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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6711.02

                 人   名   辞   典   《やま》      編集:獨  澄旻

-------- やま --------------------------------------------------
やまうち ぐせん
	山内 愚仙
	1866(慶応 2. 6.)
	1927. 8. 1(昭和 2)
	◇画家。本名は貞郎。
やまうち けんご
	山内 謙吾
	生年不詳
	没年不詳
	◇昭和初期の小説家。
やまうち ふさきち
	山内 房吉
	1898. 3. 8(明治31)
	1952. 7.29(昭和27)
	◇文芸評論家。
やまおか そうはち
	山岡 荘八
	1907. 1.11(明治40)
	1978. 9.30(昭和53)
	◇小説家。本名は藤野庄蔵、旧姓は山内、筆名は藤野荘三。新
	潟県の農家に生れた。
	(3)誕生日は 1.11。
	(5)誕生日は 1.22。
	(10)誕生日は 1.11。
	(11)誕生日は 1.22。
やまおか てっしゅう
	山岡 鉄舟
	1836(天保 7)
	1888(明治21. 7.19)
	◇幕末の幕臣・明治の政治家。通称は鉄太郎。千葉周作門下の
	剣を修め、幕府講武所で剣術を指南。1868(明治元)戊辰戦争の
	際、勝海舟の使者として駿府にいき、江戸無血開城のための勝
	・西郷隆盛会談への道を開いた。維新後、明治天皇の侍従。
	 勝海舟・高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。
	◆墓は東京都台東区谷中の全生庵にあり、鉄舟寺とも呼ばれる。
	◎東京都台東区の上野公園に、鉄舟の筆になる彰義隊の大墓標
	「戦士之墓」がある。
やまおか てつたろう
	山岡 鉄太郎
	⇒やまおか てっしゅう(山岡 鉄舟)
やまが そこう《やまが そかう》
	山鹿 素行
	1622(元和 8. 8.16)
	1685(貞享 2. 9.26)
	◇江戸前期の儒学者・兵学者。名は高興(タカオキ)・高祐(タカスケ)、
	幼名は佐太郎、字は子敬、通称は甚五左衛門、号は陰山のち素
	行。陸奥国会津若松生れ。父は貞以(サダモチ)。
	 六歳で父とともに江戸に出る。1630(寛永 7)林羅山(ラザン)の
	門人となり朱子学を学ぶ。また兵学を十八歳で北条氏長に、甲
	州軍学を小幡景憲に修める。
	 江戸で山鹿流軍学を講じると諸大名が争って招いたが応じな
	かった。
	 1652年赤穂藩主浅野長直(ナガナオ)に禄高一千石で仕える。1660
	(万治 3)赤穂藩を致仕。再び江戸で講義。
	 朱子学や陽明学に反対し、孔子の原典への復帰する古学を提
	唱し、1665(寛文 5)朱子学の観念論化を批判した『聖教要録』
	3巻を著したため、幕府に忌まれ、翌年赤穂藩に配流。
	 1669(寛文 9)配所で中心は日本であるとする『中朝事実』2
	巻を著す。
	 1675(延宝 3. 7.)許されて、8月江戸に帰り、私塾を開き軍
	学を講じる。
	 古学の開祖・山鹿流軍学の始祖。
	 他の著書は『武教要録』・『武教全書』8巻・『配所残筆』
	・『山鹿語類』43巻・『武家事紀』・『原源発録』など。
	◆墓は東京都新宿区弁天町の宗参寺。
	◎赤穂義士の大石良雄らは配流中の門下という。
	(2)小幡勘兵衛景憲に甲州流軍学を学んで免許を得、自ら山鹿
	流軍学を創始。'75(延宝 3)許され,……。
	(+)『国史の光 下巻』		昭和 2年12月 5日發行
	 著者:中山榮作,發行所:博文館	昭和11年 8月20日
						増補24版發行
	 十八歳の時幕府の師範役(シハンヤク)北條氏長(ホウジウ・ウヂナガ)に
	ついて軍学を修め……。
	(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』
		成美堂出版		昭和56年11月 1日初版発行
		監修:尾崎秀樹		昭和57年 1月10日四刷発行
	 延宝(エンポウ)三年(一六七五)から、約九年間にわたる謫居(タツ
	キヨ)の間、……。
	(*)1652(慶安 5,承応元)。
やまがた ありとも
	山県 有朋
	1838. 6.14(天保 9.閏4.22)
	1922. 2. 1(大正11)
	◇明治〜大正の軍人・政治家・公爵。初名は小輔、通称は狂介、
	号は素狂・含雪。屋号は椿山荘・無鄰庵・古稀庵。長州藩の下
	級武士の出。
	 幕末、奇兵隊の総督。1868(明治元)ヨーロッパを視察し、徴
	兵令を制定、軍人勅諭の発布に参画。1877(明治10)西南戦争で
	西郷隆盛の征討に参軍。1878(明治11)初代参謀本部長。
	 1885(明治18)初代内相。第一次1889.12.24〜1891. 5. 6(明
	治22〜明治24)、第二次1899.11. 8〜1900.10.18(明治32〜明治
	33)総理大臣。
	 日清戦争には第一軍司令官。日露戦争では参謀総長、戦勝の
	功績により侯爵から公爵に叙せられる。のち枢密院議長。
	◆東京都文京区の護国寺に墓がある。
	◎邸跡は東京都文京区関口の宴会場・椿山荘。
やまがた いそお
	山県 五十雄
	1869(明治 2. 3.16)
	1959. 3.15(昭和34)
	◇英学者。筆名は螽湖。
やまがた だいに
	山県 大弐(山縣 大貳)
	1725(享保10)
	1767(明和 4. 8.)
	◇江戸中期の尊王論者・兵学者。名は昌貞(マササダ)、字は子明、
	通称は大弐、号は柳荘。甲斐(カイ)の人。
	 医術・儒学・天文・地理・兵学を修める。
	 宝暦年中(1751〜1764)、江戸に出て塾を開き兵学を講じる。
	 竹内式部の宝暦事件に際し、『柳子新論』を著し「天に二日
	なく、民に二主なし」と尊王思想を説く。また当時、田沼意次
	の時代で、幕府の賄賂(ワイロ)を批判。
	 1766(明和 3)反幕府の陰謀という密告により捕らえられ(明
	和事件)、翌年藤井右門とともに死罪。
	◎竹内式部・藤井右門とともに三尊王家(サンソンオウカ)の一人。
	 明治になって正四位を追贈。
	◎祖先は武田信玄二十四勇将の一人山県昌景(マサカゲ)という。
やまがた ていざぶろう
	山県 悌三郎
	1858(安政 5.12.17)
	1940. 1.18(昭和15)
	◇教育者・社会教育家。
やまがた ばんとう《やまがた ばんたう》
	山片 蟠桃
	1748
	1821(文政 4. 2.28)
	◇江戸後期の経済論者・思想家。本姓は長谷川有躬(アリミ)、名
	は芳秀(ヨシヒデ)、通称は久兵衛・小右衛門。播磨印南郡神爪村
	生れ。
	 幼時から大坂北浜(キタハマ)の両替商升屋平右衛門に仕え商才を
	発揮し、経営危機にあった升屋本家を再興。また、陸奥(ムツ)仙
	台藩・豊後(ブンゴ)岡藩など諸藩の財政再建も成し遂げる。そ
	の功により升屋本家の親類次席として別家し、山片を名乗り升
	屋小右衛門(升小)と称して両替商を営む。
	 家業のかたわら懐徳堂の中井竹山(チクザン)・中井履軒(リケン)兄
	弟に儒学(折衷学)わ、麻田剛立(ゴウリュウ)に天文学を学び、また
	蘭学も修める。
	 1802(享和 2)『夢の代(シロ)』を執筆し、途中盲目となったが
	1820(文政 3)12巻(天文・地理・神代・歴代・制度・経済・無
	鬼など)を完成。天文では地動説を、無鬼では無神論を主張。
	ほかに『大和辨』がある。
	(*)1748(延享 5,寛延元)。
	◎升屋の番頭であったので「蟠桃」を名乗った。
やまがみ ちゅせん
	山上 ゝ泉
	1880.10. 6(明治13)
	1951. 3. 3(昭和26)
	◇歌人・国文学者。幼名は覚之介、山上家に入り得度し智海と
	改名、旧姓は佐々木。
やまかみ ていいち
	山上 貞一
	1899. 1.13(明治32)
	1971. 5.17(昭和46)
	◇演劇評論家・小説家。
やまかわ きくえ《やまかは きくえ》
	山川 菊栄(山川 菊榮)
	1890.11. 3(明治23)
	1980.11. 2(昭和55)
	◇評論家・婦人問題研究家。旧姓は青山。東京生れ。山川均(ヒ
	トシ)の妻。
	 1912(明治45)女子英学塾(現:津田塾大学)卒業。
	 堺利彦・幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会を
	通して社会主義を学ぶ。
	 1914(大正 3)ころより雑誌「青踏」・「新社会」に投稿を始め、
	社会主義の立場から平塚らいてう・伊藤野枝らの運動を批判。
	 1916(大正 5)社会主義運動家山川均と結婚。
	 1921. 4.(大正10)ロシア革命に刺激され、堺真柄(マガラ)(堺
	利彦の娘)・久津見房子・中曾根貞代らと日本で最初の社会主
	義婦人団体「赤瀾(セキラン)会」を結成、同年メーデーに初参加。
	 1947(昭和22)社会党に入党。同年労働省が新設され、9月1
	日同省婦人少年局の初代局長に就任。1962(昭和37)田中寿美子
	らと婦人問題懇話会を設立。
	 著書は『女性五十講』1933(昭和 8)・『覚書幕末の水戸藩』
	1974(昭和49)など。
やまかわ けんじろう
	山川 健次郎
	1854(嘉永 7. 7.17)。
	1931. 6.26(昭和 6)
	◇明治・大正期の物理学者・教育家。会津藩士山川尚江の子、
	大山捨松(ステマツ)の実兄。
	 旧会津藩士。藩校日新館に学ぶ。
	 1870(明治 3)北海道開拓使の推挙でロシア・アメリカに留学
	し、1875(明治 8)帰国。
	 1876(明治 9)東京開成学校教授補。1879(明治12)東京大学教
	授。1888(明治21)博士号授与者の一人として最初の理学博士。
	東京大学理科大学長を経て、1901〜1904(明治34〜明治37)東京
	大学総長。1911(明治44)九州大学総長、1913(大正 2)再び東京
	大学総長となり1914(大正 3)京都大学総長を兼任。
	 1904(明治37)勅撰貴族院議員。1915(大正 4)男爵。1923(大
	正12)枢密顧問官。
やまかわ しゅうほう
	山川 秀峰
	1898. 4. 3(明治31)
	1944.12.29(昭和19)
	◇挿絵画家。本名は嘉雄。京都生れ。
	 鏑木清方・池上秀畝に師事。伊東深水とともに青衿会を創設。
やまかわ すてまつ
	山川 捨松
	⇒おおやま すてまつ(大山 捨松)
やまかわ ちおう
	山川 智応
	1879. 3.16(明治12)
	1956. 6. 2(昭和31)
	◇宗教学者。本名は伝之助。
やまかわ とみこ
	山川 登美子
	1879. 7.19(明治12)
	1909. 4.15(明治42)
	◇歌人。本名は「とみ」、別号は白百合。福井県小浜町外雲浜村
	生れ。山川亮(リョウ)の実姉。
	 1898(明治31)大阪梅花女学校卒業。師与謝野鉄幹を慕うが、
	歌友鳳晶子に譲り、1900(明治33)親の意に従い山川駐七郎(トメシ
	チロウ)と結婚するが翌々年夫と死別。
	 1904(明治37)上京し日本女子大学英文科に入学、1907(明治
	40)卒業を目前にして病気で退学、帰郷。
	(1)誕生日は 7.26。
	(3)誕生日は 7.19。
	(5)誕生日は 7.19。明治三○年大阪の梅花女学校卒業。その師
	師与謝野鉄幹に対する悲恋の想いを胸に秘め、三三年暮れ山川
	駐七郎(トメシチロウ)と結婚、……。
	(10)誕生日は 7.19。明治三○年大阪の梅花女学校卒業。その
	師与謝野鉄幹にたいする悲恋断腸の想いをかずかずの哀切な歌
	に残し、三四年の春親の定めた一族の山川駐七郎(トメシチロウ)のも
	とに嫁いだ。
	(2)誕生日記載なし。'01山川駐七郎と結婚したが1年ほどで未
	亡人となる。
	(11)誕生日は 7.19。
	(13)明治一二年七月福井県小浜町外雲浜村に生まる。
やまかわ ひとし《やまかは ひとし》
	山川 均
	1880.12.20(明治13)
	1958. 3.23(昭和33)
	◇明治〜昭和期の社会主義思想家・評論家。山川菊栄(キクエ)の
	夫。岡山県倉敷生れ。
	 1897(明治30)同志舎大学中退。キリスト教から社会主義に転
	じ、1906(明治39)日本社会党に入党。1908(明治41)赤旗事件に
	連坐し入獄。出獄後、1910(明治43)大逆事件の嵐をさけて一時
	帰郷。1916(大正 5)上京し売文社に入り、マルクス主義の理論
	家として活躍。
	 1922(大正11)日本共産党の創立に参加。『無産階級運動の方
	向転換』などを発表し、山川イズムと称される協同戦線党論で、
	共産党を解党し普通選挙に備えることを主張、社会主義運動に
	大きな影響を与える。のち福本和夫の福本イズムが台頭し、二
	十七年テーゼでは福本イズムとともに批判され1928(昭和 3)離
	党。
	 労農派の中心的指導者として活躍。1937(昭和12)人民戦線事
	件で検挙。
	 第二次世界大戦後、日本社会党左派の理論的指導者として活
	躍。
	 著書は『日本民主革命論』・『ある凡人の記録』・『山川均
	自伝』など。
やまかわ まさお
	山川 方夫
	1930. 2.25(昭和 5)
	1965. 2.20(昭和40)
	◇小説家。本名は嘉巳(ヨシミ)。慶応義塾大学仏文科卒業。交通
	事故死。
やまかわ やちえ
	山川 弥千枝
	1918. 1. 8(大正 7)
	1933. 3.31(昭和 8)
	◇明星学園生徒。東京生れ。肺結核にたおれ療養生活を送る。
	没後、母の山川柳子(リュウコ)により『薔薇は生きてる』が刊行。
	川端康成らに認められる。
やまかわ ゆきよ
	山川 幸世
	1904. 3.23(明治37)
	1974.12.23(昭和49)
	◇演出家。
やまかわ りゅうこ
	山川 柳子
	1883. 2.13(明治16)
	1976.12.14(昭和51)
	◇歌人。旧姓は長谷川。山川弥千枝(ヤチエ)の母。
やまかわ りょう
	山川 亮
	1887. 3. 2(明治20)
	1957. 4.14(昭和32)
	◇小説家。本名は亮蔵、別名は鳳(オオトリ)逸平。福井県生れ。
	 山川登美子(トミコ)の実弟。
やまぎし がいし
	山岸 外史
	1904. 7.16(明治37)
	1977. 5. 7(昭和52)
	◇評論家。東京生れ。東京大学哲学科卒業。
やまぎし かよう
	山岸 荷葉
	1876. 1.29(明治 9)
	1945. 3.10(昭和20)
	◇小説家。本名は惣次郎(ソウジロウ)、別号は加賀舎(カガノヤ)。東
	京日本橋生れ。東京専門学校に学ぶ。
	(1)本名は惣次郎。
	(3)本名は惣太郎。
	(5)本名は惣次郎(ソウジロウ)。
	(10)本名は惣次郎。
	(11)本名は惣(ソウ)次郎。
	(13)本名は惣次郎。
やまぎし みつのぶ
	山岸 光宣
	1879. 2. 8(明治12)
	1943.10. 1(昭和18)
	◇ドイツ文学者。
やまぎわ しちし
	山際 七司
	1849(嘉永 2)
	1891(明治24)
	◇明治前期の民権活動家。新潟出身。
	 西園寺公望(キンモチ)社長・中江兆民主筆の「東洋自由新聞」発行
	に尽力。
やまぐち いちたろう
	山口 一太郎
	生年調査中
	1961. 2.22(昭和36)
	◇昭和初期の軍人(大尉)。
	 1936(昭和11)二・二六事件の当日、歩兵第1連隊週番司令。
	軍法会議で無期禁固となる。
やまぐち かりゅう
	山口 花笠
	1878.11.20(明治11)
	1944. 2.17(昭和19)
	◇俳人・雑貨商。本名は林造、別号は吟風洞。
やまぐち かんすい
	山口 寒水
	1884. 4. 5(明治17)
	1904. 6.28(明治37)
	◇小説家。結核により死去。
やまぐち ぎいち
	山口 義一
	1888(明治21)
	1939(昭和14)
	◇大正・昭和前期の政党(政友会)政治家。
やまぐち きいちろう
	山口 喜一郎
	1872(明治 5)
	1952(昭和27)
	◇日本語教育者。
	 台湾で日本語教育に従事。朝鮮・満州などの日本語教育にも
	携(タズサ)わる。
	 1941(昭和16)『日本語教授法概説』(北京新民印書館)など。
やまぐち きくいちろう
	山口 喜久一郎
	1897(明治30)
	1981(昭和56)
	◇昭和期の政治家。
やまぐち こけん
	山口 孤剣
	1883. 4.19(明治16)
	1920. 9. 2(大正 9)
	◇社会主義運動家・詩人。本名は義三(ヨシゾウ)。山口県生れ。
	東京政治学校卒業。
やまぐち しょうきちろう
	山口 将吉郎
	1896. 3.30(明治29)
	1972. 9.12(昭和47)
	◇挿絵画家。山形県鶴岡市生れ。
	 1915(大正 4)上京。東京美術学校で結城素明(ユウキ・ソメイ)に日
	本画を学ぶ。
	 「少年倶楽部」に連載された吉川英治の『神州天馬侠』の挿絵
	が有名。
やまぐち そうへい
	山口 草平
	1882(明治15)
	1961(昭和36)
	◇挿絵画家。大阪難波新地生れ。国学院専門部卒業。
	 独学で日本画を修得。
やまぐち そどう《やまぐち そだう》
	山口 素堂
	1642(寛永19)
	1716(享保元. 8.15)
	◇江戸中期の俳人。名は信章、幼名は重五郎、通称は市右衛門
	のち勘兵衛。別号は来雪・素仙堂・蓮池翁、庵号は今日庵・
	其日庵。甲斐国生れ。
	 江戸で漢学を修める。
	 京都で北村季吟に俳諧を学ぶ。
	 江戸に定住し仕官するが、38歳で致仕し晩年は葛飾(カツシカ)に
	隠栖。
	 経学・和歌・書道・茶道・能楽など広い教養を備え、同門の
	松尾芭蕉と親交を結び客分となって蕉風成立期の芭蕉に大きな
	影響を与える。
	 著書『とくとくの句合』。
	◆素堂忌[旧暦 8.15]。
	◎後世、葛飾蕉風・葛飾蕉門の祖とされる。
	◎弟子の長谷川馬光(バコウ)らは1750(寛延 3)関口芭蕉庵に「さ
	みだれ塚」を築いている。
	◎鎌倉の由比ヶ浜を詠んだ句「目には青葉/山ほととぎす/は
	つがつお」は有名。
やまぐち たけし
	山口 剛
	1884. 3. 1(明治17)
	1932.10. 8(昭和 7)
	◇近世文学研究家。
やまぐち とらたろう
	山口 虎太郎
	1866(慶応 2. 1. 6)
	1916.12.26(大正 5)
	◇医者。高秀と改名。
やまぐち ほうしゅん
	山口 蓬春
	1893.10.15(明治26)
	1971. 5.31(昭和46)
	◇画家。本名は三郎。
やまぐち もきち
	山口 茂吉
	1902. 4.11(明治35)
	1958. 4.29(昭和33)
	◇歌人。兵庫県生れ。中央大学商科卒業。
	 「アララギ」に入会。島木赤彦のち斎藤茂吉に師事。「アザミ」
	を創刊。
	(1)没日は 2.29。
	(3)没日は 4.29。
	(5)没日は 4.29。
	(10)没日は 4.29。
	(11)没日は 4.29。
やまざき あきら
	山崎 斌
	1892.11. 9(明治25)
	1972. 6.27(昭和47)
	◇小説家・評論家。
やまざき あんさい
	山崎 闇斎
	1618(元和 4.12. 9)
	1682(天和 2. 9.16)
	◇江戸初期の儒者(朱子学)・崎門(キモン)学派の祖。名は嘉、字
	は敬義(モリヨシ)、通称は嘉右衛門、別号は垂加(シデマス)。京都生
	れ。医師清兵衛三右衛門の子。
	 初め僧として妙心寺(ミョウシンジ)に入る。のち土佐の吸江寺に
	遊び谷時中(タニ・ジチュウ)に朱子学を学ぶ。
	 還俗(ゲンゾク)して儒者になり、京都で塾を開く。
	 京都と江戸に半年づつ住み伊予(いよ)の大洲藩(オオズハン)加藤
	氏、陸奥(ムツ)の会津藩(アイズハン)保科正之ら諸侯にも仕える。
	 さらに吉川惟足(ヨシカワ・コレタル)について神道も修め、吉田神道
	と朱子学とを合せた神儒一致説を説き、晩年は垂加神道(スイカシン
	トウ)を興す。
	 著書は『会津風土記』・『垂加文集』・『大和小学』2巻・
	『垂加草全集』10巻・『文会筆録』20巻など。
	◎門弟は6千人に達し、門下から浅見絅斎・(ケイサイ)・佐藤直方
	(ナオカタ)・三宅尚斎(ショウサイ)の崎門三傑(キモンサンケツ)らを輩出。
	 闇斎の宗教的傾向は門弟からも批判されたが、垂加神道は後
	世の尊王運動に大きな影響を与えた。
やまざき がくどう
	山崎 楽堂
	1885. 1.19(明治18)
	1944.10.29(昭和19)
	◇能楽研究者・建築家・俳人。本名は静太郎。
やまざき けさや
	山崎 今朝弥
	1977. 9.15(明治10)
	1954. 7.29(昭和29)
	◇弁護士・評論家・社会主義者。長崎県生まれ。
	 明治法律学校卒業。1903(明治36)アメリカに留学。
	 社会主義運動に参加。
	 1921(大正10)布施辰治らと自由法曹団を創立し、無産運動に
	関する多くの裁判事件の弁護士を勤めるが、1935(昭和10)ころ
	弾圧により活動停止。
	 日本フェビアン協会結成に尽力。
	 雑誌「社会主義」・「解放」などを主宰。
	 青山墓地の「開放運動無名戦士之墓」を提案、彼もそこに眠る。
	 1945.10. 8(昭和20)自由法曹団(幹事:上村進)を再建。
やまざき しこう
	山崎 紫紅
	1875. 3. 3(明治 8)
	1939.12.22(昭和14)
	◇劇作家・詩人。本名は小三(ショウゾウ)。横浜生れ。
	(5)没日は12.22。
	(10)没日は12.25。
	(11)没日は12.22。
	(13)没日は12.22。
やまざき そうかん
	山崎 宗鑑
	1465(寛正 6)
	1553(天文22)
	◇室町後期の連歌師・俳人。本名は支那範重(シナ・ノリシゲ)、通称
	は弥三郎。近江の人。
	 武士の出で足利義尚(ヨシヒサ)(第九代将軍)に仕える。
	 一休宗純に参禅し、宗祇・宗長らと交友。
	 のち出家して京都山崎に隠棲(インセイ)し、山崎の宗鑑と称され
	る。
	 『新撰犬筑波集』の選者といわれる。
	 辞世の句は「宗鑑はいづこへと人の問ふならば/ちとようあ
	りてあの世へといへ」。
	(2)1465〜1553(寛正 6〜天文22)。
	(4)(―〜1540頃)。
	(5)没年は1540(天文 9)頃。
	(6)?〜1552ころ。
	(19)(―〜1540頃)。
	◆宗鑑忌[旧暦10. 2]。
	◎荒木田守武とともに俳諧の祖といわれる。
やまざき ちょううん《やまざき てううん》
	山崎 朝雲
	1867(慶応 3)
	1954(昭和29)
	◇木彫家。博多の陶工の家に生れる。
	 郷里の仏師に師事し、のち上京して高村光雲に師事。
	 1907(明治40)同門の米原雲海(ヨネハラ・ウンカイ)・平櫛田中(ヒラクシ・デ
	ンチュウ)らと日本彫刻会を創立。芸術院会員。
	 文展の審査員も勤め、晩年は神像・仏像制作に専念。
	 代表作は『大葉子』など。
やまざき なおまさ《やまざき なほまさ》
	山崎 直方
	1870(明治 3)
	1929(昭和 4)
	◇明治〜昭和期の地質・地理学者。高知県生れ。水田光子(ミズタ
	・ミツコ)の夫。
	 東京帝国大学卒業。ウィーンでA.ペンクに学ぶ。東京帝国
	大学教授。東京帝国大学・東京文理大学に地理学教室を設置。
	 日本アルプスの氷河作用・秋吉台のカルスト地形・丹那盆地
	の断層地形などを研究、日本の地理学・地形学の基礎を築いた。
	 著書は佐藤伝蔵との共著『大日本地誌』9巻など。
やまざき ほうだい
	山崎 方代
	1914.11. 1(大正 3)
	1985. 8.19(昭和60)
	◇歌人。山梨県生れ。
	 第二次大戦の南方戦線に従軍し、殆んど失明状態で復員。
やまざき やすお《やまざき やすを》
	山崎 安雄
	1910. 1.12(明治43)
	1964. 7.13(昭和39)
	◇ジャーナリスト。
やまじ あいざん《やまぢ あいざん》
	山路 愛山
	1864(元治元.12.26)
	1917. 3.15(大正 6)
	◇明治時代の史論家・評論家。幼名は左衛門、明治以降
	は弥吉(ヤキチ)(彌吉)、初号は如山。江戸の幕臣の家に生れる。
	 東洋英和学校に学ぶ。キリスト教伝道に従事。
	 のち徳富蘇峰と交わり1892(明治25)民友社に入り、「国民新
	聞」・雑誌「国民之友」などの記者として活躍し、北村透谷と論
	争。
	 のち「信濃毎日新聞」・1899(明治32)「信濃日日新聞」主筆。
	 1903(明治36)「独立評論」を刊行、「国民雑誌」主筆。
	 悪性の赤痢で急死。
	 著書は『社会主義管見』・『現代金権史』・『現代日本教会
	史論』・『明治文学史』・『日本人民史』・『徳川家康』・
	『荻生徂徠』・『新井白石』・『足利尊氏』など。
	(1)没日は 3.15。
	(3)没日は 3.15。
	(5)没日は 3.14。悪性の赤痢で急死した。
	(10)没日は 3.15。一四日、夜悪性の赤痢を発して翌一五日夜
	死去。
	(11)没日は 3.14。
	(13)没日は 3.15。
やまじ ふみこ《やまぢ ふみこ》
	山路 ふみ子
	1912. 3.13(明治45)
	2004.12. 6(平成16)
	◇女優・社会慈善家。本名は大久保ふみ子。神戸生れ。
	 1929(昭和 4)ミス神戸に選ばれて、1930(昭和 5)高等女学校
	を卒業後、帝国キネマ(のち新興キネマ)に入社して『時代の反
	抗児』でデビュー。同年、『神戸行進曲』で初主演。
	 その後、日活や新興キネマで活躍。
	 第二次世界大戦後は山路ふみ子劇団を率いて公演活動。
	 1948(昭和23)松竹映画『お銀清次郎・色ざんげ』の後、映画
	界を引退。
	 1950(昭和25)東京で料亭を経営。
	 1964(昭和39)眼病の母の死をきっかけに料亭を売却して山路
	ふみ子自然科学振興財団を設立。
	 1972(昭和47)藍綬褒章を受章。
	 1976(昭和51)日本映画振興の功労者を顕彰する山路ふみ子文
	化財団を設立。
	 1993(平成 5)教育施設建設の寄与に対しネパールから外国人
	の最高位勲章ゴルカ・ダ・クシン・バブを受章。
やました たけお《やました たけを》
	山下 毅雄
	1930. 3. 7(昭和 5)
	2005.11.21(平成17)
	◇作曲家・編曲家。兵庫県神戸市生れ。
	 1962(昭和37)日本レコード大賞新人作曲賞を受賞。
	 脳血栓で死去。
	 作品はTVアニメ『ルパン三世』、TVドラマ『七人の刑事』
	・『大岡越前』・『プレイガール』の主題歌・劇中音楽など。
やました ともゆき
	山下 奉文
	1885(明治18)
	1946(昭和21)
	◇軍人・陸軍大将。高知県生れ。
	 陸軍大学校卒業。航空本部長兼航空総監。皇道派の青年将校
	を支持。
	 太平洋戦争でマライ方面軍・満州第一方面軍・フィリピン方
	面軍の司令官を勤め、1941(昭和16)マレー作戦・シンガポール
	攻略を行ない、「マレーの虎」と呼ばれる。
	 戦後、マニラの軍事裁判で戦争犯罪人として死刑。
やました ひでのすけ
	山下 秀之助
	1897.11.29(明治30)
	1974. 4. 4(昭和49)
	◇歌人。鹿児島県生れ。東京大学医学部卒業。札幌鉄道病院に
	勤務。
やました ほうぶん
	山下 奉文
	⇒やました ともゆき(山下 奉文)
やました むつ
	山下 陸奥
	1895.12.24(明治28)
	1967. 8.29(昭和42)
	◇歌人。広島県尾道市生れ。「一路」を創刊。
やました りん
	山下 りん
	1857(安政 4)
	1939(昭和14)
	◇イコン画家。洗礼名はイリナ。常陸国(茨城県)笠間生れ。
	 浮世絵師橋本周延ついで豊原国周に師事。さらに円山派の月
	岡藍雪や洋画家を目指していた中丸精十郎に師事。1877(明治
	10)工部美術学校に入学しイタリア人画家アントニオ・フォン
	タネージに油絵を習う。
	 1880(明治13)伝道師ニコライ・カサトキンによりイコンを学
	ぶためロシア・ペテルブルク(現在のサンクト・ペテルブルク)
	のノヴォジェーヴィチ復活女子修道院に派遣される。12.12横
	浜を出港、インド洋・スエズ運河・地中海・コンスタンティノ
	ープル・黒海・オデッサを経て1881(明治14) 3.10ペテルブル
	クに到る( 3.13アレクサンドル2世が暗殺)。副修道院長アポ
	ローニヤの妹の修道女フェオファニヤや講師でペテルブルク美
	術アカデミー校長フィヨルド・イヴァノヴィチ・ヨルダンの指
	導を受ける。1883(明治16) 3. 7帰国の途に着く。鉄路ベルリ
	ン・ケルン・パリを経て18日マルセイユを出港、 4.29横浜着。
	(+)『イコン−ビザンティン世界からロシア、日本へ』
		1993年 2月16日印刷、1993年 2月26日発行
		毎日新聞社	著者:鏑木道剛,定村忠士
やましな ときつぐ
	山科 言継
	1507(永正 4)
	1579(天正 7)
	◇戦国・安土桃山時代の公卿・権大納言。言綱の子。
	 後奈良天皇・正親町天皇に仕え、内蔵頭(クラノカミ)・御厨子所
	(ミズシドコロ)別当として皇室経済の維持に努める。
	◎日記『言継卿記』は1527〜1576(大永 7〜天正 4)におよび、
	戦国時代の公卿生活などを知る貴重な資料となっている。
やましろのおおえのおう《やましろのおほおのわう》
	山背大兄王
	生年不詳
	 643[皇極 2]
	◇飛鳥時代の皇族。聖徳太子の子。母は蘇我馬子(ソガノウマコ)の
	娘刀自古郎女。
	 太子の没後は上宮王家を代表。
	 推古(スイコ)天皇死後、蘇我蝦夷(エミシ)・入鹿(イルカ)の推す田村
	皇子(舒明天皇)と皇位を争って敗れる。
	  641[舒明13]舒明天皇の没後、人望があったため、 643[皇
	極 2]古人大兄皇子(フルヒトノオオエノオウジ)を皇位に推す蘇我入鹿の兵
	に攻められ、斑鳩(イカルガ)寺(現:法隆寺)で妻子一族とともに自
	殺。
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