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「,」は白抜きの句点を示す。

武 藏 野 

山田 美妙:作
     上

此武藏野は時代物語ゆゑ、まだ例は無いが、その中の人物の言葉をば一種の體で書いた。此風の言葉は慶長頃の俗語に足利頃の俗語とを交ぜたものゆゑ大概其時代には相應して居るだらう。
 あゝ今の東京、むかしの武藏野。今は錐(きり)も立てられぬ程の賑はしさ、昔は關も立てられぬほどの廣さ。今仲の町で遊客(うかれを)に睨付(にらみつ)けられる烏も昔は海邊(うみばた)四五町の漁師町でわづかに活計(くらし)を立てて居た。今柳橋で美人に拜まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極(ごく)の素寒貧(すかんぴん)であッた。實に今は住む百萬の蒼生草(あをひとぐさ),實に昔は生えて居た億萬の生草(なまくさ)。北は荒川から南は玉川まで、嘘も無い一面の青舞臺で、草の樂屋(がくや)に蟲の下方(したかた),尾花の招引(まねぎ)につれられて寄來(よりく)る客は狐か、鹿か、又は兎か、野馬ばかり。比樣な處にも世の亂(みだれ)とて是非もなく、此頃軍(いくさ)があッたと見え、其處此處には腐れた、見るも情無い死骸が數多く散ッて居るが、戰國の常習(ならひ)、それを葬ッてやる和尚もなく、たゞ處々(ところどころ)にばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出來て居て、それには僅に草や土や又は敝(やぶ)れて血だらけになッて居る陣幕などが掛かッて居る。其外はすべて雨ざらしで鳥や獸に食はれるのだらう、手や足が千切れて居たり、また記標(しるし)に取られたか、首さへも無いのが多い。本當に是等の人々にもなつかしい親もあらう、可愛らしい妻子もあらう、親しい交りの友もあらう、身を任せた主君もあらう、それであッて此ありさま,刃(やいば)の串につんざかれ、矢玉の雨に碎かれて異域の鬼となッてしまッた口惜しさはどれ程だらうか。死んでも誰にも祭られず……故郷では影膳をすゑて待ッて居る人もあらうに……「ふる郷に今宵ばかりの命とも知らでや人の我をまつらむ」……露の底の松蟲もろとも空(むな)しく怨に咽(むせ)んで居る。それならそれが生きて居た内は榮華をして居たか。なかなか左樣(さう)ばかりでも無い世が戰國だものを。武士は例外だが。只の百姓や商人(あきうど)など鋤鍬(すきくは)や帳面の外はあまり手に取ッた事も無いものが「サァ軍(いくさ)だ」と驅集(かりあつ)められては親兄弟には涙の水杯で暇乞。「しかたが無い。これ、悴(せがれ)。死人の首でも取ッて胡麻化して功名しろ」と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆傳すれば、「あぶなかッたら人の後(うしろ)に隱れてなるたけ早く逃るがいゝよ」と兜(かぶと)の緒を緊めてくれる母親が涙を噛<*1>交(かみま)ぜて忠告する。ても耳の底に殘るやうに懷(なつ)かしい聲、目の奧に止まるほどに眤(した)しい顏をば「左樣ならぱ」の一言(ひとこと)で聞捨て、見捨て、さて陣鉦(ぢんがね)や太鼓に急立(せきた)てられて修羅の街(ちまた)へ出掛ければ、山奧の青苔が褥(しとね)となッたり、河岸の小砂利が襖(ふすま)となッたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右左に大將の下知(げぢ)が……そこで命が無くなッて、跡は野原でこの有さまだ。死ぬ時にはさぞモガ<*2>いたらう,さぞ死ぬまいと齒をくひしばッたらう。血は流れて草の色を變へて居る。魂も亦身體(からだ)から居處を變へて居る。切裂かれた疵口(きずくち)からは怨(うら)めしさうに臟腑が這出して、其上には敵の餘類か、金(こがね)づくり、薄金(うすがね)の鎧(よろひ)をつけた蠅將軍が陣取ッて居る。はや乾いた眼の玉の池の中には蛆(うじ)大將が勢揃。勢よく吹くのは野分の横風……變則の匂嚢(にほひぶくろ)……血腥(ちなまぐさ)い。
<*1>噛:「口」偏+「齒」:補助2258
<*2>モガ:「足」偏+「宛」:補助6392
 はや下甫<*3>(ななつさがり)だらう、日は函根の山端(やまのは)に近寄ッて儀式どほり茜色(あかねいろ)の光線を吐始めると末野は些(すこ)しづゝ薄樺(うすかば)の隈(くま)を加へて、遠山も、毒でも飮んだか段々と紫になり、原の果には夕暮の蒸發氣が切(しき)りに逃水をこしらへて居る。頃は秋。其處此處我儘に生えて居た木も既に緑の上衣を剥がれて、寒いか、風に慄へて居ると、旅歸の椋鳥(むくどり)は慰顏(なぐさめがほ)にも澄まし切ッて囀(さへづ)ッて居る。處へ大層急足(いそぎあし)で西の方から歩行(あるい)て來るのはわづか二人の武者で、いづれも旅行の體(てい)だ。
<*3>甫:「日」偏+「甫」:補助3430
 一人は五十前後だらう、鬼髯(おにひげ)が徒黨を組んで左右へ立別かれ、眼の玉が金壺の内ぐるわに楯籠り、眉が八文宇に陣を取り、唇が大土堤を厚く築いた體、それに身長(みのたけ)が櫓の眞似して、筋骨(すぢぼね)が暴馬(あれうま)から利足(りそく)を取ッて居る鹽梅(あんばい)、どうしても時世に恰好の人物、自然淘汰の網の目をば第一に脱けて生殘る逸物(いちもつ)と見えた。その打扮(いでたち)はどんなだか。身に着いたのは淺紺に濃茶の入ッた具足で威(をどし)もよほど古びて見えるが、ところどころに殘ッて居る血痕(ちのあと)が持主の軍馴(いくさな)れたのを證據立てゝ居る。兜は無くて亂髮が藁で括られ、大刀疵(たちきず)が幾許(いくら)もある臘色(ろいろ)の業物(わざもの)が腰へ反返(そりかへ)ッて居る。手甲は見馴れぬ手甲だが、實は濃菊(じようぎく)が剥()がれて居るのだ。此體で考へればどうしても此男は軍事に馴れた人に違無い。
 今一人は十八九の若武者と見えたけれど、鋼鐵(はがね)の厚兜が大概顏を匿(かく)して居るので十分にはわからない。しかし色の淺黒いのと口に力身(りきみ)のある處でざッと推して見れば是も屹(きつ)とした面體(めんてい)の者と思はれる。身長(みのたけ)は酷(ひど)く大きくも無いのに、具足が非常な太胴ゆゑ、何となく身の横幅が釣合わるく太く見える。具足の威(おどし)は濃藍で、魚目(うなめ)は如何にも堅さうだし、そして胴の上縁(うはべり)は離山路(はなれやまみち)で簡單(あツさり)圍まれ、その中には根笹のくづしが打たれてある。腰の物は大小ともに中々見事な製作(つくり)で、鍔(つば)には、誰の作か、活々とした蜂が二疋ほど毛彫になッて居る。古いながら具足も大刀もこのとほり上等な處で見ると此人も雜兵(ざふひやう)では無いだらう。
 此頃のならひとて此二人が歩行(ある)く内にも四邊(あたり)へ心を配る樣子は中々泰平の世に生まれた人に想像されない程であッて、茅萱(ちがや)の音や狐の聲に耳を側(そばた)てるのは愚なこと,すこしでも人が踏んだやうな痕の見える草の間などをば輕々しく歩行(ある)かない。生きた兎が飛出せば伏勢でも有るかと刀に手が掛かり、死んた兎が途にあれば敵の謀計(はかりごと)でもあるかと腕がとりしばられる。其頃はまだ純粹の武藏野で、奧州街道は僅に隅田川の邊を沿ふてあッたので、中々通常の者で只今の九段あたりの内地へ足を踏込んだ人は無かッたが、その些(すこ)し前の戰爭の時には此高處(たかみ)へも陣が張られたと見えて、今此二人が其邊へ來掛かッて見囘すと千切れた幕や兵粮(ひやうらう)の包が死骸と共に遠近(あちこち)に飛散ッて居る。この體に旅人も首を傾けて見て居たが、やがて年を取ッた方が徐(しづか)に幕を取上げて紋處をよく見ると是は實に間違無く足利の物なので思はずも雀躍(こをどり)した,「見なされ。是は足利の定紋ぢや。はて心地よいわ」。と言はれて若いのも點頭(うなづい)て、
「左樣(さう)ぢや。酷(むご)い有樣でおじやるわ。あの先年の大合戰の跡でおじやらうが、跡を取收める人も無くて……」。
「女々しいこと。何でおじやる。思出しても二方(ふたかた)(新田義宗と義興)の御手並、さぞな高氏(たかうぢ)づらも身戰(みぶるひ)をしたらうぞ。あの石濱で追詰められた時いたう見苦しくあッてぢや」。
「ほゝ御主(おのし)、其時の軍(いくさ)に出なされたか。耳よりな……語りなされよ。」
「語り申さうぞ。たゞし物語に紛れて遲れては面目なからう。翌日(あす)頃は何(いづれ)も決(さだ)めて鎌倉へいでましなさらうに……後(おく)れては……」。
「それも左樣(さう)ぢや,左樣でおじやる。さらば物語は後(のち)に爲されよ。兎に角この敗軍の體を見ればいとゞ心も引立つわ。」
「引立つわ、引立つわ、糸の樣に引立つわ。和主(おのし)も是から見參して毎度手柄をあらはしなされよ」。
「是からは亦新田の力で宮方も勢を増すでおじやろ。楠や北畠が絶えたは惜しいが、また二方(ふたかた)が世に秀(すぐ)れておじやるから……」。
「嬉しいぞや。早う高氏づらの首を斬りかけて世を元弘の昔に復(かへ)したや」。
「それは言はんでもの事。如何ばかりぞ其時の嬉しさは」。
 是でわかッたこの二人は新田方だと。そして先年尊氏が石濱へ追詰められたとも言ひ、また今日は早く鎌倉へ是等二人が向ッて行くと言ふので見ると、二人とも間違無く新田義興の隊()の者だらう。應答の内にはいづれも武者氣質(かたぎ)の凜々(りり)しい處が見えて居たが、比合(くらべあ)はせて見ると若いのは年を取ッたのよりまだ軍(いくさ)にも馴れないので血腥氣(ちなまぐさけ)が薄いやうだ。
 それから二人は今の牛ヶ淵あたりから半藏の壕あたりを南に向ッて歩いて行つたが、其頃はまだ、此邊は一面の高臺で、はるかに野原を見通せる處から二人の話も大抵四方(よも)の景色から起ッて居る。年を取ッた武者は北東に見えるかたそぎを指さして若いのに向ひ、
「誠に廣いではおじやらぬか。何處(いづく)を見ても原ばかりぢや。和主(おのし)などはまだ知りなさるまいが、それ那處(あすこ)のかたそぎ、喃(なう)あれが名に聞ゆる明神ぢや。その、また、北東には濱成たちの觀世音があるが、此處からは草で見えぬわ」。
「浮評(うはさ)に聞える御社(みやしろ)はあの事でおじやるか。見れば太(いた)う小さなものぢや」。
「あの傍ぢや、己(おれ)が、誰やらん逞ましき、敵の大將の手に衝入(つきい)ッて騎馬を三人打取ッたのは。その大將め、はるか對方(むかふ)に栗毛の逸物に騎()ッて扣(ひか)へてあつたが、己(おれ)の働を心にくゝ思ひつらう、『あの武士(さむらひ)、打取れ』と金切聲立てゝをッた」。
「はゝゝゝ、嘸御感(ぎよかん)に入りなされたらう、軍(いくさ)が終ッて。身に疵(きず)をば負ひなされたか」。
「四ヶ所負ひたがいづれも薄手であッた。迚(とも)もあの樣な亂軍の中では無疵であらう者はおじやらぬ。勿論原で戰ふのぢやから、敵も味方も其時は大抵騎馬であッた。が味方の手綱には大殿(義貞)が仰せられたまゝ金鏈(かなぐさり)が縫込まれてあッたので手綱を敵に切離される掛念(けねん)は無かッた。其時の二の大將(義興)の打扮(いでたち)は目覺ましい物でおじやッたぞ」。
「一の大將(義宗)もおじやッたらう」。
「おじやッた。この方もおなじ樣な打扮(いでたち)ではおじやッたが、具足の威(をどし)が些(ちと)濃かッたゆゑ、二の大將ほど目立ちなさらなかッた」。
 折から草木を烈しく搖()ッて野分(のわき)の風が吹いて來た。野原の急な風……それは中々想像の外で、見る間に草の莖や木の小枝が砂と一途(いつしよ)にさながら鳥の飛ぶやうに幾萬となく飛立ッた。そこで話もたちまち途切れた。途切れたか、途切れなかッたか、風の音に呑まれて、わからないが、先(まづ)は確に途切れたらしい。此間の應答の有樣に就いてまたつらつら考へれば年を取ッた方は中々經驗に誇る體(てい)が有ッて、若いのはすこし謹深い樣に見えた。左樣(さう)でしやう、讀者諸君。
 其内に日は名殘無くほとんど暮掛かッて來て雲の色も薄暗く、野末も段々と霞んで仕舞ふ頃、變な雲が富士の裾へ腰を掛けて來た。原の廣さ、天(そら)の大きさ、風の強さ、草の高さ、いづれも恐ろしい程に苛(いか)めしくて、人家は何處か些(すこ)しも見えず、時々ははるか對方(むかふ)の方を馳せて行く馬の影がちらつくばかり、夕暮の淋しさは段々と腦を噛<*1>んで來る。「宿るところもおじやらぬ喃(なう)」。「今宵は野宿するばかりぢや」。「急がうぞ」。「急ぎやれ」。是だけの應答が幾度も試驗を受けた。
「馬が走るわ。捕へて騎()らうわ。和主(おのし)は好みなさらぬか」。
「それ面白や。騎らうぞや。すはや這方(こなた)へ近づくよ」。
 二人は馬に騎らうと思ッて、近づく群をよく視れば是は野馬の簇(むれ)では無くて、大變だ、敵、足利の騎馬武者だ。
「はッし、ぬかッた、氣が注()かなかッた。馬ぢや……敵ぢや……敵の馬ぢや」。「敵は多勢ぢや、世良田どの」。「味方は無勢ぢや、秩父どの」。「さても……」「思はぬ……」敵はまぢかく近寄ッた。
「動くな、落武者。知らぬか、新田義興は昨日矢口で殺されてぢや」。
「なに、二の君が」。
「今更知ッたか、覺悟せよ」。
 跡は降ッた、劍(つるぎ)の雨が。草は貰ッた、赤繪具を。淋(さみ)しさうに生出(うまれで)る新月の影。くやしさうに吹く野の夕風。

     中

「山里は冬ぞさみしさまさりける、人目も草もかれぬと思へば」。秋の山里とてその通り、宵ながら凄いほどに淋しい。衣服(きもの)を剥がれたので痩肱(やせひぢ)に瘤(きず)を立てゝ居る柿の梢には冷笑顏(あざわらひがほ)の月が掛かり、青白く冴亙ッた地面には小枝の影が破隙(われめ)を作る。はるかに狼が凄味の遠吠を打込むと谷間の山彦がすかさずそれを送返し,望むかぎりは狹霧(さぎり)が朦朧と立込めてほんの特許に木下闇(こしたやみ)から照射(ともし)の影を惜しさうに泄()らし、そして山氣(さんき)は山颪(やまおろし)の合方となッて意地わるく人の肌を噛<*1>んで居る。さみしさ凄さは是ばかりでも無くて、曲りくねッたさも惡徒らしい古木の洞穴(うろ)には梟(ふくろふ)があの怖(こは)らしい兩眼で月を睨みながら宿鳥(ねとり)を引裂いて生血をぽたぽた…… 崖下にある一構(ひとかまへ)の第宅(やしき)は郷士の住處(すみか)と見え、よほど古びては居るが、骨太く粧飾(かざり)少く、夕顏の干物(ひもの)を衣服(きもの)とした小柴垣がその周圍(まはり)を取卷いて居る。西向の一室(ひとま)、その前は植込で、色々な木がきまりなく、勝手に茂ッて居るが、その一室(ひとま)は此處の家族が常に居る室()だらう、今も其處には二人の婦人が……
 けれど先第一に人の眼に注()まるのは夜目にも鮮明(あざやか)に若やいで見える一人で、言はずと知れた妙齡(としごろ)の處女(をとめ)。燈火(ともしび)は下等の密蝋<*4>で作られた一里一寸の松明(たいまつ)の小さいのだから四邊(あたり)どころか、燈火(ともしび)を中心として半徑が二尺ほどへだゝッた處には一切闇が行亙ッて居るが、しかし容貌(かほだち)は水際だッて居るだけに十分若い人と見える。年頃はたしかに知れないが眼鼻や口の權衡(つりあひ)がまだよくしまッて居ない處で考へれば酷く長()けても居ないだらう。その癖に坐丈(すわりぜい)は中々あッて、そして(少女(をとめ)の手弱(たよわ)に似ず)腕首が大層太く、その上に人を見る眼光(めざし)が……眼は脹目縁(はれまぶち)を持ッて居ながら……、難を言(いへ)ば、凄い……でもない……やさしくない。たゞ肉が肥えて腮(あぎと)にやはらかい段を立たせ、眉が美事で自然に顏を引立たせたのでやゝ見處が有るやうに見える。その些(すこ)し前までは白菊を摺箔(すりはく)にした上衣を着て居たが、今はそれを脱いでたゞ蒲(がま)の薄綿が透いて見える葛(くず)の衣服(きもの)ばかりで居る。
<*4>蝋:「虫」偏+(「臘」-「月」):補助5988
 之と對合(むかひあ)ッて居るのは四十前後の老女で、是も着物は葛だが柿染の古ぼけたので、何うしたのか砥粉(とのこ)に塗(まみ)れて居る。顏形、それは老若の違こそはあるが、ほとほと前の婦人と瓜二つで……ちと輕卒な判斷だが、だから此二人は多分母子(おやこ)だらう。
 二人とも何やら浮かね顏色で今迄の談話(はなし)が途切れたやうな體(てい)であッたが、少焉(しばらく)して老女は屹と思付いた體(てい)で傍の匕首(あひくち)を手に取上げ、
「忍藻(おしも)、和女(おこと)の物思も道理(ことわり)ぢやが……此母とていたう心には掛かるが……さりとて、こや其樣に、忍藻太息(といき)吐()くやうでは、太息のみ吐()いて居るやうでは武士(もののふ)……實(まこと)よ、世良田三郎の刀禰(とね)の内君(うちぎみ)には……聞けよ、此母の言葉を,見よ、この母の衣(きぬ)を。和女(おこと)はよも忘れは爲()まい、和女(おこと)には實(おこと)の親、己(おれ)には實(まこと)の夫のあの民部の刀禰が這囘(こたび)二の君の軍(いくさ)に加はッて、天晴(あつぱれ)世を元弘の昔に復(かへ)す忠義の中に入らうとて、世良田の刀禰もろとも門出した時、己(おれ)は、こや忍藻、己は何して何言ふたぞ。己が手づから本磨(ほんとぎ)に磨上(とぎあ)げた南部鐵の矢根(やのね)を五十筋、各自(おのおの)へ廿五筋、喃(なう)門出の祝と差出して、忍藻聞けよ−−『二方(ふたかた)の中の誰方(どなた)でも前櫓で敵を引受けなさるならこの矢根に鼻油引いて、兜の金具の目欲(めぼ)しいを附居(つけを)るを打止めなされよ。また殿(しんがり)で敵に向ひなさるなら、鹿毛(かげ)か、葦毛か、月毛か、栗毛か、馬の太く逞(たくま)しきに騎つた大將を打取りなされよ。婦人(おなご)の甲斐なさ、それよ忠義の志ばかりでおじやるわ』。と此眼(まなこ)から張切れうづる涙を押へて……おゝ己は今泣いては居ぬぞ、忍藻……己も武士(もののふ)の妻あだに夫を勵まし、聟を急()いたぞ。そを和女(おこと)、忍藻も見ておじやッたらうぞ喃。武士(もののふ)の妻のこゝろばえは斯程(かほど)無うてはならぬわ。さればこそ今日までも休まず、夫と聟とは家には居らぬが、己が矢根を日々磨澄(とぎす)まして、おなじ忠義の刀禰たちに與ふるのぢや。かう衣(きぬ)は砥粉(とのこ)に塗(まみ)れても中々にうれしいぞィ、然()すれば」。
「まことよ。仰(おほせ)は道理(ことわり)におじやる。妾(わらは)とてなど……」。
「心から左()なら此母もうれしいわ。見よ、喃、この匕首を。門出の時、世良田の刀禰が和女(おこと)に此()を殘して再會の記念(かたみ)と爲されたらうよ。それを見たらよしない、女々しい心は、刀禰に對して出されまい。和女(おこと)とて一亙(ひとわたり)は武藝をも習ふたのに、近くは伊賀局(いがのつぼね)なんどを龜鑑(かがみ)となされよ。人の噂には色々の詐僞(いつわり)もまじはるものぢや。輕々しく信()ければ後に悔ゆることもあらうぞ」。
 言切つて母は返辭を待皃(まちがほ)に忍藻の顏を見詰めるので忍藻も仕方なささうに、挨拶したが、それも僅に一言(ひとこと)だ。
「さも然()うず」。
 母も覺束ない挨拶だと思ふやうな顏付をして居たが流石に猶強ひてとも言難(いひか)ね、やがてやゝ傾いた月を見て、
「夜も更けた。さらば己は是から看經(かんきん)せうぞ。和女は思ひのまにまに寐(いね)よ」。
 忍藻がうなづいて禮を爲たので母もそれから座を立つて縁側傳(づたひ)に奧の一間(ひとま)へやうやう行ッた。跡に忍藻はたゞ一人起ッて行く母の後影を眺めて居たが、しばらくして、こらへこらへた溜息の堰が一度に切れた。
 話の間だが一寸茲で忍藻の性質や身上が稍詳細(つまびらか)に述べられなくてはならない。實に忍藻はこの老女の實子で、父親は秩父民部とて前囘武藏野を旅行して居た旅人の中の年を取つた方だ。そして旅人の若い方はすなはち世良田三郎で、母親の話でも大抵わかるが、忍藻にはすなはち夫だ。
 此三郎の父親は新田義貞の馬の口取で藤島の合戰の時主君とともに戰死をして仕舞ひ、跡には其時二歳(ふたつ)になる孤子(みなしご)の三郎が殘つて居たので民部もそれを見て不愍(ふびん)に思ひ、引取つて育てる内に二年の後忍藻が生まれた。處が三郎は成長するに從つて武術にも長()けて來て、中々見處のある若者となつたので養父母も大きに悦び、そこでそれを終に娘の聟にした。
 其時三郎は十九で忍藻は十七であつた。今から見ればあまりな早婚だけれど、昔は其樣なことには些(すこ)しも構(かまは)なかつた。
 それで若夫婦は中よく暮して居たところが、不圖聞(きけ)ば新田義興が足利から呼ばれて鎌倉へ入るとの噂があるので血氣盛の三郎は家へ引籠もつて軍(いくさ)の話を素聞(かぎき)にして居られず、舅(しうと)の民部も南朝へは心を傾けて居ることゆゑ、難なく相談が整つてそれから二人は一途(いツしよ)に義興の手に加はろうとて出立し、竟(つひ)に武藏野で不思議な危難に遇つたのだ。その危難にあつた事が精密ではないが、薄々は忍藻にも聞えたので、さァそれが忍藻の心配の種になり、母親をつかまへて鬱出(ふさぎだ)すので其處で前のとほり母親もそれを諭して勵まして居た。
「門前の小僧は習はぬ經を誦()む」。鍛冶屋の嫁は次第に鐵の産地を知る。三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見て居るのみか、亂世の常とて大抵の者が武藝を收める常習(ならはし)になつて居るので忍藻(おしも)も自然太刀や薙刀(なぎなた)の事に手を出して來ると、從つて擧動も幾分か雄々しくなつた。手首の太いのや眼光(めざし)のするどいのは全くそのためだらう。けれど今あからさまに其性質を言はうなら、なる程忍藻はかなり武藝に達して、一度などは死掛かつて居る熊を生捕にしたとて毎度自慢が出たから、心も十分猛々しいかと言ふに全く左樣(さう)でもない。その雄々しく見えるところは只時々の身の擧動(こなし)と言葉の有樣にあつたばかりで、その婦人に固有の性質は(殊に心の教育のない婦人に固有の性質は)跡を絶つては居ない,たしかに無くなつては居ない。
 母が立去つた跡で忍藻は例の匕首(あひくち)を手に取上げて拔離し、しばらくは氷の光を瞻詰(みつ)めて屹とした風情であつたが、また其下から直に溜息が出た,
「匕首、この匕首……さきにも母上が仰せられた如くあの刀禰(とね)の記念(かたみ)ぢやが……さても是を見ればいとゞ猶……そも刀禰たちは鎌倉まで行着かれたか、無難に。太(いた)う武藝に長けておじやるから思遣るも女々しけれど……心に掛かるは先程の人々の浮評(うはさ)よ。狹い胸には持兼ねて母上に言出づれば、あれほどに心強うおじやるよ。看經(かんきん)も時に因るわ、この分難(わきがた)い最中(もなか)に、何事ぞ、心のどけく。そも此身の夫のみの御身の上では無くて現在母上の夫さへもおなじ樣でおじやるのに……扨も扨も。武士(もののふ)の妻は箇程(かほど)無うてはと仰せられても此身にはいかでかいかでか。新田の君は足利に計られて矢口とやらんで殺されてその手の者は一人も殘らず……あゝ胸ぐるしい浮評(うはさ)ぢやわ。三郎の刀禰は、然()うよ、父上も其處を逃れなされたか。門出の時この匕首を此身に下されて『喃(なう)、忍藻、おことゝ己とは一方(ひとかた)ならぬ縁(えにし)で……やがて己が功名して歸らう日は何時ぞとはよう知れぬが、和女(おこと)も並々の婦人(をんな)に立超えて心ざまも女々しうおじやらぬから由ない物思をばなさるまい。その時までの記章(かたみ)には己が祕藏のこの匕首(これには己の精神(たましひ)もこもるわ)匕首を殘せば和女も是で煩惱の羈(きづな)をば喃……なみだは無益(むやく)ぞ』、と日頃から此身は我ながら雄々しくして居るに、今日ばかりは如何にして斯う胸が立騷ぐか。別離(わかれ)の時の御言葉は耳にとまつて……拔離せばこの凄い業(わざ)もの……發矢(はつし)、なみだの顏が映るわ。この涙、あゝら此身の心はまだ左程弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜(ゆうべ)見た怖い夢は……あゝ思入ればいとど猶胸は……胸は湧起つわ。矢口とや、矢口は何處(いづく)ぞ。翼さへあらば箇程(かほど)には……」。
 思入つてはこらへかねて坐(そぞろ)に涙をもよほした。無論荒誕(くわうたん)の事を信ずる世の人だから夢を氣に掛けるのも無理では無い。思へば思ふほど考は遠くへ走つて、それでなくても中々強い想像力が一入(ひとしほ)跋扈(ばつこ)を極めて判斷力をも殺()いた。早くここでその熱度さへ低くされるなら別に何のこともないが、中々通常の人には其樣に自由なことはたやすく出來ない。不思議さ、忍藻の眼の中には三郎の俤(おもかげ)が第一にあらはれて次に父親の姿があらはれて來る。青ざめた姿があらはれて來る。血、血に染みた姿があらはれて來る。垣根に吹込む山おろし、それも三郎たちの聲に聞える。ボーン惱(なう)と鳴る遠寺の鐘、それも無常の兆(きざし)かと思はれる。
 人に見られて、物思に沈んで居ることを悟られまいと思つて、それから忍藻(おしも)は手近にある古今集を取つて宜加減な處を開き、それへ向つて字をば讀まずに、いよいよ胸の中に物思の蟲をやしなつた。
「『題知らず……躬恒(みつね)……貫之(つらゆき)……つかはしける……女のもとへ……天津(あまつ)かりがね……』。おゝ我知らず讀んだか。それにつけても未練らしいかは知らぬが、門出なされた時から今日までは快(はや)七日ぢやに、七日目にかう胸がさわぐとは……打出せば愚痴めいたと言はれ……おゝ雁(かり)よ。雁を見てなげいたといふ話は眞(まこと)に……雁、雁は翼あつて……喃。」
 だが身贔負(みびいき)で、猶幾分か、内心の内心には(このやうな獨語の中でも)「まさか殺されは爲()まい」の推察が蟲の息で活きて居る。それだのに涙腺は無理に門を開けさせられて熱い水の堰をかよはせた。
 この儘でやゝ少焉(しばらく)の間忍藻は全く無言に支配されて居たが、其の内に破裂した、次の一聲が。
「武藝はそのため」。
 その途端に燈火(ともしび)は弗(ふつ)と消えて跡へは闇が行亙り、燃(もえ)さした跡の火皿が暫時(しばらく)は一人で晃々(きらきら)。

     下

 夜は根城を明渡した。竹藪に伏勢を張ッて居る村雀はあらたに軍議を開初(ひらきはじ)め、閨(ねや)の隙間から斫(きり)込んで來る曉の光は次第に四方(あたり)の闇を追退(おひの)け、遠山の角には茜(あかね)の幕がわたり、遠近(をちこち)の溪間からは朝雲の狼烟(のろし)が立昇る。「夜ははやあけたよ。忍藻はとくに起きつらうに、まだ聲をも出ださぬは」。訝(いぶか)りながら床をはなれて忍藻の母は身繕(みづくろひ)し、手早く口を漱(すす)いて顏をあらひ、黄楊(つげ)の小櫛でしばらく髮をくしけづり、それから部屋の隅にかゝッて居る竹筒の中から生蝋<*4>(きらふ)を取出して火に焙(あぶ)り、切(しき)りにそれを髮毛(かみのけ)に塗りながら。
「忍藻いざ早う來よ。蝋<*4>鎔けたぞや。和女(おこと)も塗らずか」。
 けれど一言(ひとこと)の返辭も無い。
「忍藻よ、おしもよ、いぎたなや。秋の夜長に……こや忍藻」莞爾(につこり)わらッて口の裡、「昨夜(ゆうべ)は太(いた)う軍(いくさ)のことに胸なやませて居た體(てい)ぢやに、さても此處ぞまだ兒女(わらは)ぢや。今はかほど迄に熱睡(うまい)して、さばれ、いざ呼起さう」。
 忍藻の部屋の襖(ふすま)を明けて母ははッとおどろいた。承塵(なげし)にあッた薙刀も、床にあツた鎖<*5>帷子(くさりかたびら)も、無論三郎が呉れた匕首も四邊(あたり)には影も無い。
<*5>鎖:「金」偏+「(「樔」-「木」)」:補助6928
「すはや己(おれ)がぬかッたよ。常より物に凝るならひ……如何にも怪しい體(てい)であッたが、さても己は心注()きながら心せなんだ愚さよ。慰言(なぐさめごと)を聞かせたが猶も猶おもひわびて脱出(ぬけい)でたよ。あゝら由々しや、由々しいことぢや。」 心の水は沸立(にえた)ッた。それ朝餉(あさがれひ)の竈(かまど)を跡に見て跡を追ひに出る庖廚(くりや)の炊婢(みづしめ)。サァ鋤を手に取ッたまゝ尋ねに飛出す畑の僕(しもべ)。家の中は大騷動。見る間に不動明王の前に燈明(あかし)が點()き、たちまち祈祷の聲が起る。をゝしく見(みえ)たが流石は婦人(をんな),母は今更途方にくれた。「なまじひに心せぬ體(てい)でなぐさめたのが己の脱落(ぬかり)よ。さてもあの儘鎌倉まで若しは追ふて出行(いでゆ)いたか。いかに武藝をひとわたりは心得たとて……この血腥(ちなまぐさ)い世の中に……たゞの女の一人身で……たゞの少女(をとめ)の一人身で……夜をもいとはず一人身で……」。
 思へば憎いやうで、可哀さうなやうで、また悲しいやうで、くやしいやうで、今日はまた母が昨夜(ゆうべ)の忍藻になり、鳥の聲も忍藻の聲で誰の顏も忍藻の顏だ。忍藻の部屋へ入ッて見れば忍藻の身の香がするやうだし、忍藻の手匣(てばこ)へ眼をとめれば忍藻が側に居るやうだ。「胸は騷ぐに何事ぞ。早く大聖威怒王(だいしやうゐぬわう)の御手にたよりて祈らうに……發矢<*6>、祈らうと心をば賺(すか)しても猶すかし甲斐もなく、心はいとゞ荒れに荒れて忍藻の事を思出すよ」。心は人の物でない。母の心は母のもの。それで制することが出來ない。目をねむッて氣を落付け、一心に陀羅尼經(だらにきやう)を讀まうとしても(口の上にばかり聲は出るが)、腦の中には感じが無い。「有()に非ず。無()に非ず、動(どう)に非ず、靜(じやう)に非ず、赤(しやく)に非ず、白(びやく)に非ず……」其句も忍藻の身に似て居る。
<*6>ルビ(はツし)
 人の顏さへ傍に見えれば母はそれと相談したくなる。それと相談したとて先方が神でもなければ陰陽師(おんみやうじ)でも無く、つまり何もわからぬとは知ッて居ながら猶それでも其人と膝を合はせて我子の身上を判斷したくなる。それでまた例の身贔負(みびいき),内心の内心の内心に「多分は無難であらうぞ」と思ひながら變なもので、またそれを口には出さない。たゞ其處で先方の答が自身の考に似て居れば「實に左樣」とは信じぬながら不完全にもそれで僅に妄想をすかして居る。
 世にいぢらしい物は幾許(いくら)もあるが、愁歎の玉子ほどいぢらしい物は無い。既に愁歎と事がきまればいくらか愁歎に區域が出來るが、まだ正眞の愁歎が立起らぬ其前に、今にそれが起るだらうと想像するほど否(いや)に胸ぐるしいものはない。此樣な時には涙などもあながち出るとも決ッて居ず、時には自身の想像でわざと涙をもよほしながら(決して心でそれを好むのではないが)なほ涙が出ることを愁歎の種として色々に心をくるしめることが有る。
 だから母は不動明王と睨めくらで、經文が一句、妄想が一段,經文と妄想とがミドローシアンを爭ッて居る。處へ外からおとづれたのは居殘ッて居た(此母の言葉を借りていへば)懶惰者(なまけもの)、不忠者の下男だ。
「誰やらん見知らぬ武士(もののふ)が、たゞ一人從者(ずさ)をもつれず、此家(このや)に申すことあるとて來ておじやる。いかに呼入れ候ふか」。
「武士(もののふ)とや。打揃(いでたち)は」。
「道服に一腰ざし。むくつけい暴男(あらをとこ)で……戰爭(いくさ)を經()つらう疵()を負ふて……」。
「聞くも忌まはしい。この最中(もなか)に何とて人に逢ふ暇(いとま)が……」。
 一度(ひとたび)は言放して見たが、思直せば夫や聟の身上も氣にかゝるのでふたゝび言葉を更(あらた)めて、
「さばれ、否、呼入れよ。すこしく問はうこともあれば」。
 畏まつて下男(しもべ)は起つて行くと、入代つて入つて來たのは三十前後の武士だ。
「御目にかゝるは今がはじめて。是は大内平太とて元は北畠の手の者ぢや。秩父刀禰とはかねてより陣中でしたしうした甲斐に、申殘されたことがあつて……」。
「申殘された」の一言が母の胸には釘であつた,
「おゝ如何に新田の君は愛()でたう鎌倉に入りなされたか」。
「まだ、扨は傳聞(つたへき)きなさらぬか。堯寛(たかひろ)にあざむかれなされて、あへなくも底の藻屑と……矢口で」。
「それ、さらば實(まこと)でおじやるか。それ詐僞(いつはり)ではおじやらぬか」。
「何を……など詐僞(いつはり)でおじやらうぞ」。
 よもやと思固めたことが全く違ツてしまつたことゆゑ、今更母も仰天したが、流石にもはや新田の事よりは夫や聟の身上が心配の種になッて來た。
「さては其時に民部たちは」。
「そのこと、まこと其事におじやるは。己が是から鎌倉へ行かうぞと馳行いた途(みち)、武藏野の中ほどで見れば秩父の刀禰たち二方(ふたかた)は……」。
「さて秩父たち二人は」。
「はしなくも……」。
「もどかはしや。いざ、いざ、いざ」。
「はしなくも敵に探られて、左樣(さう)ぢや、其儘斫斃(きりたふ)されて……」。
「こはそゞろ、……斫斃されて……發矢(はつし)そのまま斫斃されて……」。「その驚は道理(ことわり)でおじやる。己も最初(はじめ)は左樣とも知らず『何やらん草中に呻いて居る者のあるは熊に噛<*1>まれた鹿ぢやらうか』と行いて見たら、おどろいたわ、それが那()の二方(ふたかた)でおじやッたわ」。
 母ははや其跡を聞いて居られなくなッた。今まではしばらく堪へて居たが、もはや包むに包切れずたちまち其處へ泣臥して、平太がいふ物語を聞入れる體(てい)も無い。如何にも昨夜(ゆうべ)忍藻(おしも)に教訓して居た處などは天晴豪氣なやうに見えたが、是とて其身は木でも無ければ石でも無い。今朝忍藻が居なくなッた心配の矢先へこの凶音(きよういん)が傳はッたのには流石心を亂されてしまッた。今は其口から愚癡ばかりが出立する。
「ちえィ主(ぬし)を……主(ぬし)たちを……あゝ忍藻が心苦しめたも、蟲…蟲が知らせたか。大聖我怒王(だいしようゐぬわう)も、ちえィ日頃の信心を……おのれ……こはこは平太の刀禰、など其時に馳付いて助…助太刀してはたもらんだぞ」。
 怨みがましく言ひながら、猶直に其言葉の下から、いぢらしい、手でさしまねいで涙を啜り、
「聞きなされ。あゝ何の不運ぞや。夫や聟は死果てたに……こや平太の刀禰、聞きなされ、むす…むすめの忍藻もまた……忍藻もまた平太の刀禰……忍藻はまた出たばかり……昨夜(ゆうべ)……察しなされよ、平太の刀禰」。
「昨夜(ゆうべ)、そも如何に爲された」。
 母は十分に口が利けなくなッたので仕方なく手眞似で仔細を告知(つげし)らせた。告知らせると平太の顏はたちまちに色が變はッた。
「さらばあの鎖<*5>帷子(くさりかたびら)の……」。
 云掛けたがはッと思ッて言葉を止めた。けれど這方(こなた)は聞咎めた。
「和主(おのし)はそも如何にして忍藻の鎖<*5>帷子を……」。
「鎖<*5>帷子とは何でおじやる」。
「何でおじやるとは平太の刀禰、むすめ、忍藻の打扮(いでたち)ぢや。今も其口から仰せられた」。
 平太も今は包兼ね、
「あゝ術(すべ)無い。いたはしいけれど、さらば仔細を申さうぞ。歎(なげき)に枝を添ふるがいたはしさに包まうとは力(つと)めたれど……何を匿(かく)さう、姫御前(ごぜ)は鎖<*5>帷子を着(つけ)なされたまゝ、手に薙刀を持ちなされたまゝ……母御前(ごぜ)かならず強く歎きなされな……獸に追はれて殺されつらう、脛(はぎ)の邊(あたり)を噛<*1>切られて北の山間(やまあひ)に斃れておじやッた」。
 母は眼を見張ッたまゝであッた。平太はふたゝび言葉を繼いだ。
「己が此處へ來る途(みち)ぢや、はからず今のを見留めたのは。思へば不思議な縁でおじやるが、其時には姫御前(ごぜ)とはつゆ知らず……いたはしい事には爲ッたぞや、僅少(わずか)の間に三人(みたり)まで」。
 母はなほ眼を見張<*7>(みは)ッたまゝだ。唇は物言ひたげに動いて居たが、それから言葉は一ッも出ない。
 折から門(かど)にはどやどやと人の音,
「忍藻御(おしもご)は熊に食はれてよ。」
<*7>見張:「目」偏+「爭」補助:4690

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序(ついで)ながら此頃神田明神は芝崎村といッた村にあッて其村は今の駿河臺の東の降口の邊であッた。それゆゑ二人の武士が九段から眺めても直に其社の頭が見えた。もし此時其位置が只今の樣であッたなら決して見える譯は無い。
(明治二十年十一月〜十二月)