PDD図書館管理番号 0000.0000.0221.00 ( ) はひらがなのルビ。 < > はカタカナのルビ。 読みの「'イ」は「ゐ」を示す。 読みの「'エ」は「ゑ」を示す。 南京の基督 芥川龍之介:作 一  或秋の夜半(ヤハン)であつた。南京<ナンキン>奇望街(キバウガイ)の或家の一間 (ヒトマ)には、色の蒼(アヲ)ざめた支那<シナ>の少女が一人、古びた卓<テーブル> の上に頬杖(ホホヅ'エ)をついて、盆に入れた西瓜(ス'イクワ)の種を退屈さう に噛<*1>み破つてゐた。 <*1>噛:「口」偏+「齒」:補助2258  卓<テーブル>の上には置きランプが、うす暗い光を放つてゐた。その光 は部屋の中を明(アカル)くすると云ふよりも、寧ろ一層陰鬱な效果を與へ るのに力があつた。壁紙の剥(ハ)げかかつた部屋の隅には、毛布のはみ 出した籐(トウ)の寢臺(ネダイ)が、埃臭(ホコリクサ)さうな帷(トバリ)を垂らして ゐた。それから卓<テーブル>の向うには、これも古びた椅子(イス)が一脚、 まるで忘れられたやうに置き捨ててあつた。が、その外(ホカ)は何處を見 ても、裝飾らしい家具の類なぞは何一つ見當らなかつた。  少女はそれにも關らず、西瓜(ス'イクワ)の種を噛<*1>みやめては、時々 涼しい眼を擧げて、卓<テーブル>の一方に面した壁をぢつと眺めやる事が あつた。見ると成程(ナルホド)その壁には、すぐ鼻の先の折れ釘に、小さ な眞鍮(シンチウ)の十字架(カ)がつつましやかに懸つてゐた。さうしてその 十字架の上には、稚拙な受難の基督<キリスト>が、高々と兩腕をひろげなが ら、手ずれた浮き彫の輪廓(リンクワク)を影のやうにぼんやり浮べてゐた。 少女の眼はこの耶蘇(ヤソ)を見る毎(ゴト)に、長い睫毛(マツゲ)の後(ウシロ)の 寂しい色が、一瞬間何處かへ見えなくなつて、その代りに無邪氣な希望 の光が、生き生きとよみ返つてゐるらしかつた。が、すぐに又視線が移 ると、彼女は必(カナラズ)吐息(トイキ)を洩らして、光澤(ツヤ)のない黒繻子(ク ロジユス)の上衣の肩を所在なささうに落しながら、もう一度盆の西瓜の種 をぽつりぽつり噛<*1>み出すのであつた。  少女は名を宋金花(ソウキンクワ)と云つて、貧しい家計を助ける爲に、夜々 (ヨナヨナ)その部屋に客を迎へる、當年十五歳の私窩子(シクワシ)であつた。秦 淮(シンワイ)に多い私窩子の中(ナカ)には、金花程の容貌の持ち主なら、何人 でもゐるのに違ひなかつた。が、金花程氣立ての優しい少女が 二人と この土地にゐるかどうか、それは少くとも疑問であつた。彼女は朋輩の 賣笑婦(バイセウフ)と違つて、嘘もつかなければ我儘も張らず、夜毎に愉快 さうな微笑を浮べて、この陰鬱な部屋を訪れる、さまざまな客と戲(タハム) れてゐた。さうして彼等の拂つて行く金が、稀(マレ)に約束の額より多か つた時は、たつた一人の父親を、一杯(イツパイ)でも餘計好きな酒に飽か せてやる事を樂しみにしてゐた。  かう云ふ金花(キンクワ)の行状は、勿論彼女が生れつきにも、據つてゐる のに違ひなかつた。しかしまだその外(ホカ)に何か理由があるとしたら、 それは金花が子供の時から、壁の上の十字架が示す通り、歿(ナ)くなつ た母親に教へられた、羅馬<ローマ>加特力<カトリツク>教(ケウ)の信仰をずつと持 ち續けてゐるからであつた。  −−さう云へば今年(コトシ)の春、上海<シヤンハイ>の競馬を見物かたがた、 南部支那の風光を探りに來た、若い日本の旅行家が、金花の部屋に物好 きな一夜を明かした事があつた。その時彼は葉卷(ハマキ)を啣(クハ)へて、 洋服の膝に輕々と小さな金花を抱(ダ)いてゐたが、ふと壁の上の十字架 を見ると、不審らしい顏をしながら、 「お前は耶蘇教徒(ヤソケウト)かい。」と、覺束(オボツカ)ない支那語で話しか けた。 「ええ、五つの時に洗禮を受けました。」 「さうしてこんな商賣をしてゐるのかい。」  彼の聲にはこの瞬間、皮肉な調子が交(マジ)つたやうであつた。が、 金花は彼の腕に、鴉髻(アケイ)の頭(カシラ)を凭(モタ)せながら、何時(イツ)もの 通り晴れ晴れと、糸切齒(イトキリバ)の見える笑を洩らした。 「この商賣をしなければ、阿父樣(オトウサン)も私(ワタシ)も餓(ウ)ゑ死をして しまひますから。」 「お前の父親は老人なのかい。」 「ええ−−もう腰も立たないのです。」 「しかしだね、−−しかしこんな稼業(カゲフ)をしてゐたのでは、天國に 行かれないと思やしないか。」 「いいえ。」  金花はちよいと十字架を眺めながら、考(カンガヘ)深さうな眼つきにな つた。 「天國にいらつしやる基督<キリスト>樣(サマ)は、きつと私(ワタシ)の心もちを 汲みとつて下さると思ひますから。−−それでなければ基督樣は姚家巷 (エウカカウ)の警察署の御役人も同じ事ですもの。」  若い日本の旅行家は微笑した。さうして上衣の隱しを探ると、翡翠(ヒ ス'イ)の耳環を一雙(イツサウ)出して、手づから彼女の耳へ下げてやつた。 「これはさつき日本へ土産(ミヤゲ)に買つた耳環だが、今夜の記念にお前 にやるよ。」−−  金花は始めて客をとつた夜(ヨル)から、實際かう云ふ確信に自(ミヅカ)ら 安んじてゐたのであつた。  所が彼是(カレコレ)一月(ヒトツキ)ばかり前から、この敬虔(ケイケン)な私窩子(シ クワシ)は不幸にも、惡性の楊梅瘡(ヤウバイサウ)を病む體になつた。これを聞 いた朋輩(ホウバイ)の陳山茶(チンサンサ)は、痛みを止めるのに好(イ)いと云つ て、鴉片酒(アヘンシユ)を飮む事を教へてくれた。その後(ゴ)又やはり朋輩 の毛迎春(マウゲイシユン)は、彼女自身が服用した汞藍丸(コウラングワン)や迦路米 (カロマイ)の殘りを、親切にもわざわざ持つて來てくれた。が、金花の病は どうしたものか、客をとらずに引き籠つてゐても、一向快方には向はな かつた。  すると或日陳山茶(チンサンサ)が、金花の部屋へ遊びに來た時に、こんな 迷信じみた療法を尤もらしく話して聞かせた。 「あなたの病氣は御客から移つたのだから、早く誰かに移し返しておし まひなさいよ。さうすればきつと二三日中(ウチ)に、よくなつてしまふの に違ひないわ。」  金花は頼杖をついた儘、浮かない顏色を改めなかつた。が、山茶(サンサ) の言葉には多少の好奇心を動かしたと見えて、 「ほんたう?」と、輕く聞き返した。 「ええ、ほんたうだわ。私(ワタシ)の姉さんもあなたのやうに、どうして も病氣が癒らなかつたのよ。それでも御客に移し返したら、ぢきによく なつてしまつたわ。」 「その御客はどうして?」 「御客はそれは可哀さうよ。おかげで目までつぶれたつて云ふわ。」  山茶(サンサ)が部屋を去つた後(ノチ)、金花は獨り壁に懸(カ)けた十字架の 前に跪(ヒザマヅ)いて、受難の基督<キリスト>を仰ぎ見ながら、熱心にかう云 ふ祈祷<*2>(キタウ)を捧げた。 <*2>祷:「示」偏+「壽」:補助4880 「天國にいらつしやる基督樣。私(ワタシ)は阿父樣(オトウサマ)を養ふ爲に、賤 しい商賣を致して居ります。しかし私の商賣は、私一人を汚す外(ホカ)に は、誰にも迷惑はかけて居りません。ですから私はこの儘死んでも、必 (カナラズ)天國に行かれると思つて居りました。けれども唯今の私は、御 客にこの病を移さない限り、今までのやうな商賣を致して參る事は出來 ません。して見ればたとひ餓ゑ死をしても、−−さうすればこの病も、 癒るさうでございますが、−−御客と一つ寢臺(ネダイ)に寢ないやうに、 心がけねばなるまいと存じます。さもなければ私は、私どもの仕合せの 爲に、怨(ウラ)みもない他人を不仕合せに致す事になりますから。しかし 何と申しても、私は女でございます。いつ何時(ナンドキ)どんな誘惑(イウワク) に陷らないものでもございません。天國にいらつしやる基督樣。どうか 私を御守り下さいまし。私はあなた御一人の外に、たよるもののない女 でございますから。」  かう決心した宋金花(ソウキンクワ)は、その後(ノチ)山茶(サンサ)や迎春(ゲイシユン) にいくら商賣を勸められても、剛情に客をとらずにゐた。又時々彼女の 部屋へ、なじみの客が遊びに來ても、一しよに煙草(タバコ)でも吸ひ合ふ 外(ホカ)に、決して客の意に從はなかつた。 「私(ワタシ)は恐しい病氣を持つてゐるのです。側へいらつしやると、あ なたにも移りますよ。」  それでも客が醉つてでもゐて、無理に彼女を自由にしようとすると、 金花は何時(イツ)もかう云つて、實際彼女の病んでゐる證據を示す事さへ 憚(ハバカ)らなかつた。だから客は彼女の部屋には、おひおひ遊びに來な いやうになつた。と同時に又彼女の家計も、一日毎(ゴト)に苦しくなつ て行つた。……  今夜も彼女はこの卓<テーブル>に倚(ヨ)つて、長い間(アヒダ)ぼんやり坐つ てゐた。が、不相變(アヒカハラズ)彼女の部屋へは、客の來るけはひも見え なかつた。その内に夜は遠慮なく更(フ)け渡つて、彼女の耳にはひる音 と云つては、唯何處かで鳴いてゐる蟋蟀(コホロギ)の聲ばかりになつた。 のみならず火の氣(ケ)のない部屋の寒さは、床(ユカ)に敷きつめた石の上 から、次第に彼女の鼠繻子(ネズミジユス)の靴(クツ)を、その靴の中の華奢(キ ヤシヤ)な足を、水のやうに襲つて來るのであつた。  金花はうす暗いランプの火に、さつきからうつとり見入つてゐたが、 やがて身震ひを一つすると翡翠(ヒス'イ)の輪の下つた耳を掻(カ)いて、小 さな欠伸(アクビ)を噛<*1>み殺した。すると殆(ホトンド)その途端に、ペン キ塗りの戸が勢(イキホヒ)よく開いて、見慣れない一人の外國人が、よろめ くやうに外からはひつて來た。その勢(イキホヒ)が烈しかつたからであらう。 卓<テーブル>の上のランプの火は、一しきりぱつと燃え上つて、妙に赤々 と煤(スス)けた光を狹い部屋の中(ナカ)に漲(ミナギ)らせた。客はその光をま ともに浴びて、一度は卓<テーブル>の方へのめりかかつたが、すぐに又立 ち直ると、今度は後(ウシロ)へたじろいで、今し方しまつたペンキ塗りの 戸へ、どしりと背を凭(モタ)せてしまつた。  金花は思はず立ち上つて、この見慣れない外國人の姿へ、呆氣(アツケ) にとられた視線を投げた。客の年頃は三十五六でもあらうか。縞目(シマメ) のあるらしい茶の背廣に、同じ巾地(キレヂ)の鳥打帽をかぶつた、眼の大 きい、顋髯(アゴヒゲ)のある、頬(ホホ)の日に燒けた男であつた。が、唯一 つ合點(ガテン)の行かない事には、外國人には違ひないにしても、西洋人 か東洋人か、奇體にその見分けがつかなかつた。それが黒い髮の毛を帽 の下からはみ出させて、火の消えたパイプを啣(クハ)へながら、戸口に立 ち塞(フサガ)つてゐる有樣は、どう見ても泥醉(デイス'イ)した通行人が戸ま どひでもしたらしく思はれるのであつた。 「何か御用ですか。」  金花は稍(ヤヤ)無氣味(ブキミ)な感じに襲はれながら、やはり卓<テーブル> の前に立ちすくんだ儘、詰(ナジ)るやうにかう尋(タヅ)ねて見た。すると 相手は首を振つて、支那<シナ>語(ゴ)はわからないと云ふ相圖(アヒヅ)をし た。それから横啣(ヨコグハ)へにしたパイプを離して、何やら意味のわか らない滑かな外國語を一言(ヒトコト)洩らした。が、今度は金花の方が、卓 <テーブル>の上のランプの光に、耳環の翡翠(ヒス'イ)をちらつかせながら、 首を振つて見せるより外に仕方がなかつた。  客は彼女が當惑らしく、美しい眉をひそめたのを見ると、突然大聲に 笑ひながら、無造作(ムザウサ)に鳥打帽を脱ぎ離して、よろよろこちらへ 歩み寄つた。さうして卓<テーブル>の向うの椅子へ、腰が拔けたやうに尻 を下した。金花はこの時この外國人の顏が、何時(イツ)何處(ドコ)と云ふ 記憶はないにしても、確(タシカ)に見覺えがあるやうな、一種の親しみを 感じ出した。客は無遠慮に盆の上の西瓜(ス'イクワ)の種をつまみながら、 と云つてそれを噛<*1>むでもなく、じろじろ金花を眺めてゐたが、やが て又妙な手眞似まじりに、何か外國語をしやべり出した。その意味も彼 女にはわからなかつたが、唯この外國人が彼女の商賣に、多少の理解を 持つてゐる事は、朧(オボロ)げながらも推測がついた。  支那語を知らない外國人と、長い一夜(イチヤ)を明す事も、金花には珍 しい事ではなかつた。そこで彼女は椅子にかけると、殆(ホトンド)習慣に なつてゐる、愛想(アイソ)の好(イ)い微笑を見せながら、相手には全然通じ ない冗談(ジヨウダン)などを云ひ始めた。が、客はその冗談がわかるので はないかと疑はれる程、一言(ヒトコト)二言(フタコト)しやべつては、上機嫌の 笑ひ聲を擧げながら、前よりも更に目まぐるしく、いろいろな手眞似を 使ひ出した。  客の吐く息は酒臭かつた。しかしその陶然と赤くなつた顏は、この索 寞(サクバク)とした部屋の空氣が、明(アカル)くなるかと思ふ程、男らしい活 力に溢(アフ)れてゐた。少くともそれは金花にとつては、日頃見慣れてゐ る南京<ナンキン>の同國人は云ふまでもなく、今まで彼女が見た事のある、 どんな東洋西洋の外國人よりも立派(リツパ)であつた。が、それにも關(カ カハ)らず、前にも一度この顏を見た覺えのあると云ふ、さつきの感じだ けはどうしても、打ち消す事が出來なかつた。金花は客の額に懸つた、 黒い捲(マ)き毛を眺めながら、氣輕さうに愛嬌(アイケウ)を振り撒(マ)く内に も、この顏に始めて遇つた時の記憶を、一生懸命に喚(ヨ)び起さうとし た。 「この間肥つた奧さんと一しよに、晝舫(グワバウ)に乘つてゐた人かしら。 いやいや、あの人は髮の色が、もつとずつと赤かつた。では秦淮(シンワイ) の孔子樣(コウシサマ)の廟へ、寫眞機を向けてゐた人かも知れない。しかし あの人はこの御客より、年をとつてゐたやうな心もちがする。さうさう、 何時(イツ)か利渉橋(リセフケウ)の側の飯館(ハンクワン)の前に、人だかりがしてゐ ると思つたら、丁度この御客によく似た人が、太い籐(トウ)の杖を振り上 げて、人力車夫の背中を打つてゐたつけ。事によると、−−が、どうも あの人の眼は、もつと瞳(ヒトミ)が青かつたやうだ。……」  金花がこんな事を考へてゐる内に、不相變(アヒカハラズ)愉快さうな外國 人は、何時(イツ)かパイプに煙草をつめて、匂<*3>(ニホヒ)の好(イ)い煙を吐 き出してゐた。それが急に又何とか云つて、今度はおとなしくにやにや 笑ふと、片手の指を二本延べて、金花の眼の前へ突き出しながら、?と 云ふ意味の身ぶりをした。指二本が二弗<ドル>と云ふ金額を示してゐる ことは、勿論誰の眼にも明かであつた。が、客を泊(ト)めない金花は、 器用に西瓜(ス'イクワ)の種を鳴らして、否(イヤ)と云ふ印(シルシ)に二度ばかり、 これも笑ひ顏を振つて見せた。すると客は卓<テーブル>の上に横柄(ワウヘイ) な兩肘を凭(モタ)せた儘、うす暗いランプの光の中に、近々(チカヂカ)と醉 顏をさし延ばして、ぢつと彼女を見守つたが、やがて又指を三本出して、 答を待つやうな眼つきをした。 <*3>匂:「勹」構+「二」:補助1991  金花はちよいと椅子(イス)をずらせて、西瓜の種を含んだ儘、當惑らし い顏になつた。客は確(タシカ)に二弗の金では、彼女が體を任せないと云 つたやうに思つてゐるらしかつた。と云つて言葉の通じない彼に、立ち 入つた仔細(シサイ)をのみこませる事は、到底出來さうにも思はれなかつ た。そこで金花は今更のやうに、彼女の輕率を後悔しながら、涼しい視 線を外(ホカ)へ轉じて、仕方なく更にきつぱりと、もう一度頭を振つて見 せた。  所が相手の外國人は、暫くうす笑ひを浮べながら、ためらふやうな氣 色(ケシキ)を示した後(ノチ)、四本の指をさし延ばして、何か又外國語をし やべつて聞かせた。途方(トホウ)に暮れた金花は頬(ホホ)を抑へて、微笑す る氣力もなくなつてゐたが、咄嵯(トツサ)にもうかうなつた上は、何時(イツ) までも首を振り績けて、相手が思ひ切る時を待つ外はないと決心した。 が、さう思ふ内にも客の手は、何か眼に見えないものでも捉(トラ)へるや うに、とうとう五指とも開いてしまつた。  それから二人は長い間、手眞似と身ぶりとの入り交(マジ)つた押し問 答を續けてゐた。その間(アヒダ)に客は根氣よく、一本づつ指の數を増し た揚句(アゲク)、しまひには十弗<ドル>の金を出しても、惜しくないと云 ふ意氣ごみを示すやうになつた。が、私窩子(シクワシ)には大金の十弗も、 金花の決心は動かせなかつた。彼女はさつきから椅子を離れて、斜(ナナメ) に卓<テーブル>の前へ佇(タタズ)んでゐたが、相手が兩手の指を見せると、 苛立(イラダ)たしさうに足踏みして、何度も續けさまに頭を振つた。その 途端(トタン)にどう云ふ拍子か、釘(クギ)に懸つてゐた十字架がはづれて、 かすかな金屬の音を立てながら、足もとの敷石の上に落ちた。  彼女は慌(アワタダ)しい手を延べて、大切な十字架を捨ひ上げた。その 時何氣(ナニゲ)なく十字架に彫られた、受難の基督<キリスト>の顏を見ると、 不思議にもそれが卓<テーブル>の向うの、外國人の顏と生き寫しであつた。 「何でも何處かで見たやうだと思つたのは、この基督樣の御顏だつたの だ。」  金花は黒繻子(クロジユス)の上衣の胸に、眞鍮(シンチウ)の十字架を押し當て た儘、卓<テーブル>を隔てた客の顏へ、思はず驚きの視線を投げた。客は やはりランプの光に、酒氣を帶びた顏を火照(ホテ)らせながら、時々パイ プの煙を吐いては、意味ありげな微笑を浮べてゐた。しかもその眼は彼 女の姿へ、−−恐らくは白い頸(クビ)すぢから、翡翠(ヒス'イ)の環を下げ た耳のあたりへ、絶えずさまよつてゐるらしかつた。しかしかう云ふ客 の容子(ヨウス)も、金花には優しい一種の威巖に、充ち滿ちてゐるかのや うな心もちがした。  やがて客はパイプを止(ヤ)めると、わざとらしく小首を傾けて、何や ら笑ひ聲の言葉をかけた。それが金花の心には、殆(ホトンド)巧妙な催眠 術師(サイミンジユツシ)が、被術者の耳に囁き聞かせる、暗示のやうな作用を 起した。彼女はあの健氣(ケナゲ)な決心も、全く忘れてしまつたのか、そ つとほほ笑んだ眼を伏せて、眞鍮の十字架を手まさぐりながら、この怪 しい外國人の側へ、羞(ハヅカ)しさうに歩み寄つた。  客はズボンの隱しを探つて、じやらじやら銀の音をさせながら、依然 とうす笑ひを浮べた眼に、暫くは金花の立ち姿を好ましさうに眺めてゐ た。が、その眼の中のうす笑ひが、熱のあるやうな光に變つたと思ふと、 いきなり椅子から飛び上つて、酒の匂<*3>のする背廣の腕に、力一ぱい 金花を抱(ダ)きすくめた。金花はまるで喪心(サウシン)したやうに、翡翠の 耳環の下がつた頭をぐつたりと後(ウシロ)へ仰向(アフム)けた儘、しかし蒼白 い頬の底には、鮮(アザヤカ)な血の色を仄(ホノ)めかせて、鼻の先に迫つた 彼の顏へ、恍惚(クワウコツ)としたうす眼を注いでゐた。この不思議な外國 人に、彼女の體を自由にさせるか、それとも病を移さない爲に、彼の接 吻(セツプン)を刎(ハ)ねつけるか、そんな思慮をめぐらす餘裕は、勿論何處 にも見當らなかつた。金花は髯(ヒゲ)だらけな客の口に、彼女の口を任 (マカ)せながら、唯燃えるやうな戀愛の歡喜が、始めて知つた戀愛の歡喜 が、激しく彼女の胸(ムナ)もとへ、突き上げて來るのを知るばかりであつ た。…… 二  數時間の後(ノチ)、ランプの消えた部屋の中には、唯かすかな蟋蟀(コホロ ギ)の聲が、寢臺(ネダイ)を洩れる二人の寢息に、寂しい秋意を加へてゐ た。しかしその間(マ)に金花(キンクワ)の夢は、埃(ホコリ)じみた寢臺(ネダイ)の 帷(トバリ)から、屋根の上にある星月夜へ、煙のやうに高高(タカダカ)と昇 つて行つた。 × × × ×  −−金花(キンクワ)は紫檀(シタン)の椅子(イス)に坐つて、卓<テーブル>の上に並 んでゐる、さまざまな料理に箸(ハシ)をつけてゐた。燕(ツバクロ)の巣、鮫 (サメ)の鰭(ヒレ)、蒸した卵、燻(イブ)した鯉(コヒ)、豚の丸煮、海參(ナマコ)の 羹(アツモノ)、−−料理はいくら數へても、到底數へ盡されなかつた。しか もその食器が悉(コトゴトク)、べた一面に青い蓮華(ケンゲ)や金の鳳凰(ホウワウ) を描(カ)き立てた、立派な皿小鉢ばかりであつた。  彼女の椅子の後(ウシロ)には、絳紗(カウシヤ)の帷(トバリ)を垂れた窓があつ て、その又窓の外には川があるのか、靜な水の音や櫂(カイ)の音が、絶え ず此虚まで聞えて來た。それがどうも彼女には、幼少の時から見慣れて ゐる、秦淮(シンワイ)らしい心もちがした。しかし彼女が今ゐる所は、確(タ シカ)に天國の町にある、基督<キリスト>の家に違ひなかつた。  金花は時々箸を止めて、卓<テーブル>の周圍を眺めまはした。が、廣い 部屋の中(ナカ)には、龍の彫刻のある柱だの、大輪(ダイリン)の菊の鉢植ゑ だのが、料理の湯氣に仄(ホノ)めいてゐる外(ホカ)は、一人も人影は見えな かつた。  それにも關らず卓<テーブル>の上には、食器が一つからになると、忽ち 何處からか新しい料理が、暖な香氣を漲(ミナギ)らせて、彼女の眼の前へ 運ばれて來た。と思ふと又箸をつけない内に、丸燒きの雉(キジ)なぞが 羽摶(ハバタ)きをして、紹興酒(セウコウシユ)の瓶(ビン)を倒しながら、部屋の 天井へばたばたと、舞ひ上つてしまふ事もあつた。  その内に金花は誰か一人、音もなく彼女の椅子の後(ウシロ)へ、歩み寄 つたのに心づいた。そこで箸を持つた儘、そつと後(ウシロ)を振り返つて 見た。すると其處にはどう云ふ譯か、あると思つた窓がなくて、緞子(ド ンス)の蒲團(フトン)を敷いた紫檀(シタン)の椅子に、見慣れない一人の外國人 が、眞鍮(シンチウ)の水煙管(ミヅギセル)を啣(クハ)へながら悠悠と腰を下して ゐた。  金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに來た男 だと云ふ事がわかつた。が、唯一つ彼と違ふ事には、丁度三日月(ミカヅキ) のやうな光の環(ワ)が、この外國人の頭の上、一尺ばかりの空(クウ)に懸 つてゐた。  その時又金花の眼の前には、何だか湯氣の立つ大皿が一つ、まるで卓 <テーブル>から湧いたやうに、突然旨(ウマ)さうな料理を運んで來た。彼女 はすぐに箸(ハシ)を擧げて、皿の中の珍味を挾まうとしたが、ふと彼女の 後(ウシロ)にゐる外國人の事を思ひ出して、肩越しに彼を見返りながら、 「あなたも此處へいらつしやいませんか。」と遠慮がましい聲をかけた。 「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病氣が、今夜の内によ くなるから。」  圓光を頂いた外國人は、やはり水煙管(ミヅギセル)を啣(クハ)へた儘、無 限の愛を含んだ微笑を洩らした。 「ではあなたは召上らないのでございますか。」 「私(ワタシ)かい。私は支那料理は嫌ひだよ。お前はまだ私を知らないの かい。耶蘇(ヤソ)基督<キリスト>はまだ一度も、支那料理を食べた事はないの だよ。」  南京<ナンキン>の基督はかう云つたと思ふと、徐(オモムロ)に紫檀(シタン)の椅 子を離れて、呆氣(アツケ)にとられた金花の頬へ、後(ウシロ)から優しい接吻 を與へた。 × × × ×  天國の夢がさめたのは、既に秋の明け方の光が、狹い部屋中にうすら 寒く擴がり出した頃であつた。が、埃臭(ホコリクサ)い帷(トバリ)を垂れた、 小舸(セウカ)のやうな寢臺(ネダイ)の中には、さすがにまだ生暖(ナマアタタカ)い 仄(ホノ)かな闇が殘つてゐた。そのうす暗がりに浮んでゐる、半ば仰向い た金花(キンクワ)の顏は、色もわからない古毛布に、圓い括(クク)り顋(アゴ) を隱した儘、未(イマダ)に眠い眼を開(ヒラ)かなかつた。しかし血色の惡い 頬には、昨夜(ユウベ)の汗にくつついたのか、べつたり油じみた髮が亂れ て、心もち明いえ脣の隙にも、糯米(モチゴメ)のやうに細い齒が、かすか に白々(シロジロ)と覗いてゐた。  金花は眠りがさめた今でも、菊の花や、水の音や、雉(キジ)の丸燒や、 耶蘇(ヤソ)基督<キリスト>や、その外(ホカ)いろいろな夢の記憶に、うとうと心 をさまよはせてゐた。が、その内に寢臺(ネダイ)の中が、だんだん明(アカル) くなつて來ると、彼女の快(ココロヨ)い夢見心(ユメミゴコロ)にも、傍若無人(バ ウジヤクブジン)な現實が、昨夜(ユウベ)不思議な外國人と一しよに、この籐 (トウ)の寢臺(ネダイ)へ上つた事が、はつきりと意識に踏みこんで來た。 「もしあの人に病氣でも移したら、−−」  金花はさう考へると、急に心が暗くなつて、今朝(ケサ)は再(フタタビ)彼 の顏を見るに堪へないやうな心もちがした。が、一度眼がさめた以上、 なつかしい彼の日に燒けた顏を何時(イツ)までも見ずにゐる事は、猶更(ナ ホサラ)彼女には堪へられなかつた。そこで暫くためらつた後(ノチ)、彼女は 怯(オ)づ怯(オ)づ眼を開(ヒラ)いて、今はもう明(アカル)くなつた寢臺(ネダイ) の中を見まはした。しかし其處には思ひもよらず、毛布に蔽(オホ)はれた 彼女の外(ホカ)は、十字架の耶蘇(ヤソ)に似た彼は勿論、人の影さへも見え なかつた。 「ではあれも夢だつたかしら。」  垢じみた毛布を刎(ハ)ねのけるが早いか、金花は寢臺(ネダイ)の上に起 き直つた。さうして兩手に眼を擦(コス)つてから、重さうに下つた帷(トバ リ)を掲げて、まだ澁い視線を部屋の中へ投げた。  部屋は冷かな朝の空氣に、殘酷な位(クラ'イ)歴々と、あらゆる物の輪廓 (リンクワク)を描('エガ)いてゐた。古びた卓<テーブル>、火の消えたランプ、そ れから一脚は床(ユカ)に倒れ、一脚は壁に向つてゐる椅子(イス)、−−すべ てが昨夜(ユウベ)の儘であつた。そればかりか現に卓<テーブル>の上には、 西瓜(ス'イクワ)の種が散らばつた中(ナカ)に、小さな眞鍮(シンチウ)の十字架さ へ、鈍い光を放つてゐた。金花は眩(マバユ)い眼をしばたたいて、茫然と あたりを見まはしながら、暫くは取り亂した寢臺(ネダイ)の上に、寒さう な横坐(ヨコズワ)りを改めなかつた。 「やつぱり夢ではなかつたのだ。」  金花はかう呟(ツブヤ)きながら、さまざまにあの外國人の不可解な行(ユ) く方(ヘ)を思ひやつた。勿論考へるまでもなく、彼は彼女が眠つてゐる 暇に、そつと部屋を拔け出して、歸つたかも知れないと云ふ氣はあつた。 しかしあれ程彼女を愛撫した彼が、一言(ヒトコト)も別れを惜まずに、行つ てしまつたと云ふ事は、信じられないと云ふよりも、寧(ムシ)ろ信じるに 忍びなかつた。その上彼女はあの怪しい外國人から、まだ約束の十弗<ド ル>の金さへ、貰ふ事を忘れてゐたのであつた。 「それとも本當に歸つたのかしら。」  彼女は重い胸を抱(イダ)きながら、毛布の上に脱ぎ捨てた、黒繻子(クロ ジユス)の上衣をひつかけようとした。が、突然その手を止めると、彼女 の顏には見る見る内に、生き生きした血の色が擴がり始めた。それはペ ンキ塗りの戸の向うに、あの怪しい外國人の足音でも聞えた爲であらう か。或は又枕や毛布にしみた、酒臭い彼の移(ウツ)り香(ガ)が、偶然恥し い昨夜(ユウベ)の記憶を喚(ヨ)びさました爲であらうか。いや、金花はこ の瞬間、彼女の體に起つた奇蹟が、一夜(イチヤ)の中に跡方(アトカタ)もなく、 惡性を極めた楊梅瘡(ヤウバイソウ)を癒した事に氣づいたのであつた。 「ではあの人が基督樣だつたのだ。」  彼女は思はず襯衣(シタギ)の儘、轉ぶやうに寢臺(ネダイ)を這ひ下りると、 冷たい敷き石の上に脆(ヒザマヅ)いて、再生の主(シユ)と言葉を交はした、 美しいマグダラのマリアのやうに、熱心な祈祷<*2>を捧げ出した。…… 三  翌年の春の或夜、宋金花(ソウキンクワ)を訪れた、若い日本の放行家は、再 (フタタビ)うす暗いランプの下(モト)に、彼女と卓<テーブル>を挾んでゐた。 「まだ十字架がかけてあるぢやないか。」  その夜(ヨ)彼が何かの拍子に、ひやかすやうにかういふと、金花は急 に眞面目(マジメ)になつて、一夜南京<ナンキン>に降(クダ)つた基督<キリスト>が、 彼女の病を癒(ナホ)したと云ふ、不思議な話を聞かせ始めた。  その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を獨り考へてゐ た。−− 「おれはその外國人を知つてゐる。あいつは日本人と亞米利加<アメリカ>人 (ジン)との混血兒(コンケツジ)だ。名前は確か George Murry とか云つたつ け。あいつはおれの知り合ひの路透<ロイテル>電報局の通信員に、基督教を 信じてゐる、南京<ナンキン>の私窩子(シクワシ)を一晩買つて、その女がすやす や眠つてゐる間(マ)に、そつと逃げて來たと云ふ話を得意らしく話した さうだ。おれがこの前に來た時には、丁度あいつもおれと同じ上海<シヤン ハイ>のホテルに泊(トマ)つてゐたから、顏だけは今でも覺えてゐる。何で もやはり英字新間の通信員だと稱してゐたが、男振りに似合はない、人 の惡るさうな人間だつた。あいつがその後(ゴ)惡性な梅毒(バイドク)から、 とうとう發狂してしまつたのは、事によるとこの女の病氣が傅染したの かも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無頼(ブライ)な混 血兒を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一體この女の爲に、蒙(マウ)を啓 (ヒラ)いてやるべきであらうか。それとも默つて永久に、昔の西洋の傳説 のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」  金花の話が終つた時、彼は思ひ出したやうに燐寸<マツチ>を擦つて、匂 <*3>(ニホヒ)の高い葉卷をふかし出した。さうしてわざと熱心さうに、こ んな窮した質問をした。 「さうかい。それは不思議だな。だが、−−だがお前は、その後(ゴ)一 度も煩(ワヅラ)はないかい。」 「ええ、一度も。」  金花は西瓜の種を噛<*1>(カヂ)りながら、晴れ晴れと顏を輝かせて、 少しもためらはずに返事をした。 本篇を草するに當り、谷崎潤一郎氏作「秦淮の一夜」に負ふ所尠か らず。附記して感謝の意を表す。 (大正九年六月二十二日)