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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6741.03

                 人   名   辞   典    《ゆ》       編集:獨  澄旻

-------- ゆ ----------------------------------------------------
ゆあさ かつえ
	湯浅 克衛
	1910. 2.26(明治43)
	1982. 3.15(昭和57)
	◇小説家。本名は猛(タケシ)。香川県生れ。
ゆあさ のりあき
	湯浅 憲明
	1933(昭和 8)
	2004. 6.14(平成16)
	◇映画監督。京都市生れ。
	 法政大学法学部法律学科卒業。
	 1957(昭和32)大映に入社。
	 1964(昭和39)『幸せなら手をたたこ』で監督デビュー。
	 1965(昭和40)『大怪獣ガメラ』などガメラ・シリーズを手が
	ける。
	 1978(昭和53)TVドラマ『コメットさん』。
	 脳梗塞により70歳で死去。
ゆあさ はんげつ
	湯浅 半月(湯淺 半月)
	1858(安政 5. 2.16)
	1943. 2. 4(昭和18)
	◇詩人・聖書学者・図書館学者。本名は吉郎。兄は治郎。上野
	(コウズケ)国生れ。
	 1885(明治18)同志社英語学校卒業。
	 日本の図書分類誌の基礎を作る。
	(1)本名は吉郎。
	(2)(名)本名吉郎。(生)上野(群馬県)。
	(3)本名は吉郎(キチロウ)。
	(5)本名は吉郎(ヨシオ)。上野国(コウズケノクニ)に味噌醤油製造を業と
	した旧家の四男として生れた。同郷出身のキリスト教教育家新
	島襄(ジョウ)の同志社神学部に学んだ。
	(10)本名は吉郎。群馬県安中に生れた。明治一○年同郷の先輩
	新島襄主宰の同志社に入学し、一八年普通科ならびに神学科の
	業を卒えた。
	(13)本名は吉郎。群馬県碓氷郡安中町に生まれた。明治一九年
	二〇歳で同志社英語学校に入り……一八年(二八歳)卒業、……
	(年号に矛盾)。
	◎兄の治郎は安中に日本最初の民営図書館「便覧舎」を開設。
ゆあさ まさお《ゆあさ まさを》
	湯浅 真生
	1895. 2. 2(明治28)
	1955. 1.14(昭和30)
	◇小説家・宗教家。本名は勝義。「ひとのみち教団」(現・PL教
	団)に入信、幹部となる。
ゆあさ やすお《ゆあさ やすを》
	湯浅 泰雄
	1925(大正14)
	2005.11. 9(平成17)
	◇哲学者。福岡市生れ。
	 1949(昭和24)東京大学文学部倫理学科を卒業。
	 呼吸不全で死去。
	 著書は『ユングとキリスト教』・『気の人間科学』・『ユン
	グ超心理学書簡』・『身体論』・『日本人の宗教意識』など。
ゆい しょうせつ《ゆゐ しやうせつ》
	由井 正雪(由比 正雪)
	1605(慶長10)
	1651(慶安 4. 7.26)
	◇江戸初期の軍学者。幼名は久米・弥五郎・富士太郎、名は正
	雪、通称は松雪・嘯雪・張孔堂先生、姓は由井・由比。駿河国
	油井(ユイ)生れ。父は紺屋の岡村弥右衛門、『慶安太平記』では
	吉岡治右衛門。駿府の高松半兵衛、江戸浅草の鶴屋弥次右衛門
	の養子ともいう。
	 十七歳で江戸に出て鶴屋に奉公。のち楠不伝(クスノキ・フデン)に
	軍学を学び、養子となる。神田連雀町(レンジャクチョウ)の裏店(ウラダ
	ナ)で楠流軍学を教授し、多くの浪人を門下に集める。1630(寛
	永 7)紀州藩に来遊。
	 1651(慶安 4. 4.20)第3代将軍徳川家光が没した時勢に乗じ、
	江戸の丸橋忠弥(マルバシ・チュウヤ)・河原十兵衛ら、大坂の金井半兵
	衛らとともに幕府転覆を企てる。 7.23正雪の一味に加わって
	いた奥村八左衛門とその徒弟幸忠が訴え出て未然に発覚。追討
	を命ぜられた新番組・駒井右京親昌(チカマサ)に駿府茶町の旅籠梅
	屋で包囲され、正雪は自害(慶安の乱)。
	 墓は静岡市弥勒の正念寺。
	◎慶安の乱の黒幕は徳川頼宣(ヨリノブ)(家康の第10子,紀伊徳川
	家の祖)という説がある。
	◎計画では丸橋らは小石川の幕府火薬庫を爆破して江戸城を占
	拠、第4代将軍家綱を人質とする。正雪は駿府で城から武器を
	奪って久能山に向かい、家康の残した金を奪い取る予定であっ
	た。
	 ただし、久能山の霊廟に納められた家康の遺金200万両は、
	半分を御三家へ分け、残りは1636(寛永13)江戸城に移されてい
	る。
	◎正雪の道場があった牛込榎町(エノキチョウ)、現在の東京都新宿区
	矢来町(ヤライチョウ)の秋葉神社に正雪地蔵尊が祀(マツ)られている。
[1]ゆいえん《ゆいゑん》
	唯円
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉中期の浄土真宗(一向宗)の僧侶・武蔵楢山の城主。常陸
	(ヒタチ)国那珂郡「鳥喰(トリバミ)の唯円」と呼ばれる。
	 関東における親鸞(シンラン)面授の弟子である二十四輩の一人。
	 常陸国稲田郷の西光寺を遺跡。
[2]ゆいえん《ゆいゑん》
	唯円
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉中期の浄土真宗(一向宗)の僧侶。常陸(ヒタチ)国(茨城県)
	「河和田(カワダ)の唯円」と呼ばれる。
	 親鸞(シンラン)の直弟子で、親鸞の孫唯善や本願寺3世覚如(カクニョ)
	の師。水戸河和田の泉慶寺を開創、報仏寺を遺跡。
	 親鸞の没後に『歎異抄』の著したと推定され、門徒衆の中心
	人物となる。
	◎報仏寺本尊台座銘には1288(正応元. 8. 8)没とあるが、覚如
	の子従覚編の『慕帰絵詞(ボキエジ)』には「正応元年冬上洛」とあ
	り、没年不詳。
ゆうあ
	由阿
	1291(正応 4)
	1379?
	◇鎌倉後期の時宗の僧侶。
	 仙覚の影響を受けて『万葉集』を研究。
	 二条良基の招きで上洛し『万葉集』を講じる。
	 著書は『拾遺采葉抄』・『青葉丹花抄』など。
	(*)1379(<南>天授 5,<北>永和 5,<北>康暦元)。
ゆうき あいそうか
	結城 哀草果
	1893.10.13(明治26)
	1974. 6.29(昭和49)
	◇歌人・随筆家。本名は光三郎(コウザブロウ)、旧姓は黒沼。山形
	県南村山郡下条町生れ。
	 斎藤茂吉門下。
ゆうき うじとも《ゆふき うぢもと》
	結城 氏朝
	1402(応永 9)
	1441(嘉吉元. 4.16)
	◇室町前期の武将。字は七郎、通称は中務大輔。結城泰朝の子、
	満広の養子。
	 1438(永享10)永享の乱で鎌倉公方足利持氏を支持、幕府軍・
	上杉憲実(ノリザネ)方と戦う。1440(永享12)持氏の遺子安王丸・
	春王丸・永寿王(足利成氏<シゲウジ>)を迎え、下総国の結城城に
	拠って挙兵。宇都宮・小山・那須・岩松氏ら諸豪族もこれに加
	わる。翌年、管領上杉清方(キヨカタ)(憲実の弟)の軍に敗れ落城、
	自殺(結城合戦)。安王丸・春王丸は捕われて殺され、永寿王は
	京都に送られる。
ゆうき さえもんのじょう
	結城 左衛門尉
	1534(天文 3)
	1565(永禄 8)
	◇戦国時代の武士。洗礼名はアンタン(Antao)。結城忠正の子。
ゆうき しんいち
	結城 信一
	1916. 3. 6(大正 5)
	1984.10.26(昭和59)
	◇小説家。東京生れ。1939(昭和14)早稲田大学英文科卒業。
ゆうき そめい
	結城 素明
	1875.12.10(明治 8)
	1957. 3.24(昭和32)
	◇画家・随筆家。本名は貞松。東京向島生れ。東京美術学校日
	本画科卒業後、洋画科にも三年在学。
ゆうき ただまさ
	結城 忠正
	生年不詳
	没年不詳
	◇室町末期の武将。洗礼名はアンリケ。結城左衛門尉(サエモンノジョ
	ウ)の父。
ゆうき ちかとも
	結城 親朝
	生年不詳
	1347(<南>正平 2,<北>貞和 3)
	◇南北朝時代の武将。
ゆうき ちかみつ
	結城 親光
	生年不詳
	1336
	◇南北朝時代の武将。
	(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
ゆうき ちくどう
	結城 蓄堂
	1868(明治元.11.)
	1924.10. 6(大正13)
	◇漢詩人。名は琢(タク)、号は蓄堂。
ゆうき でぃえご
	結城 ディエゴ
	1557(弘治 3)頃
	1636(寛永13)
	◇江戸前期のキリシタン。
ゆうき ともみつ
	結城 朝光
	1168(仁安 3)
	1254(建長 6. 2.24)
	◇鎌倉初期の武将。
ゆうき とよたろう
	結城 豊太郎
	1877(明治10)
	1951(昭和26)
	◇大正・昭和期の財界人。安田財閥の中心人物。
	 1937(昭和12)林銑十郎内閣の大蔵大臣、「郡財抱合」の財政と
	呼ばれる。
ゆうき とらかず
	結城 寅寿
	1818
	1856(安政 3)
	◇江戸幕末の水戸藩執政。
	(*)1818(文化15,文政元)。
ゆうき はるとも
	結城 晴朝
	1534(天文 3)
	1614(慶長19)
	◇安土桃山時代の武将。幼名は七郎。小山高朝の三男。
	 結城政勝の養子となり、1559(永禄 2)家督を継ぎ下総(シモウサ)
	結城城主となる。
	 嗣子がなく秀吉の養子で徳川家康の次男於義伊(オギイ)(秀康)
	を養子に迎えて隠居。
	 1600(慶長 5)秀康の転封に従い越前北庄に移る。
ゆうき ひでやす《ゆふき ひでやす》
	結城 秀康
	1574(天正 2. 4. 8)
	1607(慶長12.閏4. 8)
	◇安土桃山・江戸初期の武将。越前福井の藩祖。幼名は於義伊
	(オギイ)、通称は三河守、松平秀康。徳川家康の次男、母は永見
	氏、松平忠直(長男)・直基(ナオモト)(5男)の父。秀忠の異母兄・
	信康の弟。側室は清涼院。
	 本多重次に養育される。1584(天正12)小牧・長久手の戦いの
	講和に際し、羽柴(豊臣)秀吉の養子となる。1590(天正18)秀吉
	の命で下総(シモウサ)結城晴朝の養子となり10万1千石を領し結城
	氏を継ぐ。
	 1600(慶長 5)家康の東国征伐に際し、宇都宮に留まって上杉
	景勝の西上を防いで会津勢の東上を支え、関ヶ原の戦功により
	越前北庄67万石に封ぜられる。
	 正三位中納言となり、松平姓に復する。
ゆうき ふじお《ゆふき ふじを》
	結城 ふじを
	1925(大正14)
	2005. 2.17(平成17)
	◇童謡作詞家。本名は芙二男。結城よしをの弟。
	 1948. 2.(昭和23)月刊童謡研究誌「おてだま」を復刊。
	 作品は『豆っこ打ち』など。
ゆうき まごさぶろう《ゆふき まごさぶらう》
	結城 孫三郎(九世)
	1869(明治 2)
	1947(昭和22)
	◇明治末年〜昭和前期の結城座座元。
	 人形芝居の糸あやつりを改革・発展させる。
ゆうき まさとも
	結城 政朝
	1477(文明 9)
	1545(天文14)
	◇室町後期の武将。
ゆうき むねひろ《ゆふき むねひろ》
	結城 宗広
	1266(文永 3)
	1338(<南>延元 3,<北>暦応元.11.21)
	◇鎌倉末期・南北朝時代の武将。名は孫七、通称は上野介・
	上野入道、法名は道忠。白河結城氏、祐広(スケヒロ)の子。
	 新田義貞に応じて鎌倉幕府を攻略。建武政府では陸奥国司に
	任ぜられた北畠顕家を補佐し、奥州評定衆となって陸奥国白河
	庄(現:福島県白河市)を治める。
	 南北朝内乱が始まると、南朝方の武将として足利尊氏の軍を
	京都に破る。1338年5月顕家が戦死し吉野に逃れる。陸奥に海
	路赴こうとして伊勢国大湊を船出したが暴風で伊勢に吹き戻さ
	れ、やがて病死。
	◎白河結城氏は本家の下総結城氏から陸奥国白河郡の所領を分
	与された結城祐広が祖となった。
	(*)1338(<南>延元 3,<北>建武 5,<北>暦応元)。
ゆうき よしお《ゆふき よしを》
	結城 よしを
	1920. 3. 1(大正 9)
	1944. 9.13(昭和19)
	◇童謡作詞家。結城ふじをの兄。
	 1937(昭和12)月刊童謡研究誌「おてだま」を創刊。
	 戦病死。
	 作品は『ないしょ話』など。
ゆうき よしちか
	結城 義親
	生年不詳
	没年不詳
	◇安土桃山時代の武将。
ゆうずうおう《ゆうづうわう》
	融通王
	⇒ゆづきのきみ(弓月君)
ゆうりゃく てんのう《ゆうりやく てんわう》
	雄略 天皇
	生年不詳
	没年不詳
	◇第21代の天皇。名は大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)尊。允恭(インギョウ)
	天皇の第5皇子。
	  478年中国(宋)の順帝に上表文を送った倭王武に比定されて
	いる。
	 天皇在位: 456〜 479年。
ゆえんさい ていりゅう《ゆえんさい ていりう》
	油煙斎 貞柳
	⇒ながた ていりゅう(永田 貞柳)
ゆかわ ひでき《ゆかは ひでき》
	湯川 秀樹
	1907. 1.13(明治40)
	1981. 9. 8(昭和56)
	◇論理物理学者。東京生れ。小川琢治の三男。
	 1929(昭和 4)京都大学理学部卒業。京都大学講師・1933(昭
	和 8)大阪大学講師。
	 1935(昭和10)新粒子(中間子)の存在を予言。
	 1940(昭和15)京都大学教授。京都大学基礎物理学研究所所長。
	 1943(昭和18)文化勲章を受章。
	 1948(昭和23)以降、コロンビア大学客員教授。
	 1949(昭和24)日本初のノーベル物理学賞受賞者。
	 ラッセル・アインシュタイン宣言への共同署名、パグウォッ
	シュ会議への参加、科学者京都会議を主宰、世界連邦運動など
	を通じ核兵器の廃絶・平和運動に貢献。
	◎中間子は米国物理学者アンダーソンの実験により証明される。
ゆき しげこ
	由起 しげ子
	1902.12. 2(明治35)
	1969.12.30(昭和44)
	◇小説家。本名は伊原志げ、旧姓は新飼(シンガイ)。大阪生れ。
	1925(大正14)画家伊原宇三郎と結婚、1945(昭和20)別居。
ゆきとも りふう
	行友 李風
	1877. 3. 2(明治10)
	1959.12.13(昭和34)
	◇劇作家・小説家。本名は直次郎。広島県生れ。
ゆきひと しんのう《ゆきひと しんわう》
	幸仁 親王
	1656(明暦 2)
	1699(元禄12)
	◇江戸前期の皇族・有栖川宮第3代。後西天皇の皇子。
	 1667(寛文 7)高松宮を相続し、宮号を有栖川宮に改める。
	 兵部卿・式部卿を歴任。
ゆぎょう しょうにん《ゆぎやう しやうにん》
	遊行 上人
	⇒いっぺん(一遍)
ゆげた しゅうこう
	弓削田 秋江
	1870(明治 3. 4.15)
	1937. 9.20(昭和12)
	◇新聞人。本名は精一。
ゆげのどうきょう
	弓削 道鏡
	⇒どうきょう(道鏡)
ゆさ ぼくさい
	遊佐 木斎
	1658(万治元.12.16)
	1734(享保19.10.16)
	◇江戸中期の儒者(朱子学派)。名は好生、通称は清左衛門、号
	は木斎。陸前栗原郡清水村の農家に生れる。
	 仙台で儒学を学ぶ。のち京都で米川操軒らに学び、山崎闇斎
	に入門。
	 藩の儒員となり儒学・垂加神道を教授。
	 著書は『敬説』・『人倫箴』(2巻)・『遊佐氏紀念録』など。
ゆずりはら まさこ
	譲原 昌子
	1911.11.14(明治44)
	1949. 1.12(昭和24)
	◇小説家。
ゆだて しょうがく
	弓館 小鰐
	1883. 9.28(明治16)
	1958. 8. 3(昭和33)
	◇新聞記者・小説家。本名は芳夫。
ゆち たかし
	湯地 孝
	1900. 6.26(明治33)
	1973. 3.10(昭和48)
	◇近代文学研究家。
ゆづきのきみ
	弓月君
	生年不祥
	没年不祥
	◇4〜5世紀ころの秦氏(ハタウジ)の祖とされる伝説的人物。別
	称は融通王(ユウズウオウ)。普洞王の父、秦酒公(ハタノサケキミ)の祖父。
	 『新撰姓氏録』では、秦(シン)の始皇帝第15世の孫で、百済(ク
	ダラ)に移住していた秦(ハタ)人の127県の民(『日本書紀』では120
	県)を率いて応神天皇の14年に来朝したという。
	◎秦氏は漢氏(アヤウジ)と並ぶ有力な渡来系氏族で、朝廷に仕え
	て伴造(トモノミヤツコ)として多数の秦部(ハタベ)を管理し、養蚕・機
	織の生産や財務にたずさわった。
ゆはらのおおきみ《ゆはらのおほきみ》
	湯原王
	生年不詳
	没年不詳
	◇奈良前期の万葉歌人。志貴皇子(シキノミコ)の子、天智天皇の孫。
	 天平初期の19首が『万葉集』に収められている。
ゆむろ げっそん
	湯室 月村
	1880.11.11(明治13)
	1969. 8.15(昭和44)
	◇俳人。本名は浅右衛門。一八歳で青木月斗(月兎)の青木薬舗
	に奉公、月斗没後の1953. 3.(昭和28)「うぐいす」を創刊。
ゆめじ いとし《ゆめぢ いとし》
	夢路 いとし
	1925. 3.27(大正14)
	2003. 9.25(平成15)
	◇漫才師。本名は篠原博信(シノハラ・ヒサノブ)。横浜生れ。
	 1937(昭和12)荒川芳丸に入門、2歳下の弟勲と荒川芳博・芳
	坊の名で漫才を始める。
	 1948(昭和23)コンビ名を夢路いとし・喜味こいしに改称。
	 1993(平成 5)芸術選奨文部大臣賞を受賞、紫綬褒章を受章。
	 1998(平成10)勲4等旭日小綬章を受章。
	 1999(平成11)大阪市指定無形文化財に選定。
ゆめの きゅうさく《ゆめの きうさく》
	夢野 久作
	1889. 1. 4(明治22)
	1936. 3.11(昭和11)
	◇小説家。本名は杉山泰道(タイドウ)、筆名は杉山萌円。福岡市
	生れ。
	 中学校卒業後、近衛師団に入隊、陸軍少尉となる。
	 除隊後、慶応義塾大学文学部に学ぶが中退。
	 1915(大正 4)東京本郷の喜福寺で剃髪し、旧名直樹を泰道と
	改名。
	 のち還俗(ゲンゾク)。
	 脳溢血で死去。
	 作品は『押絵の奇蹟』・『氷の涯』・1935(昭和10)『ドグラ
	・マグラ』など。
	(1)没日は 3.11。
	(3)没日は 3.11。
	(5)没日は 3.10。
	(10)没日は 3.11。
	(11)没日は 3.10。
	(12)没日は 3.11。
ゆもと とくざん
	湯本 禿山
	1865(慶応元. 3.27)
	1918. 7.18(大正 7)
	◇歌人。本名は政治(マサジ)。
ゆや しおん
	湯谷 紫苑
	1864(元治元. 8.20)
	1941(昭和16)
	◇詩人・宗教家(キリスト教)。本名は磋一郎、別号は紫苑山人
	・紫(「艸」冠+「宛」)。
ゆり きみまさ
	由利 公正
	1829(文政12.11.11)
	1909. 4.28(明治42)
	◇江戸幕末〜明治の財政家・子爵。幼名は義由、名ははじめ三
	岡(ミツオカ)石五郎、通称は八郎。三岡義知の子。
	 福井藩士で横井小楠に学び殖産興業の重要性を知る。藩主松
	平春岳をたすけて藩政を刷新、国産会所を起こして藩の財政建
	て直しに尽力。兵制整備・外国貿易・物産振興・討幕運動の資
	金の調達などに活躍。
	 明治新政府では、参与となって会計官知事として京阪の富豪
	から軍資金・会計基立金の調達、太政官札(金札)の発行など初
	期の政府財政・金融政策の基礎を築く。五箇条の誓文の第一起
	草者。
	 1871(明治 4)東京府知事。1874(明治 7)民撰議院設立建白に
	連署。1875(明治 8)岩倉具視に随行して欧米視察。
	 のち元老院議官・貴族院議員を歴任。
	 1894(明治27)有隣生命保険会社を設立して社長に就任。
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