PDD図書館管理番号 0000.0000.0091.00 ( ) はひらがなのルビ。 読みの「'イ」は「ゐ」を示す。 青年と死 芥川龍之介:作         × すべて背景を用ひない。宦官(クワングワン)が二人話しながら出て來る。  −−今月(ウ)も生み月(ヅキ)になつてゐる妃(キサキ)が六人ゐるのですからね。身重(ミオ モ)になつてゐるのを勘定(カンヂヤウ)したら何十人ゐるかわかりませんよ。  −−それが皆、相手がわからないのですか。  −−一人もわからないのです。一體妃(キサキ)たちは私たちより外に男の足ぶみの出 來ない後宮(コウキユウ)にゐるのですからそんな事の出來る訣(ワケ)はないのですがね。そ れでも月々子を生む妃があるのだから驚きます。  −−誰か忍んで來る男があるのぢやありませんか。  −−私も始めはさう思つたのです。所がいくら番の兵士の數をふやしても、妃たち の子を生むのは止りません。  −−妃たちに訊(キ)いてもわかりませんか。  −−それが妙なのです。色々訊いて見ると、忍んで來る男があるにはある。けれど も、それは聲ばかりで姿は見えないと云ふのです。  −−成程、それは不思議ですね。  −−まるで嘘のやうな話です。併し何しろこれだけの事が其不思議な忍(シノ)び男(ヲ トコ)に關する唯一(ユ'イイツ)の知識なのですからね、何とか之から豫防策を考へなければ なりません。あなたはどう御思ひです。  −−別に之と云つて名案もありませんが兔(ト)に角(カク)その男が來るのは事實なの でせう。  −‐それはさうです。  −−それぢやあ砂を撒(マ)いて置いたらどうでせう。その男が空でも飛んで來れば 別ですが、歩いて來るのなら足跡(アシアト)はのこる筈ですからね。  −−成程(ナルホド)、それは妙案ですね。その足跡を印(シルシ)に追ひかければきつと捕 (ツカ)まるでせう。  −−物は試しですからまあやつて見るのですね。  −−早速さうしませう。(二人とも去る)         ×  腰元(コシモト)が大ぜいで砂をまいてゐる。  −−さあすつかりまいてしまひました。  −−まだ其隅がのこつてゐるわ。(砂をまく)  −−今度は廊下(ラウカ)をまきませう。(皆去る)         ×  青年が二人蝋燭(ラフソク)の燈(ヒ)の下に坐つてゐる。 B あすこへ行くやうになつてからもう一年になるぜ。 A 早いものさ。一年前までは唯一實在だの最高善だのと云ふ語に食傷(シヨクシヤウ)して ゐたのだから。 B 今ぢやあアートマンと云ふ語さへ忘れかけてゐるぜ。 A 僕もとうに「ウパニシヤツドの哲學よ、さやうなら」さ。 B あの時分はよく生だの死だのと云ふ事を眞面目(マジメ)になつて考へたものだつけ な。 A なあにあの時分は唯考へるやうな事を云つてゐただけさ。考へる事なら此頃の方 がどの位考へてゐるかわからない。 B さうかな。僕はあれ以來一度も死なんぞと云ふ事を考へた事はないぜ。 A さうしてゐられるならそれでもいゝさ。 B だがいくら考へても分らない事を考へるのは愚(グ)ぢやあないか。 A 併し御互に死ぬ時があるのだからな。 B まだ一年や二年ぢやあ死なないね。 A どうだか。 B それは明日にも死ぬかもわからないさ。けれどもそんな事を心配してゐたら、何 一つ面白い事は出來なくなつてしまふぜ。 A それは間違つてゐるだらう。死を豫想しない快樂位(グラ'イ)、無意味なものはな いぢやあないか。 B 僕は無意味でも何でも死なんぞを豫想する必要はないと思ふが。 A 併しそれでは好んで欺罔(ギマウ)に生きてゐるやうなものぢやないか。 B それはさうかもしれない。 A それなら何も今のやうな生活をしなくつたつてすむぜ。君だつて欺罔(ギマウ)を破 る爲にかう云ふ生活をしてゐるのだらう。 B 兔に角今の僕にはまるで思索する氣がなくなつてしまつたのだからね、君が何と 云つてもかうしてゐるより外に仕方がないよ。 A (氣の毒さうに)それならそれでいゝさ。 B くだらない議論をしてゐる中(ウチ)に夜がふけたやうだ。そろそろ出かけようか。 A うん。 B ぢやあ其着ると姿の見えなくなるマントルを取つてくれ給へ。(Aとつて渡す。 Bマントルを着ると姿が消えてしまふ。聲ばかりがのこる。)さあ、行かう。 A (マントルを着る。同じく消える。聲ばかり。)  夜露が下りてゐるぜ。         ×   聲ばかりきこえる。暗黒。 Aの聲 暗いな。 Bの聲 もう少しで君のマントルの裾(スソ)をふむ所だつた。 Aの聲 ふきあげの音がしてゐるぜ。 Bの聲 うん、もう露臺(ロダイ)の下へ來たのだよ。         × 女が大勢(オホゼイ)裸(ハダカ)ですわつたり、立つたり、ねころんだりしてゐる。薄 明(ウスアカ)り。  −−まだ今夜は來ないのね。  −−もう月もかくれてしまつたわ。  −−早く來ればいゝのにさ。  −−もう聲がきこえてもいゝ時分だわね。  −−聲ばかりなのがもの足りなかつた。  −−えゝ、それでも肌(ハダ)ざはりはするわ。  −−はじめは怖(コハ)かつたわね。  −−私(アタシ)なんか一晩中ふるへてゐたわ。  −−私もよ。  −−さうすると「おふるへでない」つて云ふのでせう。  −−えゝ、えゝ。  −−猶(ナホ)怖(コハ)かつたわ。  −−あの方(カタ)のお産はすんで?  −−とうにすんだわ。  −−うれしがつていらつしやるでせうね。  −−可哀(カハ)いゝお子さんよ。  −−私も母親になりたいわ。  −−おゝいやだ、私はちつともそんな氣はしないわ。  −−さう?  −−えゝ、いやぢやありませんか。私はたゞ男に可哀(カハイ)がられるのが好き。  −−まあ。 Aの聲 今夜はまだ燈(ヒ)がついてるね。お前たちの肌が、青い紗(シヤ)の中でうごい てゐるのはきれいだよ。  −−あらもういらしつたの。  −−こつちへいらつしやいよ。  −−今夜はこつちへいらつしやいましな。 Aの聲 お前は金の腕環(ウデワ)なんぞはめてゐるね。  −−えゝ、何故(ナゼ)? Bの聲 何でもないのさ。お前の髮は、素馨(ソケイ)のにほひがするぢやないか。  −−えゝ。 Aの聲 お前はまだふるへてゐるね。  −−うれしいのだわ。  −−こつちへいらつしやいな。  −−まだ、そこにいらつしやるの。 Bの聲 お前の手は柔(ヤハラカ)いね。  −−いつ迄も可哀(カハイ)がつて頂戴な。  −−今夜は外(ソト)へいらしつちやあいやよ。  −−きつとよ。よくつて。  −−あゝ、あゝ。 女の聲がだんだん微(カスカ)な呻吟(シンギン)になつてしまひに聞えなくなる。 沈默。急に大勢の兵卒が槍を持つてどこからか出て來る。兵卒の聲。  −−こゝに足あとがあるぞ。  −−こゝにもある。  −−そら、そこへ逃げた。  −−逃がすな。逃がすな。 騷擾(サウゼウ)。女はみな悲鳴をあげてにげる。兵卒は足跡(アシアト)をたづねて、其 處(ソコ)此處(ココ)を追ひまはる。燈が消えて舞臺が暗くなる。         × AとBとマントルを着て出てくる。反對の方向から黒い覆面(フクメン)をした男が來 る。うす暗がり。 AとB そこにゐるのは誰だ。 男 お前たちだつて己(オレ)の聲をきゝ忘れはしないだらう。 AとB 誰だ。 男 己(オレ)は死だ。 AとB 死? 男 そんなに驚くことはない。己は昔もゐた。今もゐる。是からもゐるだらう。事に よると「ゐる」と云へるのは己ばかりかも知れない。 A お前は何の用があつて來たのだ。 男 己の用は何時も一つしかない筈だが。 B その用で來たのか。あゝ其用で來たのか。 A うんその用で來たのか。己はお前を待つてゐた。今こそお前の顏が見られるだら う。さあ己の命をとつてくれ。 男 (Bに)お前も己の來るのを待つてゐたか。 B いや、己はお前なぞを待つてはゐない。己は生きたいのだ。どうか己にもう少し 生を味(アヂハ)はせてくれ。己はまだ若い。己の脈管にはまだ暖い血が流れてゐる。 どうか己にもう少し己の生活を樂ませてくれ。 男 お前も己が一度も歎願(タングワン)に動かされた事のないのを知つてゐるだらう。 B (絶望して)どうしても己は死ななければならないのか。あゝどうしても己は死 ななければならないのか。 男 お前は物心がつくと死んでゐたのも同じ事だ。今迄(イママデ)太陽を仰ぐことが出 來たのは己の慈悲だと思ふがいい。 B それは己ばかりではない。生まれる時に死を負つて來るのはすべての人間の運命 だ。 男 己はそんな意味でさう云つたのではない。お前は今日迄己を忘れてゐたらう。己 の呼吸を聞かずにゐたらう。お前はすべての欺罔(ギマウ)を破らうとして快樂を求め ながら、お前の求めた快樂其物が矢張(ヤハリ)欺罔にすぎないのを知らなかつた。お 前が己を忘れた時、お前の靈魂は餓(ウ)ゑてゐた。餓ゑた靈魂は常に己を求める。 お前は己を避けようとして反(カヘツ)て己を招いたのだ。 B あゝ。 男 己はすべてを亡ぼすものではない。すべてを生むものだ。お前はすべての母なる 己を忘れてゐた。己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければな らないぞ。 B あゝ。(仆(タフ)れて死ぬ。) 男 (笑ふ)莫迦(バカ)な奴だ。(Aに)怖がることはない。もつと此方(コツチ)へ來る がいゝ。 A 己は待つてゐる。己は怖がるやうな臆病者ではない。 男 お前は己の顏をみたがつてゐたな。もう夜もあけるだらう。よく己の顏を見るが いい。 A その顏がお前か? 己はお前の顏がそんなに美しいとは思はなかつた。 男 己はお前の命をとりに來たのではない。 A いや己は待つてゐる。己はお前の外(ホカ)に何も知らない人間だ。己は命を持つて ゐても仕方ない人問だ。己の命をとつてくれ。そして己の苦しみを助けてくれ。 第三の聲 莫迦(バカ)な事を云ふな。よく己の顏をみろ。お前の命をたすけたのはお 前が己を忘れなかつたからだ。しかし己はすべてのお前の行爲を是認(ゼニン)しては ゐない。よく己の顏を見ろ。お前の誤りがわかつたか。是(コレ)からも生きられるか どうかはお前の努力次第だ。 Aの聲 己にはお前の顏がだんだん若くなつてゆくのが見える。 第三の聲 (靜に)夜明だ。己と一緒に大きな世界へ來るがいゝ。 黎明(レイメイ)の光の中に黒い覆面をした男とAとが出て行くのが覺える。         × 兵卒が五六人でBの死骸(シガイ)を引ずつて來る。死骸は裸、所々(トコロドコロ)に創 (キズ)がある。 −−龍樹(リユウジユ)菩薩(ボサツ)に關する俗傳より−− (大正三年八月十四日)