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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6701.03

                 人   名   辞   典    《や》       編集:獨  澄旻

-------- や ----------------------------------------------------
やいた わかさ
	八板 若狭
	1527(大永 7)
	1570
	◇鉄砲鍛冶の娘。
	 1543(天文12)種子島に鉄砲が伝来したとき、刀鍛冶八板金兵
	衛が娘を船長に嫁して製法を体得する。
	(*)1570(永禄13,元亀元)。
やえざきや げんろく
	八重崎屋 源六
	生年不詳
	1749(寛延 2)
	◇江戸中期の越中富山売薬行商の祖。
やおや おしち《やほや おしち》
	八百屋 お七
	1668(寛文 8)
	1683(天和 3. 3.29)
	◇駒込片町(本郷追分など)の八百屋市左衛門の一人娘。
	 1682(天和 2.12.)天和の大火で焼け出された一家が檀那寺の
	駒込圓乗寺(キッショウジ)に避難。お七は寺小姓(吉三郎や佐兵衛な
	ど異説が多い)と知り合う。本郷に戻った翌年1月、恋慕のあ
	まり自宅に放火し捕らえられ、品川鈴の森(のち鈴ヶ森)で火刑
	となる。
	◆墓は東京都文京区白山1−34−6の圓乗寺。
	◎井原西鶴『好色五人女』・菅専助の浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子
	(ダテムスメコイノヒガノコ)』などに脚色されている。
	◎吉祥寺(キッショウジ)
	(2)生年は1668。避難先は正仙院、相手は生田庄之介。
	(4)生年は1666。
	(6)生年は1668。
	(+)没日は圓乗寺の立て札による。
やがさき きほう
	矢ヶ崎 奇峰
	1870(明治 3.10. 5)
	1948. 4.15(昭和23)
	◇俳人。本名は栄次郎。妻の妹四賀光子(シガ・ミツコ)は太田水穂
	の妻。
やぎ さわこ
	八木 さわ子
	1893. 4. 6(明治26)
	1946. 5. 8(昭和21)
	◇フランス文学者。東京生れ。
	 1921(大正10)アテネ・フランセ卒業。
やぎ じゅうきち
	八木 重吉
	1898. 2. 9(明治31)
	1927.10.26(昭和 2)
	◇大正時代の詩人。東京府南多摩郡堺(サカイ)村(現:町田市)生れ。
	父は藤三郎、母はツタ。
	 鎌倉師範学校を経て、1917(大正 6)東京高等師範学校(現:筑
	波大学)英文科入学。1919. 3. 2(大正 8)駒込基督会の富永徳
	磨牧師より洗礼を受ける。1921(大正10)卒業とともに兵庫県御
	影(ミカゲ)師範学校の英語教師。
	 1922. 7.(大正11)島田とみと結婚。1925(大正14)千葉県立東
	葛飾(ヒガシカツシカ)中学校教諭。
	 肺結核療養中、余病を併発して死去。
	(3)従兄の加藤武雄が…。
	(5)再従兄(マタイトコ)の加藤武雄が……。
	 無教会主義のため洗礼はうけなかったが、……。
	(8)「加藤武雄」に再従兄弟八木重吉の…。
	(10)母方の縁戚には作家の加藤武雄があり…。
	 二一歳(大八・三・二)のとき駒込基督会の富永徳磨牧師より
	洗礼を受けている。
	(11)再従兄(マタイトコ)の加藤武雄。
やぎ ひでつぐ
	八木 秀次
	1886(明治19)
	1976(昭和51)
	◇昭和期の電気通信工学者。大阪生れ。東京大学卒業。
	 1926(大正15)宇田新太郎とともに電波指向性の超短波用「八
	木アンテナ」を開発。東京工業大学学長・1944(昭和19)技術院
	総裁、戦後は大阪大学学長・学士院会員・参議院議員(社会党)。
	1956(昭和31)文化勲章を受章。
やぎ りゅういちろう
	八木 隆一郎
	1906. 4. 7(明治39)
	1965. 5.12(昭和40)
	◇昭和期の劇作家・シナリオ作家。本名は財一郎。秋田県能代
	市生れ。
	 1924(大正13)函館商業学校卒業。
	(1)誕生日は 4. 7。
	(3)誕生日は 4.17。
	(5)誕生日は 4. 7。
	(10)誕生日は 4.17。
	(11)誕生日は 4. 7。
やぎゅう じゅうべえ《やぎふ じふべゑ》
	柳生 十兵衛(柳生 重兵衛)
	⇒やぎゅう みつよし(柳生 三厳)
やぎゅう みつよし
	柳生 三厳
	1607(慶長12)
	1650(慶安 3. 3.21)
	◇江戸初期の剣術家。名は三厳(ミツヨシ)、通称は十兵衛・重兵衛。
	柳生宗矩(ムネノリ)の長子、宗冬(ムネフユ)の兄。
	 諸国を巡歴し、のち大和国正木坂で道場を開き弟子13,000人
	を数える。
	(4)新陰(シンカゲ)流を修め……。
	 後、大和国正木坂で弟子一万三千人に教え……。
	(6)新影流の奥義をきわめ……。
	 伊賀の正木坂で多くの弟子を教えた。
	◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。
やぎゅう むねのり《やぎふ むねのり》
	柳生 宗矩
	1571(元亀 2)
	1646(正保 3. 3.26)
	◇江戸初期の剣術家・大和柳生藩主。初名は新左衛門あるいは
	又右衛門、通称は但馬守(タジマノカミ)。柳生宗厳(ムネヨシ)の五男、
	三厳(ミツヨシ)(十兵衛)・宗冬(ムネフユ)の父。
	 1594(文禄 3)父宗厳とともに徳川家康に仕え、1600(慶長 5)
	関ヶ原の戦に功をたて、大和国柳生荘に2,000石を与えられる。
	第3代将軍徳川家光(イエミツ)の師範役となる。1629(寛永 6)但馬
	守。1632(寛永 9)総目付となり諸大名の監視にあたる。大和に
	12,500石。
	(4)新陰流の達人。
	(6)新影流の達人で……。
	(16)柳生新陰流の達人.
	◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。
やぎゅう むねふゆ
	柳生 宗冬
	1613(慶長18)
	1675(延宝 3. 9.29)
	◇江戸初期の大名。通称は又十郎・主膳・飛騨守。柳生新陰流
	の達人。柳生宗矩(ムネノリ)の第3子、三厳(ミツヨシ)(十兵衛)の弟。
	 1650(慶安 3)兄三厳の死により家督を継ぐ。
	 1657(明暦 3)飛騨守。
	 1668(寛文 8)大和国山辺郡に加増されて1万石となり大名に
	列する。
	 第4代将軍徳川家綱(イエツナ)の兵法師範となる。
	(6)新影流の秘奥をきわむ。
	(16)柳生新陰流の達人.
	◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。
やぎゅう むねよし《やぎふ むねよし》
	柳生 宗厳
	1527(大永 7)
	1606(慶長11. 4.19)
	◇戦国時代の剣術家。初名は新介あるいは新次郎のち新左衛門、
	通称は但馬守、号は石舟斎。美作守家厳の長男、宗矩(ムネノリ)の
	父。柳生新陰流剣術の始祖。
	 上泉秀綱(カミイズミ・ヒデツナ)に神陰流(新陰流)を学ぶ。筒井順慶
	(ジュンケイ)さらに三好長慶(ミヨシ・ナガヨシ)の家臣となる。柳生新陰
	流を完成し、足利義昭(ヨシアキ)・織田信長に招かれ、信長の大和
	進出の案内役となる。
	 病により柳生村に隠棲。
	 豊臣秀吉の太閤検地の際、隠田を密告され所領を没収される。
	 1594(文禄 3)徳川家康に仕え、1600(慶長 5)関ヶ原の戦には
	子宗矩を従軍させ、のち旧領柳生に500石を与えられる。
	(2)新陰流の剣術を完成し……。
	(4)新陰流剣道の祖。
	(6)上泉秀綱に神陰流を学んで奥義をきわめ,新影流をはじめ
	た。
	(16)上泉秀綱に新陰流の剣道を学び…….
やぎゅう れんさいや《やぎふ れんさいや》
	柳生 連也斎
	1625(寛永 2)
	1694(元禄 7)
	◇江戸前期の剣客。名は厳包(トシカネ)、号は連也斎・浦連也。尾
	張柳生家の祖利厳(トシトシ)の三男。
	 柳生新陰流の達人で、尾張藩兵法師範。
やぐち たつ
	矢口 達
	1889. 9.20(明治22)
	1936. 4. 4(昭和11)
	◇英文学者・翻訳家。
やざき げんくろう《やざき げんくらう》
	矢崎 源九郎
	1921. 3.26(大正10)
	1967. 2.23(昭和42)
	◇北欧文学者・言語学者。
やざき さがのや
	矢崎 嵯峨の舎
	⇒さがのや おむろ(嵯峨の舎 御室)
やざき だん
	矢崎 弾(矢崎 彈)
	1906. 2. 1(明治39)
	1946. 8. 9(昭和21)
	◇評論家。本名は神蔵芳太郎(カミクラ・ヨシタロウ)。新潟県佐渡ヵ島生
	れ。
	 佐渡中学校を経て、1931(昭和 6)慶応義塾大学英文科卒業。
	中央新聞社に勤務。
	(5)誕生日は1906. 2. 1(明治39)。
	(10)誕生日は1906. 2. 1(明治39)。
	(13)誕生日は1907. 2. 2(明治40)。
やざき よしもり
	矢崎 美盛
	1895. 8.13(明治28)
	1953. 4. 7(昭和28)
	◇美学者。
やざわ たかこ
	矢沢 孝子
	1877(明治10)
	1956. 4.(昭和31)
	◇歌人。
やじま かじこ《やじま かぢこ》
	矢島 楫子
	1834(天保 5. 4.24)
	1925. 6.16(大正14)
	◇明治・大正時代の女子教育家。肥後(現:熊本県)生れ。徳富
	蘇峰・徳富蘆花兄弟の叔母。
	 1872(明治 5)上京し教員伝習所に学ぶ。小学校に奉職。新栄
	女子学院の舎監となり、のち受洗。1889〜1914(明治22〜大正
	 3)女子学院の初代校長。
	 1893(明治26)日本婦人矯風会を創立会長となり、婦人
	参政権運動・禁酒運動・廃娼運動などに尽力し、婦人の地位向
	上に貢献。
	(4)生年は1833。
やじま かんいち
	矢嶋 歓一
	1898.10. 8(明治31)
	1970. 3.23(昭和45)
	◇歌人。本名は庄直兄。
やしろ せいいち
	矢代 静一 
	1927. 4.10(昭和 2)
	1998. 1.11(平成10)
	◇劇作家。
	 1978(昭和53)芸術選奨文部大臣賞、受賞。
	 1990(平成 2)紫綬褒章、受章。
	 代表作は1954(昭和29)『城館(シロ)』・1955(昭和30)『絵姿女
	房』・1968(昭和43)『夜明けに消えた』・1971(昭和46)『写楽
	考』・1973(昭和48)『北斎漫画』・1975(昭和50)『淫乱斎英泉』
	など。
やしろ とうそん
	矢代 東村
	1889. 3.11(明治22)
	1952. 9.13(昭和27)
	◇詩人・歌人。本名は亀広(カメヒロ)、初号は都会詩人。千葉県夷
	隅郡東村長志生れ。
	 青山師範を経て、1916(大正 5)日本大学専門部法科卒業。
	1921(大正10)判検事弁護士試験合格、翌1922(大正11)弁護士を
	開業。1928.11.(昭和 3)無産者歌人連盟に加盟、1929. 7.(昭
	和 4)プロレタリア歌人同盟に加盟。1942. 7.(昭和17)治安維
	持法違反で検挙されたが不起訴となる。
	 上顎ガンで死去。
	(1)本名は亀吉。
	(3)本名は亀広。
	(5)本名は亀広。
	(10)本名は亀広。
	(11)本名は亀広(カメヒロ)。
	(13)本名は亀広。
やしろ ひろかた
	屋代 弘賢
	1758(宝暦 8)
	1841. 3.10(天保12.閏1.18)
	◇江戸後期の国学者・書誌学者。通称は大郎、号は輪池。江戸
	生れの幕府御家人。
	 塙保己一(ハナワ・ホキイチ)に国学を学ぶ。幕府表右筆(オモテユウヒツ)と
	なり、保己一の『群書類従』編纂を助ける。蔵書は5万巻に及
	んだ。
	 著書は『古今要覧稿』など。
やしろ ゆきお
	矢代 幸雄
	1890.11. 5(明治23)
	1975. 5.25(昭和50)
	◇美術史学者・美術評論家。横浜生れ。
	 1915(大正 4)東京大学英文科卒業。
	 美術研究所(後:文化財研究所)所長・大和文華館(ヤマトブンカカン)
	初代館長。
やしろ ろくろう
	八代 六郎
	1860. 1.25(安政 7. 1. 3)
	1930. 6.30(昭和 5)
	◇明治・大正期の海軍軍人。
[1]やすい さんてつ《やすゐ さんてつ》
	安井 算哲(1世)
	1589(天正17)ころ
	1652
	◇囲碁棋士。河内の人。渋川春海の父。
	 本因坊算砂の門人。
	(*)1652(慶安 5,承応元)。
[2]やすい さんてつ《やすゐ さんてつ》
	安井 算哲(2世)
	⇒しぶかわ しゅんかい(渋川 春海)
やすい しゅんかい《やすゐ しゆんかい》
	安井 春海
	⇒しぶかわ しゅんかい(渋川 春海)
やすい そうたろう《やすゐ そうたらう》
	安井 曾太郎
	1888. 5.17(明治21)
	1955.12.14(昭和30)
	◇大正・昭和前期の洋画家。京都市生れ。
	 関西美術院で浅井忠・鹿子木孟郎に学ぶ。1907(明治40)フラ
	ンスに留学、アカデミー・ジュリアンでJ.P.ローランスに師
	事、1914(大正 3)帰国。
	 二科会会員・1935(昭和10)帝国美術院会員。1936(昭和11)一
	水会を創立。東京芸術大学教授。1952(昭和27)文化勲章受章。
	 代表作は『孔雀と女』・『金蓉』など。
やすい そくけん
	安井 息軒
	⇒やすい そっけん(安井 息軒)
やすい そっけん《やすゐ そくけん》
	安井 息軒
	1799. 2. 5(寛政11. 1. 1)
	1876. 9.23(明治 9)
	◇江戸末期の漢学(訓詁学)者。名は衡(コウ)、字は仲平(チュウヘイ)、
	号は息軒。日向国(宮崎県)の人。朴堂の祖父。
	 26歳で昌平黌(ショウヘイコウ)に入り松崎慊堂(コウドウ)に学び、日向
	飫肥(オビ)侯に仕える。のち昌平黌の教授。
	 1853(嘉永 6)米国つづいてロシア艦隊の来航に際し、『海防
	私議』を著す。
	 著書は『管子纂詁(カンシサンコ)』・『左伝輯釈(サデンシュウシャク)』・
	『周礼補疏』・『戦国策補正』・『論語集説』・『毛詩輯疏』
	・など。
	 夫人は、門鴎外の『安井夫人』のモデル。
やすい てつ
	安井 てつ
	1870(明治 3)
	1945(昭和20)
	◇明治〜昭和期の女子教育者。東京駒込生れ。		
	 1890(明治23)東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)を卒
	業して母校に勤め、1896(明治29)文部省留学生としてイギリス
	に留学、帰国して教授と舎監を兼任。イギリスに再度留学。
	 1904(明治37)タイ国の招きでバンコク府皇后女学校で教鞭を
	とる。
	 1918(大正 7)東京女子大学の学監、1923(大正12)同校第2代
	学長、1940(昭和15)退職して名誉学長。
	 1943(昭和18)東洋英和女学校校長事務取扱。
やすえ ふくう
	安江 不空
	1880. 1. 2(明治13)
	1960. 3.23(昭和35)
	◇歌人・画家。本名は廉介、初号は秋水。
やすおうまる
	安王丸
	⇒あしかが やすおう(足利 安王)
やすぎ さだとし
	八杉 貞利
	1876. 9.16(明治 9)
	1966. 2.26(昭和41)
	◇歌人・ロシア語学者。
やすだ あやお
	安田 章生
	1917. 3.24(大正 6)
	1979. 2.13(昭和54)
	◇歌人・国文学者。兵庫県生れ。安田青風の長男。
	 東京大学国文科卒業。甲南大学教授。1946(昭和21)父青風と
	ともに「白珠」を創刊。
やすだ ぜんじろう《やすだ ぜんじらう》
	安田 善次郎
	1838.11.25(天保 9.10. 9)
	1921. 9.28(大正10)
	◇明治・大正期の実業家。幼名は岩次郎。越中(富山県)生れ。
	 江戸に出て丁稚奉公。1864年両替商(安田屋)を営んで成功。
	 明治維新直後の混乱期に、太政官札を買い占めて巨利を得る。
	1874(明治 7)司法省為替方。1876(明治 9)川崎八右衛門と第三
	国立銀行を設立。1877(明治10)第四十一国立銀行を設立。1879
	(明治12)東京府会議員。1880(明治13)安田商店を安田銀行(現:
	富士銀行)と改名。地方国立銀行の合併につとめ銀行資本を中
	心に財閥を確立。日本最初の生命保険会社の共済生命五百名社
	(現:安田生命保険相互会社)を設立。
	 1880(明治13)横浜正金銀行・1882(明治15)日本銀行・1899
	(明治32)台湾銀行・1906(明治39)南満州鉄道(満鉄)の創立に関
	与。商法会議議員・1889(明治22)東京市会議員・日本銀行理事
	などを歴任。
	 1912年、安田財閥の中核となる保善社を設立。
	 大磯の別邸で国粋主義者朝日平吾(ヘイゴ)に刺殺、平吾はその
	場で自殺。
	◎没後の関東大震災後に東京大学安田講堂・東京市政会館(現:
	日比谷公会堂)を出資寄贈。
	(*)1864(文久 4,元治元)、1912(明治45,大正元)。
やすだ たけし
	安田 武
	1922.11.14(大正11)
	1986.10.15(昭和61)
	◇評論家。東京生れ。本郷中学校・神戸第三中学校中退。上智
	大学・法政大学中退。
やすだ ゆきひこ
	安田 靫彦
	1884(明治17)
	1978(昭和53)
	◇日本画家。本名は新三郎。東京日本橋生れ。
	 小堀鞆音(トモト)に師事。1898(明治31)同門の有志と研究団体
	紫光会を組織、1901(明治34)今村紫紅らが参加し紅児会と改称。
	 1914(大正 3)再興日本美術院の同人・1935(昭和10)帝国美術
	院会員。東京芸術大学教授。1948(昭和23)文化勲章を受賞。
	 日本・中国の古代を素材とする歴史画を得意とし、代表作に
	『御産の祷』・『王昭君』・『黄瀬川の陣』など。
やすだ よじゅうろう
	保田 与重郎(保田 與重郎)
	1910. 4.15(明治43)
	1981.10. 4(昭和56)
	◇文芸評論家。筆名は湯原冬美。奈良県磯城(シキ)郡桜井町生れ。
	 畝傍(ウネビ)中学校・大阪高等学校文乙を経て、1934(昭和 9)
	東京大学美学科卒業。
	 1948(昭和23)公職追放。
やすたか とくぞう
	保高 徳蔵(保高 徳藏)
	1889.12. 7(明治22)
	1971. 6.28(昭和46)
	◇小説家。大阪市南区宗右衛門町一番地生れ。
	 1915(大正 4)早稲田大学英文科卒業。
	 読売新聞記者、のち博文館勤務。
やすなり さだお
	安成 貞雄
	1885. 4. 2(明治18)
	1924. 7.23(大正13)
	◇明治・大正期の評論家。俳号は路臺。安成二郎の兄。
	秋田県生れ。東京専門学校(現:早稲田大学)卒業。
	 「二六新報」・「万朝報」・「やまと新聞」などの記者となる。
	1906. 1.(明治39)日本社会党創立に参加。同年、東京市電値上
	げ反対運動に加わり検挙。
やすなり じろう
	安成 二郎
	1886. 9.19(明治19)
	1974. 4.30(昭和49)
	◇歌人・小説家。秋田県生れ。戸籍上の生年は1888. 1.15(明
	治21)。安成貞雄の弟。
	 大館(オオダテ)中学校中退。
	(1)誕生日は1886(明治19. 9.19)。
	(3)誕生日は1886(明治19. 9.19)、戸籍面21. 1.15。
	(5)誕生日は1888(明治21. 9.19)。
	(10)誕生日は1886(明治19. 9.19)、戸籍は21. 2. 4。
	(11)誕生日は1888(明治21. 9.19)。
	(13)明治二一年九月秋田県に生まる。
やすはら ていしつ
	安原 貞室
	1610(慶長15)
	1673(寛文13. 2. 7)
	◇江戸前期の俳諧師。本名は正章(マサアキラ)、通称は鎰屋(カギヤ)
	彦左衛門、号は一嚢軒・腐誹子。京都生れの紙商。
	 松永貞徳に師事、同門の松江重頼と論争し、師の没後に貞徳
	二世を名乗り、同門の非難を浴びる。
	 作品は1648(慶安元)『正章千句』・1653(承応 2)『貞徳終焉
	記』・1656(明暦 2)『玉海集』・1663(寛文 3)『五条百句』・
	1667(寛文 7)『玉海集追加』や、1642(寛永19)『誹諧之註』・
	『氷室守(ヒムロモリ) 』『蠅打』、語学書1650(慶安 3)『かたこと』
	など。
やすひと しんのう《やすひと しんわう》
	雍仁 親王
	⇒ちちぶのみや やすひと(秩父宮 雍仁)
やすむら けんぎょう
	安村 検校
	生年不詳
	1779(安永 8)
	◇江戸中期の邦楽家。京都の人。
	 三橋(ミツハシ)検校の門人。
やせつあん きんら
	夜雪庵 金羅(四世)
	1830(天保元)
	1894.10. 3(明治27)
	◇俳人。本名は近藤栄治郎、別号は珍斎其成・三卍屋・三万堂
	・四寅童子。
やた ごろうえもん
	矢田 五郎右衛門
	⇒やた すけたけ(矢田 助武)
やた すけたけ
	矢田 助武
	1675(延宝 3)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩譜代の家臣、馬廻役、禄高150
	石、江戸詰め。通称は五郎右衛門(ゴロウエモン)、戒名は刃法参剣
	信士。吉良家の探索中の変名は塙武助(ハナワ・タケスケのちブスケ)。
	 討ち入りでは表門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、
	切腹。
やだ そううん
	矢田 挿雲(矢田 插雲)
	1882. 2. 9(明治15)
	1961.12.13(昭和36)
	◇小説家・俳人。本名は義勝。東京生れ。
	 宮城県立第一中学校を経て、早稲田大学教育科卒業。
	 1908(明治41)福本日南の九州日報に入社。1913(大正 2)芸備
	日日新聞社。1915(大正 4)帰京。報知新聞社社会部に入り、
	1942(昭和17)報知が読売新聞と合併するのを機に退社。
	(1)矢田挿雲(やた そううん)。
	(2)矢田挿雲(やだ そううん)。(生)石川県。
	(3)矢田挿雲(やだ そううん)。
	(5)矢田挿雲(やだ そううん)。
	(10)矢田挿雲(やだ そううん)。金沢市の生れ。明治三三年、
	早稲田専門学校へ入学。
	(11)矢田挿雲(やだ そううん)。
	(13)矢田插雲(やだ そううん)。金沢市に生まる。
やだ つせこ
	矢田 津世子
	1907. 6.19(明治40)
	1944. 3.14(昭和19)
	◇小説家。本名はツセ。秋田県南秋田郡五城目町生れ。私立麹
	町高等女学校卒業。
	 肺結核で死去。
やたべ りょうきち《やたべ りやうきち》
	矢田部 良吉
	1851(嘉永 4. 9.19)
	1899. 8. 7(明治32)
	◇明治時代の植物学者・詩人。号は尚今(ショウコン)。伊豆の人。
	 米国コーネル大卒。帰朝後、東京大学理学部植物学科の初代
	教授。のち東京高師校長・東京博物館長を歴任。
	 鎌倉で遊泳中誤って溺死。
	 1882(明治15)井上哲次郎・外山正一らと『新体詩抄』を発行
	するなど新体詩運動・ローマ字普及にも尽力。
	 著書は『日本植物図解』・『日本植物篇』など。
やど きんざん
	矢土 錦山
	1849(嘉永 2)
	1920.11.28(大正 9)
	◇漢詩人。名は勝之、字は実夫(ジップ)、号は錦山。
やとう えもしち
	矢頭 右衛門七
	⇒やとう のりかね(矢頭 教兼)
やとう のりかね
	矢頭 教兼
	1686(貞享 3)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。部屋住。通称は右衛門七(モンシチ)、戒名
	は刃擲振剣信士、吉良家の探索中の変名は清水右衛門七。
	 赤穂藩士勘定方二十石五人扶持の父長助(チョウスケ)が病に倒れ
	たので、若年ながら代理する。
	 吉良家討ち入りでは表門隊。兜頭巾の裏には父の戒名「円月
	霜光居士」を記した紙を納めていた。三河岡崎城主水野堅物(ケン
	モツ)の江戸中屋敷に預けられ、翌年、杉源助(ゲンスケ)の介錯(カイシャ
	ク)で切腹。
やない けいさい
	矢内 絅斎(絅:「糸」偏+「冏」)
	1871(明治 4. 8.10)
	1905. 4.24(明治38)
	◇漢詩人。名は碌、字は文甫、通称は碌太郎、号は絅斎。
やないはら ただお《やないはら ただを》
	矢内原 忠雄
	1893. 1.27(明治26)
	1961.12.25(昭和36)
	◇大正・昭和前期の経済学者。愛媛県生れ。
	 新渡戸稲造(ニトベ・イナゾウ)・内村鑑三(カンゾウ)に私淑し無教会
	派のクリスチャンとなる。
	 東京帝国大学卒業後、住友別子銅山に勤める。
	 1920(大正 9)東京帝国大学助教授、1923(大正12)教授。経済
	学部で植民政策講座を担当。
	 1937(昭和12)「中央公論」に発表した「国家の理想」が軍部から
	反戦思想として攻撃され、文部大臣からも長与又郎総長に圧力
	があり12月に辞職(矢内原忠雄事件)。
	 1945(昭和20)東京帝国大学に復帰。1947(昭和22)経済学博士。
	東京大学社会科学研究所初代所長、経済学部長・教養学部長を
	経て、1951〜1957(昭和26〜昭和32)総長。1953(昭和28)定年で
	退官し、名誉教授。
	 著書は1926(大正15)『植民及植民政策』・『帝国主義下の台
	湾』・『帝国主義研究』・『キリスト教入門』・『イエス伝』
	など。
	◎無教会派のクリスチャンとして個人雑誌「嘉信」を刊行。
やながわ けんぎよう《やながは けんげう》
	柳川 検校
	生年不詳
	1680(延宝 8)
	◇江戸前期の邦楽家・地歌三味線の名人。名は加賀都(カガノイチ)。
	大坂の人。
	 山野井検校の門下で、三味線組歌を作った虎沢検校の伝統を
	継いで、組歌を改曲・整理・追加し、破手組の柳川流を開き、
	早崎検校に伝える。
	 寛永年間(1624〜1644)京都で活躍し、八橋(ヤツハシ)検校と並び
	称せられた。
やながわ ごういち
	梁川 剛一
	1902(明治35)
	1986(昭和61)
	◇挿絵画家。函館生れ。
	 東京美術学校で彫刻を専攻、朝倉文夫に師事。
やながわ こうらん
	梁川 紅蘭
	1804
	1879(明治12)
	◇江戸幕末・明治維新期の女流漢詩人。名は景、号は紅蘭。美
	濃国安八郡曾根村生れ。稲津長好の娘、梁川星巌(セイガン)の妻。
	 1817(文化14)江戸から帰国した星巌に詩作を学び、1820(文
	政 3)17歳で星巌に嫁す。
	(*)1804(享和 4,文化元)。
やながわ しゅんさん
	柳河 春三
	1832(天保 3. 2.25)
	1870(明治 3. 2.20)
	◇江戸幕末・明治維新期の洋学者・新聞人。はじめ栗木辰助(ク
	リキ・タツスケ)のち西村辰三・良三、1857(安政 4)以降は柳河、号は
	春陰。尾張国生れ。
	 邦字新聞創刊の先覚者。
	(2)柳河 春三(やながわ しゅんさん)。
	(3)柳河 春三(やなかわ はるぞう)。
	(5)柳河 春三(やながわ しゅんさん)。
	(16)柳川 春三(やながわ しゅんさん)。
	(19)柳川 春山(やながわ しゅんさん)。
やながわ しゅんよう《やながは しゆんえふ》
	柳川 春葉
	1877. 3. 5(明治10)
	1918. 1. 9(大正 7)
	◇小説家。本名は専之(專之)(ツラユキ)。東京下谷生れ。
	 18歳で尾崎紅葉の玄関番となり、紅葉門下四天王の一人に至
	る。
	 作品は『泊客』・『夢の夢』・『錦木』・『母の心』・『生
	さぬ仲』など。
	(1)生年は1877(明治10)、没日は 1. 9。
	(3)生年は1887(明治10):誤、没日は 1. 9。
	(5)生年は1877(明治10)、没日は 1. 3。
	(7)生年は1877(明治10)、没日は 1. 9。
	(10)生年は1877(明治10)、没日は 1. 9。
	(11)生年は1877(明治10)、没日は 1. 3。
	(13)生年は1877(明治10)、没日は 1. 3。
やながわ せいがん
	梁川 星巌
	1789(寛政元. 6.18)
	1858(安政 5. 9. 2)
	◇江戸後期の漢詩人。名は孟緯(モウイ)。美濃国生れ。妻は梁川
	紅蘭(コウラン)。
	 コレラで没。
	◎江戸の神田松枝町のお玉ヶ池に玉池吟社があった。
やなかわ はるぞう
	柳河 春三
	⇒やながわ しゅんさん(柳河 春三)
やながわ へいすけ
	柳川 平助
	1879(明治12)
	1945(昭和20)
	◇大正・昭和前期の陸軍軍人(中将)。佐賀県生れ。
	 1935(昭和10)台湾軍司令官。1938(昭和13)興亜院総務長官。
	1940(昭和15)司法大臣・1941(昭和16)国務大臣。大政翼賛会副
	総裁。
やなぎ えいじろう
	柳 永二郎
	1895. 9. 1(明治28)
	1984. 4.24(昭和59)
	◇新派の俳優。本名は永井武。
やなぎ けいすけ
	柳 敬助
	1881. 5.16(明治14)
	1923. 5.16(大正12)
	◇大正時代の洋画家。旧姓は山田。
やなぎ むねよし
	柳 宗悦
	1889. 3.21(明治22)
	1961. 5. 3(昭和36)
	◇宗教哲学者・民芸研究家・美術評論家。東京麻布生れ。父は
	海軍少将。
	 学習院を経て、1913(大正 2)東京帝国大学心理学科卒業。
	 1924(大正13)京城に朝鮮民族美術館を開設。1936(昭和11)東
	京駒場に日本民芸館を創立。
	(5)学習院を経て東大心理学科卒業。
	(10)東京帝大哲学科へ進んで心理学を専攻し、……。大正二年
	七月卒業。
	(13)大正二年東大哲学科卒。
やなぎさわ けん
	柳沢 健(柳澤 健)
	1889.11. 3(明治22)
	1953. 5.29(昭和28)
	◇詩人・外交評論家。福島県会津若松生れ。会津中学校・第一
	高等学校を経て、1915(大正 4)東京帝国大学仏法科卒業。
	(1)誕生日は11. 3。
	(3)誕生日は11.12。
	(5)誕生日は11. 3。
	(10)誕生日は11. 3。
	(11)誕生日は11. 3。
	(13)明治二二年一一月福島県会津若松に生まれた。
やなぎさわ よしやす
	柳沢 吉保
	1658(万治元)
	1714(正徳 4.11. 2)
	◇江戸中期の老中。五代将軍綱吉の側用人。名は保明(ヤスアキ)、
	初名は房安、通称は主税・弥太郎、晩年の号は保山。
	 綱吉とその母桂昌院(ケイショウイン)の信任を得て、異例の出世を
	し幕政を握る。荻生徂徠(オギュウ・ソライ)を登用。
	 幼少から館林城主綱吉の小姓で、将軍になるとともに小納戸
	役。1688(元禄元)側用人、10,000石。1694(元禄 7)川越(カワゴエ)
	城主、72,030石、老中格。1698(元禄11)大老格。1701(元禄14)
	松平姓を許され、綱吉の一字を賜り美濃守吉保に改名る。1704
	(宝永元)甲府城主、151,200石。1706(宝永 3)大老。1709(宝永
	 6)綱吉没後は子吉里(ヨシサト)に家督を譲り屋敷(現:六義園<リクギ
	エン>)に隠居。
	(4)綱吉の没後、罷免。
	◆墓は山梨県塩山市の恵林寺。
やなぎた いずみ《やなぎた いづみ》
	柳田 泉
	⇒やなぎた いづみ(柳田 泉)
やなぎた いづみ
	柳田 泉
	1894. 4.27(明治27)
	1969. 6. 7(昭和44)
	◇国文学者・英文学者・翻訳家。青森県中津軽郡豊田村外崎
	(現:弘前市)生れ。
	 1918(大正 7)早稲田大学英文科卒業。
	(2)やなぎだ いずみ(柳田 泉)。
	(3)実誕生は17日という。
	(5)やなぎた いずみ(柳田 泉)。誕生日は 4.27。
	(10)やなぎだ いずみ(柳田 泉)。誕生日は 4.27。
やなぎだ くにお
	柳田 国男(柳田 國男)
	1875. 7.31(明治 8)
	1962. 8. 8(昭和37)
	◇明治〜昭和期の詩人・民俗学者。筆名は赤松国祐・松男・
	川村杳樹・久米長目、俳号は柳叟(リュウソウ)、旧姓は松岡。兵庫
	県神東郡田原村生れ。
	 井上通泰(ミチヤス)の実弟、松岡静雄・松岡映丘(エイキュウ)の兄。
	 1900. 7.(明治33)東京帝国大学法科大学政治科卒業。1901.
	 5.(明治34)長野県飯田(イイダ)出身の大審院判事柳田直平の養
	子となる。
	 新渡戸稲造(ニトベ・イナゾウ)の推挽(スイバン)により、1921. 5.(大
	正10)〜1923.12.(大正12)の間、国際連盟委任統治委員。
	 台湾総督府から資金援助などを受け、松岡静雄と日蘭印通交
	査会を作る。
	◆国男忌(柳叟忌)[ 8. 8]。
	(1)柳田 国男(やなぎだ くにお)。
	(2)柳田 国男(やなぎた くにお)。(学)東大法科。
	(3)柳田 国男(やなぎた くにお)。
	(4)柳田 国男(やなぎた くにお)。
	(5)柳田 国男(やなぎた くにお)。東大法科入学。
	(10)柳田 国男(やなぎた くにお)。三○年から東京帝大法科
	大学政治科に学ぶ。
	(11)柳田 国男(やなぎた くにお)。
	(13)柳田 國男(やなぎだ くにお)。三三年東大法科卒業、翌
	年柳田家の人となり、以後官界生活に入った。
やなぎだ しんたろう
	柳田 新太郎
	1903.11.(明治36)
	1948.11.28(昭和23)
	◇歌人・編集者。1943(昭和18)『大東亜戦争歌集』全二巻を編
	集。
やなぎだ ちぬお
	柳田 知怒夫
	1907.12.19(明治40)
	1972. 1. 4(昭和47)
	◇小説家。本名は敏三。
やなぎはら きょくどう
	柳原 極堂
	1867(慶応 3. 2.11)
	1957.10. 7(昭和32)
	◇俳人。本名は正之(マサユキ)、初号は碌堂(ロクドウ)。伊予国生れ。
	松山中学校中退。
	 1897(明治30)正岡子規らと「ホトトギス」を創刊、のち高浜虚
	子に譲る。
	 「伊予日日新聞」を創刊し、経営に従事。1932(昭和 7)「鶏頭」
	を創刊。
やなぎはら さきみつ
	柳原 前光
	1850(嘉永 3. 3.)
	1894. 9. 2(明治27)
	◇明治前期の公卿・外交官。幼名は次良麿。大納言柳原光愛の
	子、大正天皇の母柳原愛子(ナルコ)の兄、柳原白蓮(ビャクレン)の父。
	京都生れ。
やなぎはら なるこ
	柳原 愛子
	1855(安政 2)
	1943(昭和18)
	◇大正天皇の生母。源氏名は早蕨(サワラビ)の内侍。大納言柳原
	光愛の娘、伯爵柳原前光(サキミツ)の妹。
	 1870(明治 3)皇太后宮上臈(ジョウロウ)として宮仕えを始める。
	1871(明治 4)掌侍。1872(明治 5)明治天皇に仕える。1873(明
	治 6)権典侍。明治天皇の皇子、1875(明治 8)薫子内親王・
	1877(明治10)敬仁親王・1879(明治12)嘉仁親王(大正天皇)を生
	む。1902(明治35)典侍。1913(大正 2)本官を免ぜられ、皇后宮
	御用掛。1915(大正 4)従二位、二位局と呼ばれ、準皇族の扱い
	を受ける。
やなぎはら びゃくれん
	柳原 白蓮
	1885.10.15(明治18)
	1967. 2.22(昭和42)
	◇大正・昭和期の歌人。本名は宮崎(「火」偏+「華」)子(アキコ)、伯
	爵柳原前光(サキミツ)の次女(妾腹)、北小路の養女。東京麻布生れ。
	 1900(明治33)華族女学校中退。北小路資武と結婚、1905(明
	治38)離婚。1911(明治44)英和女学校卒業。
	 1912(明治45)九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚し、「筑紫の
	女王」といわれたが、1921(大正10)新聞紙上に夫への絶縁状を
	公開して伊藤家を去り、16歳年下の労働運動家宮崎龍介と結婚。
	(1)柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん)。
	(2)柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん)。
	(3)柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん)も。
	(5)柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん)。
	(10)柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん)。誕生日は10.15。
	(11)柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん)。
	(13)柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん)。明治一八年一〇月
	一〇日東京都港区に元伯爵柳原前光の次女として生まれ三三年
	華族女学校を中退し北小路資武と結婚したが三八年離婚。
やなぎもと じょうせい
	柳本 城西
	1879. 4. 4(明治12)
	1964. 2.29(昭和39)
	◇歌人・陸軍軍医。本名は満之助。
やなぎや きんごろう
	柳家 金語楼
	1901(明治34)
	1972.10.22(昭和47)
	◇喜劇俳優・落語家・発明家。
	 1930.10.11(昭和 5)春風亭柳橋(6代目)らと日本芸術協会
	(現:落語芸術協会)を結成。
やなぎや こさん
	柳家 小さん(3世)
	1856(安政 3)
	1930(昭和 5)
	◇落語家。
やなぎや こさん
	柳家 小さん(4世)
	1888(明治21)
	1947. 9.30(昭和22)
	◇落語家。
やなぎや こさん
	柳家 小さん(5世)
	1915. 1. 2(大正 4)
	2002. 5.16(平成14)
	◇落語家。本名は山藤章二。
	 剣道7段。
やなぎわら ……
	柳原 ……
	⇒やなぎはら ……(柳原 ……)
やなせ ちょうたろう《やなせ ちやうたらう》
	梁瀬 長太郎
	1879.12.15(明治12)
	1956. 6.11(昭和31)
	◇経営者。
	 1915(大正 4)梁瀬商会(のち株式会社ヤナセ)を日比谷に創業。
やなせ まさむ
	柳瀬 正夢
	1900. 1.12(明治33)
	1945. 5.25(昭和20)
	◇洋画家・漫画家・詩人。本名は正六(マサム)、別名は穴明共三
	・夏川八朗。松山市生れ。
	 小学校卒業。
	 主に政治漫画などを描く。
	 東京空襲の際、新宿駅頭で死去。
やの あきら
	矢野 朗
	1906. 1.19(明治39)
	1959. 6.30(昭和34)
	◇小説家。
やの きょうそん
	矢野 橋村
	1890. 9. 8(明治23)
	1965. 4.17(昭和40)
	◇画家。名は一智、別号は知道人・大来山人・古心庵。愛媛県
	生れ。
	 1909(明治42)大阪に出て、南画家永松春洋に師事。日本南画
	院の創設に尽力。
	 吉川英治作『宮本武蔵』などの挿絵を描く。
やの はるみち
	矢野 玄道
	1823(文政 6)
	1887(明治20)
	◇江戸幕末・明治前期の国学者。
	玉松操(タママツ・ミサオ)とともに新政府の文教政策を批判し、1871
	(明治 4. 1.)官職を辞す。
やの りゅうけい
	矢野 竜渓(矢野 龍溪)
	1850(嘉永 3.12. 1)
	1931. 6.18(昭和 6)
	◇政治家・ジャーナリスト・小説家。本名は文雄。豊後国佐伯
	(サエキ)藩士矢野光儀(ミツノリ)の長男として生れる。
	 姪小林シズは須藤南翠(ナンスイ)の妻。
やのめ げんいち
	矢野目 源一
	1896.11.30(明治29)
	1970.10.12(昭和45)
	◇詩人・小説家・随筆家。
やぶた よしお
	藪田 義雄
	1902. 4.13(明治35)
	1984. 2.18(昭和59)
	◇詩人。神奈川県生れ。法政大学英文科中退。
やべ りょうさく
	矢部 良策
	1893.11.14(明治26)
	1973. 1.24(昭和48)
	◇創元社の創業者。
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