よかったようなものの、そ うでもなかったら、あなたはもう命を落すような事になったかも知れな いのです。これも何かのお導きでしょう。縁ですね。」 「縁かも知れねえ。」と狸は低く呻(ウメ)くように言い、「ただなら塗っ てもらおうか。おれもこのごろは貧乏でな、どうも、女に惚れると金が かかっていけねえ。ついでにその膏薬を一滴おれの手のひらに載せて見 せてくれねえか。」 「どうなさるのです。」兎は、本安そうな顔になった。 「いや、はあ、なんでもねえ。ただ、ちょっと見たいんだよ。どんな色 合いのものだかな。」 「色は別に他(ホカ)の膏薬とかわってもいませんよ。こんなものですが。」 とほんの少量を、狸の差し出す手のひらに載せてやる。  狸は素早くそれを顔に塗ろうとしたので兎は驚き、そんな事でこの薬 の正体が暴露してはかなわぬと、狸の手を遮(サエギ)り、 「あ、それはいけません。顔に塗るには、その薬は少し強すぎます。と んでもない。」 「いや、放してくれ。」狸はいまは破れかぶれになり、「後生だから手 を放せ。お前には、おれの気持がわからないんだ。おれはこの色黒のた め生れて三十何年間、どのように味気ない思いをして来たかわからない。 放せ。手を放せ。後生だから塗らせてくれ。」  ついに狸は足を挙げて兎を蹴飛(ケト)ばし、眼にもとまらぬ早さで薬を ぬたくり、 「少くともおれの顔は、目鼻立ちは決して悪くないと思うんだ。ただ、 この色黒のために気がひけていたんだ。もう大丈夫だ。うわっ! これ は、ひどい。どうもひりひりする。強い薬だ。しかし、これくらいの強 い薬でなければ、おれの色黒はなおらないような気もする。わあ、ひど い。しかし、我慢するんだ。ちきしょうめ、こんどあいつが、おれと逢 (ア)った時、うっとりおれの顔に見とれて、うふふ、おれはもう、あい つが、恋わずらいしたって知らないぞ。おれの責任じゃないからな。あ あ、ひりひりする。この薬は、たしかに効(キ)く。さあ、もうこうなっ たら、背中にでもどこにでも、からだ一面に塗ってくれ。おれは死んだっ てかまわん。色白にさえなったら死んだってかまわんのだ。さあ塗って くれ。遠慮なくべたべたと威勢よくやってくれ。」まことに悲壮な光景 になって来た。  けれども、美しく高ぶった処女の残忍性には限りが無い。ほとんどそ れは、悪魔に似ている。平然と立ち上って、狸の火傷にれいの唐辛子(ト ウガラシ)をねったものをこってりと塗る。狸はたちまち七転八倒(シチテンバッ トウ)して、 「ううむ、何ともない。この薬は、たしかに効く。わああ、ひどい。水 をくれ。ここはどこだ。地獄か。かんにんしてくれ。おれは地獄へ落ち る覚えは無(ネ)えんだ。おれは狸汁にされるのがいやだったから、それ で婆さんをやっつけたんだ。おれに、とがは無えのだ。おれは生れて三 十何年間、色が黒いばっかりに、女にいちども、もてやしなかったんだ。 それから、おれは、食慾が、ああ、そのために、おれはどんなにきまり の悪い思いをして来たか。誰も知りゃしないのだ。おれは孤独だ。おれ は善人だ。目鼻立ちは悪くないと思うんだ。」と苦しみのあまり哀れな 譫言(ウワゴト)を口走り、やがてぐったり失神の有様となる。  しかし、狸の不幸は、まだ終らぬ。作者の私でさえ、書きながら溜息 が出るくらいだ。おそらく、日本の歴史に於いても、これほど不振の後 半生を送った者は、あまり例が無いように思われる。狸汁の運命から逃 れて、やれ嬉(ウレ)しやと思う間もなく、ボウボウ山で意味も無い大火傷 をして九死に一生を得、這(ハ)うようにしてどうやらわが巣にたどりつ き、口をゆがめて呻吟(シンギン)していると、こんどはその大火傷に唐辛 子をべたべた塗られ、苦痛のあまり失神し、さて、それからいよいよ泥 舟に乗せられ、河口湖底に沈むのである。実に、何のいいところも無い。 これもまた一種の女難にちがい無かろうが、しかし、それにしても、あ まりに野暮(ヤボ)な女難である。粋(イキ)なところが、ひとつも無い。彼 は穴の奥で三日間は虫の息で、生きているのだか死んでいるのだか、そ れこそ全く幽明の境をさまよい、四日目に、猛烈の空腹感に襲われ、杖 (ツエ)をついて穴からよろばい出て、何やらぶつぶつ言いながら、かなた こなた食い捜して歩いているその姿の気の毒さと来たら比類が無かった。 しかし、根が骨太(ホネブト)の岩乗(ガンジョウ)なからだであったから、十日 も経たぬうちに全快し、食慾は旧(モト)の如く旺盛(オウセイ)で、色慾なども ちょっと出て来て、よせばよいのに、またもや兎の庵(イオリ)にのこのこ 出かける。 「遊びに来ましたよ。うふふ。」と、てれて、いやらしく笑う。 「あら!」と兎は言い、ひどく露骨にいやな顔をした。なあんだ、あな たなの? という気持、いや、それよりもひどい。なんだってまたやっ て来たの、図々しいじゃないの、という気持、いや、それよりも、なお ひどい。ああ、たまらない! 厄病神か来た! という気持、いや、そ れよりも、もっとひどい。きたない! くさい! 死んじまえ! とい うような極度の嫌悪(ケンオ)が、その時の兎の顔にありありと見えている のに、しかし、とかく招かれざる客というものは、その訪問先の主人の、 こんな憎悪感(ゾウオカン)に気附く事はなはだ疎(ウト)いものである。これは 実に不思議な心理だ。読者諸君も気をつけるがよい。あそこの家へ行く のは、どうも大儀だ、窮屈だ、と思いながら渋々出かけて行く時には、 案外その家で君たちの来訪をしんから喜んでいるものである。それに反 して、ああ、あの家はなんて気持のよい家だろう、ほとんどわが家同然 だ、いや、わが家以上に居心地(イゴコチ)がよい、我輩の唯一の憩(イコ)い の巣だ、なんともあの家へ行くのは楽しみだ、などといい気分で出かけ る家に於いては、諸君は、まずたいてい迷惑がられ、きたながられ、恐 怖せられ、襖(フスマ)の蔭(カゲ)に帚(ホウキ)など立てられているものである。 他人の家に、憩いの巣を期待するのが、そもそも馬鹿者の証拠なのかも 知れないが、とかくこの訪問という事に於いては、吾人は驚くべき思い 違いをしているものである。格別の用事でも無い限り、どんな親しい身 内の家にでも、矢鱈(ヤタラ)に訪問などすべきものでは無いかも知れない。 作者のこの忠告を疑う者は、狸を見よ。狸はいま明らかに、このおそる べき錯誤を犯しているのだ。兎が、あら! と言い、そうして、いやな 顔をしても、狸は一向に気がつかない。狸には、その、あら! という 叫びも、狸の不意の訪問に驚き、かつは喜悦して、おのずから発せられ た処女の無邪気な声の如くに思われ、ぞくぞく嬉しく、また兎の眉(マユ) をひそめた表惰をも、これは自分の先日のボウボウ山の災難に、心を痛 めているのに違い無いと解し、 「や、ありがとう。」とお見舞いも何も言われぬくせに、こちらから御 礼を述べ、「心配無用だよ。もう大丈夫だ。おれには神さまがついてい るんだ。運がいいのだ。あんなボウボウ山なんて屁(ヘ)の河童(カッパ)さ。 河童の肉は、うまいそうで、何とかして、そのうち食べてみようと思っ ているんだがね。それは余談だが、しかし、あの時は、驚いたよ。何せ どうも、たいへんな火勢だったからね。お前のほうは、どうだったね。 ベつに怪我(ケガ)も無い様子だが、よくあの火の中を無事で逃げて来ら れたね。」 「無事でもないわよ。」と兎はつんとすねて見せて、「あなたったら、 ひどいじゃないの。あのたいへんな火事場に、私ひとりを置いてどんど ん逃げて行ってしまうんだもの。私は煙にむせて、もう少しで死ぬとこ ろだったのよ。私は、あなたを恨んだわ。やっぱりあんな時に、つい本 心というものがあらわれるものらしいのね。私には、もう、あなたの本 心というものが、こんど、はっきりわかったわ。」 「すまねえ。かんにんしてくれ。実はおれも、ひどい火傷をして、おれ には、ひょっとしたら神さまも何もついていねえのかも知れない、さん ざんの目に遭っちゃったんだ。お前はどうなったか、決してそれを忘れ ていたわけじゃなかったんだが、何せどうも、たちまちおれの背中が熱 くなって、お前を助けに行くひまも何も無かったんだよ。わかってくれ ねえかなあ。おれは決して不実な男じゃねえのだ。火傷ってやつも、な かなか馬鹿にできねえものだぜ。それに、あの、仙金膏とか、疝気膏(セ ンキコウ)とか、あいつあ、いけない。いやもう、ひどい薬だ。色黒にも何 もききやしない。」 「色黒?」 「いや、何。どろりとした黒い薬でね、こいつあ、強い薬なんだ。お前 によく似た、小さい、奇妙な野郎が薬代は要(イ)らねえ、と言うから、 おれもつい、ものはためしだと思って、塗ってもらう事にしたのだが、 いやはやどうも、ただの薬ってのは、あれはお前、気をつけたほうがい いぜ、油断も何もなりゃしねえ、おれはもう頭のてっぺんからキリキリ と小さい竜巻が立ち昇ったような気がして、どうとばかりに倒れたん だ。」 「ふん、」と兎は軽蔑(ケイベツ)し、「自業自得じゃないの。ケチンボだ から罰が当ったんだわ。ただの薬だから、ためしてみたなんて、よくも まあそんな下品な事を、恥ずかしくもなく言えたものねえ。」 「ひでえ事を言う。」と狸は低い声で言い、けれども、別段何も感じな いらしく、ただもう好きなひとの傍(ソバ)にいるという幸福感にぬくぬ くとあたたまっている様子で、どっしりと腰を落ちつけ、死魚のように 濁った眼であたりを見廻し、小虫を拾って食べたりしながら、「しかし、 おれは運のいい男だなあ。どんな目に遭っても、死にゃしない。神さま がついているのかも知れねえ。お前も無事でよかったが、おれも何とい う事もなく火傷がなおって、こうしてまた二人でのんびり話が出来るん だものなあ。ああ、まるで夢のようだ。」  兎はもうさっきから、早く帰ってもらいたくてたまらなかった。いや でいやで、死にそうな気持。何とかしてこの自分の庵の附近から去って もらいたくて、またもや悪魔的の一計を案出する。 「ね、あなたはこの河口湖に、そりゃおいしい鮒(フナ)がうようよしてい る事をご存じ?」 「知らねえ。ほんとかね。」と狸は、たちまち眼をかがやかして、「お れが三つの時、おふくろが鮒を一匹捕(ト)って来ておれに食べさせてく れた事があったけれども、あれはおいしい。おれはどうも、不器用とい うわけではないが、決してそういうわけではないが、鮒なんて水の中の ものを捕える事が出来ねえので、どうも、あいつはおいしいという事だ けは知っていながら、それ以来三十何年間、いや、はははは、つい兄の 口真似(クチマネ)をしちゃった。兄も鮒は好きでなあ。」 「そうですかね。」と兎は上の空で合槌(アイヅチ)を打ち、「私はどうも、 鮒など食べたくもないけれど、でも、あなたがそんなにお好きなのなら ば、これから一緒に捕りに行ってあげてもいいわよ。」 「そうかい。」と狸はほくほくして、「でも、あの鮒ってやつは、素早 いもんでなあ、おれはあいつを捕えようとして、も少しで土左衛門(ドザ エモン)になりかけた事があるけれども、」とつい自分の過去の失態を告白 し、「お前に何かいい方法があるのかね。」 「網で掬(スク)ったら、わけは無いわ。あの盧<*2>茲<*3>島(ウガシマ)の岸 にこのごろとても大きい鮒が集まっているのよ。ね、行きましょう。あ なた、舟は? 漕(コ)げるの?」 <*2>盧:「盧」+「鳥」旁:補助7652 <*3>茲:「茲」+「鳥」旁:補助7623の異体字 「うむ、」幽(カス)かな溜息をついて、「漕げないことも無いがね。その 気になりゃ、なあに。」と苦しい法螺(ホラ)を吹いた。 「漕げるの?」と兎は、それが法螺だという事を知っていながら、わざ と信じた振りをして、「じゃ、ちょうどいいわ。私にはね、小さい舟が 一艘(ソウ)あるけど、あんまり小さすぎて私たちふたりは乗れないの。そ れに何せ薄い板切れでいい加減に作った舟だから、水がしみ込んで来て 危いのよ。でも、私なんかどうなったって、あなたの身にもしもの事が あってはいけないから、あなたの舟をこれから、ふたりで一緒に力を合 せて作りましょうよ。板切れの舟は危いから、もっと岩乗に、泥をこね て作りましょうよ。」 「すまねえなあ。おれはもう、泣くぜ。泣かしてくれ。おれはどうして こんなに涙もろいか。」と言って嘘泣(ウソナ)きをしながら、「ついでに お前ひとりで、その岩乗ないい舟を作ってくれないか。な、たのむよ。」 と抜からず横着な申し出をして、「おれは恩に着るぜ。お前がそのおれ の岩乗な舟を作ってくれている間に、おれは、ちょっとお弁当をこさえ よう。おれはきっと立派な炊事係になれるだろうと思うんだ。」 「そうね。」と兎は、この狸の勝手な意見をも信じた振りして素直に首 肯(ウナズ)く。そうして狸は、ああ世の中なんて甘いもんだとほくそ笑む。 この間一髪に於いて、狸の悲運は決定せられた。自分の出鯖目(デタラメ) を何でも信じてくれる者の胸中には、しばしば何かのおそるべき悪計が 蔵せられているものだと云う事を、迂愚(ウグ)の狸は知らなかった。調 子がいいぞ、とにやにやしている。  ふたりそろって湖畔に出る。白い河口湖には波ひとつ無い。兎はさっ そく泥をこねて、所謂(イワユル)岩乗(ガンジョウ)な、いい舟の製作にとりか かり、狸は、すまねえ、すまねえ、と言いながらあちこち飛び廻って専 ら自分のお弁当の内容調合に腐心し、夕風が微(カス)かに吹き起って湖面 一ぱいに小さい波が立って来た頃、粘土の小さい舟が、つやつやと鋼鉄 色に輝いて進水した。 「ふむ、悪くない。」と狸は、はしゃいで、石油罐(セキユカン)ぐらいの大 きさの、れいのお弁当箱をまず舟に積み込み、「お前は、しかし、ずい ぶん器用な娘だねえ。またたく間にこんな綺麗(キレイ)な舟一艘つくり上 げてしまうのだからねえ。神技だ。」と歯の浮くような見え透いたお世 辞を言い、このような器用な働き者を女房にしたら、或いはおれは、女 房の働きに依(ヨ)って遊んでいながら贅沢(ゼイタク)ができるかも知れない などと、色気のほかにいまはむらむら慾気さえ出て来て、いよいよこれ は何としてもこの女にくっついて一生はなれぬ事だ、とひそかに覚悟の ほぞを固めて、よいしょと泥の舟に乗り、「お前はきっと舟を槽ぐのも 上手(ジョウズ)だろうねえ。おれだって、舟の漕ぎ方くらい知らないわけ では、まさか、そんな、知らないと云うわけでは決して無いんだが、きょ うはひとつ、わが女房のお手並を拝見したい。」いやに言葉遣(コトバヅカ) いが図々しくなって来た。「おれも昔は、舟の漕ぎ方にかけては名人と か、または達者とか言われたものだが、きょうはまあ寝転(ネコロ)んで拝 見という事にしようかな。かまわないから、おれの舟の舳(ヘサキ)を、お 前の舟の艫(トモ)にゆわえ附けておくれ。舟も仲良くぴったりくっついて、 死なばもろとも、見捨てちゃいやよ。」などといやらしく、きざったら しい事を言ってぐったり泥舟の底に寝そべる。  兎は、舟をゆわえ附けよと言われて、さてはこの馬鹿も何か感づいた かな? とぎょっとして狸の顔つきを盗み見たが、何の事は無い、狸は 鼻の下を長くしてにやにや笑いながら、もはや夢路をたどっている。鮒 (フナ)がとれたら起してくれ。あいつあ、うめえからなあ。おれは三十七 だよ。などと馬鹿な寝言を言っている。兎は、ふんと笑って狸の泥舟を 兎の舟につないで、それから、櫂(カイ)でぱちゃと水の面を撃つ。するす ると二艘の舟は岸を離れる。  盧<*2>茲<*3>島(ウガシマ)の松林は夕陽(ユウヒ)を浴びて火事のようだ。こ こでちょっと作者は物識(モノシ)り振るが、この島の松林を写生して図案 化したのが、煙草の「敷島」の箱に描かれてある、あれだという話だ。 たしかな人から聞いたのだから、読者も信じて損は無かろう。もっとも、 いまはもう「敷島」なんて煙草は無くなっているから、若い読者には何 の興味も無い話である。つまらない知識を振りまわしたものだ。とかく 識ったかぶりは、このような馬鹿らしい結果に終る。まあ、生れて三十 何年以上にもなる読者だけが、ああ、あの松か、と芸者遊びの記憶なん かと一緒にぼんやり思い出して、つまらなそうな顔をするくらいが関の 山であろうか。  さて兎は、その盧<*2>茲<*3>島(ウガシマ)の夕景をうっとり望見して、 「おお、いい景色。」と呟(ツブヤ)く。これは如何(イカ)にも奇怪である。 どんな極悪人でも、自分がこれから残虐の犯罪を行おうというその直前 に於いて、山水の美にうっとり見とれるほどの余裕なんか無いように思 われるが、しかし、この十六歳の美しい処女は、眼を細めて島の夕景を 観賞している。まことに無邪気と悪魔とは紙一重である。苦労を知らぬ わがままな処女の、へどが出るような気障(キザ)ったらしい姿態に対し て、ああ青春は純真だ、なんて言って垂涎(スイゼン)している男たちは、 気をつけるがよい。その人たちの所謂「青春の純真」とかいうものは、 しばしばこの兎の例に於けるが如く、その胸中に殺意と陶酔が隣合せて 住んでいても平然たる、何が何やらわからぬ官能のごちゃまぜの乱舞で ある。危険この上ないビールの泡(アワ)だ。皮膚感覚が倫理を覆(オオ)って いる状態、これを低能あるいは悪魔という。ひところ世界中に流行した アメリカ映画、あれには、こんな所謂「純真」な雄や雌がたくさん出て 来て、皮膚感触をもてあまして擽(クスグ)ったげにちょこまか、バネ仕掛 けの如く動きまわっていた。別にこじつけるわけではないが、所謂「青 春の純真」というものの元祖は、或いは、アメリカあたりにあったので はなかろうかと思われるくらいだ。スキイでランラン、とかいうたぐい である。そうしてその裏で、ひどく愚劣な犯罪を平気で行っている。低 能でなければ悪魔である。いや、悪魔というものは元来、低能なのかも 知れない。小柄でほっそりして手足が華奢(キャシャ)で、かの月の女神アル テミスにも比較せられた十六歳の処女の兎も、ここに於いて一挙に頗(ス コブ)る興味索然たるつまらぬものになってしまった。低能かい。それじゃ あ仕様が無いねえ。 「ひゃあ!」と脚下に奇妙な声が起る。わが新愛なる而(シコウ)して甚(ハナ ハ)だ純真ならざる三十七歳の男性、狸君の悲鳴である。「水だ、水だ。 これはいかん。」 「うるさいわね。泥の舟だもの、どうせ沈むわ。わからなかったの?」 「わからん。理解に苦しむ。筋道が立たぬ。それは御無理というものだ。 お前はまさかこのおれを、いや、まさか、そんな鬼のような、いや、ま るでわからん。お前はおれの女房じゃないか。やあ、沈む。少くとも沈 むという事だけは眼前の真実だ、冗談にしたって、あくどすぎる。これ はほとんど暴力だ。やあ、沈む。おい、お前どうしてくれるんだ。お弁 当がむだになるじゃないか。このお弁当箱には鼬(イタチ)の糞(フン)でまぶ した蚯蚓(ミミズ)のマカロニなんか入っているのだ。惜しいじゃないか。 あっぷ! ああ、とうとう水を飲んじゃった。おい、たのむ、ひとの悪 い冗談はいい加減によせ。おいおい、その綱を切っちゃいかん。死なば もろとも、夫婦は二世、切っても切れねえ縁(エニシ)の艫綱(トモヅナ)、あ、 いけねえ、切っちゃった。助けてくれ! おれは泳ぎが出来ねえのだ。 白状する。昔は少し泳げたのだが、狸も三十七になると、あちこちの筋 (スジ)が固くなって、とても泳げやしないのだ。白状する。おれは三十 七なんだ。お前とは実際、としが違いすぎるのだ。年寄りを大事にしろ ! 敬老の心掛けを忘れるな! あっぷ! ああ、お前はいい子だ、な、 いい子だから、そのお前の持っている櫂(カイ)をこっちへ差しのべておく れ、おれはそれにつかまって、あいたたた、何をするんだ、痛いじゃな いか、櫂でおれの頭を殴(ナグ)りやがって、よし、そうか、わかった! お前はおれを殺す気だな、それでわかった。」と狸もその死の直前に到 (イタ)って、はじめて兎の悪計を見抜いたが、既におそかった。  ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。狸は夕陽にきらきら輝 く湖面に浮きつ沈みつ、 「あいたたた、あいたたた、ひどいじゃないか。おれは、お前にどんな 悪い事をしたのだ。惚(ホ)れたが悪いか。」と言って、ぐっと沈んでそ れっきり。  兎は顔を拭(フ)いて、 「おお、ひどい汗。」と言った。  ところでこれは、好色の戒めとてもいうものであろうか。十六歳の美 しい処女には近寄るなという深切な忠告を匂(ニオ)わせた滑稽(コッケイ)物語 でもあろうか。或いはまた、気にいったからとて、あまりしつこくお伺 いしては、ついには極度に嫌悪(ケンオ)せられ、殺害せられるほどのひど いめに遭うから節度を守れ、という礼儀作法の教科書でもあろうか。  或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌(キラ)いに依って世の中 の人たちはその日常生活に於いて互いに罵(ノノシ)り、または罰し、また は賞し、または服しているものだという事を暗示している笑話であろう か。  いやいや、そのように評論家的な結論に焦躁(ショウソウ)せずとも、狸の 死ぬるいまわの際(キワ)の一言にだけ留意して置いたら、いいのではある まいか。  曰(イワ)く、惚れたが悪いか。  古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかっていると言っ ても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んで いるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺(オボ)れかかってあがいて いる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、 それは明々白々であった。おそらくは、また、君に於いても。後略。 [以 上]