PDD図書館管理番号 0000.0000.0012.00 羅 生 門 芥川龍之介:作  或日の暮方の事である。一人の下人(ゲニン)が、羅生門の下で雨やみを待っていた。  広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗(ニヌリ)の剥げた、大きな 円柱(マルバシラ)に、蟋蟀(キリギリス)が一匹とまっている。羅生門が、朱雀(スザク)大路にあ る以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠(イチメガサ)や揉烏帽子(モミエボシ)が、も う二三人はありそうなものである。それが、この男の外には誰もいない。  何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか飢饉とか云う 災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像 や仏具を打砕いて、その丹(ニ)がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたに つみ重ねて、薪の料(シロ)に売っていたと云う事である。落中がその始末であるから、 羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたの をよい事にして、狐狸(コリ)が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のな い死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目 が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事に なってしまったのである。  その代わり又鴉が何処からか、たくさん集まって来た。昼間見ると、その鴉が何羽 となく輪を描いて、高い鴟尾(シビ)のまわりを啼きながら、飛びまわっている。殊に 門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見え た。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄(ツイバ)みに来るのである。−−尤も今 日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。唯、所々、崩れかかった、そうしてその 崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見 える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖(アオ)の尻を据えて、 右の頬に出来た、大きな面皰(ニキビ)を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めて いた。  作者はさっき「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんで も、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈で ある。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京 都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、 暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波に外ならない。だから「下人が雨やみ を待っていた」と云うよりも、「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方 にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平 安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申(サル)の刻下(コクサガ)りからふり出した 雨は、未(イマダ)に上るけしきがない。そこで、下人は、何を措(オ)いても差当り明日 の暮しをどうにかしようとして−−云わばどうにもならない事を、どうにかしようと して、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞 くともなく聞いていたのである。  雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第 に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍(イラカ)の先に、重たく うす暗い雲を支えている。  どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる遑(イトマ)はない。 選んでいれば、築土(ツイジ)の下か、道ばたの土の上で、飢死(ウエジニ)をするばかりで ある。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりであ る。選ばないとすれば−−下人の考えは、何度も同じ道を低徊(テイカイ)した揚句(アゲク) に、やっとこの局所へ逢着(ホウチャク)した。しかしこの「すれば」は、何時までたって も、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、 この「すれば」のかたをつける為に、当然、その後に来る可き「盗人になるより他に 仕方がない」と云う事を、積極的に肯定する丈の、勇気が出ずにいたのである。  下人は、大きな嚔(クサメ)をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする京 都は、もう火桶が欲しい程の寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮 なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀(キリギリス)も、もうどこかへ行ってし まった。  下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗(カザミ)に重ねた、紺の襖(アオ)の肩を高くし て門のまわりを見まわした。雨風の患(ウレイ)のない、人目にかかる惧(オソレ)のない、一 晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからであ る。すると、幸(サイワイ)門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼につ いた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさ げた聖柄(ヒジリヅカ)の太刀が鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、 その梯子の一番下の段へふみかけた。  それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一 人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の 上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚(ヒゲ)の中 に、赤く膿(ウミ)を持った面皰(ニキビ)のある頬である。下人は、始めから、この上にい る者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上で は誰か火をとぼして、しかもその火を其処此処(ソコココ)と動かしているらしい。これは、 その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったの で、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともして いるからは、どうせ唯の者ではない。  下人は、守宮(ヤモリ)のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで 這うようにして上りつめた。そうして体を出来る丈(ダケ)、平にしながら、頸を出来 る丈、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。  見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、 火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。唯、おぼろげ ながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。 勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、それが、嘗 (カツテ)、生きていた人間だと云う事さえ疑われる程、土を捏(コ)ねて造った人形のよう に、口を開(ア)いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しか も、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっ ている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖(オシ)の如く黙っていた。  下人は、それらの死骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩(オオ)った。しかし、その手 は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。或る強い感情が、殆(ホトンド)、悉 (コトゴトク)この男の嗅覚を奪ってしまったからである。  下人の眼は、その時、はじめて其(ソノ)死骸の中に蹲(ウズクマ)っている人間を見た。 檜皮色(ヒハダイロ)の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。 その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこ むように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。  下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(イキ)をするのさえ 忘れていた。旧記の記者の語(カタリ)を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたの である。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めてい た死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱(シラミ)をとるように、その 長い髪の毛を一本づつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。  その髪の毛が、一本づつ抜けるに従って、下人の心からは、恐怖が少しづつ消えて 行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しづつ動い て来た。−−いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。寧(ムシ ロ)、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰か がこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢死(ウエジニ)をするか盗人にな るかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、飢死を選ん だ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のよう に、勢よく燃え上り出していたのである。  下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理 的には、それを善悪の何れに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、 この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それ丈で既に許 す可らざる悪であった。勿論、下人は、さっき迄自分が、盗人になる気でいた事なぞ は、とうに忘れていたのである。  そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうし て聖柄(ヒジリヅカ)の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚 いたのは云う迄もない。  老婆は、一目下人を見ると、まるで弩(イシユミ)にでも弾(ハジ)かれたように、飛び上っ た。 「おのれ、どこへ行く。」  下人は、老婆が死骸につまづきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞い で、こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人は又、それ を行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、暫(シバラク)、無言のまま、つ かみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕を つかんで、無理にそこへ捩(ネ)<*>じ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの 腕である。 「捩じ倒した」の「ねじ」は「手偏」+「丑」 「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」  下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼(ハガネ)の色を、 その眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、 肩で息を切りながら、眼を、眼球が瞼(マブタ)<*>の外へ出そうになる程、見開いて、 唖のように執拗(シュウネ)く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白に、この老婆 の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうして、この 意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、何時の間にか冷ましてしまった。後 に残ったのは、唯、或仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足 とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔げてこう 云った。 「まぶた」は「目」+「匡」 「己は検非違使(ケビイシ)の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった 旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。唯、今時分 この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話さえすればいいのだ。」  すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守っ た。瞼<*>の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、 殆、鼻と一つになった脣(クチビル)を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉 で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くような声が、 喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。 「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘(カヅラ)にしょうと思ったのじゃ。」  下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、又前 の憎悪が、冷(ヒヤヤカ)な侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、 先方にも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を 持ったなり、蟇(ヒキ)のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。 「成程な、死人(シビト)の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、 ここにいる死人どもは、皆、その位な事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、 わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりづつに切って干したのを、干魚だ と云うて、太刀帯(タテハキ)の陣へ売りに往んだわ。疫病(エヤミ)にかかって死ななんだら、 今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云う て、太刀帯どもが、欠かさず菜料(サイリョウ)に買っていたそうな。わしは、この女のし た事が悪いとは思うていぬ。せねば、飢死(ウエジニ)をするのじゃて、仕方がなくした 事であろ。されば、今又、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもや はりせねば、飢死をするのじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方 がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであ ろ。」  老婆は、大体こんな意味の事を云った。  下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、 この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿(ウミ)を持った大きな面皰(ニキ ビ)を気にしながら、聞いているのである。しかし、之(コレ)を聞いている中に、下人 の心には、或勇気が生れて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇 気である。そうして、又さっき、この門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気と は、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、飢死をするか盗人になる かに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、飢死など と云う事は、殆(ホトンド)、考える事さえ出来ない程、意識の外に追い出されていた。 「きっと、そうか。」  老婆の話が完ると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、 不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云っ た。 「では、己が引剥(ヒハギ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、飢死をする体 なのだ。」  下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする 老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅(ワズカ)に五歩を数えるばか りである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯 子を夜の底へかけ下りた。  暫、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、そ れから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、 まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこか ら、短い白髪を倒(サカサマ)にして、門の下を覗きこんだ。外には、唯、黒洞々(コクトウトウ) たる夜があるばかりである。  下人の行方は、誰も知らない。 (大正四年九月)