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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6721.00

                 人   名   辞   典  《やまた》     編集:獨  澄旻

-------- やまた ------------------------------------------------
やまだ あきよし
	山田 顕義
	1844
	1892(明治25)
	◇明治時代の軍人(陸軍中将)・政治家。通称は市之允。長州藩
	出身。
	 吉田松陰の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に加わる。
	 戊辰戦争に従軍し、陸軍少将。岩倉遣欧使節に随行。佐賀の
	乱・西南戦争に従軍。軍功により陸軍中将。
	 のち政界に転じ、1883〜1892(明治16〜明治25)司法卿・司法
	大臣を歴任し、刑法草案の制定に関与するなど近代的法典編纂
	の完成に貢献。
	 日本法律学校(現:日本大学)を創設。
	(*)1844(天保15,弘化元)。
やまだ あさえもん《やまだ あさゑもん》
	山田 浅右衛門
	⇒『国語辞書』やまだあさえもん(山田浅右衛門,山田朝右衛門)
やまだ あさえもん《やまだ あさゑもん》
	山田 朝右衛門
	⇒『国語辞書』やまだあさえもん(山田浅右衛門,山田朝右衛門)
やまだ かまち
	山田 かまち
	1960(昭和35)
	1977. 8. 8(昭和52)
	◇水彩画家。群馬県高崎市生まれ。
	 3歳ころから描きはじめる。1966(昭和41)高崎倉賀野幼稚園
	に入園。テレビの影響で怪獣や恐竜の絵を描く。1967(昭和42)
	倉賀野小学校に入学。1973(昭和48)倉賀野中学校に入学。原始
	社会の絵を描く。またビートルズの影響でロック・バンドを始
	める。
	 1976(昭和51)浪人し前橋の英数学館に通う。1977(昭和52)高
	崎高校に入学。上半身裸でエレキギターの練習中に感電死。
	 800点あまりの作品を残す。
	◎高崎市に山田かまち水彩デッサン美術館がある。
やまだ きょくなん
	山田 旭南
	1877. 5.26(明治10)
	1949(昭和24)
	◇小説家。本名は馨。
やまだ けんきょう《やまだ けんげう》
	山田 検校
	1757(宝暦 7)
	1817(文化14)
	◇江戸中期の箏曲家・山田流箏曲の始祖。前姓は三田氏、都名
	(イチナ)は斗養一(トヨイチ)。江戸の人。
	 幼少で失明し、医師山田松黒(ショウコク)に師事して生田流を学
	ぶ。のち上方の箏曲を江戸の気風に合うよう河東節など江戸浄
	瑠璃の曲風を摂取して新流をひらく。
	 作品は『初音の曲』・『小督(コゴウ)の曲』・『熊野(ユヤ)』・
	『長恨歌の曲』・『葵の上』など。
やまだ こうさく《やまだ かうさく》
	山田 耕作
	⇒やまだ こうさく(山田 耕筰)
やまだ こうさく《やまだ かうさく》
	山田 耕筰
	1886. 6. 9(明治19)
	1965.12.29(昭和40)
	◇大正・昭和期の作曲家・指揮者。東京生れ。
	 東京音楽学校卒業後、ベルリンに留学。
	 帰国後、歌曲・オペラ・交響曲・交響詩の作曲・指揮。日本
	最初の管弦楽団東京フィルハーモニー管弦楽団を組織。童謡運
	動・新民謡運動など黎明期の日本の音楽界で幅広く活躍。
	 1956(昭和31)文化勲章を受賞。
	 作品は楽劇『堕ちたる天女』、歌劇『黒船』、歌曲『幽韻』
	・『病める薔薇』、童謡『この道』・『からたちの花』・『赤
	とんぼ』・『野ばら』など。
やまだ さんしゅう
	山田 三秋
	1876(明治 9)
	1940.12.10(昭和15)
	◇歌人・俳人。通称は真一、別号は反古庵・耕月仙。
やまだ しばのえん
	山田 芝之園
	1860(万延元. 7.16)
	没年不詳
	◇明治期の小説家・浪華文士。本名は三之助。
やまだ じゅんこ
	山田 順子
	1901. 6.25(明治34)
	1961. 8.27(昭和36)
	◇小説家。本名は順(ユキ)。竹久夢二・徳田秋声・勝本清一郎と
	同棲。
やまだ せいざぶろう
	山田 清三郎
	1896. 6.13(明治29)
	1987. 9.30(昭和62)
	◇小説家・評論家。京都市生れ。小学校を卒業後、給仕・新聞
	配達・少年工などを転々とする。「戦旗」編集責任者。治安維持
	法で下獄。1939. 4.(昭和14)渡満、戦後ソビエトに抑留。
やまだ たまき
	山田 珠樹
	1893. 2.25(明治26)
	1943.11.24(昭和18)
	◇フランス文学者。森鴎外の娘の森茉莉(マリ)と結婚、のち離婚。
やまだ ながまさ
	山田 長政
	生年不詳
	1630(寛永 7)
	◇江戸初期の海外渡航者。通称は仁左衛門。駿河の人。
	 台湾を経て、シャムに渡る。アユタヤ朝ソンタム王の信任を
	得、軍事・貿易に功をたて、国王の娘を娶り、最高の官職オヤ
	・セナピモクに昇る。
	 1628(寛永 5)王が没し、王位継承の紛争が起きると、幼王を
	擁立したが、故王のいとこオヤ・カラホムにリゴール(六昆)太
	守に左遷させられ、のち毒殺される。
	(2)没年は1630(寛永 7)。
	 もと沼津城主大久保忠佐の駕籠舁(カゴカキ)(「異国日記」)。1611
	(慶長16)ころ朱印船にのってシャムに渡り,アユチャ東南の日
	本人町に住む。城井久右衛門についで日本人町の頭となり,内
	戦・外冦に功をたて,国王ソンタムの信任を得て最高の官位に
	まで昇進した。1628(寛永 5)王の死後,王位継承の争乱を鎮定
	し,王子を即位させることに成功。のち王位をねらう王族の野
	心家オヤ=カラホムによって六昆<リゴール>大守に左遷され,パニ
	タの侵入軍と対戦中に負傷し,その手当の際に,毒薬が全身に
	まわって没した。長政の子は六昆の町を焼いてカンボジアに走っ
	たが,のちシャム軍と交戦中没した。
	(4)没年は1630。
	 元和年中、台湾を航し、シャムに渡り、国都アユチャの日本
	人町の邦人を糾合して同国の内乱を鎮め、六昆<リゴル>国を討っ
	た。その功により六昆王に封ぜられ、わが国との通交を図った。
	国王の女を妻としたが、王の没後、毒殺。
	(6)没年は1630。
	 1612年ごろシャムに渡り,アユタヤ朝ソンタム王の信任を得
	て最高の官爵オヤ・セナピモクに登る。王の死後(1628)ののち
	王位継承の紛争が起こると幼王を擁立,日本人隊およびシャム
	兵2万を率いて反乱を鎮定。故王のいとこオヤ・カラホムにリ
	ゴール(六昆)太守に左遷され.シャム人に毒殺された。遺子オ
	コン・セナピモクが自立して戦ったがカンボジアへ敗走。日本
	人町はシャム軍に焼き払われた。
	(16)没年は1633(寛永10)。
	 若くして大志があり,元和(1615〜23)の頃に27才にして駿河
	の貿易商人に従って台湾に渡り,さらにシャムに渡って国王に
	用いられ,自ら商船を日本に派遣して貿易を営むと同時に国交
	の親善にも尽力した.国王は娘を彼に娶あわし,六昆(リゴル)王
	とした.また彼はシャムに流浪して来た日本人を集めてその軍
	の中核となし,国都アユチヤに日本人街をつくって同国の内乱
	を鎮定し,貿易商人にも便を与えたが,のち国王の死後内乱が
	シャムに起こり彼は毒殺された.
	(17)生国として伊勢・尾張・長崎・駿府の四説があるが、駿府
	の可能性が一番高いとされている。駿府の紺屋津国屋(ツノクニヤ)
	九左衛門の子として、天正十八年(一五九○)に生れたと考えら
	れる。慶長十二年(一六○七)ごろ駿府を出て沼津に至り、沼津
	藩主大久保忠佐の駕籠かきとなった。同十七年(一六一二)ごろ、
	駿府商人の仕立てた主印船で台湾を経てシャムに渡っている。
	 元和六年(一六二○)ないし翌七年にはすでにアユタヤ日本人
	町の頭領となっており、次第にアヤタヤ国王の信頼を得てゆき、
	日本人義勇軍を率いて国王の親衛隊長となり、また、スペイン
	艦隊を破るなど、アユタヤ王朝の軍事部門担当者として活躍し
	た。その間、オーククンからオークルオング、さらにオークプ
	ラ・セーナピモックというように官位が昇進し、日本の老中宛
	に書翰を出せるまでになっていた。軍事部門だけでなく、貿易
	部門においても能力を発揮し、日本とシャムとの貿易を一手に
	握っていた。
	 ところが、寛永五年(一六二七)、長政を重く用いてきたアユ
	タヤ王ソングタムが没し、その子ジェッタの擁立に動いたが、
	そのジェッタが殺され、摂政となったカラホムの陰謀によって
	長政を中央政界から遠ざけ、シャムの南西部のリコ゜ールとい
	う地方の王にさせられてしまった。当時、リゴールは隣接する
	パニタとの戦いがくりかえされており、長政はその戦いで怪我
	をし、家臣にその傷口に毒を塗られて死んでしまった。寛永七
	年(一六三○)のことで、遺骨はタイのプラ・タンマサーラーの
	チェディに安置されたという。
	◎静岡市の浅間神社に1626(寛永 3)長政が奉納した軍船図の写
	しがある。
やまだ はせき
	山田 葩夕
	1887. 3. 3(明治20)
	1957.10. 1(昭和32)
	◇歌人。本名は基(モトイ)。
やまだ びみょう《やまだ びめう》
	山田 美妙
	1868. 8.25(慶応 4. 7. 8)
	1910.10.24(明治43)
	◇明治時代の小説家・詩人・評論家・国語学者。本名は武太郎、
	別号は樵耕蛙船(ショウコウアセン)・美妙斎・美妙子・飛影。東京神田
	柳町生れ。田沢稲舟(イワフネ)の夫、離婚後稲船は急死。
	 1885(明治18)尾崎紅葉らと硯友社(ケンユウシャ)を興し、「我楽多
	文庫」を発行。言文一致体の先駆者で、新進作家として名声を
	博す。また、新体詩・戯曲・評論・『日本大辞書』辞書編纂・
	『日本韻文論』など多彩な仕事を残した。
	 頸腺ガン腫により死去。
	 代表作は『武蔵野』・『胡蝶』・『花車』・『平清盛』・
	『夏木立』など。
	(2)別号を樵耕蛙船,美妙斎飛影。
	(3)別称は美妙斎飛影。
	(5)別号は美妙斎・飛影。
	(10)別号は美妙斎・美妙子・飛影。
	(11)別号は美妙斎・飛影。
	(13)別号樵耕蛙船、美妙斎美妙、飛影。
	(*)明治元年は 9. 8から。
やまだ ふうたろう《やまだ ふうたらう》
	山田 風太郎
	1922(大正11)
	2001. 7.28(平成13)
	◇作家。本名は山田誠也(セイヤ)。兵庫県生れ。
	 1947(昭和22)東京医科大在学中、推理小説『達磨峠(ダルマトウゲ)
	の事件』を雑誌「宝石」の懸賞小説に応募し入選。
	 その後、『甲賀忍法帖』など忍法帖シリーズを発表し、忍者
	小説ブームを起こす。
	 晩年、糖尿病・白内障・パーキンソン病などを患う。
	 他の作品は『幻燈辻馬車』・『明治波涛歌』・『ラスプーチ
	ンが来た』・『人間臨終図巻』など。
やまだ ほうこく《やまだ はうこく》
	山田 方谷
	1805(文化 2)
	1877(明治10)
	◇江戸幕末・明治初期の儒学者。備中の人。
	 備中松山藩に仕える。江戸に遊学し佐藤一斎に入門。
	 藩校有終館学頭。
	 著書は『方谷遺稿』など。
やまだ ほこうえい
	山田 蒲公英
	1901. 2.16(明治34)
	1972. 3.27(昭和47)
	◇俳人。本名は仁(マサシ)。
やまだ みのる
	山田 実
	1889(明治22)
	1925(大正14)
	◇画家。茨城県水戸生れ。東京美術学校。
やまだ もりたろう《やまだ もりたらう》
	山田 盛太郎
	1897(明治30)
	1980(昭和55)
	◇経済学者。愛知県生れ。
	 1930(昭和 5)東京帝国大学助教授を共産党シンパ事件で退職。
	 第二次大戦後、教授として復職。
	 著書は『日本資本主義分析』など。また野呂栄太郎らと『日
	本資本主義発達史講座』を編集。
やまだ よしお《やまだ よしを》
	山田 孝雄
	1873(明治 6)
	1958(昭和33)
	◇国語学者・国文学者。富山市生れ。
	 東北帝国大学教授・神宮皇学館初代学長。
	 また熱烈な国粋主義者でもあった。
	 文化勲章を受賞。
	 著書は『日本文法論』・『奈良朝文法史』・『平安朝文法史』
	・『万葉集講義』・『平家物語につきての研究』・『国学の本
	義』・『国語学史』など。
やまだ よしひこ
	山田 吉彦
	⇒きだ みのる(きだ みのる)
やまて きいちろう
	山手 樹一郎
	1899. 2.11(明治32)
	1978. 3.16(昭和53)
	◇小説家。本名は井口長次。栃木県生れ。
	(1)誕生日は 2. 1。
	(3)誕生日は 2.11。
	(5)誕生日は 2.11。
	(10)誕生日は 2.11。
	(11)誕生日は 2.11。
やまと たけるのみこと
	日本 武尊
	⇒『国語辞書』やまとたけるのみこと(日本武尊,倭建命)
やまな うじきよ《やまな うぢきよ》
	山名 氏清
	1344(<南>興国 5,<北>康永 3)
	1391(<南>元中 8,<北>明徳 2.12.29)
	◇南北朝時代の武将(侍所所司)。通称は六分一殿(ロクブンノイチドノ)、
	陸奥守。時氏の四子。
	 第3代将軍足利義満(ヨシミツ)に仕え、民部少輔と称する。
	 南朝との戦いで戦功を立て、1382(<南>弘和 2,<北>永徳 2)
	楠正儀を、1388(<南>元中 5,<北>嘉慶 2)楠正秀を河内に破り、
	和泉(イズミ)の守護となる。さらに丹波(タンバ)・美作(ミマサカ)・因
	幡(イナバ)の守護に任じられる。1390(<南>元中 7,<北>康応 2)
	但馬(タジマ)の山名時熙(甥)が義満の命に従わず、氏清は義満の
	命により時熙を征伐し、丹後(タンゴ)守護職を得る。
	 山名一族で11ヶ国の守護職を有し、六分一衆と呼ばれる。し
	かし、山名一族の強大化を恐れた義満の計略より、一族の不和
	を利用されて内紛を起される。1391(<南>元中 8,<北>明徳 2)
	この処置を不満として氏清・満幸らが挙兵(明徳の乱)。義満方
	の将細川頼之・赤松義則らに敗れ、氏清は京都内野で斬られて
	討死、満幸は出雲に逃れるが、のちに討たれる。
	(2)生年は1344。
	(4)生年は1344。
	(6)生年は1343か44。
やまな そうぜん
	山名 宗全
	1404(応永11)
	1473(文明 5)
	◇室町中期の武将。名は持豊(モチトヨ)、法名は宗全。時煕の子、
	教豊の父。
	 1435(永享 7)山名氏惣領の地位に立つ。1441(嘉吉元)将軍足
	利義教を殺害した赤松満祐(ミツスケ)を討ち(嘉吉<カキツ>の乱)、そ
	の功で播磨(ハリマ)・石見(イワミ)を与えられ、幕府侍所所司。持豊
	の但馬(タジマ)・備後(ビンゴ)・因幡(イナバ)・伯耆(ホウキ)・播磨・
	石見に加え、一族の教清の美作(ミマサカ)、教之の備前(ビゼン)を
	得て、山名家は八ヶ国の守護職を併せ、1391(<南>元中 8,<北>
	明徳 2)明徳の乱で失った山名家の勢力を再興。
	 将軍義政の妻日野富子の子義尚(ヨシヒサ)を擁立し、足利義視(ヨ
	シミ)を擁立する細川勝元と対抗。1467(応仁元)西軍の総帥(ソウスイ)
	として応仁の乱を起すが、戦乱半ばにして陣中で病死。
やまな ときうじ
	山名 時氏
	1303
	1371(<南>建徳 2,<北>応安 4)
	◇南北朝時代の武将。幼名は小次郎のち弥次郎、法号は道静。政
	氏の子、師義・氏清の父。
	(*)1303(乾元 2,嘉元元)。
やまな もちとよ
	山名 持豊
	⇒やまな そうぜん(山名 宗全)
やまなか こどう
	山中 古洞
	1869(明治 2. 7.10)
	没年不詳
	◇挿絵画家。本名は升(ノボル)、旧姓は佐藤、別号は日本画軒。
	(10)1941(昭和16)まで生存確認。
やまなか さだお《やまなか さだを》
	山中 貞雄
	1909.11. 7(明治42)
	1938. 9.17(昭和13)
	◇映画監督。シナリオの筆名は梶原金八。京都生れ。
	 中国大陸で戦病死。
	 作品は『抱寝の長脇差』・『鼠小僧次郎吉』・『国定忠治』
	・『街の入墨者』・『人情紙風船』・1935(昭和10)『丹下左膳
	餘話・百萬両の壷』など26本。
やまなか しかのすけ
	山中 鹿之助
	1545(天文14)頃
	1578(天正 6)
	◇戦国時代の武将・尼子十勇士の一人。名は幸盛(ユキモリ)、通称
	は甚次郎。出雲の人。新六の父。
	 1566(永禄 9)主君尼子義久が毛利氏に降(クダ)ったので、京
	都に逃れ主家の再興をはかる。
	 1577(天正 5)豊臣秀吉の中国征伐に従い尼子勝久(カツヒサ)を擁
	して戦ったが、のち播磨(ハリマ)上月城で毛利方に攻められ落城、
	捕らえられて連行途中の備中(ビッチュウ)合の渡で斬殺。
	◎子の新六は鴻池家の祖と伝えられる。
やまなか しんろく
	山中 新六
	1570
	1650(慶安 3)
	◇鴻池家の始祖。名は幸元勝庵。山中鹿之助の次男、鴻池善右
	衛門(初代)正成の子。
	 1578(天正 6)摂津池田鴻池村に帰農し、初めて清酒を発明し
	財をなし、大阪に進出。店舗を構え四斗を一樽として江戸へ積
	み出す。
	(*)1570(永禄13,元亀元)。
やまなか みねたろう《やまなか みねたらう》
	山中 峯太郎
	1885.12.15(明治18)
	1966. 4.28(昭和41)
	◇児童文学作家・小説家。旧姓は馬淵(マブチ)、筆名に山中未成
	・大窪逸人・石上欣弥がある。大阪の呉服商馬淵浅太郎の次男
	で、一等軍医山中恒斎の養子。
	 少年少女小説・軍事冒険小説を発表して人気を博する。
	 代表作は『燃える星影』・『敵中横断三百里』・『亜細亜の
	曙』など。
やまなし とうせん《やまなし たうせん》
	山梨 稲川
	1771(明和 8)
	1826(文政 9)
	◇江戸後期の音韻学者。名は治憲、字(アザナ)は玄度、通称は
	東平。駿河の人。
	 本居宣長らの古音の研究に刺激されて、『説文(セツモン)』で
	中国古代の音韻を研究。また、製字の起源について研究。
	 松崎慊堂(コウドウ)と親交。
	 著書は『説文緯』・『古声譜』・『諧声図』・『稲川文草』
	・『泉水経』など。
やまのうえ そうじ《やまのうへ そうじ》
	山上 宗二
	⇒やまのうえのそうじ(山上 宗二)
やまのうえのおくら《やまのうへのおくら》
	山上 憶良
	 660(斉明天皇 6)
	 733(天平 5)頃
	◇奈良時代の歌人・官人。「やまのえのおくら」とも呼ぶ。
	 遣唐少録(随員)として 702(大宝 2)入唐。 707(慶雲 4)頃、
	帰朝して従五位下・伯耆守(ホウキノカミ)・東宮侍講。後に筑前守。
	 筑前守時代に大宰帥(ダザイノソツ)大友旅人(タビト)と交友。
	 作品は『万葉集』に長歌10首・短歌51首・旋頭歌(セドウカ)1
	首。他に『思子等歌』・『貧窮問答歌』など、漢詩・散文もあ
	る。家集『類聚歌林』は現存しない
やまのうえのそうじ《やまのうへのそうじ》
	山上 宗二
	1544(天文13)
	1590(天正18)
	◇安土桃山時代の茶人。号は瓢庵。堺の豪商。
	 千利休の高弟となる。豊臣秀吉の怒りを買い、のち小田原の
	北条氏の保護を受けたが、小田原陣中で惨殺。
	◎著書『山上宗二記』の「茶湯者覚悟十体」に「一期に一度の会」
	とあり、ここから「一期一会」の言葉が生れた。
やまのうち かずとよ
	山内 一豊
	1546(天文15)
	1605(慶長10. 9.20)
	◇安土・桃山時代の武将・土佐藩祖。名は猪右衛門、対馬守。
	尾張生れ。
	 妻は見性院(ケンショウイン)、近江の浅井氏の家臣若宮喜助友興の
	娘。父は山内盛豊。
	 初め織田信長、つぎに豊臣秀吉、秀吉没後は徳川家康に仕え
	る。
	 1573(天正元)近江長浜に400石、1577(天正 5)播磨に2000石
	を与えられる。1581(天正 9)織田信長が行った京都の馬揃えに
	名馬を購入して参列、信長から賛辞を受け、出世の基をつくる。
	1585(天正13)長浜城主。1594(文禄 3)伏見城と大和多聞城の工
	事を分担。1600(慶長 5)関ヶ原の戦に東軍につき戦功をあげ、
	土佐20万石に封ぜられ、土佐藩祖となる。
	◎一豊の妻は、信長の馬揃え(閲馬)のとき鏡箱から黄金10両を
	出して一豊に名馬を買わせ、夫の出世の基を作ったという話は
	内助(ナイジョ)の功(コウ)として有名。
やまのうち しゅうせい
	山内 秋生
	1890.10.29(明治23)
	1965.11. 9(昭和40)
	◇児童文学者。本名は秋生(アキオ)。
やまのうち すがお《やまのうち すがを》
	山内 清男
	1902(明治35)
	1970(昭和45)
	◇考古学者。東京生れ。
	 東京大学卒業。東京大学講師、成城大学教授。
	 縄文土器の型式の細分類・研究によって編年を完成。また、
	土器の縄文のつけ方も解明。
	 著書は『日本遠古の文化』・『日本先史土器図譜』など。
やまのうち とよしげ
	山内 豊信
	1827(文政10)
	1872(明治 5)
	◇江戸幕末の第15代土佐藩主。号は容堂(ヨウドウ)。酒を好み、
	鯨海酔侯と自称。
	 支族豊著の長子として生れ、1848年襲封。
	 吉田東洋らを起用して藩政を改革。
	 将軍継嗣問題では一橋派に属し、安政の大獄により大井村の
	下屋敷に謹慎を命ぜられ蟄居(チッキョ)、のち隠居。
	 1860年の幕政改革で政界に復帰し1863(文久 3)参与となり、
	公武合体に尽力。1867(慶応 3)家臣後藤象二郎の意見を入れ、
	将軍徳川慶喜(ヨシノブ)に大政奉還を建白して実現させた。公議
	政体論による徳川氏中心の列侯会議を主唱したが、小御所会議
	で討幕派に押し切られた。
	 維新後、議定(ギジョウ)・内閣事務総裁。1869(明治 2)引退。
	(*)1848(弘化 5,嘉永元)、1860(安政 7,万延元)。
	◆墓は東京都品川区東大井の大井公園裏手(土佐藩下屋敷跡)。
やまのうち ほうすけ
	山内 封介
	生年不詳
	没年不詳
	◇大正中期から昭和初期のロシア文学の翻訳家。
やまのうち ようどう《やまのうち ようだう》
	山内 容堂
	⇒やまのうち とよしげ(山内 豊信)
やまのうち よしお
	山内 義雄
	1894. 3.22(明治27)
	1973.12.17(昭和48)
	◇フランス文学者・翻訳家。
やまのえのおくら
	山上 憶良
	⇒やまのうえのおくら(山上 憶良)
やまのぐち ばく
	山之口 貘
	1903. 9.11(明治36)
	1963. 7.19(昭和38)
	◇詩人・小説家。本名は山口重三郎。沖縄県那覇(ナハ)市生れ。
やまべのあかひと
	山部 赤人
	生年不詳
	没年不詳
	◇奈良前期の歌人・三十六歌仙の一人。
	 聖武天皇のころ、下級官吏として宮廷に仕え、行幸供奉の作
	が多い。
	 作品は『万葉集』に長歌13首・短歌38首。
	◎柿本人麻呂とともに「歌聖」・「山柿(サンシ)」と仰がれる。
	 ただし、「山柿」の「山」は「山上憶良(オクラ)」の説もある。
	◎「山辺赤人」は後世に書かれるようになった。
やまむら こうか
	山村 耕花
	1886. 1. 2(明治19)
	1942. 1.25(昭和17)
	◇画家・版画家。本名は豊成。
やまむら さいすけ
	山村 才助
	1770(明和 7)
	1807(文化 4)
	◇江戸後期の蘭学者・地理学者。名は昌永(ショウエイ)、字は子明、
	通称は才助、号は夢遊道人。市河寛斎の甥。常陸(ヒタチ)土浦藩
	士。
	 大槻磐水に学ぶ。世界地理を研究し、新井白石(ハクセキ)の『采
	覧異言(サイランイゲン)』を蘭書『万国航海図説』などによって増補
	改訂し『訂正増訳采覧異言』を著す。
	 ロシアが北辺に近づくと幕命を受けて『魯西亜国法』(8巻)
	を著す。
	 著書は『華夷一覧図説』・『西洋雑記』・『印度志』など。
やまむら しょうえい
	山村 昌永
	⇒やまむら さいすけ(山村 才助)
やまむら たかし
	山村 魏
	1897. 7.28(明治30)
	1955.10. 2(昭和30)
	◇小説家。
やまむら とりのすけ
	山村 酉之助
	1909. 1. 6(明治42)
	1951.10.30(昭和26)
	◇詩人。
やまむら ぼちょう《やまむら ぼてう》
	山村 暮鳥
	1884. 1.10(明治17)
	1924.12. 8(大正13)
	◇大正時代の詩人。本名は土田八九十(ハクジュウ)、別名は
	木暮流星・馬村。群馬県西群馬郡棟高(ムネタカ)村生れ。
	 1903(明治36)東京築地の聖三一神学校に入学、1904(明治37)
	日露戦争に従軍、翌年帰還復学し、1908(明治41)卒業。
	 1909(明治42)自由詩社に参加。1913(大正 2)詩集『三人の処
	女』によって認められる。
	 はじめは頽廃的な詩風であったが、次第に人道的・牧歌的色
	彩の濃い作風に転ずる。
	 詩集『聖三稜玻璃(セイサンリョウハリ)』・『風は草木にささやいた』
	・『雲』など。
	(1)誕生日は 1.10、本名は土田八九十。
	(2)誕生日記載なし。(名)本名土田八九十(ハクジュウ)。
	(3)誕生日は 1.18、本名は土田八九十。
	(5)誕生日は 1.10、本名は木暮(コグレ)(のち土田)八九十(ハクジュ
	ウ)。
	(10)誕生日は 1.10、本名は土田(旧姓志村、のちに木暮)八九
	十。父木暮久七、母志村シヤウの長男。暮鳥自身の回想に「父
	は婿であった」(『半面自伝』)。
	(11)誕生日は 1.10、本名木暮(のち土田)八九十。
	(13)誕生日は 1.18、本名は土田八九十。群馬県高崎在堤ヶ岡
	村に生まる。
やまむろ ぐんぺい
	山室 軍平
	1872(明治 5)
	1940(昭和15)
	◇明治〜昭和初期の宗教家・日本救世軍の創設者。岡山県生れ。
	 農家に生れ、印刷工となる。路傍伝道を聞いて入信し、同志
	社で苦学して神学を学ぶ。1895(明治28)英国救世軍来日を機に
	入隊。日本救世軍の創設・発展に生涯を捧げる。
	 機関紙「ときのこえ」を編集。東洋で最初の救世軍司令官とな
	る。
	 社会鍋の発案、貧民伝道・廃娼運動・禁酒運動など、キリス
	ト教社会事業に貢献。
	 著書は『平民の福音』など。
やまもと いさお
	山本 勇夫
	1881. 8.26(明治14)
	没年不詳
	◇小説家。
やまもと いそろく
	山本 五十六
	1884. 4. 4(明治17)
	1943. 4.18(昭和18)
	◇海軍軍人。新潟県長岡生れ。父は高野貞吉(タカノ・サダヨシ)。
	 長岡藩の下級藩士の父貞吉が56歳のときに生れる。
	 1901(明治34)江田島の海軍大学校に入学。
	 1904(明治37)海軍大学校卒業。
	 1926(大正15)から武官として2年間アメリカに滞在。第一航
	空戦隊司令官。1934(昭和 9)海軍主席代表としてロンドン軍縮
	会議の予備交渉に参加。1935(昭和10)海軍航空本部長・1937
	(昭和12)米内(ヨナイ)光政海軍大臣の海軍省次官。1939. 9. 1(昭
	和14)連合艦隊司令長官。1940(昭和15)海軍大将。
	 太平洋戦争開始に反対したが、真珠湾攻撃・ミッドウェイ海
	戦などの指揮にあたる。
	 1943(昭和18)前線作戦指導中、一式陸攻に搭乗してブナカナ
	ウ基地を飛び立ち、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で米軍機
	ロッキードP38によって撃墜され戦死。この攻撃はアメリカ
	海軍によって、4月1日に変えたばかりの日本軍の暗号「波暗
	号」が解読されていたためであった。
	 死後、元帥。
	◎身長は五尺二寸五分(約159cm)。小柄ではあったが周囲を圧
	する威厳があった。
	 遺体のポケットから『万葉集』第22巻から引用した和歌「今
	日よりは 省(カエリ)みなくて 大君の/醜(シコ)の御楯(ミタテ)と 
	いで立つ吾は」が書かれている手帳が発見されている。
	◆墓は長岡市稽古町(ケイコチョウ)の曹洞宗長興寺。
	◎当時の標語「元帥の仇は増産で」。
	◎新橋の芸妓・梅龍(本名河合千代子)との浮き名は有名。また、
	新橋の芸妓を連合艦隊の旗艦長門に招いたこともあったという。
	◎武田信玄に仕えた山本勘助の血を引く家系。
やまもと かじろう
	山本 嘉次郎
	1902. 3.15(明治35)
	1974. 9.21(昭和49)
	◇映画監督。
やまもと かなえ《やまもと かなへ》
	山本 鼎
	1882.10.24(明治15)
	1946.10. 8(昭和21)
	◇洋画家・版画家・美術教育家。愛知県岡崎生れ。北原白秋の
	妹家子の夫、村山槐多(カイタ)の従兄。
	 1906(明治39)東京美術学校西洋画科卒業。
	 1907(明治40)森田恒友・石井柏亭らと雑誌「方寸」を創刊。
	1912〜1917年、渡欧。帰国後、再興院展に出品して認められる。
	1918(大正 7)日本創作版画協会を創立、創作版画の育成に貢献。
	1919(大正 8)長野県に日本農民美術研究所を設立。
	 美術教育家として児童の図画教育を提唱。
	 木版画が得意。作品は『サーニヤ』・『時化の朝』など。
やまもと かんすけ
	山本 勘助
	生年不詳
	1561(永禄 4)
	◇戦国時代の武将。字は晴幸。三河国牛窪(ウシクボ)の人。左目
	が潰れた独眼で隻脚であった。『甲陽軍鑑』が伝える多分に伝
	説的人物。
	 兵法・縄張(築城)に秀いで、はじめ今川義元(ヨシモト)に仕えよ
	うとしたが叶(カナ)わず、1543(天文12. 3.)板垣信形(ノブカタ)の
	口利きで武田信玄に仕える。
	 1561(永禄 4)上杉軍との川中島の戦で、信玄に「キツツキの
	戦法」を献索。その作戦が失敗し、恥じて自殺的な戦死を遂げ
	る。
やまもと きゅうじん《やまもと きうじん》
	山本 丘人
	1900(明治33)
	1986(昭和61)
	◇日本画家。本名は正義。東京生れ。
	 1926(大正15)東京美術学校卒業。
	 松岡映丘に師事。1936(昭和11)文展に出品した『海の微風』
	で認められる。日展審査員。1948(昭和23)創造美術を結成。
	 文化勲章を受賞。
	風景画を得意とする。代表作は『狭霧野』など。
やまもと ごんのひょうえ《やまもと ごんのひやうゑ》
	山本 権兵衛
	⇒やまもと ごんべえ(山本 権兵衛)
やまもと ごんべえ《やまもと ごんべゑ》
	山本 権兵衛
	1852(嘉永 5.10.15)
	1933.12. 8(昭和 8)
	◇明治・大正時代の軍人(海軍大将)・政治家・伯爵。名は「ご
	んのひょうえ(権兵衛)」とも。薩摩藩(鹿児島)右筆・槍術師範
	役の子。鹿児島生れ。
	 薩英戦争に従軍。1867(慶応 3)藩主島津忠義に従い上京し、
	鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争に従軍。
	 明治維新後、1874(明治 7)海軍兵学寮を卒業。1877(明治10)
	ドイツ軍艦ビネタに搭乗し各地を航海し、翌年帰国。天城・高
	雄・高千穂の艦長、海軍省主事・軍務局長などを歴任。
	 1894(明治27)日清戦争では大本営軍務局長。
	 1898(明治31)第2次山県有朋内閣の海軍大臣、第4次伊藤博
	文・第1次桂太郎内閣にも留任。桂内閣では海軍大臣として日
	露戦争を遂行。薩閥海軍の巨頭の地位を占める。
	 1913(大正 2)第1次護憲運動によって第3次桂内閣が崩壊す
	る大正政変により組閣。
	 第1次組閣:1913. 2.20(大正 2)〜1914. 4.15(大正 3)。
	 政友会と提携して文官任用令・軍部大臣現役武官制の改正・
	行財政整理を実現。また中華民国を承認。シーメンス事件と海
	軍費削減によって予算不成立で総辞職。
	 第2次組閣:1923. 9. 2(大正12)〜1924. 1. 6(大正13)。
	 関東大震災の翌日、再び首相となり震災で厳戒令を施行、復
	興処理にあたる。普通選挙法を掲げたが1923(大正12)緊急勅令
	の治安維持令を公布して朝鮮人・社会主義者を弾圧。支払猶予
	令も公布。1923.12.27(大正12)摂政裕仁(ヒロヒト)親王(のち昭和
	天皇)が狙撃される虎ノ門事件で総辞職。
	◎普通選挙法は1925(大正14)治安維持法とともに公布。
やまもと さねひこ
	山本 実彦
	1885. 1. 5(明治18)
	1952. 7. 1(昭和27)
	◇出版業者・政治家。号は亀城。鹿児島県生れ。
	 苦学して日本大学を出る。やまと新聞記者。
	 1915(大正 4)東京毎日新聞社を設立、のち閉社。
	 1919. 4.(大正 8)改造社を興し雑誌「改造」を創刊。「現代日
	本文学全集」を刊行、円本の先駆けをなす。アインシュタイン
	らを招聘。
	 1930(昭和 5)民政党から衆議院議員に当選。
	 1946(昭和21)協同民主党委員長。
やまもと しざん
	山本 飼山
	1890. 7.23(明治23)
	1913.11. 5(大正 2)
	◇評論家・小説家。本名は一蔵。自殺。
やまもと しゅうごろう《やまもと しうごらう》
	山本 周五郎
	1903. 6.22(明治36)
	1967. 2.14(昭和42)
	◇小説家。本名は清水三十六(サトム)。山梨県北巨摩(コマ)郡大草
	村生れ。
	 横浜一中中退、親戚の質屋に住み込み、正則英語学校卒業。
	 少年少女小説で出発し、大衆文学の地位を高める。『日本婦
	道記』で直木賞に推されたが辞退。
	 代表作は『山彦乙女』・『樅ノ木は残った』・『青べか物語』
	・『赤ひげ診療譚』・『虚空遍歴』・『さぶ』など。
やまもと しゅうじ
	山本 修二
	1894. 1.29(明治27)
	1976. 1.22(昭和51)
	◇英文学者・演劇研究家。
やまもと しゅんきょ
	山元 春挙
	1871(明治 4)
	1933. 7.12(昭和 8)
	◇日本画家。本名は金右衛門。滋賀県生れ。
	 野村文挙・1885(明治18)林寛斎に学ぶ。
	 1890(明治23)第三回内国勧業博覧会に『秋景瀑布』を出品し
	注目される。1896(明治29)竹内栖鳳らと後素協会を設立。
	 1899(明治32)京都市立美術工芸学校教諭。1907(明治40)第一
	回文展審査員・1909(明治42)京都絵画専門学校教授。帝国美術
	院会員。
	 代表作は『雪松図』・『塩原の奥』・『山村の雪』など。
やまもと しょうげつ
	山本 笑月
	1873.10. 5(明治 6)
	1937. 5.10(昭和12)
	◇江戸・明治文化研究家。本名は松之助。東京深川生れ。
	 浅草花屋敷の創設者山本金蔵の長男。長谷川如是閑(ニョゼカン)
	・画家大野静方(シズカタ)の実兄。
	(10)没日は1937. 5.10(昭和12)。
	(+)中公文庫『明治世相百話』	昭和58年 7月10日発行
		著者:山本笑月,中央公論社
	 昭和十一年五月、死去。
やまもと せんじ《やまもと せんぢ》
	山本 宣治
	1889(明治22)
	1929(昭和 4)
	◇大正・昭和初期の生物学者・社会運動家。京都府生れ。
	 渡米して苦学し、帰国後東京大学動物学科を卒業。
	 同志社大学・京都大学講師。
	 1922(大正11)サンガー夫人の来日を機に産児制限運動を行な
	い、この運動を通じて無産運動にも入り「山宣」と呼ばれる。
	 1924(大正13)京都労働学校校長。
	 1928(昭和 3)第1回普通選挙に労働農民党から出馬して代議
	士に当選。翌年、治安維持法の改悪に激しく反対し、東京神田
	で右翼に刺殺される。
	 著書は『恋愛革命』・『性教育』・『無産者生物学』・『産
	児調節論』など。
やまもと ちょうごろう《やまもと ちやうごらう》
	山本 長五郎
	⇒しみずのじろちょう(清水 次郎長)
やまもと なおずみ《やまもと なほずみ》
	山本 直純
	1932.12.16(昭和 7)
	2002. 6.18(平成14)
	◇作曲家・指揮者。東京生れ。山本直忠の子、山本純ノ介の父。
	 1958(昭和33)東京芸術大学指揮科を卒業。
	 1972(昭和47)新日本フィルハーモニー交響楽団の設立に参加。
やまもと のぎたろう
	山本 禾太郎
	1889. 2.28(明治22)
	1951. 3.16(昭和26)
	◇小説家。
やまもと ばいいつ
	山本 梅逸
	1783(天明 3)
	1856(安政 3)
	◇江戸後期の南画家。名は亮、号は梅逸。尾張生れ。
	 同郷の中林竹洞とともに上洛し、花鳥・山水画に画名をあげ
	る。
	 晩年、帰郷して尾張藩の御用絵師格となり士分に取りたてら
	れる。
やまもと ばいがん
	山本 梅龕
	1867(慶応 3. 3.)
	1893. 8.17(明治26)
	◇俳人。本名は山寺清三郎、別号は左文楼・遅芳。
やまもと ばいし
	山本 梅史
	1886.12.11(明治19)
	1938. 7.24(昭和13)
	◇俳人。本名は徳太郎。
やまもと ほうすい《やまもと はうすい》
	山本 芳翠
	1850(嘉永 3)
	1906(明治39)
	◇洋画家。本名は為之助。美濃生れ。
	 京都で南画を、のち洋画を横浜で五姓田芳柳(初世)に学ぶ。
	 1876(明治 9)工部美術学校に入学してフォンタネージの指導
	を受ける。
	 1878〜1887(明治11〜明治20)フランスに留学。
	 帰国後、画塾生巧館を開く。
	 明治美術会・白馬会の創立に参加。
	 代表作は『西洋婦人像』など。
	◎門下生は藤島武二ら。
やまもと ほくざん
	山本 北山
	1752(宝暦 2)
	1812(文化 9. 5.18)
	◇江戸後期の儒学者(折衷学派)。名は信有、字は天禧、通称は
	喜六、別号は奚疑翁・孝経楼主人。江戸の御家人の子。
	 15歳で井上金峨に折衷学・孝経を学び、独力で四書六経を読
	む。荻生徂徠(オギュウ・ソライ)の学の擬古的態度を排撃し、私塾奚
	疑塾を開く。
	 1790(寛政 2)寛政異学の禁のとき、これに反対し市川鶴鳴(カ
	クメイ)・亀田鵬斎(ホウサイ)・塚田大峰(タイホウ)・泉豊洲とともに五鬼
	と称される。
	 著書は『孝経集覧』・『孝経楼詩話』・『孝経楼漫筆』など。
やまもと みちお《やまもち みちを》
	山本 迪夫
	1933. 7. 6(昭和 8)
	2004. 8.23(平成16)
	◇映画監督・テレビ演出家。新潟県生れ。
	 東宝撮影所に入り黒澤明監督らの助手となる。
	 1969(昭和44)『野獣の復活』で映画監督としてデビュー。
	 肝臓ガンで死去。
	 作品は怪奇映画『血を吸う薔薇』、TVドラマ『太陽にほえ
	ろ!』・『姿三四郎』など。
やまもと ゆうぞう《やまもと いうざう》
	山本 有三
	1887. 7.27(明治20)
	1974. 1.11(昭和49)
	◇大正・昭和期の劇作家・小説家。本名は勇造、別名は壬生融。
	栃木県下都賀郡栃木町(現:栃木市)生れ。戸籍簿では、 9. 1出
	生。
	 1902(明治35)栃木高等小学校を卒業し、東京浅草の呉服店へ
	奉公に出されるが、翌年実家へ逃げ帰る。1905(明治38)許しを
	得て上京し、神田の正則英語学校・同予備校に学ぶ。1906(明
	治39)東京中学校の補欠試験を受け九月五年級に編入。その後、
	変則的な進学を続け、1915(大正 4)東京帝国大学ドイツ文科卒
	業。
	 在学中に第三次『新思潮』の同人となる。初めは戯曲に専念
	し、のち小説に力を注ぐ。
	 1946. 5.〜1947. 4.(昭和21〜昭和22)貴族院議員、1947. 5.
	〜1953. 4.(昭和22〜昭和28)参議院議員。国語問題に貢献。
	 1965(昭和40)文化勲章を受賞。
	 著書は小説『波』・『真実一路』・『路傍の石』・『女の一
	生』、戯曲『津村教授』・『生命の冠』・『嬰児殺し』・『坂
	崎出羽守』・『同志の人々』・『米百俵』など。
やまもと りへい
	山本 利平(初世)
	1688
	1766(明和 3)
	◇江戸中期の漆工。本名は武次。丹波の人。
	 宝永(1704〜1711)のころ上洛し吉文字屋某に漆工を学ぶ。
	 1746(延享 3)桃園天皇即位に際し漆器を製作。
	(*)1688(貞享 5,元禄元)。
やまもと りへい
	山本 利平(三世)
	1770(明和 7)
	1838(天保 9)
	◇江戸後期の漆工。本名は光春。
	 父に蒔絵(マキエ)を、吉野元陳に狩野派の絵を学ぶ。
	 1817(文化14)仁孝天皇即位の調度品に蒔絵を施す。また、宮
	中の屏風(ビョウブ)に山水を描く。
やまもと ろてき
	山本 露滴
	1884.10. 1(明治17)
	1916.12. 1(大正 5)
	◇歌人・詩人・ジャーナリスト。本名は喜市郎。
やまもと ろよう
	山本 露葉
	1879. 2. 3(明治12)
	1928. 2.29(昭和 3)
	◇詩人・小説家。本名は三郎、号は初め「みやま」・三山のち
	露葉。東京生れ。慶応義塾・東京専門学校(現:早稲田大学)に
	学ぶ。
	(5)没日は1928. 2.29(昭和 3)。
	(10)誕生日は戸籍による。慶大・早大の学籍簿では1878. 1.25
	(明治11)。没日は1928. 2.29(昭和 3)。
	(11)没日は1927. 3. 2(昭和 2)。
やまわき しんとく
	山脇 信徳
	1886. 2.11(明治19)
	1952. 1.21(昭和27)
	◇洋画家。
	(10)誕生日は 2.19。
やまわき とうよう《やまわき とうやう》
	山脇 東洋
	1705(宝永 2)
	1762(宝暦12)
	◇江戸中期の医者。本名は清水尚徳、字(アザナ)は玄飛。丹波国
	(京都府)亀山の人。
	 後藤艮山(コンザン)について古医方(コイホウ)を学ぶ。
	 1754(宝暦 4)刑死体を解剖し、その結果旧説に誤謬の多いこ
	とを発見し、日本最初の解剖図誌『蔵志』(2巻)を著して近代
	的実験医学の先駆者となる。
	 その他の著書は『養寿院医則』・『方函』など。
	◎『蔵志』は日本最初の解剖記録で、1771(明和 8)前野良沢・
	杉田玄白の死体解剖実見より早い。
やまわき としこ
	山脇 敏子
	1887(明治20)
	1960(昭和35)
	◇服飾家。
やりた けんいち
	鑓田 研一
	1892. 8.16(明治25)
	1969. 1.28(昭和44)
	◇評論家・小説家。本名は徳座研一、別号は鑓田芳花。山口県
	生れ。神戸神学校卒業。
	(3)本名は徳座妍一。
	(5)本名は徳座研一。
	(10)本名は徳座研一。
	(11)本名は徳座研一。
やん よーすてん
	ヤン ヨーステン
	1556(弘治 2)頃
	1623(元和 9)
	◇江戸初期のオランダ船員・貿易家。日本名は八代洲(ヤヨス)・
	耶揚子、本名はJan Joosten van Loodensteijn。
	 乗船リーフデ号は1600(慶長 5)アダムスらとともに豊後に漂
	着。同乗していたイギリス人ウィリアム・アダムスとともに徳
	川家康の信任を得て、江戸に屋敷を与えられ日本婦人と結婚。
	幕府とオランダ商館との仲介役を果たし、東南アジアとの朱印
	船貿易にも活躍。
	 家康の没後、本国帰還のためバタビアに渡ったが不首尾に終
	り、日本への帰途、南シナ海で難破して溺死。
	◎八重洲は彼の江戸居住地にちなむ。
やんぐ
	ヤング
	1857(安政 4)
	1922(大正11)
	◇イギリス人ジャーナリスト。Robert Young。
	 1888(明治21)来日。新聞「コーベ・クロニクル」紙を創刊、
	のち「ジャパン・クロニクル」と改題。
	 神戸で没。
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