PDD図書館管理番号 0000.0000.0209.00 ( ) はひらがなのルビ。 < > はカタカナのルビ。 読みの「'イ」は「ゐ」を示す。 「,」は白抜きの句点を示す。 武 藏 野 山田 美妙:作      上 此武藏野は時代物語ゆゑ、まだ例は無いが、その中の人物の言葉を ば一種の體で書いた。此風の言葉は慶長頃の俗語に足利頃の俗語と を交ぜたものゆゑ大概其時代には相應して居るだらう。  あゝ今の東京、むかしの武藏野。今は錐(キリ)も立てられぬ程の賑はし さ、昔は關も立てられぬほどの廣さ。今仲の町で遊客(ウカレヲ)に睨付(ニラミ ツ)けられる烏も昔は海邊(ウミバタ)四五町の漁師町でわづかに活計(クラシ)を 立てて居た。今柳橋で美人に拜まれる月も昔は「入るべき山もなし」、 極(ゴク)の素寒貧(スカンピン)であッた。實に今は住む百萬の蒼生草(アヲヒトグ サ),實に昔は生えて居た億萬の生草(ナマクサ)。北は荒川から南は玉川まで、 嘘も無い一面の青舞臺で、草の樂屋(ガクヤ)に蟲の下方(シタカタ),尾花の招 引(マネギ)につれられて寄來(ヨリク)る客は狐か、鹿か、又は兎か、野馬ば かり。比樣な處にも世の亂(ミダレ)とて是非もなく、此頃軍(イクサ)があッ たと見え、其處此處には腐れた、見るも情無い死骸が數多く散ッて居る が、戰國の常習(ナラヒ)、それを葬ッてやる和尚もなく、たゞ處々(トコロドコ ロ)にばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出來て居て、 それには僅に草や土や又は敝(ヤブ)れて血だらけになッて居る陣幕など が掛かッて居る。其外はすべて雨ざらしで鳥や獸に食はれるのだらう、 手や足が千切れて居たり、また記標(シルシ)に取られたか、首さへも無い のが多い。本當に是等の人々にもなつかしい親もあらう、可愛らしい妻 子もあらう、親しい交りの友もあらう、身を任せた主君もあらう、それ であッて此ありさま,刃(ヤイバ)の串につんざかれ、矢玉の雨に碎かれて 異域の鬼となッてしまッた口惜しさはどれ程だらうか。死んでも誰にも 祭られず……故郷では影膳をすゑて待ッて居る人もあらうに……「ふる 郷に今宵ばかりの命とも知らでや人の我をまつらむ」……露の底の松蟲 もろとも空(ムナ)しく怨に咽(ムセ)んで居る。それならそれが生きて居た内 は榮華をして居たか。なかなか左樣(サウ)ばかりでも無い世が戰國だもの を。武士は例外だが。只の百姓や商人(アキウド)など鋤鍬(スキクハ)や帳面の 外はあまり手に取ッた事も無いものが「サァ軍(イクサ)だ」と驅集(カリアツ) められては親兄弟には涙の水杯で暇乞。「しかたが無い。これ、悴(セガ レ)。死人の首でも取ッて胡麻化して功名しろ」と腰に弓を張る親父が水 鼻を垂らして軍略を皆傳すれば、「あぶなかッたら人の後(ウシロ)に隱れ てなるたけ早く逃るがいゝよ」と兜(カブト)の緒を緊めてくれる母親が涙 を噛<*1>交(カミマ)ぜて忠告する。ても耳の底に殘るやうに懷(ナツ)かしい 聲、目の奧に止まるほどに眤(シタ)しい顏をば「左樣ならぱ」の一言(ヒトコ ト)で聞捨て、見捨て、さて陣鉦(ヂンガネ)や太鼓に急立(セキタ)てられて修 羅の街(チマタ)へ出掛ければ、山奧の青苔が褥(シトネ)となッたり、河岸の小 砂利が襖(フスマ)となッたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右 左に大將の下知(ゲヂ)が……そこで命が無くなッて、跡は野原でこの有 さまだ。死ぬ時にはさぞモガ<*2>いたらう,さぞ死ぬまいと齒をくひし ばッたらう。血は流れて草の色を變へて居る。魂も亦身體(カラダ)から居 處を變へて居る。切裂かれた疵口(キズクチ)からは怨(ウラ)めしさうに臟腑 が這出して、其上には敵の餘類か、金(コガネ)づくり、薄金(ウスガネ)の鎧 (ヨロヒ)をつけた蠅將軍が陣取ッて居る。はや乾いた眼の玉の池の中には 蛆(ウジ)大將が勢揃。勢よく吹くのは野分の横風……變則の匂嚢(ニホヒブク ロ)……血腥(チナマグサ)い。 <*1>噛:「口」偏+「齒」:補助2258 <*2>モガ:「足」偏+「宛」:補助6392  はや下甫<*3>(ナナツサガリ)だらう、日は函根の山端(ヤマノハ)に近寄ッて儀 式どほり茜色(アカネイロ)の光線を吐始めると末野は些(スコ)しづゝ薄樺(ウスカ バ)の隈(クマ)を加へて、遠山も、毒でも飮んだか段々と紫になり、原の 果には夕暮の蒸發氣が切(シキ)りに逃水をこしらへて居る。頃は秋。其處 此處我儘に生えて居た木も既に緑の上衣を剥がれて、寒いか、風に慄へ て居ると、旅歸の椋鳥(ムクドリ)は慰顏(ナグサメガホ)にも澄まし切ッて囀(サヘ ヅ)ッて居る。處へ大層急足(イソギアシ)で西の方から歩行(アルイ)て來るのは わづか二人の武者で、いづれも旅行の體(テイ)だ。 <*3>甫:「日」偏+「甫」:補助3430  一人は五十前後だらう、鬼髯(オニヒゲ)が徒黨を組んで左右へ立別かれ、 眼の玉が金壺の内ぐるわに楯籠り、眉が八文宇に陣を取り、唇が大土堤 を厚く築いた體、それに身長(ミノタケ)が櫓の眞似して、筋骨(スヂボネ)が暴 馬(アレウマ)から利足(リソク)を取ッて居る鹽梅(アンバイ)、どうしても時世に恰 好の人物、自然淘汰の網の目をば第一に脱けて生殘る逸物(イチモツ)と見え た。その打扮(イデタチ)はどんなだか。身に着いたのは淺紺に濃茶の入ッ た具足で威(ヲドシ)もよほど古びて見えるが、ところどころに殘ッて居る 血痕(チノアト)が持主の軍馴(イクサナ)れたのを證據立てゝ居る。兜は無くて亂 髮が藁で括られ、大刀疵(タチキズ)が幾許(イクラ)もある臘色(ロイロ)の業物(ワザ モノ)が腰へ反返(ソリカヘ)ッて居る。手甲は見馴れぬ手甲だが、實は濃菊(ジ ヨウギク)が剥(ハ)がれて居るのだ。此體で考へればどうしても此男は軍事 に馴れた人に違無い。  今一人は十八九の若武者と見えたけれど、鋼鐵(ハガネ)の厚兜が大概顏 を匿(カク)して居るので十分にはわからない。しかし色の淺黒いのと口に 力身(リキミ)のある處でざッと推して見れば是も屹(キツ)とした面體(メンテイ) の者と思はれる。身長(ミノタケ)は酷(ヒド)く大きくも無いのに、具足が非 常な太胴ゆゑ、何となく身の横幅が釣合わるく太く見える。具足の威(オ ドシ)は濃藍で、魚目(ウナメ)は如何にも堅さうだし、そして胴の上縁(ウハベ リ)は離山路(ハナレヤマミチ)で簡單(ア)<ツ>(サリ)圍まれ、その中には根笹のくづ しが打たれてある。腰の物は大小ともに中々見事な製作(ツクリ)で、鍔(ツバ) には、誰の作か、活々とした蜂が二疋ほど毛彫になッて居る。古いなが ら具足も大刀もこのとほり上等な處で見ると此人も雜兵(ザフヒヤウ)では無 いだらう。  此頃のならひとて此二人が歩行(アル)く内にも四邊(アタリ)へ心を配る樣 子は中々泰平の世に生まれた人に想像されない程であッて、茅萱(チガヤ) の音や狐の聲に耳を側(ソバタ)てるのは愚なこと,すこしでも人が踏んだ やうな痕の見える草の間などをば輕々しく歩行(アル)かない。生きた兎が 飛出せば伏勢でも有るかと刀に手が掛かり、死んた兎が途にあれば敵の 謀計(ハカリゴト)でもあるかと腕がとりしばられる。其頃はまだ純粹の武藏 野で、奧州街道は僅に隅田川の邊を沿ふてあッたので、中々通常の者で 只今の九段あたりの内地へ足を踏込んだ人は無かッたが、その些(スコ)し 前の戰爭の時には此高處(タカミ)へも陣が張られたと見えて、今此二人が 其邊へ來掛かッて見囘すと千切れた幕や兵粮(ヒヤウラウ)の包が死骸と共に 遠近(アチコチ)に飛散ッて居る。この體に旅人も首を傾けて見て居たが、や がて年を取ッた方が徐(シヅカ)に幕を取上げて紋處をよく見ると是は實に 間違無く足利の物なので思はずも雀躍(コヲドリ)した,「見なされ。是は 足利の定紋ぢや。はて心地よいわ」。と言はれて若いのも點頭(ウナヅイ) て、 「左樣(サウ)ぢや。酷(ムゴ)い有樣でおじやるわ。あの先年の大合戰の跡 でおじやらうが、跡を取收める人も無くて……」。 「女々しいこと。何でおじやる。思出しても二方(フタカタ)(新田義宗と義 興)の御手並、さぞな高氏(タカウヂ)づらも身戰(ミブルヒ)をしたらうぞ。あ の石濱で追詰められた時いたう見苦しくあッてぢや」。 「ほゝ御主(オノシ)、其時の軍(イクサ)に出なされたか。耳よりな……語りな されよ。」 「語り申さうぞ。たゞし物語に紛れて遲れては面目なからう。翌日(アス) 頃は何(イヅレ)も決(サダ)めて鎌倉へいでましなさらうに……後(オク)れて は……」。 「それも左樣(サウ)ぢや,左樣でおじやる。さらば物語は後(ノチ)に爲され よ。兎に角この敗軍の體を見ればいとゞ心も引立つわ。」 「引立つわ、引立つわ、糸の樣に引立つわ。和主(オノシ)も是から見參し て毎度手柄をあらはしなされよ」。 「是からは亦新田の力で宮方も勢を増すでおじやろ。楠や北畠が絶えた は惜しいが、また二方(フタカタ)が世に秀(スグ)れておじやるから……」。 「嬉しいぞや。早う高氏づらの首を斬りかけて世を元弘の昔に復(カヘ)し たや」。 「それは言はんでもの事。如何ばかりぞ其時の嬉しさは」。  是でわかッたこの二人は新田方だと。そして先年尊氏が石濱へ追詰め られたとも言ひ、また今日は早く鎌倉へ是等二人が向ッて行くと言ふの で見ると、二人とも間違無く新田義興の隊(テ)の者だらう。應答の内に はいづれも武者氣質(カタギ)の凜々(リリ)しい處が見えて居たが、比合(クラベ ア)はせて見ると若いのは年を取ッたのよりまだ軍(イクサ)にも馴れないの で血腥氣(チナマグサケ)が薄いやうだ。  それから二人は今の牛ヶ淵あたりから半藏の壕あたりを南に向ッて歩 いて行つたが、其頃はまだ、此邊は一面の高臺で、はるかに野原を見通 せる處から二人の話も大抵四方(ヨモ)の景色から起ッて居る。年を取ッた 武者は北東に見えるかたそぎを指さして若いのに向ひ、 「誠に廣いではおじやらぬか。何處(イヅク)を見ても原ばかりぢや。和主 (オノシ)などはまだ知りなさるまいが、それ那處(アスコ)のかたそぎ、喃(ナウ) あれが名に聞ゆる明神ぢや。その、また、北東には濱成たちの觀世音が あるが、此處からは草で見えぬわ」。 「浮評(ウハサ)に聞える御社(ミヤシロ)はあの事でおじやるか。見れば太(イタ) う小さなものぢや」。 「あの傍ぢや、己(オレ)が、誰やらん逞ましき、敵の大將の手に衝入(ツキ イ)ッて騎馬を三人打取ッたのは。その大將め、はるか對方(ムカフ)に栗毛 の逸物に騎(ノ)ッて扣(ヒカ)へてあつたが、己(オレ)の働を心にくゝ思ひつ らう、『あの武士(サムラヒ)、打取れ』と金切聲立てゝをッた」。 「はゝゝゝ、嘸御感(ギヨカン)に入りなされたらう、軍(イクサ)が終ッて。身 に疵(キズ)をば負ひなされたか」。 「四ヶ所負ひたがいづれも薄手であッた。迚(トモ)もあの樣な亂軍の中で は無疵であらう者はおじやらぬ。勿論原で戰ふのぢやから、敵も味方も 其時は大抵騎馬であッた。が味方の手綱には大殿(義貞)が仰せられた まゝ金鏈(カナグサリ)が縫込まれてあッたので手綱を敵に切離される掛念(ケ ネン)は無かッた。其時の二の大將(義興)の打扮(イデタチ)は目覺ましい物 でおじやッたぞ」。 「一の大將(義宗)もおじやッたらう」。 「おじやッた。この方もおなじ樣な打扮(イデタチ)ではおじやッたが、具 足の威(ヲドシ)が些(チト)濃かッたゆゑ、二の大將ほど目立ちなさらなかッ た」。  折から草木を烈しく搖(ユ)ッて野分(ノワキ)の風が吹いて來た。野原の急 な風……それは中々想像の外で、見る間に草の莖や木の小枝が砂と一途 (イツシヨ)にさながら鳥の飛ぶやうに幾萬となく飛立ッた。そこで話もたち まち途切れた。途切れたか、途切れなかッたか、風の音に呑まれて、わ からないが、先(マヅ)は確に途切れたらしい。此間の應答の有樣に就い てまたつらつら考へれば年を取ッた方は中々經驗に誇る體(テイ)が有ッて、 若いのはすこし謹深い樣に見えた。左樣(サウ)でしやう、讀者諸君。  其内に日は名殘無くほとんど暮掛かッて來て雲の色も薄暗く、野末も 段々と霞んで仕舞ふ頃、變な雲が富士の裾へ腰を掛けて來た。原の廣さ、 天(ソラ)の大きさ、風の強さ、草の高さ、いづれも恐ろしい程に苛(イカ)め しくて、人家は何處か些(スコ)しも見えず、時々ははるか對方(ムカフ)の方 を馳せて行く馬の影がちらつくばかり、夕暮の淋しさは段々と腦を噛<* 1>んで來る。「宿るところもおじやらぬ喃(ナウ)」。「今宵は野宿するば かりぢや」。「急がうぞ」。「急ぎやれ」。是だけの應答が幾度も試驗 を受けた。 「馬が走るわ。捕へて騎(ノ)らうわ。和主(オノシ)は好みなさらぬか」。 「それ面白や。騎らうぞや。すはや這方(コナタ)へ近づくよ」。  二人は馬に騎らうと思ッて、近づく群をよく視れば是は野馬の簇(ムレ) では無くて、大變だ、敵、足利の騎馬武者だ。 「はッし、ぬかッた、氣が注(ツ)かなかッた。馬ぢや……敵ぢや……敵 の馬ぢや」。「敵は多勢ぢや、世良田どの」。「味方は無勢ぢや、秩父 どの」。「さても……」「思はぬ……」敵はまぢかく近寄ッた。 「動くな、落武者。知らぬか、新田義興は昨日矢口で殺されてぢや」。 「なに、二の君が」。 「今更知ッたか、覺悟せよ」。  跡は降ッた、劍(ツルギ)の雨が。草は貰ッた、赤繪具を。淋(サミ)しさう に生出(ウマレデ)る新月の影。くやしさうに吹く野の夕風。      中 「山里は冬ぞさみしさまさりける、人目も草もかれぬと思へば」。秋の 山里とてその通り、宵ながら凄いほどに淋しい。衣服(キモノ)を剥がれた ので痩肱(ヤセヒヂ)に瘤(キズ)を立てゝ居る柿の梢には冷笑顏(アザワラヒガホ) の月が掛かり、青白く冴亙ッた地面には小枝の影が破隙(ワレメ)を作る。 はるかに狼が凄味の遠吠を打込むと谷間の山彦がすかさずそれを送返し, 望むかぎりは狹霧(サギリ)が朦朧と立込めてほんの特許に木下闇(コシタヤミ) から照射(トモシ)の影を惜しさうに泄(モ)らし、そして山氣(サンキ)は山颪(ヤマ オロシ)の合方となッて意地わるく人の肌を噛<*1>んで居る。さみしさ凄さ は是ばかりでも無くて、曲りくねッたさも惡徒らしい古木の洞穴(ウロ)に は梟(フクロフ)があの怖(コハ)らしい兩眼で月を睨みながら宿鳥(ネトリ)を引裂 いて生血をぽたぽた……  崖下にある一構(ヒトカマヘ)の第宅(ヤシキ)は郷士の住處(スミカ)と見え、よほ ど古びては居るが、骨太く粧飾(カザリ)少く、夕顏の干物(ヒモノ)を衣服(キモ ノ)とした小柴垣がその周圍(マハリ)を取卷いて居る。西向の一室(ヒトマ)、そ の前は植込で、色々な木がきまりなく、勝手に茂ッて居るが、その一室 (ヒトマ)は此處の家族が常に居る室(マ)だらう、今も其處には二人の婦人が ……  けれど先第一に人の眼に注(ト)まるのは夜目にも鮮明(アザヤカ)に若やい で見える一人で、言はずと知れた妙齡(トシゴロ)の處女(ヲトメ)。燈火(トモシビ) は下等の密蝋<*4>で作られた一里一寸の松明(タイマツ)の小さいのだから四 邊(アタリ)どころか、燈火(トモシビ)を中心として半徑が二尺ほどへだゝッた 處には一切闇が行亙ッて居るが、しかし容貌(カホダチ)は水際だッて居る だけに十分若い人と見える。年頃はたしかに知れないが眼鼻や口の權衡 (ツリアヒ)がまだよくしまッて居ない處で考へれば酷く長(タ)けても居ない だらう。その癖に坐丈(スワリゼイ)は中々あッて、そして(少女(ヲトメ)の手 弱(タヨワ)に似ず)腕首が大層太く、その上に人を見る眼光(メザシ)が…… 眼は脹目縁(ハレマブチ)を持ッて居ながら……、難を言(イヘ)ば、凄い……で もない……やさしくない。たゞ肉が肥えて腮(アギト)にやはらかい段を立 たせ、眉が美事で自然に顏を引立たせたのでやゝ見處が有るやうに見え る。その些(スコ)し前までは白菊を摺箔(スリハク)にした上衣を着て居たが、 今はそれを脱いでたゞ蒲(ガマ)の薄綿が透いて見える葛(クズ)の衣服(キモノ) ばかりで居る。 <*4>蝋:「虫」偏+(「臘」-「月」):補助5988  之と對合(ムカヒア)ッて居るのは四十前後の老女で、是も着物は葛だが柿 染の古ぼけたので、何うしたのか砥粉(トノコ)に塗(マミ)れて居る。顏形、 それは老若の違こそはあるが、ほとほと前の婦人と瓜二つで……ちと輕 卒な判斷だが、だから此二人は多分母子(オヤコ)だらう。  二人とも何やら浮かね顏色で今迄の談話(ハナシ)が途切れたやうな體(テイ) であッたが、少焉(シバラク)して老女は屹と思付いた體(テイ)で傍の匕首(アヒ クチ)を手に取上げ、 「忍藻(オシモ)、和女(オコト)の物思も道理(コトワリ)ぢやが……此母とていたう 心には掛かるが……さりとて、こや其樣に、忍藻太息(トイキ)吐(ツ)くやう では、太息のみ吐(ツ)いて居るやうでは武士(モノノフ)……實(マコト)よ、世良 田三郎の刀禰(トネ)の内君(ウチギミ)には……聞けよ、此母の言葉を,見よ、 この母の衣(キヌ)を。和女(オコト)はよも忘れは爲(セ)まい、和女(オコト)には 實(オコト)の親、己(オレ)には實(マコト)の夫のあの民部の刀禰が這囘(コタビ)二 の君の軍(イクサ)に加はッて、天晴(アツパレ)世を元弘の昔に復(カヘ)す忠義の 中に入らうとて、世良田の刀禰もろとも門出した時、己(オレ)は、こや忍 藻、己は何して何言ふたぞ。己が手づから本磨(ホントギ)に磨上(トギア)げ た南部鐵の矢根(ヤノネ)を五十筋、各自(オノオノ)へ廿五筋、喃(ナウ)門出の祝 と差出して、忍藻聞けよ−−『二方(フタカタ)の中の誰方(ドナタ)でも前櫓で 敵を引受けなさるならこの矢根に鼻油引いて、兜の金具の目欲(メボ)し いを附居(ツケヲ)るを打止めなされよ。また殿(シンガリ)で敵に向ひなさるな ら、鹿毛(カゲ)か、葦毛か、月毛か、栗毛か、馬の太く逞(タクマ)しきに騎 つた大將を打取りなされよ。婦人(オナゴ)の甲斐なさ、それよ忠義の志ば かりでおじやるわ』。と此眼(マナコ)から張切れうづる涙を押へて……お お己は今泣いては居ぬぞ、忍藻……己も武士(モノノフ)の妻あだに夫を勵ま し、聟を急(セ)いたぞ。そを和女(オコト)、忍藻も見ておじやッたらうぞ喃。 武士(モノノフ)の妻のこゝろばえは斯程(カホド)無うてはならぬわ。さればこ そ今日までも休まず、夫と聟とは家には居らぬが、己が矢根を日々磨澄 (トギス)まして、おなじ忠義の刀禰たちに與ふるのぢや。かう衣(キヌ)は砥 粉(トノコ)に塗(マミ)れても中々にうれしいぞィ、然(サ)すれば」。 「まことよ。仰(オホセ)は道理(コトワリ)におじやる。妾(ワラハ)とてなど……」。 「心から左(サ)なら此母もうれしいわ。見よ、喃、この匕首を。門出の 時、世良田の刀禰が和女(オコト)に此(コ)を殘して再會の記念(カタミ)と爲さ れたらうよ。それを見たらよしない、女々しい心は、刀禰に對して出さ れまい。和女(オコト)とて一亙(ヒトワタリ)は武藝をも習ふたのに、近くは伊賀 局(イガノツボネ)なんどを龜鑑(カガミ)となされよ。人の噂には色々の詐僞(イ ツワリ)もまじはるものぢや。輕々しく信(ウ)ければ後に悔ゆることもあら うぞ」。  言切つて母は返辭を待皃(マチガホ)に忍藻の顏を見詰めるので忍藻も仕 方なささうに、挨拶したが、それも僅に一言(ヒトコト)だ。 「さも然(サ)うず」。  母も覺束ない挨拶だと思ふやうな顏付をして居たが流石に猶強ひてと も言難(イヒカ)ね、やがてやゝ傾いた月を見て、 「夜も更けた。さらば己は是から看經(カンキン)せうぞ。和女は思ひのまに まに寐(イネ)よ」。  忍藻がうなづいて禮を爲たので母もそれから座を立つて縁側傳(ヅタヒ) に奧の一間(ヒトマ)へやうやう行ッた。跡に忍藻はたゞ一人起ッて行く母 の後影を眺めて居たが、しばらくして、こらへこらへた溜息の堰が一度 に切れた。  話の間だが一寸茲で忍藻の性質や身上が稍詳細(ツマビラカ)に述べられな くてはならない。實に忍藻はこの老女の實子で、父親は秩父民部とて前 囘武藏野を旅行して居た旅人の中の年を取つた方だ。そして旅人の若い 方はすなはち世良田三郎で、母親の話でも大抵わかるが、忍藻にはすな はち夫だ。  此三郎の父親は新田義貞の馬の口取で藤島の合戰の時主君とともに戰 死をして仕舞ひ、跡には其時二歳(フタツ)になる孤子(ミナシゴ)の三郎が殘つ て居たので民部もそれを見て不愍(フビン)に思ひ、引取つて育てる内に二 年の後忍藻が生まれた。處が三郎は成長するに從つて武術にも長(タ)け て來て、中々見處のある若者となつたので養父母も大きに悦び、そこで それを終に娘の聟にした。  其時三郎は十九で忍藻は十七であつた。今から見ればあまりな早婚だ けれど、昔は其樣なことには些(スコ)しも構(カマハ)なかつた。  それで若夫婦は中よく暮して居たところが、不圖聞(キケ)ば新田義興が 足利から呼ばれて鎌倉へ入るとの噂があるので血氣盛の三郎は家へ引籠 もつて軍(イクサ)の話を素聞(カギキ)にして居られず、舅(シウト)の民部も南朝 へは心を傾けて居ることゆゑ、難なく相談が整つてそれから二人は一途 (イ)<ツ>(シヨ)に義興の手に加はろうとて出立し、竟(ツヒ)に武藏野で不思議 な危難に遇つたのだ。その危難にあつた事が精密ではないが、薄々は忍 藻にも聞えたので、さァそれが忍藻の心配の種になり、母親をつかまへ て鬱出(フサギダ)すので其處で前のとほり母親もそれを諭して勵まして居 た。 「門前の小僧は習はぬ經を誦(ヨ)む」。鍛冶屋の嫁は次第に鐵の産地を 知る。三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見て居るのみか、亂世の常 とて大抵の者が武藝を收める常習(ナラハシ)になつて居るので忍藻(オシモ)も 自然太刀や薙刀(ナギナタ)の事に手を出して來ると、從つて擧動も幾分か 雄々しくなつた。手首の太いのや眼光(メザシ)のするどいのは全くそのた めだらう。けれど今あからさまに其性質を言はうなら、なる程忍藻はか なり武藝に達して、一度などは死掛かつて居る熊を生捕にしたとて毎度 自慢が出たから、心も十分猛々しいかと言ふに全く左樣(サウ)でもない。 その雄々しく見えるところは只時々の身の擧動(コナシ)と言葉の有樣にあ つたばかりで、その婦人に固有の性質は(殊に心の教育のない婦人に固 有の性質は)跡を絶つては居ない,たしかに無くなつては居ない。  母が立去つた跡で忍藻は例の匕首(アヒクチ)を手に取上げて拔離し、しば らくは氷の光を瞻詰(ミツ)めて屹とした風情であつたが、また其下から直 に溜息が出た, 「匕首、この匕首……さきにも母上が仰せられた如くあの刀禰(トネ)の記 念(カタミ)ぢやが……さても是を見ればいとゞ猶……そも刀禰たちは鎌倉 まで行着かれたか、無難に。太(イタ)う武藝に長けておじやるから思遣る も女々しけれど……心に掛かるは先程の人々の浮評(ウハサ)よ。狹い胸に は持兼ねて母上に言出づれば、あれほどに心強うおじやるよ。看經(カンキ ン)も時に因るわ、この分難(ワキガタ)い最中(モナカ)に、何事ぞ、心のどけく。 そも此身の夫のみの御身の上では無くて現在母上の夫さへもおなじ樣で おじやるのに……扨も扨も。武士(モノノフ)の妻は箇程(カホド)無うてはと仰 せられても此身にはいかでかいかでか。新田の君は足利に計られて矢口 とやらんで殺されてその手の者は一人も殘らず……あゝ胸ぐるしい浮評 (ウハサ)ぢやわ。三郎の刀禰は、然(サ)うよ、父上も其處を逃れなされたか。 門出の時この匕首を此身に下されて『喃(ナウ)、忍藻、おことゝ己とは一 方(ヒトカタ)ならぬ縁(エニシ)で……やがて己が功名して歸らう日は何時ぞと はよう知れぬが、和女(オコト)も並々の婦人(ヲンナ)に立超えて心ざまも女々 しうおじやらぬから由ない物思をばなさるまい。その時までの記章(カタミ) には己が祕藏のこの匕首(これには己の精神(タマシヒ)もこもるわ)匕首を 殘せば和女も是で煩惱の羈(キヅナ)をば喃……なみだは無益(ムヤク)ぞ』、 と日頃から此身は我ながら雄々しくして居るに、今日ばかりは如何にし て斯う胸が立騷ぐか。別離(ワカレ)の時の御言葉は耳にとまつて……拔離 せばこの凄い業(ワザ)もの……發矢(ハツシ)、なみだの顏が映るわ。この涙、 あゝら此身の心はまだ左程弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて…… 昨夜(ユウベ)見た怖い夢は……あゝ思入ればいとど猶胸は……胸は湧起つ わ。矢口とや、矢口は何處(イヅク)ぞ。翼さへあらば箇程(カホド)には… …」。  思入つてはこらへかねて坐(ソゾロ)に涙をもよほした。無論荒誕(クワウタン) の事を信ずる世の人だから夢を氣に掛けるのも無理では無い。思へば思 ふほど考は遠くへ走つて、それでなくても中々強い想像力が一入(ヒトシホ) 跋扈(バツコ)を極めて判斷力をも殺(ソ)いた。早くここでその熱度さへ低 くされるなら別に何のこともないが、中々通常の人には其樣に自由なこ とはたやすく出來ない。不思議さ、忍藻の眼の中には三郎の俤(オモカゲ) が第一にあらはれて次に父親の姿があらはれて來る。青ざめた姿があら はれて來る。血、血に染みた姿があらはれて來る。垣根に吹込む山おろ し、それも三郎たちの聲に聞える。ボーン惱(ナウ)と鳴る遠寺の鐘、それ も無常の兆(キザシ)かと思はれる。  人に見られて、物思に沈んで居ることを悟られまいと思つて、それか ら忍藻(オシモ)は手近にある古今集を取つて宜加減な處を開き、それへ向 つて字をば讀まずに、いよいよ胸の中に物思の蟲をやしなつた。 「『題知らず……躬恒(ミツネ)……貫之(ツラユキ)……つかはしける……女の もとへ……天津(アマツ)かりがね……』。おゝ我知らず讀んだか。それに つけても未練らしいかは知らぬが、門出なされた時から今日までは快(ハ ヤ)七日ぢやに、七日目にかう胸がさわぐとは……打出せば愚痴めいたと 言はれ……おゝ雁(カリ)よ。雁を見てなげいたといふ話は眞(マコト)に…… 雁、雁は翼あつて……喃。」  だが身贔負(ミビイキ)で、猶幾分か、内心の内心には(このやうな獨語 の中でも)「まさか殺されは爲(セ)まい」の推察が蟲の息で活きて居る。 それだのに涙腺は無理に門を開けさせられて熱い水の堰をかよはせた。  この儘でやゝ少焉(シバラク)の間忍藻は全く無言に支配されて居たが、 其の内に破裂した、次の一聲が。 「武藝はそのため」。  その途端に燈火(トモシビ)は弗(フツ)と消えて跡へは闇が行亙り、燃(モエ) さした跡の火皿が暫時(シバラク)は一人で晃々(キラキラ)。      下  夜は根城を明渡した。竹藪に伏勢を張ッて居る村雀はあらたに軍議を 開初(ヒラキハジ)め、閨(ネヤ)の隙間から斫(キリ)込んで來る曉の光は次第に四 方(アタリ)の闇を追退(オヒノ)け、遠山の角には茜(アカネ)の幕がわたり、遠近 (ヲチコチ)の溪間からは朝雲の狼烟(ノロシ)が立昇る。「夜ははやあけたよ。 忍藻はとくに起きつらうに、まだ聲をも出ださぬは」。訝(イブカ)りなが ら床をはなれて忍藻の母は身繕(ミヅクロヒ)し、手早く口を漱(スス)いて顏を あらひ、黄楊(ツゲ)の小櫛でしばらく髮をくしけづり、それから部屋の 隅にかゝッて居る竹筒の中から生蝋<*4>(キラフ)を取出して火に焙(アブ)り、 切(シキ)りにそれを髮毛(カミノケ)に塗りながら。 「忍藻いざ早う來よ。蝋<*4>鎔けたぞや。和女(オコト)も塗らずか」。  けれど一言(ヒトコト)の返辭も無い。 「忍藻よ、おしもよ、いぎたなや。秋の夜長に……こや忍藻」莞爾(ニツコ リ)わらッて口の裡、「昨夜(ユウベ)は太(イタ)う軍(イクサ)のことに胸なやま せて居た體(テイ)ぢやに、さても此處ぞまだ兒女(ワラハ)ぢや。今はかほど 迄に熱睡(ウマイ)して、さばれ、いざ呼起さう」。  忍藻の部屋の襖(フスマ)を明けて母ははッとおどろいた。承塵(ナゲシ)に あッた薙刀も、床にあツた鎖<*5>帷子(クサリカタビラ)も、無論三郎が呉れた 匕首も四邊(アタリ)には影も無い。 <*5>鎖:「金」偏+「(「樔」-「木」)」:補助6928 「すはや己(オレ)がぬかッたよ。常より物に凝るならひ……如何にも怪し い體(テイ)であッたが、さても己は心注(ツ)きながら心せなんだ愚さよ。 慰言(ナグサメゴト)を聞かせたが猶も猶おもひわびて脱出(ヌケイ)でたよ。あ あら由々しや、由々しいことぢや。」  心の水は沸立(ニエタ)ッた。それ朝餉(アサガレヒ)の竈(カマド)を跡に見て跡 を追ひに出る庖廚(クリヤ)の炊婢(ミヅシメ)。サァ鋤を手に取ッたまゝ尋ねに 飛出す畑の僕(シモベ)。家の中は大騷動。見る間に不動明王の前に燈明(ア カシ)が點(ツ)き、たちまち祈祷の聲が起る。をゝしく見(ミエ)たが流石は婦 人(ヲンナ),母は今更途方にくれた。「なまじひに心せぬ體(テイ)でなぐさ めたのが己の脱落(ヌカリ)よ。さてもあの儘鎌倉まで若しは追ふて出行(イデ ユ)いたか。いかに武藝をひとわたりは心得たとて……この血腥(チナマグサ) い世の中に……たゞの女の一人身で……たゞの少女(ヲトメ)の一人身で… …夜をもいとはず一人身で……」。  思へば憎いやうで、可哀さうなやうで、また悲しいやうで、くやしい やうで、今日はまた母が昨夜(ユウベ)の忍藻になり、鳥の聲も忍藻の聲で 誰の顏も忍藻の顏だ。忍藻の部屋へ入ッて見れば忍藻の身の香がするや うだし、忍藻の手匣(テバコ)へ眼をとめれば忍藻が側に居るやうだ。「胸 は騷ぐに何事ぞ。早く大聖威怒王(ダイシヤウ'イヌワウ)の御手にたよりて祈ら うに……發矢<*6>、祈らうと心をば賺(スカ)しても猶すかし甲斐もなく、 心はいとゞ荒れに荒れて忍藻の事を思出すよ」。心は人の物でない。母 の心は母のもの。それで制することが出來ない。目をねむッて氣を落付 け、一心に陀羅尼經(ダラニキヤウ)を讀まうとしても(口の上にばかり聲は 出るが)、腦の中には感じが無い。「有(ウ)に非ず。無(ム)に非ず、動(ド ウ)に非ず、靜(ジヤウ)に非ず、赤(シヤク)に非ず、白(ビヤク)に非ず……」其 句も忍藻の身に似て居る。 <*6>ルビ(はツし)  人の顏さへ傍に見えれば母はそれと相談したくなる。それと相談した とて先方が神でもなければ陰陽師(オンミヤウジ)でも無く、つまり何もわか らぬとは知ッて居ながら猶それでも其人と膝を合はせて我子の身上を判 斷したくなる。それでまた例の身贔負(ミビイキ),内心の内心の内心に 「多分は無難であらうぞ」と思ひながら變なもので、またそれを口には 出さない。たゞ其處で先方の答が自身の考に似て居れば「實に左樣」と は信じぬながら不完全にもそれで僅に妄想をすかして居る。  世にいぢらしい物は幾許(イクラ)もあるが、愁歎の玉子ほどいぢらしい 物は無い。既に愁歎と事がきまればいくらか愁歎に區域が出來るが、ま だ正眞の愁歎が立起らぬ其前に、今にそれが起るだらうと想像するほど 否(イヤ)に胸ぐるしいものはない。此樣な時には涙などもあながち出ると も決ッて居ず、時には自身の想像でわざと涙をもよほしながら(決して 心でそれを好むのではないが)なほ涙が出ることを愁歎の種として色々 に心をくるしめることが有る。  だから母は不動明王と睨めくらで、經文が一句、妄想が一段,經文と 妄想とがミドローシアンを爭ッて居る。處へ外からおとづれたのは居殘ッ て居た(此母の言葉を借りていへば)懶惰者(ナマケモノ)、不忠者の下男だ。 「誰やらん見知らぬ武士(モノノフ)が、たゞ一人從者(ズサ)をもつれず、此 家(コノヤ)に申すことあるとて來ておじやる。いかに呼入れ候ふか」。 「武士(モノノフ)とや。打揃(イデタチ)は」。 「道服に一腰ざし。むくつけい暴男(アラヲトコ)で……戰爭(イクサ)を經(ヘ)つ らう疵(テ)を負ふて……」。 「聞くも忌まはしい。この最中(モナカ)に何とて人に逢ふ暇(イトマ)が……」。  一度(ヒトタビ)は言放して見たが、思直せば夫や聟の身上も氣にかゝる のでふたゝび言葉を更(アラタ)めて、 「さばれ、否、呼入れよ。すこしく問はうこともあれば」。  畏まつて下男(シモベ)は起つて行くと、入代つて入つて來たのは三十前 後の武士だ。 「御目にかゝるは今がはじめて。是は大内平太とて元は北畠の手の者ぢ や。秩父刀禰とはかねてより陣中でしたしうした甲斐に、申殘されたこ とがあつて……」。 「申殘された」の一言が母の胸には釘であつた, 「おゝ如何に新田の君は愛(メ)でたう鎌倉に入りなされたか」。 「まだ、扨は傳聞(ツタヘキ)きなさらぬか。堯寛(タカヒロ)にあざむかれなされ て、あへなくも底の藻屑と……矢口で」。 「それ、さらば實(マコト)でおじやるか。それ詐僞(イツハリ)ではおじやらぬ か」。 「何を……など詐僞(イツハリ)でおじやらうぞ」。  よもやと思固めたことが全く違ツてしまつたことゆゑ、今更母も仰天 したが、流石にもはや新田の事よりは夫や聟の身上が心配の種になッて 來た。 「さては其時に民部たちは」。 「そのこと、まこと其事におじやるは。己が是から鎌倉へ行かうぞと馳 行いた途(ミチ)、武藏野の中ほどで見れば秩父の刀禰たち二方(フタカタ)は… …」。 「さて秩父たち二人は」。 「はしなくも……」。 「もどかはしや。いざ、いざ、いざ」。 「はしなくも敵に探られて、左樣(サウ)ぢや、其儘斫斃(キリタフ)されて… …」。 「こはそゞろ、……斫斃されて……發矢(ハツシ)そのまま斫斃されて……」。 「その驚は道理(コトワリ)でおじやる。己も最初(ハジメ)は左樣とも知らず 『何やらん草中に呻いて居る者のあるは熊に噛<*1>まれた鹿ぢやらうか』 と行いて見たら、おどろいたわ、それが那(カ)の二方(フタカタ)でおじやッ たわ」。  母ははや其跡を聞いて居られなくなッた。今まではしばらく堪へて居 たが、もはや包むに包切れずたちまち其處へ泣臥して、平太がいふ物語 を聞入れる體(テイ)も無い。如何にも昨夜(ユウベ)忍藻(オシモ)に教訓して居 た處などは天晴豪氣なやうに見えたが、是とて其身は木でも無ければ石 でも無い。今朝忍藻が居なくなッた心配の矢先へこの凶音(キヨウイン)が傳 はッたのには流石心を亂されてしまッた。今は其口から愚癡ばかりが出 立する。 「ちえィ主(ヌシ)を……主(ヌシ)たちを……あゝ忍藻が心苦しめたも、蟲… 蟲が知らせたか。大聖我怒王(ダイシヨウ'イヌワウ)も、ちえィ日頃の信心を… …おのれ……こはこは平太の刀禰、など其時に馳付いて助…助太刀して はたもらんだぞ」。  怨みがましく言ひながら、猶直に其言葉の下から、いぢらしい、手で さしまねいで涙を啜り、 「聞きなされ。あゝ何の不運ぞや。夫や聟は死果てたに……こや平太の 刀禰、聞きなされ、むす…むすめの忍藻もまた……忍藻もまた平太の刀 禰……忍藻はまた出たばかり……昨夜(ユウベ)……察しなされよ、平太の 刀禰」。 「昨夜(ユウベ)、そも如何に爲された」。  母は十分に口が利けなくなッたので仕方なく手眞似で仔細を告知(ツゲ シ)らせた。告知らせると平太の顏はたちまちに色が變はッた。 「さらばあの鎖<*5>帷子(クサリカタビラ)の……」。  云掛けたがはッと思ッて言葉を止めた。けれど這方(コナタ)は聞咎めた。 「和主(オノシ)はそも如何にして忍藻の鎖<*5>帷子を……」。 「鎖<*5>帷子とは何でおじやる」。 「何でおじやるとは平太の刀禰、むすめ、忍藻の打扮(イデタチ)ぢや。今 も其口から仰せられた」。  平太も今は包兼ね、 「あゝ術(スベ)無い。いたはしいけれど、さらば仔細を申さうぞ。歎(ナゲ キ)に枝を添ふるがいたはしさに包まうとは力(ツト)めたれど……何を匿(カ ク)さう、姫御前(ゴゼ)は鎖<*5>帷子を着(ツケ)なされたまゝ、手に薙刀を 持ちなされたまゝ……母御前(ゴゼ)かならず強く歎きなされな……獸に 追はれて殺されつらう、脛(ハギ)の邊(アタリ)を噛<*1>切られて北の山間(ヤ マアヒ)に斃れておじやッた」。  母は眼を見張ッたまゝであッた。平太はふたゝび言葉を繼いだ。 「己が此處へ來る途(ミチ)ぢや、はからず今のを見留めたのは。思へば不 思議な縁でおじやるが、其時には姫御前(ゴゼ)とはつゆ知らず……いた はしい事には爲ッたぞや、僅少(ワズカ)の間に三人(ミタリ)まで」。  母はなほ眼を見張<*7>(ミハ)ッたまゝだ。唇は物言ひたげに動いて居た が、それから言葉は一ッも出ない。  折から門(カド)にはどやどやと人の音, 「忍藻御(オシモゴ)は熊に食はれてよ。」 <*7>見張:「目」偏+「爭」補助:4690      ―――――――――― 序(ツイデ)ながら此頃神田明神は芝崎村といッた村にあッて其村は今 の駿河臺の東の降口の邊であッた。それゆゑ二人の武士が九段から 眺めても直に其社の頭が見えた。もし此時其位置が只今の樣であッ たなら決して見える譯は無い。 (明治二十年十一月〜十二月)