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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6781.03

                 人   名   辞   典    《よ》       編集:獨  澄旻

-------- よ ----------------------------------------------------
よう そのじ
	陽 其二
	1838(天保 9. 6.)
	1906. 9.24(明治39)
	◇新聞人。通称は子之助、字は大有、号は星州・瓊江漁夫・
	天老居士・懶道人。明の遺臣帰化人を祖とし、代々唐通事。
	1870(明治 3)はじめての日刊新聞「横浜毎日新聞」を創刊。
ようかん
	永観
	⇒えいかん(永観)
ようこう だいじょうてんのう《やうくわう だいじやうてんわう》
	陽光 太上天皇
	1552(天文21)
	1586(天正14)
	◇安土桃山時代の皇子。名は誠仁。正親町(オオギマチ)天皇の第1
	皇子、母は藤原房子。
	 1586(天正14)親王宣下。
	 織田信長の猶子(ユウシ)となる。
	◎正親町天皇は譲位を示していたが、誠仁親王の死によって譲
	位できなかったため、太上天皇の尊号が追贈された。
ようさい《やうさい》
	栄西
	⇒えいさい(栄西)
ようぜいいん
	瑤泉院
	1674(延宝 2)
	1714(正徳 4. 6. 3)
	◇江戸中期の赤穂城主の妻。名は阿久里(アグリ)、剃髪して寿昌
	院(ジュショウイン)のち瑤泉院。備後国三次(ミヨシ)城主浅野因幡守長
	治(ナガハル)の次女。赤穂城主浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)の
	妻。三次浅野家は赤穂浅野家と同じ芸州浅野家の支藩・同族で
	ある。
	 1675(延宝 3)赤穂浅野家の嫡子又一郎(長矩)との縁組みが幕
	府に認可される。1677(延宝 5)結納。1678(延宝 6)阿久里が赤
	穂浅野家の屋敷に引き取られる。1683(天和 3)挙式、長矩十七
	歳、阿久里十歳。
	 長矩の刃傷事件の後は実家である三次家の下屋敷(赤坂の南
	部坂)に移る。1706(宝永 3)流罪になっている浪士の遺族の赦
	免を願い出て、四代将軍家綱の二十七回忌にあたり幕府に聞き
	届けられる。
	 『仮名手本忠臣蔵』では「顔世御前(カオヨゴゼ)」。
	◎南部坂の下屋敷跡地は現在、氷川神社。
	◎「遙泉院」は間違い。
ようふくもんいん
	永福門院
	⇒えいふくもんいん(永福門院)
ようめい てんのう《ようめい てんわう》
	用明 天皇
	生年不詳
	 587
	◇第31代天皇。名は橘豊日(タチバナノトヨヒ)。欽明天皇の第4皇子、
	母は蘇我稲目(イナメ)の女(ムスメ)堅塩媛(キタシヒメ)、聖徳太子の父、
	皇后は穴穂部間人(アナホベノハシヒト)皇女。
	 在中に天皇の仏教受容をめぐり、蘇我馬子(崇仏派)と物部守
	屋(廃仏派)が激しく対立。天皇は仏教に帰依する。
	 在位は 585〜 587。
	 皇居は大和国磐余(イワレ)の池辺双槻宮(イケノヘノナミツキノミヤ)。
	◆陵は磐余池上陵、のちに河内磯長原陵(シナガノハラノミササギ)に改葬。
	◎仏教公伝( 538)は欽明朝。
よーすてん
	ヨーステン
	⇒やん よーすてん(ヤン ヨーステン)
よけむら よしたろう
	除村 吉太郎
	1897. 2.10(明治30)
	1975.11. 3(昭和50)
	◇ロシア文学者。
よこい しょういち《よこゐ しやういち》
	横井 庄一
	1915. 3.31(大正 4)
	1997. 9.22(平成 9)
	◇終戦後もグアム島に隠れ続けて帰還した元日本兵(陸軍軍曹)。
	愛媛県生れ。
	 1941(昭和16)出征。
	 1944(昭和19)グアム島に転戦。
	 1972. 1.24(昭和47)グアム島密林内で現地人により保護。
	 1972. 2. 2(昭和47)帰国。
	 1972.11. 3(昭和47)結婚。
	◎帰国の時の言葉「恥ずかしながら帰ってまいりました」。
よこい しょうなん《よこゐ せうなん》
	横井 小楠
	1809(文化 6. 8.13)
	1869(明治 2. 1. 5)
	◇江戸幕末の政治家・儒学者(朱子学)。幼名は又雄のち時存(ト
	キヒロ)、字は子操、通称は平四郎、号は畏斎・小楠・沼山。熊本
	藩士横井大平時直の次男、横井時雄(トキオ)の父、後妻津世子は
	徳富蘇峰(ソホウ)・徳富蘆花(ロカ)の叔母。肥後国熊本内坪井の生
	れ。
	 はじめ藩校時習館に学び、1839(天保10)藩命により江戸に遊
	学し、藤田東湖・佐藤一斎・幕臣川路聖謨(トシアキラ)らに交わり、
	翌年帰国。1847(弘化 4)家塾小楠堂を開き、門弟は実学党と呼
	ばれる。藩政改革を説き、また実学をとなえ諸国を遊歴。1855
	(安政 2)肥後藩内で実学党の上士層と下士層に分裂。下士・豪
	農層の代表として活動。
	 1858(安政 5)越前福井藩松平慶永(ヨシナガ)に招かれ顧問とな
	り藩の財政改革を指導、開国通商・殖産興業・富国強兵の『国
	是三論』を説く。1862(文久 2)藩主慶永が政事総裁植に就くと
	幕政改革・公武合体を推進。しかし『士道忘却』により失脚。
	 1863(文久 3)士籍を剥奪されて熊本に帰り沼山津に閑居。
	 明治維新後、徴士ついで参与となるが、キリスト教徒・共和
	主義者を理由に保守派に京都寺町で暗殺。
	 1928(昭和 3)正三位を追贈。
	(2)しかし翌年1月,耶蘇教徒・共和的思想の持ち主として保
	守派に京都寺町で暗殺された。
	(10)翌二年五月(?)、暗殺された。
	(16)没日は 1. 5。
	◎大政奉還の最初の考案者。
よこい ときお
	横井 時雄
	1857(安政 4.12.)
	1928. 9.13(昭和 3)
	◇牧師・教育家・政治家。横井小楠(ショウナン)の長男、いちじ伊
	勢姓を名のる。徳富蘇峰(ソホウ)・徳富蘆花(ロカ)兄弟の従兄弟。
	肥後国生れ。
	 東京開成学校中退。熊本洋学校に入り、1876(明治 9)熊本バ
	ンドに加入。同年、洋学校が廃校となり、京都の同志社に転校。
	1879(明治12)同志社英学校の第1回卒業生。
	 愛媛県で伝道活動に入り、のち東京本郷に教会をつくる。
	 1897(明治30)同志社の社長(校長)。
	 のち政界に転身するが、1909(明治42)日糖事件に関係し政界
	を引退。
よこい ときよし
	横井 時敬
	1860(安政 . 1. 7)
	1927.11. 1(昭和 2)
	◇明治・大正期の農業教育者。肥後国生れ。
	 熊本洋学校を経て駒場農学校(現:東京大学農学部)農学科卒
	業。
	 農商務省技師。1885(明治18)福岡県立農学校教諭。一時退職
	して雑誌「農業時論」を発刊。1894(明治27)帝国大学農科大学助
	教授。1899(明治32)農学博士、ドイツ留学。1900(明治33)帝国
	大学農科大学教授。1911(明治44)東京農業大学学長、ジュネー
	ブ国際労働会議の政府代表委員顧問。
	 その間、帝国農会など各種の農業団体で活動。
	(2)'94帝国大学農科大学助教授……。
	(6)1894年東大助教授,1911年東京農大学長。
	(16)'94東京農科大学助教授.1911年東京農業大学学長となっ
	た.
	(*)東京農業大学は私立大学。
よこい やゆう《よこゐ やいう》
	横井 也有
	1702(元禄15. 9. 4)
	1783(天明 3. 6.16)
	◇江戸中期の俳人。幼名は辰之丞(タツノジョウ)、本名は時般(トキツラ)、
	通称は孫右衛門、字は伯懐、俳号は初め野又(ヤユウ)・野有のち
	也有、別号は素分(ソブン)・紫隠里(シインリ)・永言斎・螻丸(ケラマロ)
	(狂歌)・蘿隠(ライン)(漢詩)・暮水(ボスイ)(和歌)。庵号(アンゴウ)は
	知雨亭(チウテイ)・半掃庵。
	 北条高時の次男時行の後裔という。尾張藩の御用人・大番頭
	・寺社奉行などを務め、1754(宝暦 4)53歳で致仕して知雨亭で
	風流生活に入る。
	 俳諧は各務支考(カガミ・シコウ)に私淑。
	 俳文集『鶉衣(ウズラゴロモ)』、句集1767(明和 4)『蘿葉集(ラヨウ
	シュウ)』・1770(明和 7)『垤集(アズカリシュウ)』、俳論1762(宝暦12)
	『野夫 (やふ) 談』 ・『管見草(カンケンソウ)』など。
よこかわ かんぺい
	横川 勘平
	⇒よこかわ むねとし(横川 宗利)
よこかわ しょうぞう《よこかは しやうざう》
	横川 省三
	1865
	1904(明治37)
	◇日露戦争のときの軍事探偵。盛岡藩士三田村勝頼の三男。
	 1890(明治23)東京朝日新聞に入社。郡司成忠(グンジ・シゲタダ)
	の千島探検に参加。日清戦争では従軍記者。1896(明治29)退社。
	 日露開戦直直後、シベリアに潜入し、沖禎介(テイスケ)・松崎保
	一らとチチハル付近で鉄橋破壊を企て、1904. 4.(明治37)ロシ
	ア軍に捕われ沖とともにハルピンで銃殺。
	(*)1865(元治 2,慶応元)。
	(2)よこがわ しょうぞう(横川 省三)。
	(4)よこかわ しょうぞう(横川 省三)。
よこかわ むねとし
	横川 宗利
	1667(寛文 7)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、徒目付、禄高五両三人扶持。
	通称は勘平(カンペイ)、戒名は刃常水剣信士、吉良家の探索中の
	変名は三島小一郎(ミシマ・コイチロウ)。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。三河岡崎城主水野堅物(ケンモツ)の
	江戸中屋敷に預けられ、翌年、切腹。
よこせ やう
	横瀬 夜雨
	1878. 1. 1(明治11)
	1934. 2.14(昭和 9)
	◇詩人・歌人。本名は虎寿(トラジュ)、幼名は利根麿・利根丸、
	別号は宝湖・花守・海の人・山の人・新花守・野がくれん・
	わくらば・おちうど。茨城県真壁郡横根村生れ。
	 1881(明治14)春に佝僂病(クルビョウ)に冒される。
	 1907(明治40)河井酔茗と詩草社をおこし、「詩人」を刊行。
	 急性肺炎により死去。
	 文庫派の詩人。筑波嶺詩人と称される。
	(2)(生)茨城県。
	(5)茨城県真壁郡横根村に生れた。
	(10)茨城県真壁郡横根村七番屋敷(現:下妻市大字横根)生れ。
	(13)茨城県大宝村横根に生まれた。
よこせき あいぞう
	横関 愛造
	1887. 8. 2(明治20)
	1969. 5. 4(昭和44)
	◇編集者・実業家。雑誌「改造」の初代編集長。
よこたに てる
	横谷 輝
	1929. 3.13(昭和 4)
	1973. 8.14(昭和48)
	◇児童文学評論家。本名は輝雄。胃ガンで病没。
よこみぞ せいし
	横溝 正史
	1902. 5.25(明治35)
	1981.12.28(昭和56)
	◇小説家。神戸市生れ。大阪薬専卒業。
よこみつ としかず
	横光 利一
	⇒よこみつ りいち(横光 利一)
よこみつ りいち
	横光 利一
	1898. 3.17(明治31)
	1947.12.30(昭和22)
	◇大正・昭和前期の小説家。本名は利一(トシカズ)。本籍は大分
	県宇佐郡長峰村、父が土木技師だったので工事先の福島県東山
	温泉で生れた。
	 1914(大正 3)早稲田大学英文科入学、一年余で退学し、政経
	科に再入学するがまた中退。
	 1923(大正12)『日輪』。1924(大正13)川端康成・片岡鉄兵ら
	と『文芸時代』を創刊。
	 胃潰瘍に腹膜炎を併発し死去。
	 著書は『上海』・『機械』・『紋章』・『旅愁』など。
	◆横光忌(利一忌)[12.30]。
	◎妻ミキ(同棲)は小島つとむの妹、1926(大正15)死去。
よこやま うさぎ
	横山 うさぎ
	1891. 1.(明治24)
	1968.11.23(昭和43)
	◇俳人・郵便局長。本名は嘉久造。
よこやま えんたつ
	横山 エンタツ
	1896. 4.22(明治29)
	1971. 3.21(昭和46)
	◇昭和期の漫才師。本名は石田正見。
	 初めは地方回りの喜劇役者。
	 1930(昭和 5)吉本興業で花菱アチャコとコンビを組み、それ
	までの音曲万才に対してシャベクリ漫才を確立させた。
	 1934(昭和 9)アチャコと漫才のコンビを解消したが、映画な
	どでは共演した。
	 チョビひげにロイド眼鏡がトレード・マーク。
よこやま けんざ
	横山 見左
	1875.12. 4(明治 8)
	没年不詳
	◇俳人。号は恒庵。三十余歳で没。
よこやま けんどう
	横山 健堂
	1871(明治 4. 7. 5)
	1943.12.24(昭和18)
	◇人物評論家。本名は達三、別号は黒頭巾(クロズキン)・火山楼(カ
	ザンロウ)。山口県生れ。東京大学国史科卒業。
	(2)生年は1871(明治 4)。
	(5)誕生日は1871(明治 4. 7. 5)。
	(10)誕生日は1872(明治 5.11. 5)。
	(11)誕生日は1871(明治 4. 7. 5)。
よこやま げんのすけ
	横山 源之助
	1871(明治 4. 2.21)
	1915. 6. 3(大正 4)
	◇明治時代の貧民・労働問題研究家。号は天涯茫々生(ボウボウセイ)
	・有磯逸郎・無膓・夢蝶・漂天痴童・樹下石上人。越中国(富
	山県)生れ。
	 中央大学で法学を勉強中に二葉亭四迷らの影響で社会問題に
	関心を持つ。
	 横浜毎日新聞社に入社し、記者として各地下層社会の実態や
	工場労働者の労働状態を調査・掲載。1899(明治32)『日本之下
	層社会』を刊行。
	 その他の著書は『内地雑居後之日本』など。
	(1)誕生日は 3.21。
	(3)誕生日は 2.21。
	(5)誕生日は 2.21。
	(10)誕生日は 2.21。
	(11)誕生日は 2.21。
よこやま しんろう
	横山 蜃楼
	1885. 1.18(明治18)
	1946. 3.28(昭和21)
	◇俳人・染物業。本名は新蔵。
よこやま たいかん《よこやま たいくわん》
	横山 大観
	1868(明治元. 9.18)
	1958. 2.26(昭和33)
	◇明治〜昭和前期の日本画家。本名は秀麿、旧姓は酒井、横山
	家は母方の親戚。水戸藩士の子。水戸生れ。
	 1889(明治22)東京美術学校(現:東京芸術大学)に入学し、第
	1回卒業生。1896(明治29)母校の図案科助教授。
	 1898(明治31)校長岡倉天心とともに辞職し、日本美術院創立
	に加わる。新しい画風に努めたが、朦朧(モウロウ)体と酷評される。
	1903(明治36)菱田春草とインド旅行。1904〜1905(明治37〜明
	治38)天心・春草と欧米を遊歴。
	 1907(明治40)文部省美術展覧会(文展)が創設され審査員、の
	ち保守派と抗争して1914(大正 3)文展から除外される。同年、
	下村観山・安田靫彦(ユキヒコ)らと日本美術院を再興。1931(昭和
	 6)帝室技芸員。1935(昭和10)帝国美術院会員。1937(昭和12)
	芸術院会員、第1回文化勲章を受章。
	 1943(昭和18)日本美術報国会が設立され、会長となり美術界
	統制の中心にさせられる。
	 代表作は『無我』・『生々流転』・『屈原』・『夜桜』・
	『瀟湘八景』など。
	(2)日本美術報国会会長となって……。
	(15)43年日本美術報国会会長となる.
	(16)'43年,日本美術報告会が設立され,会長となった.
よこやま たかおき
	横山 隆興
	1848
	1916(大正 5)
	◇北陸の鉱山王。
	 石川県南の尾小屋(オゴヤ)銅山を開発。
	(*)1848(弘化 5,嘉永元)。
	◎横山家は代々加賀藩の家老。
よこやま はくこう
	横山 白虹
	1899.11. 8(明治32)
	1983.11.18(昭和58)
	◇外科医・俳人。本名は健夫(タケオ)。東京市本郷区東片町生れ。
	 府立第一中学校・第一高等学校を経て九州大学医学部卒業。
	在学中、1925(大正14)九大俳句会を設立。
	 九州大学医学部講師を経て、外科病院を設立。
	(1)横山 白虹(よこやま はっこう)。
	(3)横山 白虹(よこやま はくこう)。
	(5)横山 白虹(よこやま はくこう)。
	(10)横山 白虹(よこやま はくこう)。
	(11)横山 白虹(よこやま はくこう)。
	(13)横山 白虹(よこやま はくこう)。
よこやま またじろう《よこやま またじらう》
	横山 又次郎
	1860
	1942(昭和17)
	◇地質・古生物学者。長崎生れ。
	 東京大学卒業。ドイツに留学しチッテルに学ぶ。東京大学教
	授。
	 中生代の動植物化石・新生代の貝化石を研究。日本人として
	最初の化石記載論文を発表。日本の新生代の地史・古生物学の
	道を開く。
	 教科書を著述し、放散虫・紡錘虫・甲冑魚・始祖鳥・恐竜・
	菊石・蘆木・鱗木など古生物学術語の日本語訳を創案。
	 著書は『前世界史』・『古生物学綱要』など。
	(*)1860(安政 7,万延元)。
よこやま まつさぶろう
	横山 松三郎
	1838(天保 9)
	1884(明治17)
	◇明治前期の洋画家。北海道択捉(エトロフ)島生れ。
	 箱館でロシア人レーマンに洋画を学ぶ。
	 1873(明治 6)東京上野に画塾を開く。1876(明治 9)陸軍士官
	学校で石版・写真を教授。
よこやま みさお《よこやま みさを》
	横山 操
	1920(大正 9)
	1973(昭和48)
	◇日本画家。新潟県生れ。
	 川端竜子に学び、青竜社(セイリュウシャ)で活躍するが、のちに脱
	退。
	 作品は『越路十景』など。
よこやま みちこ
	横山 美智子
	1901. 7.29(明治34)
	1986. 9.30(昭和61)
	◇小説家・児童文学作家。生年月日に異説あり。広島県生れ。
	尾道高等女学校卒業。
	(5)誕生日は1901. 7.29(明治34)(異説あり)。
	(10)誕生日は1905. 7.27(明治38)。
	(11)誕生日は1901. 7.29(明治34)。
よこやま みつてる
	横山 光輝
	1934. 6.18(昭和 9)
	2004. 4.15(平成16)
	◇漫画家。本名は光照(ミツテル)。兵庫県神戸市須磨区生れ。
	 銀行員となる。
	 1954(昭和29)貸本マンガ『音無しの剣』でデビュー。
	 1956(昭和31)雑誌「少年」にロボットもの『鉄人28号』を連
	載開始。
	 寝タバコからの出火で全身に火傷(ヤケド)を負い、病院で死去。
	 作品は忍者もの『伊賀の影丸』・『仮面の忍者赤影』、SF
	もの『バビル2世』・『ジャイアントロボ』、少女マンガ『お
	てんば天使』・『魔法使いサリー』、歴史時代もの『三国志』
	・『徳川家康』など。
よこやま ゆうさく《よこやま いうさく》
	横山 有策
	1882.12.18(明治15)
	1929. 4. 2(昭和 4)
	◇英文学者。
よこやま りゅういち
	横山 隆一
	1909. 5.17(明治42)
	2001.11. 8(平成13)
	◇漫画家。高知県生れ。
	 1932(昭和 7)「漫画集団」の創設に参加。
	 代表作は『フクちゃん』・『おんぶおばけ』など。
	◎2002. 4. 6(平成14)横山隆一記念まんが館、高知県高知市九
	反田(クタンダ)に開館。一般公開は7日から。
よこやま りんじ
	横山 林二
	1908.12.20(明治41)
	1973. 2.25(昭和48)
	◇俳人。本名は吉太郎、旧号は賀茂水。
よさ ぶそん
	与謝 蕪村
	1716(享保元)
	1783(天明 3.12.25)
	◇江戸中期の俳諧師・画家。本姓は谷口、別号は夜半亭(二世)
	・落日庵・宰町(サイチョウ)・宰鳥、青年時代の画号は四明・朝滄
	(チョウソウ)・謝寅(シャイン)。摂津国東成(ヒガシナリ)郡毛馬(ケマ)村生れ。
	 江戸で早野巴人(ハジン)に俳諧を学ぶ。のち京都に定住。
	 句集『蕪村七部集』など。
	◆蕪村忌(春星忌)[旧暦12.25]画号の謝春星(シャシュンセイ)から。
	(5)没日は12.25。
	(16)没日は12.22。
	◎画家として池大雅(イケ・タイガ)と並び称される。
	 『十便十宜帖』は大雅との合作。
よさの あきこ
	与謝野 晶子(與謝野 晶子)
	1878.12. 7(明治11)
	1942. 5.29(昭和17)
	◇明治〜昭和初期の詩人・歌人。本名は晶(しょう)、旧姓は鳳
	(ホウ)。初号は小舟・白萩。大阪堺市甲斐町生れ、菓子商鳳宗七
	の3女、与謝野秀(シゲル)の母。堺女学校卒業。
	 1899(明治32)堺の新星社に加わり、西下した新詩社の与謝野
	鉄幹に会う。1901(明治34)夏上京、8月『みだれ髪』を上梓、
	秋に前妻と別れた鉄幹と結婚。日露戦争に従軍した弟を思って
	1904. 9.(明治37)雑誌「明星」に長詩『君死に給ふこと勿(ナカ)れ』
	を発表、論争を引き起こした。
	 代表作は1901. 8.(明治34)『みだれ髪』・『小扇』・『佐保
	姫』・『春泥集』・口語訳の『新訳源氏物語』など。
	(1)本名は「しょう」。
	(2)本名は晶(ショウ)。
	(3)本名は晶(ショウ)。
	(5)本名は「しょう」。
	(10)本名は「しょう」。
	(11)本名は「しょう」。
	(16)本名は「しょう」。
	◆昌子忌(白桜忌)[ 5.29]大阪府堺市の覚応寺で、白桜忌実行
	委員会主催の追悼会。白桜(ハクオウ)は没後の詩集『白桜集』から。
	◎親が、水晶のように美しくあれと願い、「晶」と命名したとい
	う。
よさの しげる
	与謝野 秀
	1904(明治37)
	1971(昭和46)
	◇昭和時代の外交官。与謝野鉄幹(テッカン)・晶子(アキコ)の次男。
	東京生れ。東京大学卒業。
	 外務省に入り、本省関係情報部長・調査局長を歴任。
	 太平洋戦争後、ベルギー公使・エジプト大使を歴任。
よさの てっかん
	与謝野 鉄幹(與謝野 鐵幹)
	1873. 2.26(明治 6)
	1935. 3.26(昭和10)
	◇明治〜昭和初期の歌人・詩人。本名は寛(ヒロシ)、初号は霊美
	玉廼舎(クシミタマノヤ)主人・桜暾山人・鉄雪道人、鉄幹の号は1905
	(明治38)に廃した、法号は礼譲。京都岡崎村生れ。与謝野礼厳
	(レイゴン)の4男、与謝野晶子(アキコ)の夫、秀(シゲル)の父。
	 落合直文(ナオブミ)に師事。
	 浅香社・1899(明治32)東京新詩社を起し、1900(明治33)雑誌
	「明星」を発刊。
	 教え子の林滝野と同棲し一児萃(アツム)を儲けたが、1901(明治
	34)秋、滝野と離別し、与謝野晶子(鳳晶<ホウ・ショウ>)と結婚。
	 代表作は詩歌集『東西南北』・『天地玄黄』・『紫』、歌集
	『相聞(アイギコエ)』など。
	◎滝野は正富汪洋(マサトミ・オウヨウ)と結婚した。
よさの ひろし
	与謝野 寛
	⇒よさの てっかん(与謝野 鉄幹)
よさの れいごん
	与謝野 礼厳
	1823(文政 6. 9.13)
	1898. 8.17(明治31)
	◇歌人。号は尚絅(ショウケイ)、礼厳は法号(京都西本願寺派の僧)、
	旧姓は細見、与謝野は礼厳が立てた新姓。与謝野鉄幹の父。
	(1)没日は 8.17。
	(3)没日は 8.18。
	(5)没日は 8.17。
	(10)没日は 8.17。
	(11)没日は 8.17。
よしい いさむ《よしゐ いさむ》
	吉井 勇
	1886.10. 8(明治19)
	1960.11.19(昭和35)
	◇明治〜昭和期の歌人・劇作家・小説家。東京芝高輪町に伯爵
	吉井幸蔵(海軍軍人)の次男に生れた。
	 府立第一中学校から攻玉社中学校に転校し、1903(明治36)卒
	業。1908(明治41)早稲田大学文学部予科に入学、間もなく政経
	科に転科したが中退。
	 1905(明治38)東京新詩社の「明星」に加わる。
	 1909(明治42)石川啄木(タクボク)・木下杢太郎(モクタロウ)・平野万
	里とともに「スバル」を創刊。
	 1915(大正 4)公演されたツルゲーネフ作『その前夜』の劇中
	歌『ゴンドラの唄』作詞。
	 作品は歌集『酒ほがひ』・『祇園歌集』、戯曲集『午後三時』
	・『俳諧亭句楽』、小説・随筆など。
	◆勇忌(かにかく忌)[11.19]。
	◆かにかく祭[11. 8]京都市東山区祇園(ギオン)の白川巽(タツミ)橋
	際に建つ「かにかくに祇園は恋し……」の歌碑前で。
	(2)(生)東京。
	(5)東京府芝区高輪(タカナワ)南町に伯爵吉井幸蔵の次男に生れた。
	(10)東京市芝区高輪町五九に……生れた。
	(13)東京芝高輪南町に生まる。
よしうえ しょうりょう
	吉植 庄亮
	1884. 4. 3(明治17)
	1958.12. 7(昭和33)
	◇歌人・政治家。千葉県生れ。
	 第一高等学校を経て、1916(大正 5)東京帝国大学法科卒業。
	 1936(昭和11)衆議院議員に当選。戦後一時期、翼賛議員とし
	て追放される。
よしえ たかまつ
	吉江 喬松
	1880. 9. 5(明治13)
	1940. 3.26(昭和15)
	◇詩人・文芸評論家・フランス文学者。初号は孤雁(コガン)。長
	野県塩尻生れ。
	 1893(明治26)松本中学校入学。1905(明治38)早稲田大学英文
	科卒業。1920(大正 9)パリ留学から帰国し、早稲田大学にフラ
	ンス文学科を創設。
よしおか ぜんじどう
	吉岡 禅寺洞
	1889. 7.22(明治22)
	1961. 3.17(昭和36)
	◇俳人。本名は善次郎、初号は禅寺童。福岡県生れ。
	 「門司新報」の記者・福岡女専講師。
	(1)誕生日は 7. 2、没日は 3.17。
	(3)誕生日は 7.22、没日は 8.18。
	(5)誕生日は 7.22、没日は 3.17。
	(10)誕生日は 7. 2、没日は 3.17。
	(11)誕生日は 7.22、没日は 3.17。
	(13)誕生日は七月、没日は 3.17。
よしおか みのる
	吉岡 実
	1919(大正 8)
	1990(平成 2)
	◇詩人。東京本所生れ。
よしおか やよい
	吉岡 弥生
	1871(明治 4. 3.10)
	1959. 5.22(昭和34)
	◇女医・教育者。遠州城東郡(キトウグン)土方村(ヒジカタムラ)(静岡県
	小笠郡<オガサグン>城東村)生れ。父は漢方医鷲山養斎(ワシヤマ・ヨウサイ)、
	母は「みせ」。
	 1889. 4.(明治22)上京し、済生学舎に入学。済生学舎(サイセイ
	ガクシャ)は入学試験がなく女子も入学できる医術開業試験の私立
	予備校であった。1890. 5.(明治23)内務省の医術開業試験前期
	に合格、1892.10.(明治25)後期に合格。
	 ドイツ留学の夢を抱き、1895. 6.(明治28)ドイツ語を教える
	私塾、東京至誠学院に通学。同年10月、院長の吉岡荒太(アラタ)
	と結婚。
	 1900(明治33)唯一の女医養成機関であった済生学舎が女子学
	生を拒絶。同年12. 5「東京女医学校」設立、入学生は4人であっ
	た。1909(明治42)東京女子医学専門学校、1950(昭和25)旧制大
	学の東京女子医科大学となり、1952(昭和27)新制大学に移行。
	 遺言により遺体は解剖に付される。
よしかわ あきまさ
	芳川 顕正
	1841(天保12)
	1920(大正 9)
	◇明治・大正時代の官僚政治家。徳島生れ。
	 明治維新後、官界に入り、山県有朋の腹心として栄達。
	 東京府知事を経て、文部・司法・内務・逓信の各大臣を歴任。
よしかわ えいじ
	吉川 英治
	1892. 8.11(明治25)
	1962. 9. 7(昭和37)
	◇昭和期の小説家。本名は英次(ヒデツグ)。神奈川県久良岐(クラキ)
	郡中村根岸生れ。
	 父の事業の失敗により小学校卒業の頃は満足に出席できなかっ
	た。年齢を偽り横浜ドックの職工になり、以降職業を転々とす
	る。
	 1926年、大阪毎日新聞に『鳴門秘帖』を連載。
	 1953(昭和28)菊池寛賞・1960(昭和35)文化勲章を受ける。
	 肺ガンにより死去。
	 代表作は『宮本武蔵』・『親鸞』・『新・平家物語』・『三
	国志』など。
	◆英治忌[ 9. 7]東京都青梅市柚木の吉川英治記念館で。
	(1)吉田直広の次男。
	(5)誕生日は 8.11。父吉川直広。
	(10)誕生日は 8.11。吉川家は……、祖父は銀兵衛、父は直広。
	(11)父吉川直広は……。
	(13)誕生日は 8.13。横浜市尾上町に貿易商人の長男として生
	まれたが……。
	(*)1926(大正15,昭和元)。
よしかわ こうじろう
	吉川 幸次郎
	1904. 3.18(明治37)
	1980. 4. 8(昭和55)
	◇中国文学研究家。字は善之。兵庫県神戸市生れ。京都大学中
	国文学科卒業。
よしかわ これたり《よしかは これたり》
	吉川 惟足
	⇒よしかわ これたる(吉川 惟足)
よしかわ これたる《よしかは これたる》
	吉川 惟足
	1616(元和 2)
	1694(元禄 7.11.16)
	◇江戸前期の神道家・吉川神道の創始者。名は元成・惟足・
	従時、通称は千代松丸・五郎左衛門、号は視吾堂(アレミドウ)・
	相隠士など。姓は「きっかわ」とも読む。江戸の人。
	 吉田神道(唯一神道)を学び、仏教的要素を排し、宋学の理論
	を取り入れ、上級武士層に重んじられた。
	 1682(天和 2)幕府神道方となる。
	(4)吉川 惟足(よしかわ これたる)。
	(26)吉川 惟足(よしかわ これたり)。姓は「きっかわ」、名は
	「これたる」ともよむ。
よしかわ のりひこ
	吉川 則比古
	1902.12. 6(明治35)
	1945. 5.25(昭和20)
	◇詩人。
よしかわ もりくに
	吉川 守圀
	1883. 2.18(明治16)
	1939. 8.24(昭和14)
	◇社会運動家。名は守邦・守国とも記す、号は世民。
よしざわ あやめ
	芳沢 あやめ(初代)
	1673
	1729(享保14)
	◇江戸中期の歌舞伎役者。屋号は橘屋。
	 1717(享保 2)三ヶ津惣芸頭に初めてなる。
	(*)1673(寛文13,延宝元)。
	◎4代まで続いた。
よしざわ よしのり
	吉沢 義則
	1876. 8.22(明治 9)
	1954.11. 5(昭和29)
	◇歌人・国文学者。旧姓は木村。
よししげのやすたね
	慶滋 保胤
	 933(承平 3)ころ
	1002(長保 4)
	◇平安中期の漢学者。字は茂能(モノウ)、本姓は賀茂(カモ)、法名
	は心覚のち寂心。
	 陰陽道・天文・暦学の家である賀茂氏の出であるが、家学を
	好まず改姓。菅原文時に師事、のち出家して比叡に入山。
	 著書は『日本往生極楽記』・ 982(天元 5)『池亭記(チテイキ)』
	など。
	(25)生年は 931。
よしずか きんじ
	吉塚 勤治
	⇒よしづか きんじ(吉塚 勤治)
よしだ いそや
	吉田 五十八
	1894(明治27)
	1974(昭和49)
	◇建築家。東京生れ。東京美術学校卒業。
	 1964(昭和39)文化勲章を受章。
よしだ いっすい
	吉田 一穂
	1898. 8.15(明治31)
	1973. 3. 1(昭和48)
	◇詩人。本名は由雄(ヨシオ)。北海道上磯(カミイソ)郡生れ。早稲田
	大学英文科中退。
よしだ えいざ
	吉田 栄三(初代)
	1872(明治 5)
	1945(昭和20)
	◇文楽の人形遣(ツカイ)。本名は柳本栄次郎。大阪生れ。
	 1883(明治16)12歳で初舞台を踏み、1898(明治31)文楽座へ移
	る。1927(昭和 2)人形の座頭(ザガシラ)となる。
	 立役(タチヤク)遣の渋い芸の名人で、官能的な吉田文五郎と対比
	される。
よしだ かねさだ
	吉田 兼定
	1675(延宝 3)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。部屋住。通称は沢右衛門(サワエモン)、戒
	名は刃当掛剣信士、吉良家の探索中の変名は田口左平太(サヘイタ)。
	父は吉田忠左衛門(チュウザエモン)兼亮(カネスケ)。
	 吉良家討ち入りでは表門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)
	屋敷に預けられ、翌年、進藤為右衛門(シンドウ・タメエモン)の介錯(カイ
	シャク)で切腹。
よしだ かねしげ
	吉田 金重
	1890. 5. 9(明治23)
	1966. 4.21(昭和41)
	◇小説家。
よしだ かねすけ
	吉田 兼亮
	1641(寛永18)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、足軽頭兼加東郡奉行、
	禄高200石。通称は忠左衛門(チュウザエモン)、戒名は刃仲光剣信士。
	吉良家の探索中の変名は田口一真(イッシン)。吉田沢右衛門(サワエモン)
	兼定(カネサダ)の父。
	 吉良家討ち入りでは裏門隊。本懐を遂げて泉岳寺へ引き揚げ
	る途中、富森助右衛門(トミモリ・スケエモン)正因(マサヨリ)とともに同志を
	代表して大目付仙石(センゴク)伯耆守久尚(ヒサナオ)邸へ赴き、内匠
	頭家来口上書を差し出し自訴。江戸高輪の細川家に預けられ、
	翌年、雨森清太夫(アマモリ・セイダユウ)の介錯(カイシャク)で切腹。
	 辞世の句は「君がため思ひぞ積る白雪を/散らすは今朝の嶺
	の松風」。
よしだ かねとも
	吉田 兼倶
	1435(永享 7)
	1511(永正 8)
	◇室町後期の神道家・吉田神道(元本宗源神道・唯一神道)の大
	成者。本姓は卜部(ウラベ)。
	 1493(明応 2)神祇大副となる。
	 神祇道を総括する野望を持ち、足利義政の夫人日野富子に接
	近する。洛東神楽岡に斎場所・八神殿を設け、神祇長上と称す
	る。さらに宗源宣旨によって全国の神職をその支配、神位・神
	職の位階を授ける権限を獲得する。
	◎反本地垂迹の立場で、儒教・仏教・道教の教理を取り入れた。
	 日蓮宗徒と組み、伊勢神道の影響を受けながら伊勢神宮から
	は神敵とされる。
よしだ かんざぶろう
	吉田 貫三郎
	1909(明治42)
	1945(昭和20)
	◇挿絵画家。本名は貫一。兵庫県生れ。神戸商業卒業。
	 東京漫画新聞社に勤務。1932(昭和 7)横山隆一らの新漫画派
	集団に参加。
	 広東で戦病死。
よしだ きねたろう
	吉田 甲子太郎
	1894. 3.23(明治27)
	1957. 1. 8(昭和32)
	◇児童文学者・翻訳家・英米文学者。群馬県生れ。早稲田大学
	英文科卒業。
よしだ けんいち
	吉田 健一
	1912. 3.27(明治45)
	1977. 8. 3(昭和52)
	◇英文学者・評論家。東京生れ。ケンブリッジ大学で英文学を
	専攻、1931(昭和 6)中退し帰国。
	 吉田茂(元首相)の長男。
よしだ けんこう
	吉田 兼好
	1283(弘安 6)頃
	1352以降
	◇鎌倉後期〜南北朝時代の歌人。俗名は卜部兼好(ウラベ・カネヨシ)。
	吉田兼好・双ヶ岡の粋法師は江戸期からの呼称。兼好法師とも
	呼ぶ。京都吉田神社の神官の子。
	 1301(正安 3)堀河具守に仕え家司。宮廷に出仕し北面の武士、
	1307(徳治 2)従五位左兵衛佐。のち出家し晩年は京都双岡(ナラビ
	ノオカ)に住む。
	 二条為世に和歌を学ぶ。
	 随筆『徒然草(ツレヅレグサ)』が有名。
	 頓阿(トンア)・慶運(ケイウン)・浄弁(ジョウベン)とともに「和歌四天
	王」と呼ばれる。
	(4)生年は1283、没年は1350。正中元年(一三二四)薙髪。
	(6)生年は1283。没年は従来<諸寺過去帳>により1350年とされ
	ていたが,最近の研究では52年までは生存したことが明らかに
	なった。30歳ごろ出家。
	(17)弘安六年(一二八三)生。ただし、……通説として承認をえ
	ているものである。没年享年とも未詳と言わざるをえない。正
	和二年(一三一三)……、この頃には出家したことが知られる。
	(25)生没年は1283〜1350?。
	(*)1324(元亨 4,正中元)、1352(<南>正平 7,<北>観応 3,<北>
	文和元)。
よしだ げんじろう《よしだ げんじらう》
	吉田 絃二郎
	1886.11.24(明治19)
	1956. 5.21(昭和31)
	◇小説家・劇作家・随筆家。本名は源次郎。佐賀県生れ。栄作
	・龍子の次男。
	 1900(明治33)長崎のミッション・スクール東山学院を中退。
	佐賀の工業学校に入り機械学を学び、1903(明治36)卒業。佐世
	保の海軍工廠に就職したが、1905. 1.(明治38)上京し神田国民
	英学会を経て同年4月早稲田大学英文科入学。この間軍務につ
	いたり文芸協会に入ったりする。1911(明治44)早稲田大学英文
	科卒業。
	 1912(大正元)前田明志女と結婚。1916. 9.(大正 5)早稲田大
	学講師。
	 代表作は『島の秋』・小説『清作の妻』・随筆『小鳥の来る
	日』など。
	(1)生年は1876(明治19):誤、没日は 4.21。
	(2)生年は1886(明治19)、没日記載なし。
	(3)生年は1886(明治19)、没日は 4.21。
	(4)生年は1886。
	(5)生年は1886(明治19)、没日は 5.21。
	(10)生年は1886(明治19)、没日は 4.21。
	(11)生年は1886(明治19)、没日は 5.21。
	(13)生年は1886(明治19)、没日は 4.21。
	(19)生年は1886。
	(+)『現代日本文學全集85』
		發行所 筑摩書房	昭和32年12月15日印刷
					昭和32年12月20日發行
	 神田の國民英語會に入った。三一年五月二一日没。
よしだ こよう
	吉田 孤羊
	1902. 3.11(明治35)
	1973. 5.16(昭和48)
	◇新聞・雑誌記者・啄木研究家。本名は徳治。
よしだ さだふさ
	吉田 定房
	1274(文永11)
	1338
	◇鎌倉末期〜南北朝時代の公卿。経長の子。
	 後醍醐天皇の信任が厚く内大臣となる。天皇の討幕の議に参
	画し、討幕の不可を上奏し、その元弘の討幕計画を鎌倉幕府に
	告げる。
	 しかし建武の新政に再び登用され、恩賞方・雑訴決断所など
	に出仕、内大臣・民部卿。
	 足利尊氏の叛による南北朝分裂後、一時京都(北朝)にとどま
	るが、やがて吉野(南朝)に走る。
	 日記『吉槐記』が残されている。
	(*)1338(<南>延元 3,<北>建武 5,<北>暦応元)。
	◎藤原宣房(ノブフサ)・北畠親房(チカフサ)とともに「後(ノチ)の三房」
	の一人。
よしだ さわえもん
	吉田 沢右衛門
	⇒よしだ かねさだ(吉田 兼定)
よしだ しげる
	吉田 茂
	1878(明治11)
	1967.10.20(昭和42)
	◇大正・昭和時代の外交官・政治家。高知県出身、東京生れ。
	土佐自由党の竹内綱(タケノウチツナ)の5男、吉田健三の養子、牧野
	伸顕の娘婿。
	 東京大学卒業後、外務省に入り、奉天総領事・外務次官・駐
	伊大使・駐英大使などを歴任。太平洋戦争中は親英米派として
	軍部と対立。
	 第二次大戦後、東久迩稔彦・幣原喜重郎両内閣の外務大臣。
	1946(昭和21)鳩山一郎が公職追放となり、あとをついで日本自
	由党総裁、次いで同年 5.22首相。最初の国会選挙に敗れて翌
	年 5.23総辞職。芦田均(アシダ・ヒトシ)内閣のあとを受けて、1948.
	10.19(昭和23)から1954.12. 9(昭和29)まで連続して首相とな
	り、経済四原則・レッドパージ・朝鮮戦争協力など親米政策を
	推進。
	 1951(昭和26)サンフランシスコ講和条約に調印。
	 引退後も大御所的存在であった。10.31戦後初の国葬。
	◎長女櫻子(サクラコ)の夫は吉田寛(カン)。寛の母吉田さわは岸信介
	(ノブスケ)の佐藤茂世(モヨ)の実妹。
	◎1950. 5. 3(昭和25)吉田茂首相は前面講和論者の南原繁東大
	総長を「曲学阿世の徒」と非難する。
	◆墓は東京都港区の青山霊園。
よしだ しょういん
	吉田 松陰
	1830. 9.20(文政13. 8. 4)
	1859(安政 6.10.27)
	◇江戸末期の志士・長州藩の下級武士。名は矩方(ノリカタ)、字は
	義卿、通称は寅次郎、別号は二十一回猛士。杉百合之助の次男。
	1835(天保 6)叔父吉田大助賢良の養子となり、翌年大助が亡く
	なり兵学師範吉田家を嗣ぎ、大次郎と改称。
	 1840(天保11)10歳で藩校明倫館において藩主の前で講義を
	行う。1845(弘化 2)山田亦助に長沼流兵学を学び、翌年免許。
	1851(嘉永 4)藩主に従い江戸に出て佐久間象山(サクマ・ショウザン)に
	洋学(砲術)を学ぶ。
	 1852(嘉永 5)脱藩。1853(嘉永 6)ペリー来航を機に幕府にい
	きどおり尊皇攘夷にめざめ、1854(嘉永 7. 3.21)ペリー再航の
	際に密航を企てる。 3.27弟子の金子重輔(シゲスケ)とともに下田
	沖の旗艦ポーハタンに乗り込み、拒絶され失敗、姉崎の名主に
	自首。下田の番所で糾問され江戸に護送、のち藩に幽閉。
	 1857(安政 4)萩に松下村塾(ショウカソンジュク)を開いて高杉晋作(シ
	ンサク)・久坂玄瑞(ゲンズイ)・木戸孝允(タカヨシ)・伊藤博文・山県有
	朋(ヤマガタ・アリトモ)ら尊攘派志士を教育。
	 1858(安政 5)幕府の日米修好通商条約調印に関して老中間部
	詮勝(マナベ・アキカツ)の要撃を謀って捕らえられ(安政の大獄)、翌
	年江戸に送られ伝馬町の獄舎で斬刑。
	 辞世の句は「親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何と聞く
	らん」。
	 著書は『西遊日記』・『講孟剳記(コウモウトウキ)』・『留魂録』
	など。
	(+)岩波新書(青版55)『吉田松陰』奈良本辰也:著
		昭和26年 1月15日第 1刷発行
		昭和49年 5月20日第24刷発行
	◆回向院に葬られたのち、1863(文久 3)門人により世田谷の毛
	利大膳太夫抱屋敷に改葬、松陰神社(世田谷区若林)となる。
	◎号の「二十一回猛士」の「二十一」は実家の姓の「杉」を分解し、
	「木」を「十八」に、「彡」を「三」とし合計したもの。「猛士」は中国
	の孟子から。
	 長岡藩の小林虎三郎とともに象山門下の「二虎」と呼ばれた。
よしだ ちあき
	吉田 千秋
	1895(明治28)
	1919(大正 8)
	◇東京高等農学校(現:東京農業大学)の学生。新潟県蒲原郡小
	鹿村(現:新津市)生れ。
	 1915(大正 4)雑誌「音楽界」8月号に『ひつじ草』を発表。
	 24歳で永眠。
	◎『ひつじ草』は『琵琶湖周航の歌』の原曲。
よしだ ちゅういち
	吉田 忠一
	1902. 1.21(明治35)
	1964.10.29(昭和39)
	◇俳人。号は破軍星。
よしだ ちゅうざえもん《よしだ ちうざゑもん》
	吉田 忠左衛門
	⇒よしだ かねすけ(吉田 兼亮)
よしだ てるじ
	吉田 暎二
	1901. 2. 5(明治34)
	1972. 9.30(昭和47)
	◇歌舞伎・浮世絵研究家。
よしだ とうご
	吉田 東伍
	1864
	1918(大正 7)
	◇歴史地理学者。越後生れ。筆名は落後生。
	 小学校教員・新聞記者などをしながら独学。早稲田大学教授。
	 日本歴史地理学会を創設。
	 編著『大日本地名辞書』(1900〜1907)・『徳川政教考』・
	『倒叙日本史』など。能楽の研究では『世阿弥十六部集』を校
	訂。
	(*)1864(文久 4,元治元)。
よしだ とうよう
	吉田 冬葉
	1892. 2.25(明治25)
	1956.11.28(昭和31)
	◇俳人。本名は辰男。
よしだ とうよう《よしだ とうやう》
	吉田 東洋
	1816(文化13)
	1862(文久 2)
	◇江戸幕末の土佐藩士。名は正秋、通称は元吉。
	 1853(嘉永 6)藩主山内豊信(容堂)により仕置役に登用されて
	藩政改革を推進。剛腹が災いして一時蟄居。
	 1858(安政 5)藩政復帰。中堅家臣層(福岡孝弟・後藤象二郎
	ら)から成る「新おこぜ組」を基盤に上士層の守旧派、下士層の
	勤王党の両派と対立。城からの帰途、勤王党員に刺殺される。
よしだ とみぞう《よしだ とみざう》
	吉田 富三
	1903(明治36)
	1973(昭和48)
	◇病理学者。福島県生れ。東北大学・東京大学教授。癌研究会
	癌研究所所長。文化勲章を受章。
	 1943(昭和18)吉田肉腫の発見など、癌研究に貢献。
よしだ ならまる
	吉田 奈良丸(二世)
	1880(明治13)
	1967(昭和42)
	◇浪曲師。本名は広橋宏吉。奈良県生れ。
	 1902(明治35)襲名。関西で活躍し、東京の桃中軒雲右衛門(ト
	ウチュウケン・クモエモン)と並び、浪花節台頭期に活躍した一人。
	(6)没年不詳。和歌山出身。
	(19)没年は1967年。奈良県生れ。
よしだ はっこう
	吉田 白甲
	1881.11.28(明治14)
	1961.11. 3(昭和36)
	◇ドイツ文学者。本名は豊吉。
よしだ はんべえ
	吉田 半兵衛
	生年不詳
	1693(元禄 6)頃
	◇江戸前期の画家。京都の人。
	 西鶴の『好色一代女』・『日本永代蔵』の挿絵などが代表作。
よしだ ひでお
	吉田 秀雄
	1903.11. 9(明治36)
	1963. 1.27(昭和38)
	◇実業家。福岡県小倉生れ。吉田家の養子、妻は小林雪枝。
	 東京大学卒業。
	 1928(昭和 3)日本電報通信社(現:電通)に入社。1947(昭和22)
	43歳で第4代社長に就任。
	 「広告の鬼」を自称し、1951. 8.(昭和26)行動規範「鬼十則」を
	制定。
よしだ ひろし
	吉田 博
	1876(明治 9)
	1950(昭和25)
	◇洋画家。久留米生れ。晩年は太平洋画会長。
よしだ ぶんごろう《よしだ ぶんごらう》
	吉田 文五郎
	1869(明治 2)
	1962(昭和37)
	◇文楽の人形遣(ツカイ)。女形人形遣の名人。本名は河村巳之助。
	大阪生れ。1909(明治42)文五郎を襲名。
	 1956(昭和31)難波掾を受贈。
	 官能的な芸で、渋い芸をする吉田栄三(エイザ)と対比される。
	(4)没年は1962。
	(6)没年は1961。
	(19)没年は1962。
よしだ ぶんざぶろう
	吉田 文三郎
	生年不詳
	1760(宝暦10)
	◇人形浄瑠璃の人形遣(ツカイ)・演出家。吉田流の元祖。
よしだ みつよし
	吉田 光由
	1598(慶長 3)
	1672(寛文12)
	◇江戸初期の和算家。通称は七兵衛、号は久庵。山城(京都)嵯
	峨の人、京都の豪商角倉(スミノクラ)氏の一族。
	 初め毛利重能(シゲヨシ)のち角倉素庵に和算を学ぶ。
	 中国の『算法統宗』の文義を手本に、1627(寛永 4)そろばん
	の計算法を説明した『塵劫記(ジンコウキ)』を刊行する。その他の
	著書は『古暦便覧』・『和漢合運』など。
	 門人は横川玄悦ら。
よしだ よしお
	吉田 与志雄
	1905. 3. 1(明治38)
	1960. 9.24(昭和35)
	◇小説家。本名は芳雄。
よしづか きんじ
	吉塚 勤治
	1909. 5. 7(明治42)
	1972. 4.18(昭和47)
	◇詩人。
よしとみ としみち
	吉富 利通
	1916. 3.28(大正 5)
	1971.12. 5(昭和46)
	◇小説家。
よしの がじょう
	吉野 臥城
	1876. 5. 3(明治 9)
	1926. 4.27(大正15)
	◇詩人・俳人・評論家・小説家。本名は甫(ハジメ)、俳号は牛南。
	宮城県角田(カクタ)町生れ。東京専門学校(現:早稲田大学)に学ぶ。
	(3)1879(明治 9):誤。
	(5)1876(明治 9)。
	(10)1876(明治 9)。
	(11)1876(明治 9)。
	(13)1876(明治 9)。
よしの げんざぶろう
	吉野 源三郎
	1899. 4. 9(明治32)
	1981. 5.23(昭和56)
	◇編集者・評論家・児童文学作家。東京生れ。東京大学哲学科
	卒業。
よしの さえもん
	吉野 左衛門(吉野 左衞門)
	1879. 2.10(明治12)
	1920. 1.22(大正 9)
	◇俳人。本名は太左衛門。東京府北多摩郡三鷹村生れ。
	 1900(明治33)東京専門学校(現:早稲田大学)政治科卒業。
	1895(明治28)正岡子規の門に入る。京城日報社長。胃ガンで死
	亡。
	(5)誕生日は 2.10。
	(10)誕生日は 2.14。
	(11)誕生日は 2.10。
	(13)誕生日は 2.10。
よしの さくぞう
	吉野 作造
	1878. 1.29(明治11)
	1933. 3.18(昭和 8)
	◇大正・昭和期の政治学者・評論家。号は古川(コセン)・松風軒。
	宮城県志田郡古川町字大柳の商家に生れた。
	 古川小学校・宮城県尋常中学校・第二高等学校(仙台)を経て
	東京帝国大学法科卒業。1906(明治39)清国の直隷総督袁世凱(エ
	ン・セイガイ)に招かれて北洋法政専門学堂の教習になる。
	 東京大学教授。1915(大正 4)法学博士。
	 普通選挙・政党内閣制実現を主張し、大正デモクラシーの理
	論的指導者として活躍したが、1924(大正13)軍部の圧力で東京
	大学を退官。一時、朝日新聞社に入社。
	 1924(大正13)明治文化研究会の会長に就任、『明治文化全集』
	の編集にあたった。
よしの せい
	吉野 せい
	1899. 4.15(明治32)
	1977.11. 4(昭和52)
	◇小説家。旧姓は若松、三野混沌(ミノ・コントン)(吉野義也)の妻。
よしの ひでお
	吉野 秀雄
	1902. 7. 3(明治35)
	1967. 7.13(昭和42)
	◇歌人。群馬県生れ。慶応義塾中退。
	◆艸心忌(吉野秀雄忌)[ 7.13]住居の名「艸心洞(ソウシンドウ)」から。
	[七月上旬の土曜]神奈川県鎌倉市二階堂の瑞泉寺。
よしひさ しんのう《よしひさ しんわう》
	能久 親王
	1847(弘化 4)
	1895.10.28(明治28)
	◇北白川宮第二代。幼名は満宮(ミツノミヤ)、法名は公現。伏見宮
	邦家親王の第9王子。仁孝天皇の猶子。
	 1858(安政 5)輪王寺宮を相続、門跡となる。
	 江戸城留守役の田安慶頼(ヨシヨリ)らに頼まれ、1868(慶応 4. 3.
	 7)東征大総督有栖川宮熾仁(タルヒト)親王を駿府に訪ね、徳川慶
	喜の恭順を告げ征討の中止を懇願したが受け入れられず、さら
	に上洛して直接朝廷に嘆願しようとすると有栖川宮から「上洛
	に及ばぬ。帰って不逞(フテイ)の輩(ヤカラ)を鎮(シズ)めよ」と忠告さ
	れて江戸に戻る。
	 江戸開城の後、彰義隊に擁されるが、上野戦争の激戦の中、
	上野を脱出し幕艦長鯨丸で陸奥会津城に入城。
	 謹慎の後、1870(明治 3)還俗(ゲンゾク)、伏見宮に復帰して軍
	籍に就き、同年プロシア留学を命ぜられる。1872(明治 5)留学
	中に北白川宮を相続。
	 1877(明治10)帰国し近衛砲兵連隊に配属。1884(明治17)陸軍
	少将、歩兵第一旅団長。1892(明治25)陸軍中将、第六・第四師
	団長を歴任。
	 日清戦争では開戦後の1895. 1.(明治28)近衛師団長となり出
	征。台湾独立の動きがあったため戦後も台湾守備を命じられ、
	旅順より沖縄を経て台湾に渡り(台湾出兵)、転戦して台南で病
	没。
	 死後、陸軍大将を追贈。台湾神社に祀られる。
	◆墓は東京都台東区の輪王寺(両大師)にある宮内庁管理の歴代
	輪王寺宮の墓地に第15代輪王寺宮公現親王として葬られている。
	◆東京都千代田区の北の丸公園内に近衛師団長北白川宮能久親
	王の銅像がある。
よしひと しんのう《よしひと しんわう》
	嘉仁 親王
	⇒たいしょう てんのう(大正 天皇)
よします とうどう
	吉益 東洞
	1702(元禄15)
	1773(安永 2)
	◇江戸中期の医学者。安芸(広島)の人。
	 京都に出て古医方(コイホウ)による医業を営む。のち山脇東洋に
	認められ有名になる。
	 陰陽五行説に基づく医学を排し、病気の内的原因を追及し、
	実験医学の道を開拓した。
よしまる かずまさ
	吉丸 一昌
	1873. 9.15(明治 6)
	1916. 3. 7(大正 5)
	◇国文学者・唱歌の作詞者。大分県臼杵市生れ。
	 1901(明治34)東京帝国大学文科大学国文学科、卒業。
	 1908(明治41)東京音楽学校教授、邦楽調査委員を兼任。
	 1909〜1914(明治42〜大正 3)文部省唱歌教科書編纂委員。
	 1912〜1914(明治45〜大正 3)自作の唱歌作詞集『新作唱歌』
	(全10集・75曲)を出版。
	 音楽学校在職中に死去。
	 代表作はドイツ民謡『故郷を離るる歌』、唱歌『早春賦』な
	ど。
よしむら てつたろう
	吉村 鉄太郎
	1900. 6.20(明治33)
	1945. 3.24(昭和20)
	◇文芸評論家。本名は片山達吉。松村みね子(片山広子)の息子。
よしむら とらたろう《よしむら とらたらう》
	吉村 虎太郎
	⇒よしむら とらたろう(吉村 寅太郎)
よしむら とらたろう《よしむら とらたらう》
	吉村 寅太郎
	1837(天保 8)
	1863(文久 3. 9.26)
	◇江戸幕末の尊攘派志士。土佐藩士。名は重郷、「虎太郎」とも。
	 武市瑞山(タケチ・ズイザン)の勤王党に参加し、尊王攘夷運動に活
	躍。
	 1863(文久 3. 8.)公卿中山忠光を主将に擁立し大和五条で挙
	兵し代官所を襲ったが(天誅<テンチュウ>組の乱)、鷲家口(ワシカグチ)
	の戦いで敗れて自殺。
よしむら へいきち
	吉村 平吉
	1920. 8.30(大正 9)
	2005. 3. 1(平成17)
	◇風俗作家。東京・赤坂生れ。
	 中学3年のころから浅草に入り浸る。
	 早稲田大学専門部政経科、卒業。
	 榎本健一率いるエノケン一座の文芸部に入団。
	 第二次世界大戦後、浅草で劇団空気座を旗揚げ。
	 のち、吉原の旧赤線地帯に住み続けて風俗ライターとして活
	躍。また、大衆演芸を紹介する「浅草ふきよせ乃会」を主宰。
	 著書は『実録・エロ事師たち』・『吉原酔狂ぐらし』・『浅
	草のみだおれ』など。
	◎晩年は一人暮らしで、3月6日に死亡しているのが発見され、
	1日は推定死亡日。
よしむら まさもち
	芳村 正秉
	1839(天保10)
	1915(大正 4)
	◇明治時代の宗教家。旧津山藩士。
	 明治維新後、神祇官・教部省に仕えて神道界で活躍。
	 竜田神宮宮司として神道系・修験道系の講社を結集し神習教
	を創始。
よしや のぶこ
	吉屋 信子
	1896. 1.12(明治29)
	1973. 7.11(昭和48)
	◇小説家。新潟県生れ。県立栃木高等女学校卒業。
よしゆき えいすけ
	吉行 エイスケ
	1906. 5.10(明治39)
	1940. 7. 8(昭和15)
	◇詩人・小説家。本名は栄助。岡山県生れ。岡山一中中退。
	吉行淳之介・吉行理恵の父。
よだ がっかい
	依田 学海(依田 學海)
	1833(天保 4.11.24)
	1909.12.27(明治42)
	◇漢学者・小説家・演劇評論家・劇作家。本名は朝宗(トモムネ)、
	通称は七郎、号は百川(ヒャクセン)。下総国佐倉藩士依田貞剛の次
	男で、江戸の佐倉藩邸に生れる。
	 1881(明治14)文部省書記官となり、1885(明治18)退官、正六
	位に叙された。
	 依田秋圃(シュウホ)の叔父。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』の
	文淵先生のモデル。
	(1)依田 学海(よだ がっかい)、誕生日は 1.24、没日は
	12.27。本名百川。
	(2)依田 学海(よだ がくかい)。(名)朝宗,別号を百川(ヒャク
	セン)。
	(3)依田 学海(よだ がっかい)、誕生日は11.24、没日は
	11.17。通称七郎、名は朝宗、字は後に通称とした百川(ヒャクセン)。
	(5)依田 学海(よだ がくかい)、誕生日は11.24、没日は
	12.17。本名百川(ヒャクセン)、前名朝宗(トモムネ)。
	(10)依田 学海(よだ がっかい)、誕生日は11.24、没日は
	12.27。幼名を幸造、信造といい、のち七郎、右衛門二郎、長
	じて朝宗とあらためた。最初字を百川と称したがのちこれを本
	名とし、柳蔭、学海を号とした。
	(11)依田 学海(よだ がくかい)、誕生日は 1.24、没日は
	12.27。本名百川(ヒャクセン)。前名朝宗(トモムネ)。
	(13)依田 學海(よだ がつかい)、一一月江戸に生まる。本名
	百川。
よだ しゅうほ
	依田 秋圃
	1885. 1. 8(明治18)
	1943.12. 3(昭和18)
	◇歌人。本名は貞種(サダタネ)。依田学海の甥で「秋圃」は学海の
	命名。
よつつじ よしなり
	四辻 善成
	1326
	1402(応永 9)
	◇南北朝時代の学者。順徳天皇の曾孫で源姓を賜わる。
	 幼少より宮内卿丹羽忠守に『源氏物語』を学び、その注釈書
	『河海抄』を足利義詮(ヨシアキラ)に献上。
	(*)1326(正中 3,嘉暦元)。
よつもと よしたか
	四元 義隆
	1908. 3. 8(明治41)
	2004. 6.28(平成16)
	◇昭和期の政界の黒幕。鹿児島県生れ。
	 県立第二中学校・第七高等学校卒業。
	 東京帝国大学法学部在学中、1932(昭和 7)血盟団事件に関与
	して殺人罪で懲役15年の実刑判決を受け服役。
	 1940(昭和15)恩赦で出獄。
	 近衛文麿首相・鈴木貫太郎首相の秘書を務める。
	 第二次世界大戦後、吉田茂・池田勇人・佐藤栄作・中曽根康
	弘の歴代首相らと親交。
	 農場を経営。
	 1955(昭和30)田中清玄の後を継いで三幸建設工業(東京都中
	央区)の社長。
	 2000〜2003. 4.(平成12〜平成15)三幸建設工業の会長。
よどがわ ながはる
	淀川 長治
	1909. 4.10(明治42)
	1998.11.11(平成10)
	◇映画評論家。神戸生れ。
	 『映画之友』編集長。1966(昭和41)『土曜映画劇場』の解説
	者。
	◎「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」が口癖だった。
よどぎみ
	淀君
	1567(永禄10)
	1615
	◇安土桃山時代、豊臣秀吉の側室。別称は淀殿(ヨドドノ)、通称
	は茶茶(チャチャ)。父は浅井長政(ナガマサ)、母は織田信長の妹お市
	の方。乳母は大蔵卿局(オオクラキョウノツボネ)で大野修理治長(シュウリ・ハル
	ナガ)とは乳兄妹。
	 浅井氏滅亡ののち母が再婚した柴田勝家に養われ、柴田氏滅
	亡後は秀吉の側室となる。初め山城の淀城に住み、長男鶴松を
	生むが3歳で死亡。1593(文禄 2)秀頼(ヒデヨリ)を生んでからは
	伏見城に移る。
	 秀吉の死後、秀頼を擁して大坂城に在り、徳川家康に対抗し
	たが大坂の陣(1614〜1615)で敗れ、落城の際(夏の陣)、城中で
	秀頼とともに自刃。
	(*)1615(慶長20,元和元)。
よどどの
	淀殿
	⇒よどぎみ(淀君)
よどの りゅうぞう
	淀野 隆三
	1904. 4.16(明治37)
	1967. 7. 7(昭和42)
	◇小説家・翻訳家・フランス文学者。本名は三吉。京都生れ。
	1928(昭和 3)東京大学仏文科卒業。
	(3)没年は1965(昭和40)。
	(5)没年は1967(昭和42)。
	(10)没年は1967(昭和42)。
	(11)没年は1967(昭和42)。
よどや たつごろう《よどや たつごらう》
	淀屋 辰五郎
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸中期(元禄のころ)の大坂の豪商。淀屋个庵(コアン)の5代
	目三郎右衛門の俗称といわれる。
	 大名貸などで諸大名をしのぐ富を持ち、豪奢を極め、茨木屋
	の遊女玉菊(一説に吾妻)に入れ揚げる。
	 1705(宝永 2)幕府の奢侈禁止政策にふれ、闕所(ケッシヨ)処分
	(資産没収・追放)を受ける。
	 後に八幡の地を下付され、余生を送ったといわれる。
	◎浮世草子『棠大門屋敷(カラシナダイモンヤシキ)』、近松門左衛門の戯
	作『淀鯉出世滝徳(ヨドコイシュッセノタキノボリ)』、歌舞伎『傾城楊柳桜
	(ケイセイヤナギサクラ)』などで有名。
	◎淀屋は本姓、岡本。大坂の陣以来、徳川氏の信任を得て初め
	材木商、のち代々材木や塩・魚・青物などを扱い、さらに糸割
	符(イトワツプ)の権利を獲得して諸大名の蔵元も務めていた。
	 大阪の土佐堀川にかかる御堂筋の淀屋橋は、淀屋が架けたも
	の。
よない すいほう
	米内 穂豊
	1893. 5. 4(明治26)
	1970. 9.18(昭和45)
	◇画家。本名は貞雄。
よない みつまさ
	米内 光政
	1880. 3. 2(明治13)
	1948. 4.20(昭和23)
	◇昭和期の軍人(海軍大将)・政治家。盛岡生れ。
	 1937(昭和12)林銑十郎の海軍大臣となり、第1次近衛文麿・
	平沼騏一郎両内閣でも留任。
	 1940(昭和15)組閣(第37代総理大臣)するが、半年で総辞職。
	 1944(昭和19)再び入閣し、小磯国昭・鈴木貫太郎両内閣の海
	軍大臣。
よねかわ ふみこ《よねかは ふみこ》
	米川 文子
	1894(明治27)
	1995(平成 7)
	◇生田流の筝曲家。
	 1937(昭和12)地唄舞研究会を創立。
よねかわ まさお《よねかは まさを》
	米川 正夫
	1891.11.25(明治24)
	1965.12.29(昭和40)
	◇ロシア文学者・翻訳家。岡山県生れ。
	 参照⇒きたみかど じろう(北御門 二郎)
よねくぼ みつすけ
	米窪 満亮
	1888. 9.16(明治21)
	1951. 1.16(昭和26)
	◇小説家・政治家。
よねざわ じゅんこ
	米沢 順子
	1894.11.22(明治27)
	1931. 3.21(昭和 6)
	◇詩人。
	(10)米沢 順子(よねざわ のぶこ)。
よねだ ゆうろう
	米田 雄郎
	1891.11. 1(明治24)
	1959. 3. 5(昭和34)
	◇歌人。本名は雄還。
よねみつ かんげつ
	米光 関月
	1874. 3.24(明治 7)
	1915. 5. 8(大正 4)
	◇小説家。名は亀次郎。
よねやま やすさぶろう
	米山 保三郎
	1869(明治 1. 1.)
	1897. 5.29(明治30)
	◇哲学者。号は天然居士・大愚山人。チフスにより死去。
	夏目漱石の親友。
よものあから
	四方 赤良
	⇒おおた なんぽ(大田 南畝)
よりひと しんのう《よりひと しんわう》
	職仁 親王
	1713(正徳 3)
	1769(明和 6)
	◇霊元天皇の第17皇子・有栖川宮(アリスガワノミヤ)第5世・有栖川
	様風(書道)の元祖。
	 1716(享保元)有栖川宮第4世正仁親王の薨去(コウキョ)により勅
	命を受けて第5世を相続。
	 1726(享保11)親王宣下。
よろず てつごろう《よろづ てつごらう》
	万 鉄五郎
	1885.11.18(明治18)
	1927. 5. 1(昭和 2)
	◇洋画家。岩手県生れ。
	 上京して早稲田中学校に学び、白馬会研究所にも通う。
	 1907(明治40)東京美術学校、入学。1912(明治45)卒業制作に
	『裸体美人』を描く。
	 1912(大正元)高村光太郎・岸田劉生らとフュウザン会を結成。
	 1921(大正10)ころから南画に興味を示し、池大雅・浦上玉堂
	を研究して、晩年は日本画も描く。
	 作品は・『日傘の裸婦』・『もたれて立つ人』など。
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