PDD図書館管理番号 0000.0000.0094.00 ( ) はひらがなのルビ。 < > はカタカナのルビ。 読みの「'エ」は「ゑ」を示す。 孤獨地獄 芥川龍之介:作  この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大叔父(オホヲヂ)から聞いたと云つ てゐる。話の眞僞(シンギ)は知らない。唯大叔父自身の性行から推して、かう云ふ事も 隨分ありさうだと思ふだけである。  大叔父は所謂(イハユル)大通(ダイツウ)の一人で、幕末の藝人や文人の間に知己(チキ)の數 が多かつた。河竹(カハタケ)默阿彌(モクアミ)、柳下亭(リウカテイ)種員(タネカズ)、善哉庵(ゼンザイア ン)永機(エイキ)、同冬映(トウエイ)、九代目團十郎(ダンジフラウ)、宇治(ウヂ)紫文(シブン)、都(ミ ヤコ)千中(センチウ)、乾坤坊(ケンコンバウ)良齋(リヤウサイ)などの人々である。中でも默阿彌(モクアミ) は、「江戸櫻(エドザクラ)清水(キヨミヅ)清玄(セイゲン)」で紀國屋(キノクニヤ)文左衞門(ブンザ'エ モン)を書くのに、この大叔父を粉本(フンポン)にした。物故してから、もう彼是(カレコレ)五 十年になるが、生前一時は今紀文(イマキブン)と綽號(アダナ)された事があるから、今でも 名だけは聞いてゐる人があるかも知れない。−−姓は細木(サイキ)、名は藤次郎(トウジラ ウ)、俳名(ハイミヤウ)は香以(カウイ)、俗稱は山城河岸(ヤマシロガシ)の津藤(ツトウ)と云つた男であ る。  その津藤が或時吉原の玉屋で、一人の僧侶と近づきになつた。本郷(ホンガウ)界隈(カイ ワイ)の或(アル)禪寺の住職(ジユウシヨク)で、名は禪超(ゼンテウ)と云つたさうである。それが やはり嫖客(ヘウカク)となつて、玉屋の錦木(ニシキギ)と云ふ華魁(オイラン)に馴染(ナジ)んでゐ た。勿論、肉食(ニクジキ)妻帶(サイタイ)が僧侶に禁ぜられてゐた時分の事であるから、表 向きはどこまでも出家(シユツケ)ではない。黄八丈(キハチヂヤウ)の着物に黒羽二重(クロハブタヘ) の紋付(モンツキ)と云ふ拵(コシラ)へで人には醫者だと號してゐる。−−それと偶然近づき になつた。  偶然と云ふのは燈籠(トウロウ)時分(ジブン)の或夜、玉屋の二階で、津藤(ツトウ)が廁(カハヤ) へ行つた歸りしなに何氣なく廊下(ラウカ)を通ると、欄干(ランカン)にもたれながら、月を 見てゐる男があつた。坊主頭(バウズアタマ)の、どちらかと云へば背の低い、痩(ヤセ)ぎす な男である。津藤は、月あかりで、これを出入の太鼓(タイコ)醫者竹内(チクナイ)だと思つ た。そこで、通りすぎながら、手をのばして、ちよいとその耳を引張つた。驚いてふ り向く所を、笑つてやらうと思つたからである。  所がふり向いた顏を見ると、反つて此方(コツチ)が驚いた。坊主頭と云ふ事を除いた ら、竹内(チクナイ)と似てゐる所などは一つもない。−−相手は額(ヒタヒ)の廣い割に、眉 (マユ)と眉との間が險しく狹つてゐる。眼の大きく見えるのは、肉の落ちてゐるからで あらう。左の頬(ホホ)にある大きな黒子(ホクロ)は、その時でもはつきり見えた。その上 顴骨(ケンコツ)が高い。−−これだけの顏かたちが、とぎれとぎれに、慌(アワタダ)しく津 藤(ツトウ)の眼にはいつた。 「何か御用かな。」その坊主は腹を立てたやうな聲でかう云つた。いくらか酒氣も帶 びてゐるらしい。  前に書くのを忘れたが、その時津藤(ツトウ)には藝者が一人に幇間(ホウカン)が一人つい てゐた。この手合(テアヒ)は津藤にあやまらせて、それを默つて見てゐるわけには行か ない。そこで幇間(ホウカン)が、津藤に代つて、その客に疎忽(ソコツ)の詫(ワビ)をした。さ うしてその間に、津藤は藝著をつれて、匆々(ソウソウ)自分の座敷へ歸つて來た。いくら 大通(ダイツウ)でも間(マ)が惡かつたものと見える。坊主の方では、幇間から間違の仔細 (シサイ)をきくと、すぐに機嫌を直して大笑ひをしたさうである。その坊主が禪超(ゼンテ ウ)だつた事は云ふまでもない。  その後で、津藤(ツトウ)が菓子の臺を持たせて、向うへ詫(ワ)ぴにやる。向うでも氣の 毒がつて、わざわざ禮に來る。それから二人の交情が結ばれた。尤(モツト)も結ばれた と云つても、玉屋の二階で遇(ア)ふだけで、互に往來はしなかつたらしい。津藤は酒 を一滴も飮まないが、禪超は寧(ムシロ)、大酒家である。それからどちらかと云ふと、 禪超の方が持物に贅(ゼイ)をつくしてゐる。最後に女色に沈湎(チンメン)するのも、やは り禪超の方が甚しい。津藤自身が、これをどちらが出家だか解らないと批評した。− −大兵(ダイヒヤウ)肥滿(ヒマン)で、容貌(ヨウバウ)の醜かつた津藤は、五分(ゴブ)月代(サカヤキ) に銀鎖(ギングサリ)の懸守(カケモリ)と云ふ姿で、平素は好んでめくら縞の着物に白木(シロキ) の三尺をしめてゐたと云ふ男である。  或日津藤(ツトウ)が禪超(ゼンテウ)に遇ふと、禪超は錦木(ニシキギ)のしかけを羽織つて、 三味線(シヤミセン)をひいてゐた。日頃から血色の惡い男であるが、今日は殊によくない。 眼も充血してゐる。彈力のない皮膚(ヒフ)が時々口許(クチモト)で痙攣(ケイレン)する。津藤は すぐに何か心配があるのではないかと思つた。自分のやうなものでも相談相手になれ るなら是非させて預きたい−−さう云ふ口吻(コウフン)を洩(モ)らして見たが、別にこれ と云つて打明ける事もないらしい。唯、何時(イツ)もよりも口數が少くなつて、ややも すると談柄(ダンペイ)を失(シツ)しがちである。そこで津藤は、これを嫖客(ヘウカク)のかか りやすい倦怠<アンニユイ>だと解釋した。酒色を恣(ホシイママ)にしてゐる人間がかかつた倦怠 <アンニユイ>は、酒色で癒(ナホ)る筈がない。かう云ふはめから、二人は何時になくしんみ りした話をした。すると禪超は急に何か思ひ出したやうな容子(ヨウス)で、こんな事を 云つたさうである。  佛説によると、地獄(ヂゴク)にもさまざまあるが、凡(オヨソ)先(マ)づ、根本(コンポン)地 獄、近邊(キンペン)地獄、孤獨(コドク)地獄の三つに分(ワカ)つ事が出來るらしい。それも 南瞻部洲下(ナンセンブシウノシモ)過五百踰繕那(ゴヒヤクユゼンナヲスギテハ)乃(スナハチ)有地獄(ヂゴクアリ) と云ふ句があるから、大抵(タイテイ)は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。 唯、その中で孤獨地獄だけは、山間(サンカン)曠野(クワウヤ)樹下(ジユカ)空中(クウチウ)、何處へ でも忽然(コツゼン)として現れる。云はば目前の境界(キヤウガイ)が、すぐそのまゝ、地獄 の苦艱(クゲン)を現前するのである。自分は二三年前から、この地獄へ墮(オ)ちた。一 切(イツサイ)の事が少しも永續した興味を與へない。だから何時(イツ)でも一つの境界から 一つの境界を追つて生きてゐる。勿論それでも地獄は逃れられない。さうかと云つて 境界を變へずにゐれば猶(ナホ)、苦しい思をする。そこでやはり轉々としてその日その 日の苦しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひには苦しくなると すれば、死んでしまふよりも外(ホカ)はない。昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌だつた。 今では……  最後の句は、津藤(ツトウ)の耳にはいらなかつた。禪超(ゼンテウ)が又三味線の調子を合 せながら、低い聲で云つたからである。−−それ以來、禪超は玉屋へ來なくなつた。 誰も、この放蕩(ハウタウ)三味(ザンマイ)の禪僧がそれからどうなつたか、知つてゐる者は ない。唯その日禪超は、錦木の許(モト)へ金剛經(コンガウキヤウ)の疏抄(ソセウ)を一册忘れて 行つた。津藤が後年零落(レイラク)して、下總(シモフサ)の寒川(サムカハ)へ閑居した時に常に机 上にあつた書籍の一つはこの疏抄(ソセウ)である。津藤はその表紙の裏ヘ「菫野(スミレノ) や露に氣のつく年(トシ)四十」と、自作の句を書き加へた。その本は今では殘つてゐな い。句ももう覺えてゐる人は一人もなからう。  安政(アンセイ)四年頃の話である。母は地獄と云ふ語の興味で、この話を覺えてゐたも のらしい。  一日の大部分を書齋で暮してゐる自分は、生活の上から云つて、自分の大叔父やこ の禪僧とは、全然沒交渉な世界に住んでゐる人間である。又興味の上から云つても、 自分は徳川時代の戲作(ゲサク)や浮世繪に、特殊な興味を待つてゐる者ではない。しか も自分の中にある或心もちは、動(ヤヤ)もすれば孤獨地獄と云ふ語を介(カイ)して、自分 の同情を彼等の生活に注(ソソ)ごうとする。が、自分はそれを否(イナ)まうとは思はない。 何故(ナゼ)と云ヘば、或意味で自分も亦、孤獨地獄に苦しめられてゐる一人だからで ある。 (大正五年二月)