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南京の基督
芥川龍之介:作
一
或秋の夜半(やはん)であつた。南京(ナンキン)奇望街(きばうがい)の或家の一間(ひとま)には、色の蒼(あを)ざめた支那(シナ)の少女が一人、古びた卓(テーブル)の上に頬杖(ほほづゑ)をついて、盆に入れた西瓜(すゐくわ)の種を退屈さうに噛<*1>み破つてゐた。<*1>噛:「口」偏+「齒」:補助2258
卓(テーブル)の上には置きランプが、うす暗い光を放つてゐた。その光は部屋の中を明(あかる)くすると云ふよりも、寧ろ一層陰鬱な效果を與へるのに力があつた。壁紙の剥(は)げかかつた部屋の隅には、毛布のはみ出した籐(とう)の寢臺(ねだい)が、埃臭(ほこりくさ)さうな帷(とばり)を垂らしてゐた。それから卓(テーブル)の向うには、これも古びた椅子(いす)が一脚、まるで忘れられたやうに置き捨ててあつた。が、その外(ほか)は何處を見ても、裝飾らしい家具の類なぞは何一つ見當らなかつた。
少女はそれにも關らず、西瓜(すゐくわ)の種を噛<*1>みやめては、時々涼しい眼を擧げて、卓(テーブル)の一方に面した壁をぢつと眺めやる事があつた。見ると成程(なるほど)その壁には、すぐ鼻の先の折れ釘に、小さな眞鍮(しんちう)の十字架(か)がつつましやかに懸つてゐた。さうしてその十字架の上には、稚拙な受難の基督(キリスト)が、高々と兩腕をひろげながら、手ずれた浮き彫の輪廓(りんくわく)を影のやうにぼんやり浮べてゐた。少女の眼はこの耶蘇(やそ)を見る毎(ごと)に、長い睫毛(まつげ)の後(うしろ)の寂しい色が、一瞬間何處かへ見えなくなつて、その代りに無邪氣な希望の光が、生き生きとよみ返つてゐるらしかつた。が、すぐに又視線が移ると、彼女は必(かならず)吐息(といき)を洩らして、光澤(つや)のない黒繻子(くろじゆす)の上衣の肩を所在なささうに落しながら、もう一度盆の西瓜の種をぽつりぽつり噛<*1>み出すのであつた。
少女は名を宋金花(そうきんくわ)と云つて、貧しい家計を助ける爲に、夜々(よなよな)その部屋に客を迎へる、當年十五歳の私窩子(しくわし)であつた。秦淮(しんわい)に多い私窩子の中(なか)には、金花程の容貌の持ち主なら、何人でもゐるのに違ひなかつた。が、金花程氣立ての優しい少女が 二人とこの土地にゐるかどうか、それは少くとも疑問であつた。彼女は朋輩の賣笑婦(ばいせうふ)と違つて、嘘もつかなければ我儘も張らず、夜毎に愉快さうな微笑を浮べて、この陰鬱な部屋を訪れる、さまざまな客と戲(たはむ)れてゐた。さうして彼等の拂つて行く金が、稀(まれ)に約束の額より多かつた時は、たつた一人の父親を、一杯(いつぱい)でも餘計好きな酒に飽かせてやる事を樂しみにしてゐた。
かう云ふ金花(きんくわ)の行状は、勿論彼女が生れつきにも、據つてゐるのに違ひなかつた。しかしまだその外(ほか)に何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から、壁の上の十字架が示す通り、歿(な)くなつた母親に教へられた、羅馬(ローマ)加特力(カトリツク)教(けう)の信仰をずつと持ち續けてゐるからであつた。
−−さう云へば今年(ことし)の春、上海(シヤンハイ)の競馬を見物かたがた、南部支那の風光を探りに來た、若い日本の旅行家が、金花の部屋に物好きな一夜を明かした事があつた。その時彼は葉卷(はまき)を啣(くは)へて、洋服の膝に輕々と小さな金花を抱(だ)いてゐたが、ふと壁の上の十字架を見ると、不審らしい顏をしながら、
「お前は耶蘇教徒(やそけうと)かい。」と、覺束(おぼつか)ない支那語で話しかけた。
「ええ、五つの時に洗禮を受けました。」
「さうしてこんな商賣をしてゐるのかい。」
彼の聲にはこの瞬間、皮肉な調子が交(まじ)つたやうであつた。が、金花は彼の腕に、鴉髻(あけい)の頭(かしら)を凭(もた)せながら、何時(いつ)もの通り晴れ晴れと、糸切齒(いときりば)の見える笑を洩らした。
「この商賣をしなければ、阿父樣(おとうさん)も私(わたし)も餓(う)ゑ死をしてしまひますから。」
「お前の父親は老人なのかい。」
「ええ−−もう腰も立たないのです。」
「しかしだね、−−しかしこんな稼業(かげふ)をしてゐたのでは、天國に行かれないと思やしないか。」
「いいえ。」
金花はちよいと十字架を眺めながら、考(かんがへ)深さうな眼つきになつた。
「天國にいらつしやる基督(キリスト)樣(さま)は、きつと私(わたし)の心もちを汲みとつて下さると思ひますから。−−それでなければ基督樣は姚家巷(えうかかう)の警察署の御役人も同じ事ですもの。」
若い日本の旅行家は微笑した。さうして上衣の隱しを探ると、翡翠(ひすゐ)の耳環を一雙(いつさう)出して、手づから彼女の耳へ下げてやつた。
「これはさつき日本へ土産(みやげ)に買つた耳環だが、今夜の記念にお前にやるよ。」−−
金花は始めて客をとつた夜(よる)から、實際かう云ふ確信に自(みづか)ら安んじてゐたのであつた。
所が彼是(かれこれ)一月(ひとつき)ばかり前から、この敬虔(けいけん)な私窩子(しくわし)は不幸にも、惡性の楊梅瘡(やうばいさう)を病む體になつた。これを聞いた朋輩(ほうばい)の陳山茶(ちんさんさ)は、痛みを止めるのに好(い)いと云つて、鴉片酒(あへんしゆ)を飮む事を教へてくれた。その後(ご)又やはり朋輩の毛迎春(まうげいしゆん)は、彼女自身が服用した汞藍丸(こうらんぐわん)や迦路米(かろまい)の殘りを、親切にもわざわざ持つて來てくれた。が、金花の病はどうしたものか、客をとらずに引き籠つてゐても、一向快方には向はなかつた。
すると或日陳山茶(ちんさんさ)が、金花の部屋へ遊びに來た時に、こんな迷信じみた療法を尤もらしく話して聞かせた。
「あなたの病氣は御客から移つたのだから、早く誰かに移し返しておしまひなさいよ。さうすればきつと二三日中(うち)に、よくなつてしまふのに違ひないわ。」
金花は頼杖をついた儘、浮かない顏色を改めなかつた。が、山茶(さんさ)の言葉には多少の好奇心を動かしたと見えて、
「ほんたう?」と、輕く聞き返した。
「ええ、ほんたうだわ。私(わたし)の姉さんもあなたのやうに、どうしても病氣が癒らなかつたのよ。それでも御客に移し返したら、ぢきによくなつてしまつたわ。」
「その御客はどうして?」
「御客はそれは可哀さうよ。おかげで目までつぶれたつて云ふわ。」
山茶(さんさ)が部屋を去つた後(のち)、金花は獨り壁に懸(か)けた十字架の前に跪(ひざまづ)いて、受難の基督(キリスト)を仰ぎ見ながら、熱心にかう云ふ祈祷<*2>(きたう)を捧げた。<*2>祷:「示」偏+「壽」:補助4880
「天國にいらつしやる基督樣。私(わたし)は阿父樣(おとうさま)を養ふ爲に、賤しい商賣を致して居ります。しかし私の商賣は、私一人を汚す外(ほか)には、誰にも迷惑はかけて居りません。ですから私はこの儘死んでも、必(かならず)天國に行かれると思つて居りました。けれども唯今の私は、御客にこの病を移さない限り、今までのやうな商賣を致して參る事は出來ません。して見ればたとひ餓ゑ死をしても、−−さうすればこの病も、癒るさうでございますが、−−御客と一つ寢臺(ねだい)に寢ないやうに、心がけねばなるまいと存じます。さもなければ私は、私どもの仕合せの爲に、怨(うら)みもない他人を不仕合せに致す事になりますから。しかし何と申しても、私は女でございます。いつ何時(なんどき)どんな誘惑(いうわく)に陷らないものでもございません。天國にいらつしやる基督樣。どうか私を御守り下さいまし。私はあなた御一人の外に、たよるもののない女でございますから。」 かう決心した宋金花(そうきんくわ)は、その後(のち)山茶(さんさ)や迎春(げいしゆん)にいくら商賣を勸められても、剛情に客をとらずにゐた。又時々彼女の部屋へ、なじみの客が遊びに來ても、一しよに煙草(たばこ)でも吸ひ合ふ外(ほか)に、決して客の意に從はなかつた。
「私(わたし)は恐しい病氣を持つてゐるのです。側へいらつしやると、あなたにも移りますよ。」
それでも客が醉つてでもゐて、無理に彼女を自由にしようとすると、金花は何時(いつ)もかう云つて、實際彼女の病んでゐる證據を示す事さへ憚(はばか)らなかつた。だから客は彼女の部屋には、おひおひ遊びに來ないやうになつた。と同時に又彼女の家計も、一日毎(ごと)に苦しくなつて行つた。……
今夜も彼女はこの卓(テーブル)に倚(よ)つて、長い間(あひだ)ぼんやり坐つてゐた。が、不相變(あひかはらず)彼女の部屋へは、客の來るけはひも見えなかつた。その内に夜は遠慮なく更(ふ)け渡つて、彼女の耳にはひる音と云つては、唯何處かで鳴いてゐる蟋蟀(こほろぎ)の聲ばかりになつた。のみならず火の氣(け)のない部屋の寒さは、床(ゆか)に敷きつめた石の上から、次第に彼女の鼠繻子(ねずみじゆす)の靴(くつ)を、その靴の中の華奢(きやしや)な足を、水のやうに襲つて來るのであつた。
金花はうす暗いランプの火に、さつきからうつとり見入つてゐたが、やがて身震ひを一つすると翡翠(ひすゐ)の輪の下つた耳を掻(か)いて、小さな欠伸(あくび)を噛<*1>み殺した。すると殆(ほとんど)その途端に、ペンキ塗りの戸が勢(いきほひ)よく開いて、見慣れない一人の外國人が、よろめくやうに外からはひつて來た。その勢(いきほひ)が烈しかつたからであらう。卓(テーブル)の上のランプの火は、一しきりぱつと燃え上つて、妙に赤々と煤(すす)けた光を狹い部屋の中(なか)に漲(みなぎ)らせた。客はその光をまともに浴びて、一度は卓(テーブル)の方へのめりかかつたが、すぐに又立ち直ると、今度は後(うしろ)へたじろいで、今し方しまつたペンキ塗りの戸へ、どしりと背を凭(もた)せてしまつた。
金花は思はず立ち上つて、この見慣れない外國人の姿へ、呆氣(あつけ)にとられた視線を投げた。客の年頃は三十五六でもあらうか。縞目(しまめ)のあるらしい茶の背廣に、同じ巾地(きれぢ)の鳥打帽をかぶつた、眼の大きい、顋髯(あごひげ)のある、頬(ほほ)の日に燒けた男であつた。が、唯一つ合點(がてん)の行かない事には、外國人には違ひないにしても、西洋人か東洋人か、奇體にその見分けがつかなかつた。それが黒い髮の毛を帽の下からはみ出させて、火の消えたパイプを啣(くは)へながら、戸口に立ち塞(ふさが)つてゐる有樣は、どう見ても泥醉(でいすゐ)した通行人が戸まどひでもしたらしく思はれるのであつた。
「何か御用ですか。」
金花は稍(やや)無氣味(ぶきみ)な感じに襲はれながら、やはり卓(テーブル)の前に立ちすくんだ儘、詰(なじ)るやうにかう尋(たづ)ねて見た。すると相手は首を振つて、支那(シナ)語(ご)はわからないと云ふ相圖(あひづ)をした。それから横啣(よこぐは)へにしたパイプを離して、何やら意味のわからない滑かな外國語を一言(ひとこと)洩らした。が、今度は金花の方が、卓(テーブル)の上のランプの光に、耳環の翡翠(ひすゐ)をちらつかせながら、首を振つて見せるより外に仕方がなかつた。
客は彼女が當惑らしく、美しい眉をひそめたのを見ると、突然大聲に笑ひながら、無造作(むざうさ)に鳥打帽を脱ぎ離して、よろよろこちらへ歩み寄つた。さうして卓(テーブル)の向うの椅子へ、腰が拔けたやうに尻を下した。金花はこの時この外國人の顏が、何時(いつ)何處(どこ)と云ふ記憶はないにしても、確(たしか)に見覺えがあるやうな、一種の親しみを感じ出した。客は無遠慮に盆の上の西瓜(すゐくわ)の種をつまみながら、と云つてそれを噛<*1>むでもなく、じろじろ金花を眺めてゐたが、やがて又妙な手眞似まじりに、何か外國語をしやべり出した。その意味も彼女にはわからなかつたが、唯この外國人が彼女の商賣に、多少の理解を持つてゐる事は、朧(おぼろ)げながらも推測がついた。
支那語を知らない外國人と、長い一夜(いちや)を明す事も、金花には珍しい事ではなかつた。そこで彼女は椅子にかけると、殆(ほとんど)習慣になつてゐる、愛想(あいそ)の好(い)い微笑を見せながら、相手には全然通じない冗談(じようだん)などを云ひ始めた。が、客はその冗談がわかるのではないかと疑はれる程、一言(ひとこと)二言(ふたこと)しやべつては、上機嫌の笑ひ聲を擧げながら、前よりも更に目まぐるしく、いろいろな手眞似を使ひ出した。
客の吐く息は酒臭かつた。しかしその陶然と赤くなつた顏は、この索寞(さくばく)とした部屋の空氣が、明(あかる)くなるかと思ふ程、男らしい活力に溢(あふ)れてゐた。少くともそれは金花にとつては、日頃見慣れてゐる南京(ナンキン)の同國人は云ふまでもなく、今まで彼女が見た事のある、どんな東洋西洋の外國人よりも立派(りつぱ)であつた。が、それにも關(かかは)らず、前にも一度この顏を見た覺えのあると云ふ、さつきの感じだけはどうしても、打ち消す事が出來なかつた。金花は客の額に懸つた、黒い捲(ま)き毛を眺めながら、氣輕さうに愛嬌(あいけう)を振り撒(ま)く内にも、この顏に始めて遇つた時の記憶を、一生懸命に喚(よ)び起さうとした。
「この間肥つた奧さんと一しよに、晝舫(ぐわばう)に乘つてゐた人かしら。いやいや、あの人は髮の色が、もつとずつと赤かつた。では秦淮(しんわい)の孔子樣(こうしさま)の廟へ、寫眞機を向けてゐた人かも知れない。しかしあの人はこの御客より、年をとつてゐたやうな心もちがする。さうさう、何時(いつ)か利渉橋(りせふけう)の側の飯館(はんくわん)の前に、人だかりがしてゐると思つたら、丁度この御客によく似た人が、太い籐(とう)の杖を振り上げて、人力車夫の背中を打つてゐたつけ。事によると、−−が、どうもあの人の眼は、もつと瞳(ひとみ)が青かつたやうだ。……」
金花がこんな事を考へてゐる内に、不相變(あひかはらず)愉快さうな外國人は、何時(いつ)かパイプに煙草をつめて、匂<*3>(にほひ)の好(い)い煙を吐き出してゐた。それが急に又何とか云つて、今度はおとなしくにやにや笑ふと、片手の指を二本延べて、金花の眼の前へ突き出しながら、?と云ふ意味の身ぶりをした。指二本が二弗(ドル)と云ふ金額を示してゐることは、勿論誰の眼にも明かであつた。が、客を泊(と)めない金花は、器用に西瓜(すゐくわ)の種を鳴らして、否(いや)と云ふ印(しるし)に二度ばかり、これも笑ひ顏を振つて見せた。すると客は卓(テーブル)の上に横柄(わうへい)な兩肘を凭(もた)せた儘、うす暗いランプの光の中に、近々(ちかぢか)と醉顏をさし延ばして、ぢつと彼女を見守つたが、やがて又指を三本出して、答を待つやうな眼つきをした。<*3>匂:「勹」構+「二」:補助1991
金花はちよいと椅子(いす)をずらせて、西瓜の種を含んだ儘、當惑らしい顏になつた。客は確(たしか)に二弗の金では、彼女が體を任せないと云つたやうに思つてゐるらしかつた。と云つて言葉の通じない彼に、立ち入つた仔細(しさい)をのみこませる事は、到底出來さうにも思はれなかつた。そこで金花は今更のやうに、彼女の輕率を後悔しながら、涼しい視線を外(ほか)へ轉じて、仕方なく更にきつぱりと、もう一度頭を振つて見せた。
所が相手の外國人は、暫くうす笑ひを浮べながら、ためらふやうな氣色(けしき)を示した後(のち)、四本の指をさし延ばして、何か又外國語をしやべつて聞かせた。途方(とほう)に暮れた金花は頬(ほほ)を抑へて、微笑する氣力もなくなつてゐたが、咄嵯(とつさ)にもうかうなつた上は、何時(いつ)までも首を振り績けて、相手が思ひ切る時を待つ外はないと決心した。が、さう思ふ内にも客の手は、何か眼に見えないものでも捉(とら)へるやうに、とうとう五指とも開いてしまつた。
それから二人は長い間、手眞似と身ぶりとの入り交(まじ)つた押し問答を續けてゐた。その間(あひだ)に客は根氣よく、一本づつ指の數を増した揚句(あげく)、しまひには十弗(ドル)の金を出しても、惜しくないと云ふ意氣ごみを示すやうになつた。が、私窩子(しくわし)には大金の十弗も、金花の決心は動かせなかつた。彼女はさつきから椅子を離れて、斜(ななめ)に卓(テーブル)の前へ佇(たたず)んでゐたが、相手が兩手の指を見せると、苛立(いらだ)たしさうに足踏みして、何度も續けさまに頭を振つた。その途端(とたん)にどう云ふ拍子か、釘(くぎ)に懸つてゐた十字架がはづれて、かすかな金屬の音を立てながら、足もとの敷石の上に落ちた。
彼女は慌(あわただ)しい手を延べて、大切な十字架を捨ひ上げた。その時何氣(なにげ)なく十字架に彫られた、受難の基督(キリスト)の顏を見ると、不思議にもそれが卓(テーブル)の向うの、外國人の顏と生き寫しであつた。
「何でも何處かで見たやうだと思つたのは、この基督樣の御顏だつたのだ。」
金花は黒繻子(くろじゆす)の上衣の胸に、眞鍮(しんちう)の十字架を押し當てた儘、卓(テーブル)を隔てた客の顏へ、思はず驚きの視線を投げた。客はやはりランプの光に、酒氣を帶びた顏を火照(ほて)らせながら、時々パイプの煙を吐いては、意味ありげな微笑を浮べてゐた。しかもその眼は彼女の姿へ、−−恐らくは白い頸(くび)すぢから、翡翠(ひすゐ)の環を下げた耳のあたりへ、絶えずさまよつてゐるらしかつた。しかしかう云ふ客の容子(ようす)も、金花には優しい一種の威巖に、充ち滿ちてゐるかのやうな心もちがした。
やがて客はパイプを止(や)めると、わざとらしく小首を傾けて、何やら笑ひ聲の言葉をかけた。それが金花の心には、殆(ほとんど)巧妙な催眠術師(さいみんじゆつし)が、被術者の耳に囁き聞かせる、暗示のやうな作用を起した。彼女はあの健氣(けなげ)な決心も、全く忘れてしまつたのか、そつとほほ笑んだ眼を伏せて、眞鍮の十字架を手まさぐりながら、この怪しい外國人の側へ、羞(はづか)しさうに歩み寄つた。
客はズボンの隱しを探つて、じやらじやら銀の音をさせながら、依然とうす笑ひを浮べた眼に、暫くは金花の立ち姿を好ましさうに眺めてゐた。が、その眼の中のうす笑ひが、熱のあるやうな光に變つたと思ふと、いきなり椅子から飛び上つて、酒の匂<*3>のする背廣の腕に、力一ぱい金花を抱(だ)きすくめた。金花はまるで喪心(さうしん)したやうに、翡翠の耳環の下がつた頭をぐつたりと後(うしろ)へ仰向(あふむ)けた儘、しかし蒼白い頬の底には、鮮(あざやか)な血の色を仄(ほの)めかせて、鼻の先に迫つた彼の顏へ、恍惚(くわうこつ)としたうす眼を注いでゐた。この不思議な外國人に、彼女の體を自由にさせるか、それとも病を移さない爲に、彼の接吻(せつぷん)を刎(は)ねつけるか、そんな思慮をめぐらす餘裕は、勿論何處にも見當らなかつた。金花は髯(ひげ)だらけな客の口に、彼女の口を任(まか)せながら、唯燃えるやうな戀愛の歡喜が、始めて知つた戀愛の歡喜が、激しく彼女の胸(むな)もとへ、突き上げて來るのを知るばかりであつた。……
二
數時間の後(のち)、ランプの消えた部屋の中には、唯かすかな蟋蟀(こほろぎ)の聲が、寢臺(ねだい)を洩れる二人の寢息に、寂しい秋意を加へてゐた。しかしその間(ま)に金花(きんくわ)の夢は、埃(ほこり)じみた寢臺(ねだい)の帷(とばり)から、屋根の上にある星月夜へ、煙のやうに高高(たかだか)と昇つて行つた。
- × × × ×
−−金花(きんくわ)は紫檀(したん)の椅子(いす)に坐つて、卓(テーブル)の上に並んでゐる、さまざまな料理に箸(はし)をつけてゐた。燕(つばくろ)の巣、鮫(さめ)の鰭(ひれ)、蒸した卵、燻(いぶ)した鯉(こひ)、豚の丸煮、海參(なまこ)の羹(あつもの)、−−料理はいくら數へても、到底數へ盡されなかつた。しかもその食器が悉(ことごとく)、べた一面に青い蓮華(けんげ)や金の鳳凰(ほうわう)を描(か)き立てた、立派な皿小鉢ばかりであつた。
彼女の椅子の後(うしろ)には、絳紗(かうしや)の帷(とばり)を垂れた窓があつて、その又窓の外には川があるのか、靜な水の音や櫂(かい)の音が、絶えず此虚まで聞えて來た。それがどうも彼女には、幼少の時から見慣れてゐる、秦淮(しんわい)らしい心もちがした。しかし彼女が今ゐる所は、確(たしか)に天國の町にある、基督(キリスト)の家に違ひなかつた。
金花は時々箸を止めて、卓(テーブル)の周圍を眺めまはした。が、廣い部屋の中(なか)には、龍の彫刻のある柱だの、大輪(だいりん)の菊の鉢植ゑだのが、料理の湯氣に仄(ほの)めいてゐる外(ほか)は、一人も人影は見えなかつた。
それにも關らず卓(テーブル)の上には、食器が一つからになると、忽ち何處からか新しい料理が、暖な香氣を漲(みなぎ)らせて、彼女の眼の前へ運ばれて來た。と思ふと又箸をつけない内に、丸燒きの雉(きじ)なぞが羽摶(はばた)きをして、紹興酒(せうこうしゆ)の瓶(びん)を倒しながら、部屋の天井へばたばたと、舞ひ上つてしまふ事もあつた。
その内に金花は誰か一人、音もなく彼女の椅子の後(うしろ)へ、歩み寄つたのに心づいた。そこで箸を持つた儘、そつと後(うしろ)を振り返つて見た。すると其處にはどう云ふ譯か、あると思つた窓がなくて、緞子(どんす)の蒲團(ふとん)を敷いた紫檀(したん)の椅子に、見慣れない一人の外國人が、眞鍮(しんちう)の水煙管(みづぎせる)を啣(くは)へながら悠悠と腰を下してゐた。
金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに來た男だと云ふ事がわかつた。が、唯一つ彼と違ふ事には、丁度三日月(みかづき)のやうな光の環(わ)が、この外國人の頭の上、一尺ばかりの空(くう)に懸つてゐた。
その時又金花の眼の前には、何だか湯氣の立つ大皿が一つ、まるで卓(テーブル)から湧いたやうに、突然旨(うま)さうな料理を運んで來た。彼女はすぐに箸(はし)を擧げて、皿の中の珍味を挾まうとしたが、ふと彼女の後(うしろ)にゐる外國人の事を思ひ出して、肩越しに彼を見返りながら、
「あなたも此處へいらつしやいませんか。」と遠慮がましい聲をかけた。
「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病氣が、今夜の内によくなるから。」
圓光を頂いた外國人は、やはり水煙管(みづぎせる)を啣(くは)へた儘、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。
「ではあなたは召上らないのでございますか。」
「私(わたし)かい。私は支那料理は嫌ひだよ。お前はまだ私を知らないのかい。耶蘇(やそ)基督(キリスト)はまだ一度も、支那料理を食べた事はないのだよ。」
南京(ナンキン)の基督はかう云つたと思ふと、徐(おもむろ)に紫檀(したん)の椅子を離れて、呆氣(あつけ)にとられた金花の頬へ、後(うしろ)から優しい接吻を與へた。
- × × × ×
天國の夢がさめたのは、既に秋の明け方の光が、狹い部屋中にうすら寒く擴がり出した頃であつた。が、埃臭(ほこりくさ)い帷(とばり)を垂れた、小舸(せうか)のやうな寢臺(ねだい)の中には、さすがにまだ生暖(なまあたたか)い仄(ほの)かな闇が殘つてゐた。そのうす暗がりに浮んでゐる、半ば仰向いた金花(きんくわ)の顏は、色もわからない古毛布に、圓い括(くく)り顋(あご)を隱した儘、未(いまだ)に眠い眼を開(ひら)かなかつた。しかし血色の惡い頬には、昨夜(ゆうべ)の汗にくつついたのか、べつたり油じみた髮が亂れて、心もち明いえ脣の隙にも、糯米(もちごめ)のやうに細い齒が、かすかに白々(しろじろ)と覗いてゐた。
金花は眠りがさめた今でも、菊の花や、水の音や、雉(きじ)の丸燒や、耶蘇(やそ)基督(キリスト)や、その外(ほか)いろいろな夢の記憶に、うとうと心をさまよはせてゐた。が、その内に寢臺(ねだい)の中が、だんだん明(あかる)くなつて來ると、彼女の快(こころよ)い夢見心(ゆめみごころ)にも、傍若無人(ばうじやくぶじん)な現實が、昨夜(ゆうべ)不思議な外國人と一しよに、この籐(とう)の寢臺(ねだい)へ上つた事が、はつきりと意識に踏みこんで來た。
「もしあの人に病氣でも移したら、−−」
金花はさう考へると、急に心が暗くなつて、今朝(けさ)は再(ふたたび)彼の顏を見るに堪へないやうな心もちがした。が、一度眼がさめた以上、なつかしい彼の日に燒けた顏を何時(いつ)までも見ずにゐる事は、猶更(なほさら)彼女には堪へられなかつた。そこで暫くためらつた後(のち)、彼女は怯(お)づ怯(お)づ眼を開(ひら)いて、今はもう明(あかる)くなつた寢臺(ねだい)の中を見まはした。しかし其處には思ひもよらず、毛布に蔽(おほ)はれた彼女の外(ほか)は、十字架の耶蘇(やそ)に似た彼は勿論、人の影さへも見えなかつた。
「ではあれも夢だつたかしら。」
垢じみた毛布を刎(は)ねのけるが早いか、金花は寢臺(ねだい)の上に起き直つた。さうして兩手に眼を擦(こす)つてから、重さうに下つた帷(とばり)を掲げて、まだ澁い視線を部屋の中へ投げた。
部屋は冷かな朝の空氣に、殘酷な位(くらゐ)歴々と、あらゆる物の輪廓(りんくわく)を描(ゑが)いてゐた。古びた卓(テーブル)、火の消えたランプ、それから一脚は床(ゆか)に倒れ、一脚は壁に向つてゐる椅子(いす)、−−すべてが昨夜(ゆうべ)の儘であつた。そればかりか現に卓(テーブル)の上には、西瓜(すゐくわ)の種が散らばつた中(なか)に、小さな眞鍮(しんちう)の十字架さへ、鈍い光を放つてゐた。金花は眩(まばゆ)い眼をしばたたいて、茫然とあたりを見まはしながら、暫くは取り亂した寢臺(ねだい)の上に、寒さうな横坐(よこずわ)りを改めなかつた。
「やつぱり夢ではなかつたのだ。」
金花はかう呟(つぶや)きながら、さまざまにあの外國人の不可解な行(ゆ)く方(へ)を思ひやつた。勿論考へるまでもなく、彼は彼女が眠つてゐる暇に、そつと部屋を拔け出して、歸つたかも知れないと云ふ氣はあつた。しかしあれ程彼女を愛撫した彼が、一言(ひとこと)も別れを惜まずに、行つてしまつたと云ふ事は、信じられないと云ふよりも、寧(むし)ろ信じるに忍びなかつた。その上彼女はあの怪しい外國人から、まだ約束の十弗(ドル)の金さへ、貰ふ事を忘れてゐたのであつた。
「それとも本當に歸つたのかしら。」
彼女は重い胸を抱(いだ)きながら、毛布の上に脱ぎ捨てた、黒繻子(くろじゆす)の上衣をひつかけようとした。が、突然その手を止めると、彼女の顏には見る見る内に、生き生きした血の色が擴がり始めた。それはペンキ塗りの戸の向うに、あの怪しい外國人の足音でも聞えた爲であらうか。或は又枕や毛布にしみた、酒臭い彼の移(うつ)り香(が)が、偶然恥しい昨夜(ゆうべ)の記憶を喚(よ)びさました爲であらうか。いや、金花はこの瞬間、彼女の體に起つた奇蹟が、一夜(いちや)の中に跡方(あとかた)もなく、惡性を極めた楊梅瘡(やうばいそう)を癒した事に氣づいたのであつた。
「ではあの人が基督樣だつたのだ。」
彼女は思はず襯衣(したぎ)の儘、轉ぶやうに寢臺(ねだい)を這ひ下りると、冷たい敷き石の上に脆(ひざまづ)いて、再生の主(しゆ)と言葉を交はした、美しいマグダラのマリアのやうに、熱心な祈祷<*2>を捧げ出した。……
三
翌年の春の或夜、宋金花(そうきんくわ)を訪れた、若い日本の放行家は、再(ふたたび)うす暗いランプの下(もと)に、彼女と卓(テーブル)を挾んでゐた。
「まだ十字架がかけてあるぢやないか。」
その夜(よ)彼が何かの拍子に、ひやかすやうにかういふと、金花は急に眞面目(まじめ)になつて、一夜南京(ナンキン)に降(くだ)つた基督(キリスト)が、彼女の病を癒(なほ)したと云ふ、不思議な話を聞かせ始めた。
その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を獨り考へてゐた。−−
「おれはその外國人を知つてゐる。あいつは日本人と亞米利加(アメリカ)人(じん)との混血兒(こんけつじ)だ。名前は確か George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの路透(ロイテル)電報局の通信員に、基督教を信じてゐる、南京(ナンキン)の私窩子(しくわし)を一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間(ま)に、そつと逃げて來たと云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に來た時には、丁度あいつもおれと同じ上海(シヤンハイ)のホテルに泊(とま)つてゐたから、顏だけは今でも覺えてゐる。何でもやはり英字新間の通信員だと稱してゐたが、男振りに似合はない、人の惡るさうな人間だつた。あいつがその後(ご)惡性な梅毒(ばいどく)から、とうとう發狂してしまつたのは、事によるとこの女の病氣が傅染したのかも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無頼(ぶらい)な混血兒を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一體この女の爲に、蒙(まう)を啓(ひら)いてやるべきであらうか。それとも默つて永久に、昔の西洋の傳説のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」
金花の話が終つた時、彼は思ひ出したやうに燐寸(マツチ)を擦つて、匂<*3>(にほひ)の高い葉卷をふかし出した。さうしてわざと熱心さうに、こんな窮した質問をした。
「さうかい。それは不思議だな。だが、−−だがお前は、その後(ご)一度も煩(わづら)はないかい。」
「ええ、一度も。」
金花は西瓜の種を噛<*1>(かぢ)りながら、晴れ晴れと顏を輝かせて、少しもためらはずに返事をした。
- 本篇を草するに當り、谷崎潤一郎氏作「秦淮の一夜」に負ふ所尠からず。附記して感謝の意を表す。
(大正九年六月二十二日)