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@〜Oは吉田精一氏の説を基にした。

將  軍 

芥川龍之介:作

     一 白襷隊

 明治三十七年十一月二十六日の未明だつた。第×師團第×聯隊の白襷隊(しろだすきたい)は、松樹山(しようじゆざん)の補備砲臺(ほびはうだい)を奪取する爲に、九十三(くじふさん)高地(かうち)の北麓(ほくろく)を出發した。
 路(みち)は山蔭(やまかげ)に沿うてゐたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だつた。その草もない薄闇(うすやみ)の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷(しろだすき)ばかり仄(ほのめ)かせながら、靜かに靴(くつ)を鳴らして行くのは、悲壯な光景に違ひなかつた。現に指揮官のM大尉(たいゐ)なぞは、この隊の先頭に立つた時から、別人のやうに口數(くちかず)の少い、沈んだ顏色(かほいろ)をしてゐるのだつた。が、兵は皆思ひの外(ほか)、平生の元氣を失はなかつた。それは一つには日本魂(やまとだましひ)の力、二つには酒の力だつた。
 少時(しばらく)行進を續けた後(のち)、隊は石の多い山陰(やまかげ)から、風當りの強い河原(かはら)へ出た。
「おい、後(うしろ)を見ろ。」
 紙屋だつたと云ふ田口(たぐち)一等卒(いつとうそつ)は、同じ中隊から選拔された、これは大工(だいく)だつたと云ふ、堀尾(ほりを)一等卒に話しかけた。
「みんなこつちへ敬禮してゐるぜ。」
 堀尾一等卒は振り返つた。成程(なるほど)さう云はれて見ると、黒黒(くろぐろ)と盛()り上つた高地の上には、聯隊長始め何人かの將校たちが、やや赤らんだ空を後(うしろ)に、この死地に向ふ一隊の士卒へ、最後の敬禮を送つてゐた。
「どうだい? 大したものぢやないか? 白襷隊(しろだすきたい)になるのも名譽だな。」
「何が名譽だ?」
 堀尾一等卒は苦苦(にがにが)しさうに、肩の上の銃を搖り上げた。
「こちとらはみんな死(しに)に行くのだぜ。して見ればあれは××××××××××××××@さうつて云ふのだ。こんな安上(やすあが)りな事はなからうぢやねえか?」
@:名譽の敬禮で生命を買上げて殺
「それはいけない。そんな事を云つては×××Aすまない。」
A:陛下に
 べらぼうめ! すむもすまねえもあるものか! 酒保(しゆほ)の酒を一合買ふのでも、敬禮だけでは賣りはしめえ。」
 田口一等卒は口を噤(つぐ)んだ。それは酒氣さへ帶びてゐれば、皮肉な事ばかり並べたがる、相手の癖に慣()れてゐるからだつた。しかし堀尾一等卒は、執拗(しつあう)にまだ話し續けた。
「それは敬禮で買ふとは云はねえ。やれ×××××Bとか、やれ×××××Cだとか、いろんな勿體(もつたい)をつけやがるだらう。だがそんな事は嘘(うそ)つ八(ぱち)だ。なあ、兄弟。さうぢやねえか?」
B:陛下の爲に
C:國家の爲に
 堀尾一等卒にかう云はれたのは、これも同じ中隊にゐた、小學校の教師(けうし)だつたと云ふ、おとなしい江木(えぎ)上等兵(じやうとうへい)だつた。が、そのおとなしい上等兵が、この時だけはどう云ふ訣(わけ)か、急に噛<*1>()みつきさうな權幕(けんまく)を見せた。さうして酒臭い相手の顏ヘ、惡辣な返答を抛(はふ)りつけた。
<*1>「口」偏+「齒」:補助2258
「莫迦野郎(ばかやらう)! おれたちは死ぬのが役目ぢやないか?」 その時もう白襷隊は、河原の向うへ上つてゐた。其處には泥を塗()り固めた、支那人の民家が七八軒、ひつそりと曉(あかつき)を迎へてゐる、−−その家家の屋根の上には、石油色に襞(ひだ)をなぞつた、寒い茶褐色の松樹山(しようじゆざん)が、目の前に迫つて見えるのだつた。隊はこの村を離れると、四列側面の隊形を解いた。のみならずいづれも武裝した儘、幾條かの交通路に腹這(はらば)ひながら、じりじり敵前へ向ふ事になつた。
 勿論(もちろん)江木(えぎ)上等兵も、その中に四つ這ひを續けて行つた。「酒保の酒を一合買ふのでも、敬禮だけでは賣りはしめえ。」−−さう云ふ堀尾(ほりを)一等卒の言葉は、同時に又彼の腹の底だつた。しかし口數の少い彼は、ぢつとその考へを持ちこたへてゐた。それだけに、一層戰友の言葉は、丁度傷痕(きずあと)にでも觸()れられたやうな、腹立たしい悲しみを與(あた)へたのだつた。彼は凍(こご)えついた交通路を、獸(けもの)のやうに這ひ續けながら、戰爭と云ふ事を考へたり、死と云ふ事を考へたりした。が、さう云ふ考へからは、寸毫(すんがう)の光明も得られなかつた。死は×××××Dにしても、所詮(しよせん)は呪(のろ)ふべき怪物だつた。戰爭は、−−彼は殆(ほとんど)戰爭は、罪惡と云ふ氣さへしなかつた。罪惡は戰爭に比べると、個人の情熱に根ざしてゐるだけ、×××××××E出來る點があつた。しかし×××××××××××××F外(ほか)ならなかつた。しかも彼は、−−いや、彼ばかりでもない。各師團から選拔された三千人餘りの白襷隊(しろだすきたい)は、その大なる×××Gにも、厭(いや)でも死ななければならないのだつた。……
D:陛下の御爲
E:人間として納得
F:戰爭は陛下の御爲の御奉公に
G:御奉公
「來た。來た。お前は何處の聯隊(れんたい)だ?」 江木上等兵はあたりを見た。隊は何時(いつ)か松樹山(しようじゆざん)の麓(ふもと)の、集合地へ着いてゐるのだつた。其處にはもうカアキイ服に、古めかしい襷(たすき)をあやどつた、各師團の兵が集まつてゐる、−−彼に聲をかけたのも、さう云ふ連中の一人だつた。その兵は石に腰をかけながら、うつすり流れ出した朝日の光に、片頬の面皰(にきび)をつぶしてゐた。
「第×聯隊だ。」
「パン聯隊だな。」
 江木上等兵は暗い顏をした儘、何ともその冗談(じようだん)に答へなかつた。
 何時間かの後(のち)、この歩兵陣地の上には、もう彼我(ひが)の砲彈が、凄(すさ)まじい唸(うな)りを飛ばせてゐた。目の前に聳えた松樹山(しようじゆざん)の山腹にも、李家屯(りかとん)の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙(つちけむり)を揚げた。その土煙の舞ひ上(あが)る合間(あひま)に、薄紫の光が迸(ほとばし)るのも、晝(ひる)だけに、一層悲壯だつた。しかし二千人の白襷隊(しろだすきたい)は、かう云ふ砲撃の中に機()を待ちながら、やはり平生の元氣を失はなかつた。又恐怖に挫(ひし)がれない爲には、出來るだけ陽氣に振舞(ふるま)ふ外、仕樣のない事も事實だつた。
「べらぼうに撃ちやがるな。」
 堀尾一等卒は空を見上げた。その拍子(ひやうし)に長い叫び聲が、もう一度頭上の空氣を裂()いた。彼は思はず首を縮(ちぢ)めながら、砂埃(すなほこり)の立つのを避ける爲か、手巾(ハンカチ)に鼻を掩(おほ)つてゐた、田口(たぐち)一等卒に聲をかけた。
「今のは二十八(にじふはつ)珊(サンチ)だぜ。」
 田口一等卒は笑つて見せた。さうして相手が氣のつかないやうに、そつとポケットへ手巾(ハンカチ)ををさめた。それは彼が出征する時、馴染(なじみ)の藝者に貰つて來た、縁(ふち)に繍(ぬひ)のある手巾(ハンカチ)。
「音が違ふな、二十八珊(サンチ)は。−−」
 田口一等卒はかう云ふと、狼狙(らうばい)したやうに姿勢を正した。同時に大勢(おほぜい)の兵たちも、聲のない號令(がうれい)でもかかつたやうに、次から次へと立ち直り始めた。それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN將軍が、何人かの幕僚(ばくれう)を從へながら、嚴然と歩いて來たからだつた。
「こら、騷いではいかん。騷ぐではない。」
 將軍は陣地を見渡しながら、やや錆(さび)のある聲を傳へた。
「かう云ふ狹隘(けふあい)な所だから、敬禮も何もせなくとも好()い。お前達は何聯隊の白襷隊(しろだすきたい)ぢや?」
 田口一等卒は將軍の眼が、彼の顏へぢつと注がれるのを感じた。その眼は殆(ほとんど)處女のやうに、彼をはにかませるのに足るものだつた。
「はい。歩兵第×聯隊であります。」
「さうか。大元氣(おほげんき)にやつてくれ。」
 將軍は彼の手を握つた。それから堀尾(ほりを)一等卒へ、じろりとその眼を轉ずると、やはり右手をさし伸()べながら、もう一度同じ事を繰返(くりかへ)した。
「お前も大元氣にやつてくれ。」
 かう云はれた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化(かうくわ)したやうに、直立不動の姿勢になつた。幅の廣い肩、大きな手、頬骨(ほほぼね)の高い赭(あか)ら顏。−−さう云ふ彼の特色は、少くともこの老將軍には、帝國軍人の模範(もはん)らしい、好印象を與へた容子(ようす)だつた。將軍は其處に立ち止まつた儘、熱心になほ話し續けた。
「今打つてゐる砲臺があるな。今夜お前たちはあの砲臺を、こつちの物にしてしまふのぢや。さうすると豫備隊は、お前たちの行つた跡(あと)から、あの界隈(かいわい)の砲臺をみんな手に入れてしまふのぢや。何でも一遍(いつぺん)にあの砲臺へ、飛びつく心にならなければいかん。−−」
 さう云ふ内に將軍の聲には、何時(いつ)か多少戲曲的な、感激の調子がはひつて來た。
「好()いか? 決して途中に立ち止まつて、射撃なぞをするぢやないぞ。五尺の體を砲彈だと思つて、いきなりあれへ飛びこむのぢや、頼んだぞ。どうか、しつかりやつてくれ。」
 將軍は「しつかり」の意味を傳へるやうに、堀尾一等卒の手を握つた。さうして其處を通り過ぎた。
「嬉しくもねえな。−−」
 堀尾一等卒は狡猾(かうくわつ)さうに、將軍の跡(あと)を見送りながら、田口(たぐち)一等卒へ目交(めくば)せをした。
「え、おい。あんな爺(ぢい)さんに手を握られたのぢや。」
 田口一等卒は苦笑(くせう)した。それを見るとどう云ふ訣(わけ)か、堀尾一等卒の心の中(うち)には、何かに濟まない氣が起つた。と同時に相手の苦笑が、面憎(つらにく)いやうな心もちにもなつた。其處へ江木(えぎ)上等兵が、突然横合ひから聲をかけた。
「どうだい、握手で××××Hのは?」
H:買はれる
「いけねえ。いけねえ。人眞似をしちや。」 今度は堀尾一等卒が、苦笑せずにはゐられなかつた。
「××Iれると思ふから腹が立つのだ。おれは捨()ててやると思つてゐる。」
I:買は
 江木上等兵がかう云ふと、田口一等卒も口を出した。
「さうだ。みんな御國(おくに)の爲に捨てる命だ。」
「おれは何の爲だか知らないが、唯捨ててやるつもりなのだ。×××××××Jでも向けられて見ろ。何でも持つて行けと云ふ氣になるだらう。」
J:強盜にピストル
 江木上等兵の眉(まゆ)の間(あひだ)には、薄暗い興奮が動いてゐた。
「丁度あんな心もちだ。強盜は金さへ卷き上げれば、×××××××K云ひはしまい。が、おれたちはどつち道(みち)死ぬのだ。×××××××××××××××××××××Lたのだ。どうせ死なずにすまないのなら、綺麗(きれい)に×××Mやつた方が好いぢやないか?」
K:生命までとると
L:?
M:捨てて
 かう云ふ言葉を聞いてゐる内に、まだ酒氣が消えてゐない、堀尾一等卒の眼の中には、この温厚(をんこう)な戰友に對する、侮蔑(ぶべつ)の光が加はつて來た。「何だ、命を捨てる位?」−−彼は内心さう思ひながら、うつとり空へ眼をあげた。さうして今夜は人後に落ちず、將軍の握手に報いる爲、肉彈にならうと決心した。……
 その夜()の八時何分か過ぎ、手擲彈(しゆてきだん)に中(あた)つた江木上等兵は、全身黒焦(くろこげ)になつた儘、松樹山(しようじゆざん)の山腹に倒れてゐた。其處へ白襷(しろだすき)の兵が一人、何か切れ切れに叫びながら、鐵條網(てつでうまう)の中を走つて來た。彼は戰友の屍骸(しがい)を見ると、その胸に片足かけるが早いか、突然大聲に笑ひ出した。大聲に、−−實際その哄笑(こうせう)の聲は、烈しい敵味方の銃火の中に、氣味の惡い反響を喚()び起した。
「萬歳! 日本(につぽん)萬歳! 惡魔降伏。怨敵退散(をんてきたいさん)。第×聯隊萬歳! 萬歳! 萬萬歳!」
 彼は片手に銃を振り振り、彼の目の前に闇を破つた、手擲彈(しゆてきだん)の爆發にも頓着(とんちやく)せず、續けざまにかう絶叫してゐた。その光に透()かして見れば、これは頭部銃創(じゆうさう)の爲に、突撃の最中(さいちう)發狂したらしい、堀尾一等卒その人だつた。

     二 間牒(かんてふ)

 明治三十八年三月五日の午前、當時全勝集(ぜんしようしふ)に駐屯(ちうとん)してゐた、A騎兵(きへい)旅團(りよだん)の參謀は、薄暗い司令部の一室に、二人の支那人を取り調べて居た。彼等は間牒(かんてふ)の嫌疑(けんぎ)の爲、臨時この旅團に加はつてゐた、第×聯隊の歩哨(ほせう)の一人に、今し方捉(とら)へられて來たのだつた。
 この棟(むね)の低い支那家(しないへ)の中には、勿論今日も坎(かん)の火(くわ)つ氣()が、快(こころよ)い温みを漂はせてゐた。が、物悲しい戰爭の空氣は、敷瓦(しきがはら)に觸れる拍車の音にも、卓(たく)の上に脱いだ外套(ぐわいたう)の色にも、至る所に窺はれるのであつた。殊に紅唐紙(べにたうし)の聯(れん)を貼()つた、埃(ほこり)臭い白壁(しらかべ)の上に、束髮(そくはつ)に結()つた藝者の寫眞が、ちやんと鋲(びやう)で止めてあるのは、滑稽でもあれば悲慘でもあつた。
 其處には旅團參謀の外(ほか)にも、副官が一人、通譯が一人、二人の支那人を圍(かこ)んでゐた。支那人は通譯の質問通り、何でも明瞭(めいれう)に返事をした。のみならずやや年嵩(としかさ)らしい、顏に短い髯(ひげ)のある男は、通譯がまだ尋ねない事さへ、進んで説明する風があつた。が、その答辯は參謀の心に、明瞭ならば明瞭なだけ、一層彼等を間牒(かんてふ)にしたい、反感に似たものを與へるらしかつた。
「おい歩兵(ほへい)!」
 旅團參謀は鼻聲に、この支那人を捉(とら)へて來た、戸口にゐる歩哨を喚()びかけた。歩兵、−−それは白襷隊(しろだすきたい)に加はつてゐた、田口(たぐち)一等卒(いつとうそつ)に外(ほか)ならなかつた。−−彼は戸の卍字(まんじ)格子(がうし)を後に、藝者の寫眞へ目をやつてゐたが、參謀の聲に驚かされると、思ひ切り大きい答をした。
「はい。」
「お前だな、こいつらを掴<*2>(つか)まへたのは? 掴<*2>まへた時どんなだつたか?」
<*2>掴:手偏+「國」:補助3259
 人の好()い田口一等卒は、朗讀的にしやべり出した。
「私(わたくし)が歩哨(ほせう)に立つてゐたのは、この村の土塀(どべい)の北端、奉天(ほうてん)に通ずる街道(かいだう)であります。その支那人は二人とも、奉天の方向から歩いて來ました。すると木の上の中隊長が、−−」
「何、木の上の中隊長?」
 參謀はちよいと目葢(まぶた)を與げた。
「はい。中隊長は展望(てんばう)の爲、木の上に登つてゐられたのであります。−−その中隊長が木の上から、掴<*2>(つか)まへろと私(わたくし)に命令されました。」
「所が私(わたくし)が捉(とら)へようとすると、そちらの男が、−−はい。その髯のない男であります。その男が急に逃げようとしました。……」
「それだけか?」
「はい。それだけであります。」
「よし。」
 旅團參謀は血肥(ちぶと)りの顏に、多少の失望を浮べた儘、通譯に質問の意を傅へた。通譯は退屈(たいくつ)を露(あらは)さない爲、わざと聲に力を入れた。
「間牒でなければ何故(なぜ)逃げたか?」
「それは逃げるのが當然です。何しろいきなり日本兵が、躍(をど)りかかつてきたのですから。」
 もう一人の支那人、−−鴉片(あへん)の中毒に罹(かか)つてゐるらしい、鉛色の皮膚(ひふ)をした男は、少しも怯(ひる)まずに返答した。
「しかしお前たちが通つて來たのは、今にも戰場になる街道(かいだう)ぢやないか? 良民ならば用もないのに、−−」
 支那語の出來る副官は、血色の惡い支那人の顏へ、ちらりと意地の惡い眼を送つた。
「いや、用はあるのです。今も申し上げた通り、私(わたくし)たちは新民屯(しんみんとん)へ、紙幣(しへい)を取り換へに出かけて來たのです。御覽下さい。此處に紙幣もあります。」
 髯(ひげ)のある男は平然と、將校たちの顏を眺め廻した。參謀はちよいと鼻を鳴らした。彼は副官のたじろいだのが、内心好()い氣味に思はれたのだ。……
「紙幣を取り換へる? 命がけでか?」
 副官は負惜(まけをし)みの冷笑を洩らした。
「兎()に角(かく)裸にして見よう。」
 參謀の言葉が通譯されると、彼等はやはり惡びれずに、早速赤裸になつて見せた。
「まだ腹卷(はらまき)をしてゐるぢやないか? それをこつちへとつて見せろ。」
 通譯が腹卷を受けとる時、その白木綿(しろもめん)に體温のあるのが、何だか不潔に感じられた。腹卷の中には三寸ばかりの、太い針がはひつてゐた。旅團參謀は窓明りに、何度もその針を檢(しら)べて見た。が、それも平たい頭に、梅花(ばいくわ)の模樣がついてゐる外、何も變つた所はなかつた。
「何か、これは?」
「私(わたくし)は鍼醫(はりい)です。」
 髯(ひげ)のある男はためらはずに、悠然と參謀の問に答へた。
「次手(ついで)に靴(くつ)も脱()いで見ろ。」
 彼等は殆(ほとんど)無表情に、隱すべき所も隱さうとせず、檢査の結果を眺めてゐた。が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を檢べて見ても、證據になる品は見當らなかつた。この上は靴を壞(こは)して見るより外はない。−−さう思つた副官は、參謀にその旨を話さうとした。
 その時突然次の部屋から、軍司合官を先頭に、軍司令部の幕僚(ばくれう)や、旅團長などがはひつて來た。將軍は副官や軍參謀と、丁度何かの打ち合せの爲、旅團長を尋ねて來てゐたのだつた。
「露探(ろたん)か?」
 將軍はかう尋ねた儘、支那人の前に足を止めた。さうして彼等の裸姿(はだかすがた)へ、ぢつと鋭い眼を注いだ。後(のち)に或亞米利加(アメリカ)人が、この有名な將軍の眼には、Monomaniaじみた所があると、無遠慮な批評を下した事がある。−−そのモノメニアツクな眼の色が、殊にかう云ふ場合には、氣味の惡い輝きを加へるのだつた。
 旅團參謀は將軍に、ざつと事件の顛末(てんまつ)を話した。が、將軍は思ひ出したやうに、時時頷(うなづ)いて見せるばかりだつた。
「この上はもうぶん擲(なぐ)つてでも、白状させる外はないのですが、−−」
 參諜がかう云ひかけた時、將軍は地圖(ちづ)を持つた手に、床(ゆか)の上にある支那靴を指した。
「あの靴を壞して見給へ。」
 靴は見る見る底をまくられた。すると其處に縫ひこまれた、四五枚の地圖と祕密書類が、忽ちばらばらと床(ゆか)の上に落ちた。二人の支那人はそれを見ると、さすがに顏の色を失つてしまつた。が、やはり押し默つた儘、剛情(がうじやう)に敷瓦を見つめてゐた。
「そんな事だらうと思つてゐた。」
 將軍は旅團長を顧みながら、得意さうに微笑を洩(もら)した。
「しかし靴(くつ)とは又考へたものですね。−−おい、もうその連中(れんぢう)には着物を着せてやれ。−−こんな間牒は始めてです。」
「軍司令官閣下の烱眼(けいがん)には驚きました。」
 旅團副官は旅團長へ、間牒(かんてふ)の證據品を渡しながら、愛嬌(あいけう)の好()い笑顏(ゑがほ)を見せた。−−恰(あたか)も靴に目をつけたのは、將軍よりも彼自身が、先だつた事も忘れたやうに。
「だが裸にしてもないとすれば、靴(くつ)より外(ほか)に隱せないぢやないか?」
 將軍はまだ上機嫌だつた。
「わしはすぐに靴と睨(にら)んだ。」
「どうもこの邊の住民はいけません。我我が此處へ來た時も、日の丸の旗を出したのですが、その癖家の中を檢(しら)べて見れば、大抵露西亞(ロシア)の旗を待つてゐるのです。」
 旅團長も何か浮き浮きしてゐた。
「つまり奸佞邪智(かんねいじやち)なのぢやね。」
「さうです。煮ても燒いても食へないのです。」
 こんな會話が續いてゐる内、旅團參謀はまだ通譯と、二人の支那人を檢べてゐた。それが急に田口(たぐち)一等卒へ、機嫌の惡い顏を向けると、吐()き出すやうにかう命じた。
「おい歩兵! この間牒はお前が掴<*2>(つか)まへて來たのだから、次手(ついで)にお前が殺して來い。」
 二十分の後(のち)、村の南端の路ばたには、この二人の支那人が、互に辮髮(べんぱつ)を結ばれた儘、枯柳(かれやなぎ)の根がたに坐つてゐた。
 田口一等卒は銃劍をつけると、まづ辮髮を解き放した。それから銃を構へた儘、年下の男の後(うしろ)に立つた。が、彼等を突殺す前に、殺すと云ふ事だけは告げたいと思つた。
「爾<*3>(ニイ)、−−」
<*3>爾:人偏+「爾」:補助1856
 彼はさう云つて見たが、「殺す」と云ふ支那語を知らなかつた。
「爾<*3>(ニイ)、殺すぞ!」
 二人の支那人は云ひ合せたやうに、じろりと彼を振り返つた。しかし驚いたけはひも見せず、それぎり別別の方角へ、何度も叩頭を續け出した。「故郷へ別れを告げてゐるのだ。」−−田口一等卒は身構へながら、かうその叩頭(こうとう)を解釋した。
 叩頭が一通り濟んでしまふと、彼等は覺悟をきめたやうに、冷然と首をさし伸した。田口一等卒は銃をかざした。が、神妙な彼等を見ると、どうしても銃劍が突き刺せなかつた。
「爾<*3>(ニイ)、殺すぞ!」
 彼はやむを得ず繰返した。するとそこへ村の方から、馬に跨(またが)つた騎兵が一人、蹄(ひづめ)に砂埃(すなほこり)を卷き揚げて來た。
「歩兵!」
 騎兵は−−近づいたのを見れば曹長(さうちやう)だつた。それが二人の支那人を見ると、馬の歩みを緩(ゆる)めながら、傲然(がうぜん)と彼に聲をかけた。
「露探(ろたん)か? 露探だらう。おれにも、一人斬らせてくれ。」
 田口一等卒は苦笑(くせう)した。
「何、二人とも上げます。」
「さうか? それは氣前が好()いな。」
 騎兵は身輕に馬を下りた。さうして支那人の後(うしろ)にまはると、腰の日本刀を拔き放した。その時又村の方から、勇しい馬蹄(ばてい)の響と共に、三人の將校が近づいて來た。騎兵はそれに頓着(とんちやく)せず、まつ向(かう)に刀(たう)を振り上げた。が、まだその刀を下(おろ)さない内に、三人の將校は悠悠と、彼等の側へ通りかかつた。軍司令官! 騎兵は田口一等卒と一しよに、馬上の將軍を見上げながら、正しい擧手の禮をした。
「露探(ろたん)だな。」
 將軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。
「斬れ! 斬れ!」
 騎兵は言下に刀をかざすと、一打(ひとうち)に若い支那人を斬()つた。支那人の頭は躍るやうに、枯柳の根もとに轉(ころ)げ落ちた。血は見る見る黄ばんだ土に、大きい斑點(はんてん)を擴げ出した。
「よし。見事だ。」
 將軍は愉快さうに頷(うなづ)きながら、それなり馬を歩ませて行つた。
 騎兵は將軍を見送ると、血に染()んだ刀(たう)を提(ひつさ)げた儘、もう一人の支那人の後(うしろ)に立つた。その態度は將軍以上に、殺戮(さつりく)を喜ぶ氣色(けしき)があつた。「この×××Nらばおれにも殺せる。」−−田口一等卒はさう思ひながら、枯柳の根もとに腰を下(おろ)した。騎兵は又刀(たう)を振り上げた。が、髯(ひげ)のある支那人は、默然(もくねん)と首を伸ばしたぎり、睫毛(まつげ)一つ動かさなかつた。……
N:?
 將軍に從つた軍參謀の一人、−−穗積(ほづみ)中佐(ちうさ)は鞍(くら)の上に、春寒の曠野(くわうや)を眺めて行つた。が、遠い枯木立(かれこだち)や、路ばたに倒れた石敢當(せきかんたう)も、中佐の眼には映らなかつた。それは彼の頭には、一時愛讀したスタンダアルの言葉が、絶えず漂つて來るからだつた。
「私(わたし)は勳章(くんしやう)に埋(うずま)つた人間を見ると、あれだけの勳章を手に入れるには、どの位××Oな事ばかりしたか、それが氣になつて仕方がない。……」
O:?
 −−ふと氣がつけば彼の馬は、ずつと將軍に遲れてゐた。中佐は輕い身震(みぶるひ)をすると、すぐに馬を急がせ出した。丁度當り出した薄日の光に、飾緒(かざりを)の金(きん)をきらめかせながら。

     三 陣中の芝居

 明治三十八年五月四日の午後、阿吉牛堡(あきつぎうはう)に駐つてゐた、第×軍司令部では、午前に招魂祭(せうこんさい)を行つた後(のち)、餘興(よきよう)の演藝會を催(もよほ)す事になつた。會場は支那の村落に多い、野天(のでん)の戲臺(ぎだい)を應用した、急拵(きふごしらへ)の舞臺の前に、天幕(テント)を張り渡したに過ぎなかつた。が、その蓆敷(むしろじき)の會場には、もう一時の定刻前に、大勢(おほぜい)の兵卒が集つてゐた。この薄汚いカアキイ服に、銃劍を下げた兵卒の群(むれ)は、殆(ほとんど)看客(かんかく)と呼ぶのさへも、皮肉な感じを起させる程、みじめな看客に違ひなかつた。が、それだけ又彼等の顏に、晴れ晴れした微笑が漂つてゐるのは、一層可憐(かれん)な氣がするのだつた。
 將軍を始め軍司令部や、兵站(へいたん)監部(かんぶ)の將校たちは、外國の從軍武官たちと、その後(うしろ)の小高い土地に、ずらりと椅子(いす)を並べてゐた。此處には參謀肩章だの、副官の襷(たすき)だのが見えるだけでも、一般兵卒の看客席より、遙かに空氣が花やかだつた。殊に外國の從軍武官は、愚物(ぐぶつ)の名の高い一人でさへも、この花やかさを扶(たす)ける爲には、軍司令官以上の效果があつた。
 將軍は今日も上機嫌(じやうきげん)だつた。何か副官の一人と話しながら、時時番付を開いて見てゐる、−−その眼にも始終日光のやうに、人懷(ひとなつ)こい微笑が浮んでゐた。
 その内に定刻の一時になつた。櫻の花や日の出をとり合せた、手際の好い幕の後(うしろ)では、何度か鳴りの惡い拍子木(ひやうしぎ)が響いた。と思ふとその幕は、餘興掛の少尉の手に、するすると一方へ引かれて行つた。
 舞臺は日本の室内だつた。それが米屋の店だと云ふ事は、一隅に積まれた米俵が、僅かに暗示を與へてゐた。其處へ前垂掛(まへだれが)けの米屋の主人が、「お鍋(なべ)や、お鍋や」と手を打ちながら、彼自身よりも脊()の高い、銀杏返(いてふがへ)しの下女を呼び出して來た。それから、−−筋は話すにも足りない、一場(いちぢやう)の俄(にはか)が始まつた。
 舞臺の惡ふざけが加はる度に、蓆敷(むしろじき)の上の看客(かんかく)からは、何度も笑聲が立ち昇(のぼ)つた。いや、その後(うしろ)の將校たちは、大部分は笑(わらひ)を浮べてゐた。が、俄(にはか)はその笑と競(きそ)ふやうに、益(ますます)滑稽(こつけい)を重ねて行つた。さうしてとうとうしまひには、越中(ゑつちう)褌(ふんどし)一つの主人が、赤い湯もじ一つの下女と相撲(すまふ)をとり始める所になつた。
 笑聲は更に高まつた。兵站(へいたん)監部(かんぶ)の或大尉なぞは、この滑稽を迎へる爲、殆(ほとんど)拍手さへしようとした。丁度その途端だつた。突然烈しい叱咤(しつた)の聲は、湧き返つてゐる笑の上へ、鞭(むち)を加へるやうに響き渡つた。
「何だ、その醜態(しうたい)は? 幕を引け! 幕を!」
 聲の主(ぬし)は將軍だつた。將軍は太い軍刀の柄<*4>(つか)に、手袋の兩手を重ねた儘、嚴然と舞臺を睨(にら)んで居た。
<*4>柄:「木」偏+「覇」:補助3770
 幕引きの少尉は命令通り、呆氣(あつけ)にとられた役者たちの前へ、倉皇(さうくわう)とさつきの幕を引いた。同時に蓆敷(むしろじき)の看客も、かすかなどよめきの聲の外(ほか)は、ひつそりと靜まり返つてしまつた。
 外國の從軍武官たちと、一つ席にゐた穗積(ほづみ)中佐は、この沈默を氣の毒に思つた。俄(にはか)は勿論彼の顏には、微笑さへも浮ばせなかつた。しかし彼は看客(かんかく)の興味に、同情を待つだけの餘裕はあつた。では外國武官たちに、裸(はだか)の相撲(すまふ)を見せても好()いか?−−さう云ふ體面を重ずるには、何年か歐洲(おうしう)に留學した彼は、餘りに外國人を知り過ぎてゐた。
「どうしたのですか?」
 佛蘭西(フランス)の將校は驚いたやうに、穗積中佐をふりかへつた。
「將軍が中止を命じたのです。」
「なぜ?」
「下品ですから、−−將軍は下品な事は嫌ひなのです。」
 さう云ふ内にもう一度、舞臺の拍子木(ひやうしぎ)が鳴り始めた。靜まり返つてゐた兵卒たちは、この音に元氣を取り直したのか、其處此處から拍手(はくしゆ)を送り出した。穗積中佐もほつとしながら、彼の周圍を眺め廻した。周圍にゐ並んだ將校たちは、いづれも幾分か氣兼(きがね)さうに、舞臺を見たり見なかつたりしてゐる、−−その中にたつた一人、やはり軍刀へ手をのせた儘、丁度幕の開()き出した舞臺へ、ぢつと眼を注いでゐた。
 次の幕は前と反對に、人情がかつた舊劇だつた。舞臺には唯屏風(びやうぶ)の外(ほか)に、火のともつた行燈(あんどう)が置いてあつた。其處に頬骨の高い年増(としま)が一人、猪首(ゐくび)の町人と酒を飮んでゐた。年増は時時金切聲(かなきりごゑ)に、「若旦那(わかだんな)」と相手の町人を呼んだ。さうして、−−穗積中佐は舞臺を見ずに、彼自身の記憶に浸(ひた)り出した。柳盛座(りうせいざ)の二階の手すりには、十二三の少年が倚()りかかつてゐる。舞臺には櫻の釣り枝がある。火影(ほかげ)の多い町の書割(かきわり)がある。その中に二錢(にせん)の團洲(だんしう)と呼ばれた、和光(わくわう)の不破(ふは)伴左衞門(ばんざゑもん)が、編笠(あみがさ)を片手に見得(みえ)をしてゐる。少年は舞臺に見入つた儘、殆(ほとんど)息さへもつかうとしない。彼にもそんな時代があつた。……
「餘興やめ! 幕を引かんか? 幕! 幕!」
 將軍の聲は爆彈のやうに、中佐の追憶を打ち碎(くだ)いた。中佐は舞臺へ眼を返した。舞臺には既に狼狽(らうばい)した少尉が、幕と共に走つてゐた。その間(あひだ)にちらりと屏風(びやうぶ)の上へ、男女の帶の懸かつてゐるのが見えた。
 中佐は思はず苦笑(くせう)した。「餘興掛も氣が利()かなすぎる。男女の相撲さへ禁じてゐる將軍が、濡()れ場()を默つて見てゐる筈がない。」−−そんな事を考へながら、叱聲(しつせい)の起つた席を見ると、將軍はまだ不機嫌さうに、餘興掛の一等(いつとう)主計(しゆけい)と、何か問答を重ねてゐた。
 その時ふと中佐の耳は、口の惡い亞米利加(アメリカ)の武官が、隣に坐つた佛蘭西(フランス)の武官へ、かう話しかける聲を捉(とら)へた。
「將軍Nも樂ぢやない。軍司令官兼檢閲官(けんえつくわん)だから、−−」
 やつと三幕目(みまくめ)が始まつたのは、それから十分の後(のち)だつた。今度は木がはひつても、兵卒たちは拍手を送らなかつた。
「可哀(かはい)さうに。監視(かんし)されながら、芝居を見てゐるやうだ。」−−穗積中佐は憐むやうに、殆(ほとんど)大きな話聲も立てない、カアキイ服の群(むれ)を見渡した。
 三幕目(みまくめ)の舞臺は黒幕の前に、柳の木が二三本立ててあつた。それは何處から伐()つて來たか、生生(なまなま)しい實際の葉柳だつた。其處に警部らしい髯(ひげ)だらけの男が、年の若い巡査をいぢめてゐた。穗積(ほづみ)中佐は番附の上へ、不審さうに眼を落した。すると番附には「ピストル強盜(がうたう)清水(しみづ)定吉(さだきち)、大川端(おほかはばた)捕物(とりもの)の場()」と書いてあつた。
 年の若い巡査は警部が去ると、大仰(おほぎやう)に天を仰ぎながら、長長(ながなが)と浩歎(かうたん)の獨白(どくはく)を述べた。何でもその意味は長い間(あひだ)、ピストル強盜をつけ廻してゐるが、逮捕(たいほ)出來ないとか云ふのだつた。それから人影でも認めたのか、彼は相手に見つからない爲、一まづ大川の水の中へ姿を隱さうと決心した。さうして後の黒幕の外へ、頭からさきに這()ひこんでしまつた。その恰好(かつかう)は贔屓眼(ひいきめ)に見ても、大川の水へ沒するよりは、蚊帳(かや)へはひるのに適當してゐた。
 空虚の舞臺には少時(しばらく)の間(あひだ)、波の音を思はせるらしい、大太鼓(おほだいこ)の音がするだけだつた。と、忽ち一方から、盲人が一人歩いて來た。盲人は杖をつき立てながら、その儘向うへはひらうとする、−−その途端(とたん)に黒幕の外から、さつきの巡査が飛び出して來た。「ピストル強盜、清水(しみづ)定吉(さだきち)、御用だ!」−−彼はさう叫ぶが早いか、いさなり盲人へ躍りかかつた。盲人は咄嗟(とつさ)に身構へをした。と思ふと眼がぱつちりあいた。「憾(うら)むらくは眼が小さ過ぎる。」−−中佐は微笑を浮べながら、内心大人氣(おとなげ)ない批評を下した。
 舞臺では立ち廻りが始まつてゐた。ピストル強盜は渾名(あだな)通り、ちやんとピストルを用意してゐた。二發、三發、−−ピストルは續けさまに火を吐()いた。しかし巡査は勇敢に、とうとう僞(にせ)目くらに繩(なは)をかけた。兵卒たちはさすがにどよめいた。が、彼等の間からは、やはり聲一つかからなかつた。
 中佐は將軍へ眼をやつた。將軍は今度も熱心に、ぢつと舞臺を眺めてゐた。しかしその顏は以前よりも、遙かに柔(やさ)しみを湛(たた)へてゐた。
 其處へ舞臺には一方から、署長とその部下とが駈()けつけて來た。が、僞目(にせめ)くらと格鬪中、ピストルの彈丸(たま)に中(あた)つた巡査は、もう昏昏(こんこん)と倒れてゐた。署長はすぐに活(かつ)を入れた。その間(あひだ)に部下はいち早く、ピストル強盜の繩尻(なはじり)を捉(とら)へた。その後(あと)は署長と巡査との、舊劇めいた愁歎場(しうたんば)になつた。署長は昔の名奉行(めいぶぎやう)のやうに、何か云ひ遺(のこ)す事はないかと云ふ。巡査は故郷に母がある、と云ふ。署長は又母の事は心配するな。何かその外(ほか)にも末期(まつご)の際に、心遺りはないかと云ふ。巡査は何も云ふ事はない、ピストル強盜を捉(とら)へたのは、この上もない滿足だと云ふ。
 −−その時ひつそりした場内に、三度(さんど)將軍の聲が響いた。が、今度は叱聲(しつせい)の代りに、深い感激の嘆聲だつた。
「偉い奴ぢや。それでこそ日本(につぽん)男兒(だんじ)ぢや。」
 穗積中佐はもう一度、そつと將軍へ眼を注いだ。すると日に燒けた將軍の頬(ほほ)には、涙の痕(あと)が光つてゐた。「將軍は善人だ。」−−中佐は輕い侮蔑(ぶべつ)の中(うち)に、明るい好意をも感じ出した。
 その時幕は悠悠と、盛んな喝采(かつさい)を浴びながら、舞臺の前に引かれて行つた。穗積中佐はその機會に、ひとり椅子(いす)から立ち上ると、會場の外へ歩み去つた。
 三十分の後、中佐は紙卷を啣(くは)へながら、やはり同參謀の中村(なかむら)少佐と、村はづれの空地を歩いてゐた。
「第×師團の餘興は大成功だね。N閣下は非常に喜んでゐられた。」
 中村少佐はかう云ふ間(あひだ)も、カイゼル髭(ひげ)の端(はし)をひねつてゐた。
「第×師團の餘興? ああ、あのピストル強盜か?」
「ピストル強盜(がうたう)ばかりぢやない。閣下はあれから餘興掛を呼んで、もう一幕臨時にやれと云はれた。今度は赤垣(あかがき)源藏(げんざう)だつたがね。何と云ふのかな、あれは? 徳利(とくり)の別れか?」
 穗積(ほづみ)中佐は微笑した眼に、廣い野原を眺めまはした。もう高粱(カウリヤン)の青んだ土には、かすかに陽炎(かげろふ)が動いてゐた。
「それも亦大成功さ。−−」
 中村(なかむら)少佐は話し續けた。
「閣下は今夜も七時から、第×師團の餘興掛に、寄席(よせ)的な事をやらせるさうだぜ。」
「寄席的? 落語(らくご)でもやらせるのかね。」
「何、講談ださうだ。水戸(みと)黄門(くわうもん)諸國めぐり−−」
 穗積中佐は苦笑(くせう)した。が、相手は無頓着に、元氣のよい口調を續けて行つた。
「閣下は水戸黄門が好きなのださうだ。わしは人臣としては、水戸黄門と加藤(かとう)清正(きよまさ)とに、最も敬意を拂つてゐる。−−そんな事を云つてゐられた。」
 穗積中佐は返事をせずに、頭の上の空を見上げた。空には柳の枝の間(あひだ)に、細い雲母雲(きららぐも)が吹かれてゐた。中佐はほつと息(いき)を吐いた。
「春だね、いくら滿洲(まんしう)でも。」
「内地はもう袷(あはせ)を着てゐるだらう。」
 中村少佐は東京を思つた。料理の上手な細君を思つた。小學校へ行つてゐる子供を思つた。さうして−−かすかに憂鬱になつた。
「向うに杏(あんず)が咲いてゐる。」
 穗積中佐は嬉しさうに、遠い土塀に簇(むらが)つた、赤い花の塊りを指した。Ecoute-moi,Madeline……−−中佐の心には何時(いつ)の間()にか、ユウゴオの歌が浮んでゐた。

     四 父と子と

 大正七年十月の或夜、中村(なかむら)少將、−−當時の軍參謀中村少佐は、西洋風の應接室に、火のついたハヴァナを啣(くは)へながら、ぼんやり安樂椅子によりかかつてゐた。
 二十年餘りの閑日月(かんじつげつ)は、少將を愛すべき老人にしてゐた。殊に今夜は和服のせゐか、禿()げ上(あが)つた額のあたりや、肉のたるんだ口のまはりには、一層好人物じみた氣色(けしき)があつた。少將は椅子(いす)の背()に靠(もた)れた儘、ゆつくり周圍を眺め廻した。それから、−−急にため息を洩らした。
 室の壁には何處(どこ)を見ても、西洋の畫()の複製らしい、寫眞版の額(がく)が懸()けてあつた。その或物は窓に倚()つた、寂しい少女の肖像(せうざう)だつた。又或物は糸杉の間(あひだ)に、太陽の見える風景だつた。それらは皆電燈の光に、この古めかしい應接室へ、何か妙に薄ら寒い、嚴肅な空氣を與へてゐた。が、その室氣はどう云ふ訣(わけ)か、少將には愉快でないらしかつた。
 無言(むごん)の何分かが過ぎ去つた後(のち)、突然少將は室外に、かすかなノックの音を聞いた。
「おはひり。」
 その聲と同時に室の中へは、大學の制服を着た青年が一人、脊の高い姿を現した。青年は少將の前に立つと、其處にあつた椅子に手をやりながら、ぶつきらぼうにかう云つた。
「何か御用ですか? お父さん。」
「うん。まあ、其處におかけ。」
 青年は素直(すなほ)に腰を下(おろ)した。
「何です?」
 少將は返事をする爲に、青年の胸の金(きん)鈕(ボタン)へ、不審(ふしん)らしい眼をやつた。
「今日(けふ)は?」
「今日は河合(かはひ)の−−お父さんは御存知ないでせう。−−僕と同じ文科の學生です。河合の追悼會(つゐたうくわい)があつたものですから、今歸つたばかりなのです。」
 少將はちよいと頷(うなづ)いた後(のち)、濃いハヴァナの煙を吐いた。それからやつと大儀(たいぎ)さうに、肝腎(かんじん)の用向きを話し始めた。
「この壁にある畫()だね、これはお前が懸け換へたのかい?」
「ええ、まだ申し上げませんでしたが、今朝(けさ)僕が懸け換へたのです。いけませんか?」
「いけなくはない。いけなくはないがね、N閣下の額だけは懸けて置きたい、と思ふ。」
「この中へですか?」
 青年は思はず微笑した。
「この中へ懸けてはいけないかね?」
「いけないと云ふ事もありませんが、−−しかしそれは可笑(をか)しいでせう。」
「肖像畫(せうざうぐわ)はあすこにもあるやうぢやないか?」
 少將は爐()の上の壁を指した。その壁には額縁の中に、五十何歳かのレムブラントが、悠悠と少將を見下してゐた。
「あれは別です。N將軍と一しよにはなりません。」
「さうか? ぢや仕方がない。」
 少將は容易に斷念した。が、又葉卷の煙を吐きながら、靜かにかう話を續けた。
「お前は、−−と云ふよりもお前の年輩のものは、閣下をどう思つてゐるね?」
「別にどうも思つてはゐません。まあ、偉い軍人でせう。」
 青年は老いた父の眼に、晩酌(ばんしやく)の醉(ゑひ)を感じてゐた。
「それは偉い軍人だがね、閣下は又實に長者(ちやうじや)らしい、人懷(ひとなつ)こい性格も持つてゐられた。……」
 少將は殆(ほとんど)、感傷的に、將軍の逸話(いつわ)を話し出した。それは日露戰役後、少將が那須野(なすの)の別莊に、將軍を訪れた時の事だつた。其の日別莊へ行つて見ると、將軍夫妻は今し方、裏山へ散歩にお出かけになつた、−−さう云ふ別莊番の話だつた。少將は案内を知つてゐたから、早速(さつそく)裏山へ出かける事にした。すると二三町行つた所に、綿服を纏(まと)つた將軍が、夫人と一しよに佇んでゐた。少將はこの老夫妻と、少時(しばらく)の間(あひだ)立ち話をした。が、將軍は何時(いつ)までたつても、其處を立ち去らうとしなかつた。「何か此處に用でもおありですか?」−−かう少將が尋ねると、將軍は急に笑ひ出した。「實はね、今妻(さい)が憚(はばか)りへ行きたいと云ふものだから、わしたちについて來た學生たちが、場所を探しに行つてくれた所ぢや。」丁度今頃、−−もう路ばたに毬栗(いがぐり)などが、轉がつてゐる時分だつた。
 少將は眼を細くした儘、嬉しさうに獨り微笑した。−−其處へ色づいた林の中から、勢(いきほひ)の好い中學生が、四五人同時に飛び出して來た。彼等は少將に頓着(とんちやく)せず、將軍夫妻をとり圍(かこ)むと、口口に彼等が夫人の爲に、見つけて來た場所を報告した。その上それぞれ自分の場所へ、夫人に來て貰ふやうに、無邪氣な競爭さへ始めるのだつた。「ぢやあなた方に籤(くじ)を引いて貰はう。」−−將軍はかう云つてから、もう一度少將に笑顏(ゑがほ)を見せた。……
「それは罪のない話ですね。だが西洋人には聞かされないな。」
 青年も笑はずにはゐられなかつた。
「まあそんな調子でね、十二三の中學生でも、N閣下と云ひさへすれば、叔父(をぢ)さんのやうに懷(なつ)いてゐたものだ。閣下はお前がたの思ふやうに、決して一介の武弁(ぶべん)ぢやない。」
 少將は樂しさうに話し終ると、又爐の上のレムブラントを眺めた。
「あれもやはり人格者かい?」
「ええ、偉い畫描(ゑかき)きです。」
「N閣下などとはどうだらう?」
 青年の顏には當惑の色が浮んだ。
「どうと云つても困りますが、−−まあN將軍などよりも、僕等に近い氣もちのある人です。」
「閣下のお前がたに遠いと云ふのは?」
「何と云へば好()いですか?−−まあ、こんな點ですね、たとへば今日追悼會(つゐたうくわい)のあつた、河合(かはひ)と云ふ男などは、やはり自殺してゐるのです。が、自殺する前に−−」
 青年は眞面目(まじめ)に父の顏を見た。
「寫眞をとる餘裕(よゆう)はなかつたやうです。」
 今度は機嫌の好()い少將の眼に、ちらりと當惑の色が浮んだ。
「寫眞をとつても好()いぢやないか? 最後の記念と云ふ意味もあるし、−−」
「誰の爲にですか?」
「誰と云ふ事もないが、−−我我始めN閣下の最後の顏は見たいぢやないか?」
「それは少くともN將軍は、考ふべき事ではないと思ふのです。僕は將軍の自殺した氣もちは、幾分かわかるやうな氣がします。しかし寫眞をとつたのはわかりません。まさか死後その寫眞が、何處(どこ)の店頭にも飾(かざ)られる事を、−−」
 少將は殆(ほとんど)、憤然(ふんぜん)と、青年の言葉を遮(さへぎ)つた。
「それは酷(こく)だ。閣下はそんな俗人ぢやない。徹頭徹尾至誠の人だ。」
 しかし青年は不相變(あひかはらず)、顏色(かほいろ)も聲も落着いてゐた。
「無論俗人ぢやなかつたでせう。至誠の人だつた事も想像出來ます。唯その至誠が僕等には、どうもはつきりのみこめないのです。僕等より後(のち)の人間には、猶更(なほさら)通じるとは思はれません。……」
 父と子とは少時(しばらく)の間(あひだ)、氣まづい沈默を續けてゐた。
「時代の違ひだね。」
 少將はやつとつけ加へた。
「ええ、まあ、−−」
 青年はかう云ひかけたなり、ちよいと窓の外のけはひに、耳を傾けるやうな眼つきになつた。
「雨ですね。お父さん。」
「雨?」
 少將は足を伸ばした儘、嬉しさうに話頭を轉換した。
「又慍孛<*5>(マルメロ)が落ちなければ好いが。……」
<*5>孛:「木」偏+「孛」:補助3569
(大正十年十二月)