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人 名 辞 典 《わ》 編集:獨 澄旻
-------- わ ----------------------------------------------------
わーぐまん
C・ワーグマン
1832. 8.31(天保 3)
1891. 2. 8(明治24)
◇明治の漫画家。名は Charles Wirgman。ロンドン生れ。イギ
リス人。
陸軍に入り大尉まで昇進し退役。「イラストレイテド・ロン
ドン・ニュース」の記者となり中国へ渡り、1856(安政 3)アロ
ー号事件を取材。
いったん帰国後、幕末に来日し、母国ロンドンで刊行されて
いた "PUNCH" 誌を模して1862(文久 2)月刊誌 "JAPAN PUNCH"
を横浜居留地で1887(明治20)まで25年間刊行。「ポンチ絵」の言
葉はこの雑誌に由来する。
本務のかたわら洋画技法を教え、門下に高橋由一・五姓田(ゴ
セダ)芳柳らがいる。
日本婦人と結婚し、横浜で没。
(2)生年は1835。1857(安政4)「絵入ロンドン新聞」特派員として
東洋を訪れた。'59以後横浜に住み、……。
(4)生年は1834頃。一八五八年来日。
(6)生年は1835。1858年<イラストレーテッド・ロンドン・ニュ
ーズ>の特派員として来日し、横浜に定住。
(10)生年は1832. 8.31(天保 3)。安政四年(1857)イラステレー
テッド・ロンドン・ニューズ特派員として東洋に派遣され、文
久元年(1861)来日永住し……。
(14)生年は本文中には1832(天保 3)、略歴には1834(天保 5)。
一八六一年オールコックの一行と来日し、……。
(25)生年は1834。1859(一説に'58)に来日。
わかお いっぺい
若尾 逸平
1820(文政 3)
1913(大正 2)
◇明治期の実業家。若尾財閥の創立者。
雨宮敬次郎(アメノミヤ・ケイジロウ)・小野金六とともに甲州財閥三人
男と呼ばれる。
わかすぎ さとし
若杉 慧
1903. 8.29(明治36)
1987. 8.23(昭和62)
◇小説家。本名は恵(サトシ)。広島県生れ。広島師範卒業。
(3)若杉 慧(わかすぎ けい)。
(5)若杉 慧(わかすぎ さとし)。
(10)若杉 慧(わかすぎ けい)。
(11)若杉 慧(わかすぎ さとし)。
わかすぎ とりこ
若杉 鳥子
1892.12.25(明治25)
1937.12.18(昭和12)
◇歌人・小説家。東京下谷生れ。
茨城県古河の芸者置屋の養女となる。
婦人プロレタリア作家の草分け。
わかつき しらん
若月 紫蘭
1879. 2.10(明治12)
1962. 7.22(昭和37)
◇国文学者・劇作家・演劇研究家。本名は保治(ヤスジ)。山口県
防府市生れ。
山口中学校・山口高等学校文科を経て、1903(明治36)東京大
学英文科卒業。
わかつき れいじろう《わかつき れいじらう》
若槻 礼次郎
1866(慶応 2. 2. 5)
1949.11.20(昭和24)
◇大正・昭和期の政治家。松江生れ。東京帝国大学仏法科卒業。
大蔵省に入り、大蔵次官を経て、第3次桂太郎・第3次大隈
重信両内閣の大蔵大臣。
1924(大正13)第1次加藤高明内閣の内務大臣、1926. 1.26
(大正15)首相の臨時代理を経て加藤高明の死後、憲政会総裁と
して組閣。翌年金融恐慌を迎え台湾銀行救済勅令案が枢密院で
否決され総辞職。
1930(昭和 5)ロンドン軍縮会議に首席全権として出席。
1931. 4.(昭和 6)浜口雄幸内閣の総辞職により立憲民政党総
裁となり組閣、官吏減俸を実施。中村震太郎銃殺事件・万宝山
事件・満州事変が勃発し、協力内閣案で軍部と衝突し総辞職。
1937. 7.(昭和12)重臣となり、日米開戦に反対。大戦末期は
近衛文麿らと東条英機内閣打倒を画策。
第1次内閣:1926. 1.30(大正15)、総辞職:1927. 4.20(昭和 2)。
第2次内閣:1931. 4.14(昭和 6)、総辞職:1931.12.13(昭和 6)。
わかばやし かんぞう
若林 (「王」偏+「甘」)蔵
1857(安政 4. 8. 2)
1938. 5.13(昭和13)
◇速記者。初名は銓太郎。武蔵生れ。
明治法律学校(現:明治大学)に学び、かたわら1882(明治15)
日本傍聴筆記法講習会第一回講習生となる。
1890(明治23)国会開設に際し、衆議院速記主任となる。
わかばやし きょうさい
若林 強斎
1679(延宝 7)
1732(享保17)
◇江戸中期の朱子学者。浅見絅斎(ケイサイ)の門人。
京都錦小路に塾を開く。
わかばやし ぼくしゅん
若林 牧春
1886. 9.11(明治19)
1974. 6.29(昭和49)
◇歌人。本名は岡部軍治。現在の東京都町田市生れ。
北原白秋に師事。
わかまつ しずこ
若松 賎子(若松 賤子)
1864(元治元. 3. 1)
1896. 2.10(明治29)
◇明治時代の翻訳家・小説家。本名は松川甲子(カシ)、通称は
島田嘉志子・島田嘉志、旧姓は島田。岩代国会津郡若松(現:福
島県会津若松市)阿弥陀町六生れ。
横浜野毛のミス・キダアの女学校を経てフェリス女学校に転
学、1882(明治15)第一回高等科卒業、直ちに同校の英語助教と
なる。
1889. 7.(明治22)夏、巌本善治(イワモト・ヨシハル)と結婚。夫善治
が管理する明治女学校が1896. 2. 5(明治29)焼失し、五日後に
持病の肺疾患に心臓麻痺を併発し病没。
(1)本名松川甲子(カシ)。
(2)(名)巌本嘉志子,旧姓田島。
(3)通称は島田嘉志。会津藩士松川勝次郎の長女として生れた。
明治三、七歳で生母に死別、大川甚兵衛の養女として……。
(5)通称は島田嘉志(カシ)。父は会津藩士松川勝次郎。甲子は明
治三年母に死別し、大川甚兵衛の養女となり(一八年松川姓に
復籍)。
(10)会津藩士松川勝次郎の長女として生れた。本名松川甲子(カ
シ)、通称島田嘉志。戊申の役に家が没落、明治三年六歳で生母
に死別し、大川甚兵衛の養女となり横浜に出て、ミス=キダー
の学校(現・フェリス女学院)の生徒となった。一五年フェリス
女学院高等科卒業。
(11)本名松川甲子(カシ)。通称は島田嘉志(カシ)。父は会津藩士
松川勝次郎。甲子は明治三年母に死別し、大川甚兵衛の養女と
なり……。
(13)本名巌本嘉志子。元治元年一月会津若松に藩士島田勝次郎
の長女として生まる。幼名甲志(カシ)で生年甲子に、筆名は生地
に由来している。両親没後米人の許に育てられ、……。
わかやま あきら
若山 彰
1927. 7. 4(昭和 2)
1998.12. 9(平成10)
◇歌手。本名は平川純男。広島県三原市生れ。
武蔵野音楽大学卒業。
1950(昭和25)コロムビアからデビュー。
1958(昭和33)松竹映画『喜びも悲しみと幾年月』の主題歌が
ヒット。
わかやま きしこ
若山 喜志子
1888. 5.28(明治21)
1968. 8.19(昭和43)
◇歌人。本名は喜志、旧姓は太田。長野県東筑摩郡広丘村(現:
塩尻市)生れ。太田清人の4女。潮みどり(桐子)の実姉。
「信濃毎日」に投句して選者の太田水穂に認められ、上京。
1912. 5.(明治45)若山牧水(ボクスイ)と結婚、夫牧水の死後、
ながく「創作」を主宰。
わかやま ためぞう
若山 為三
1893. 3.20(明治26)
1961. 1.28(昭和36)
◇画家。本名は為槌。
わかやま ぼくすい
若山 牧水
1885. 8.24(明治18)
1928. 9.17(昭和 3)
◇明治・大正時代の歌人。本名は繁(シゲル)。宮崎県東臼杵(ヒガ
シウスキ)郡東郷村の農家に生れる。父は若山立蔵・母はマキ。
村の尋常小学校・延岡の高等小学校を経て、1904(明治37)春
に延岡中学校を卒業、早稲田大学高等予科に入学。1905(明治
38)夏、英文科本科に進み、1908. 7.(明治41)卒業。
尾上柴舟(サイシュウ)に師事。1910(明治43)『別離』で注目され
る。
1912. 5.(明治45)若山喜志子(キシコ)(太田喜志)と結婚。
沼津市本字南側(通称・市道町)六一の自宅で急性腸胃炎兼肝
臓硬変症により死去、埋葬は沼津市浜道乗運寺。
◆牧水忌[ 9.17]。
◆歌碑祭[ 9.17](郷里)宮崎県東臼杵郡東郷町の牧水記念館で。
◆牧水祭[十月の日曜](病没地)静岡県沼津市千本松原の歌碑前
で。
◆牧水まつり[10.20]群馬県中之条町の暮坂峠(クレサカトウゲ)に建
つ詩碑前で、牧水が1922(大正11)に峠を越えたのを記念する行
事が行われる。
(5)宮崎県東臼杵(ヒガシウスキ)郡東郷村に生れた。
(10)宮崎県東臼杵(ヒガシウスキ)郡坪谷(ツボヤ)村一番戸に生れた。
わき せいざぶろう
和木 清三郎
1896. 1. 5(明治29)
1970. 4.20(昭和45)
◇編集者。本名は脇恩三。広島市生れ。慶応義塾大学文学部卒
業。
わきさか やすはる
脇坂 安治
1554(天文23)
1626(寛永 3. 8. 6)
◇安土桃山・江戸初期の武将。通称は甚内。安明の子。近江脇
坂の人。
はじめ明智光秀に従い、1569(永禄12)丹波を攻める。
次いで1570年豊臣秀吉に仕え、1585(天正13)淡路国洲本3万
石を与えられる。1586(天正14)九州征伐に従い、1587(天正15)
賤ヶ岳七本槍の一人となる。1590(天正18)小田原征伐・1592
(文禄元)文禄・1597(慶長 2)慶長の役に功を立てる。
1600(慶長 5)関ヶ原の戦では東軍(徳川方)につき、近江国佐
和山城を攻め、伊予国大洲5万3千石に移封。
(*)1570(永禄13,元亀元)。
わきた かず
脇田 和
1908(明治41)
2005.11.27(平成17)
◇洋画家。東京(現:港区青山)生れ。
1923(大正12)青山学院中等部を中退し、姉夫婦に同行しドイ
ツに渡航。
1925(大正14)ベルリン国立美術学校に入学。
1930(昭和 5)ベルリン国立美術学校を卒業して帰国。
光風会などで活躍。
1936(昭和11)猪熊弦一郎や小磯良平らと新制作派協会(現:新
制作協会)の結成に参加。
1964〜1970(昭和39〜昭和45)東京芸術大学の助教授・教授。
1998(平成10)文化功労者に選出。
心筋梗塞で死去。
わくしま よしひろ
涌島 義博
1898.11.24(明治31)
1960.10.28(昭和35)
◇解放運動家。鳥取市生れ。東亜同文書院中退。妻は古代(筆
名北浦みお子)。
山陰自由大学を創立。農民運動・水平運動などに参加。
わぐなー
ワグナー
⇒わぐねる(ワグネル)
わぐねる
ワグネル
1831(天保 2)
1892(明治25)
◇ドイツの化学者・工芸家。名は Gottfried Wagner、「ワグナ
ー」とも。
1868年、来日。1870(明治 3)肥前藩で有田焼きを改良、釉(ウ
ワグスリ)の研究など窯業の技術指導に尽力。
大学南校などで化学・物理を教授。
1873(明治 6)ウィーン・1876(明治 9)フィラデルフィアの万
国博への日本の参加を指導など、日本の陶磁器・化学工業の発
達に貢献。
作陶も行い旭焼(吾妻焼)を創成。
東京で死去。
(*)1868(慶応 4,明治元)。
わけ りつじろう
和気 律次郎
1888. 1.29(明治21)
1975. 5.22(昭和50)
◇翻訳家・小説家。筆名は水上規矩夫・和気律。松山市生れ。
1909(明治42)慶応義塾大学予科中退。
1916(大正 5)やまと新聞社から大阪毎日新聞社に移り、1940
(昭和15)大阪毎日新聞社を定年退職。
わけのきよまろ
和気 清麻呂
733(天平 5)
799(延暦18. 8.21)
◇奈良末期・平安初期の政治家。旧姓は磐梨別公、のち藤野別
(和気)真人。備前国藤野郡の人。乎麻呂の子、広虫(ヒロムシ)の弟、
広世(ヒロヨ)・真綱(マツナ)の父。
764(天平宝字 8. 9.11)孝謙上皇の寵愛を受ける道鏡を除こ
うとした藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で、功を立てて藤野和気真
人の姓を賜る。 767年、輔治能真人の姓を賜り、因幡員外介。
769(神護景雲 3)道鏡が宇佐八幡の神託と称して皇位を窺っ
たとき、藤原氏の勢力を背景に勅使として再度宇佐八幡の神託
を受けてこれを退けたため、道鏡の怒りを買い、名を別部穢麻
呂(ワケベノキタナマロ)と改め大隅に流される。
上皇が崩御して道鏡が失脚の後、 770年召還され光仁・桓武
天皇に仕え信任を得る。 774(宝亀 5)朝臣の姓を賜る。平安遷
都に尽力、従三位に昇進。
京都の護王(ゴオウ)神社に祀られる。
(*) 767(天平神護 3,神護景雲元)、 770(神護景雲 4,宝亀元)。
◎清麻呂の持ち帰った宇佐八幡の神託:わが国は開闢以来君臣
定まりぬ。臣をもって君となすこといまだこれあらざるなり。
天つ日嗣(ヒツギ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしくはや
く掃ひ除くべし。
◎道鏡事件の功で和気朝臣の姓が与えられた。
◎岡山県和気町の和気清麻呂や広虫などを祀(マツ)る和気神社の
入口に朝倉文夫作の清麻呂の銅像がある。
◎太平洋戦争まで三大忠臣(和気清麻呂・名和長年<ナワ・ナガトシ>
・楠木正成<クスノキ・マサシゲ>)の一人として軍部に利用された。
◎皇居竹橋近くの清麻呂公園に1940(昭和15)紀元二千六百年記
念に建てられた立像がある。
◎江戸川柳:道鏡は座ると三つ膝ができ。
わけのひろむし
和気 広虫
730(天平 2)
799(延暦18)
◇奈良末期・平安初期の女官。乎麻呂(オマロ)の子、清麻呂の姉。
孝謙上皇に仕え、 762(天平宝字 6)上皇の出家に従い法均尼
(ホウキンニ)と称する。
769(神護景雲 3)道鏡事件で弟清麻呂に縁坐して備後国(広
島県)に流される。上皇が崩御し道鏡が失脚の後、許されて召
還。 774(宝亀 5)和気朝臣を賜る。 785(延暦 4)正四位上、
789(延暦 8)内侍司典侍(テンジ)となる。
わけのひろよ
和気 広世
生年不詳
没年不詳
◇奈良末期・平安初期の医者。和気清麻呂の長男、真綱(マツナ)
の兄。
大学別当になり、 800(延暦19)〜 808(大同 3)ころ私邸に弘
文院を創立。
わけのまつな
和気 真綱
783(延暦 2)
846.10.20(承和13. 9.27)
◇平安前期の学者・官僚。和気清麻呂の5男、広世(ヒロヨ)の弟。
わしお うこう
鷲尾 雨工
1892. 4.27(明治25)
1951. 2. 9(昭和26)
◇歴史小説家。本名は浩。新潟県新蒲原郡黒崎村大字黒島生れ。
幼く父を失い、母の生家新潟県北魚沼郡小千谷町の叔父中野
為治に養われる。小千谷中学校を経て、1915(大正 4)早稲田大
学英文科卒業。
わしず きどう
鷲津 毅堂
⇒わしづ きどう(鷲津 毅堂)
わしす しげお
鷲巣 繁男
1915. 1. 7(大正 4)
1982. 7.27(昭和57)
◇詩人。祖父の代よりの正教徒で、洗礼名はダニール(ギリシャ
正教徒)。横浜市生れ。横浜商業卒業。
北海道開拓作業などに従事。
わしず のぶみつ
鷲津 宣光
⇒わしづ きどう(鷲津 毅堂)
わしづ きどう
鷲津 毅堂
1825.12.17(文政 8.11. 8)
1882.10. 5(明治15)
◇江戸幕末・明治前期の漢学者・漢詩人。名は宣光(ノブミツ)、
字は重光、通称は九蔵、別号は蘇州。尾張国丹波郡丹波村生れ。
漢学者鷲津益斎の長男、次女恒は永井荷風の母。
昌平黌に学ぶ。明治政府に出仕し、登米県(現:宮城県)権知
事・司法権書記官。
(23)名ははじめ文郁また重光(宣光<ノリミツ>),……。
わしづ のぶみつ
鷲津 宣光
⇒わしづ きどう(鷲津 毅堂)
わだ いずみ
和田 稲積
⇒わだ いづみ(和田 稲積)
わだ いづみ
和田 稲積
生年不詳
1893.10. 5(明治26)
◇新聞記者・小説家。号は愛梅野史・半狂道人。土佐国長岡郡
大津村生れ。享年三十余歳という。
わだ えい
和田 英
1857(安政 4. 8.21)
1929. 9.26(昭和 4)
◇明治初期の富岡製糸場の伝習工女。信濃国松代(現:長野市松代町)
生れ。松代藩士横田数馬の次女。
1873. 6.(明治 6)政府の要請で他の15名とともに上州(現:群馬県)
富岡に向う。のち六工社製糸教授、県営長野製糸場操業・製糸教授。
著書『富岡日記(富岡入場中の略記)』。
わだ えいさく
和田 英作
1874.12.23(明治 7)
1959. 1. 3(昭和34)
◇明治〜昭和期の画家。鹿児島県生れ。
明治学院中退。原田直次郎に学ぶ。1896(明治29)白馬会創立
に参加。1897(明治30)東京美術学校西洋画科卒業。渡欧しラファ
エル・コランに師事。帰国後、白馬会会員として活躍。
東京美術学校教授・校長。
1943(昭和18)文化勲章を受賞。
わだ きゅうたろう
和田 久太郎
1893. 2. 6(明治26)
1928. 2.20(昭和 3)
◇無政府主義者。兵庫県明石生れ。
大杉栄らのサンディカリズム運動に加わる。関東大震災の際、
憲兵に殺された大杉夫妻の復讐を謀り、1924. 9.(大正13)陸軍
大将福田雅太郎を狙撃(ソゲキ)して果たさず、無期囚として秋田
監獄で縊死(イシ)。
わだ これまさ
和田 惟政
生年不詳
1571. 9.17(元亀 2. 8.28)
◇戦国時代の武将。法名は宗意、通称は伊賀守。宗立の子。
わだ さんぞう
和田 三造
1883. 3. 3(明治16)
1967. 8.22(昭和42)
◇明治〜昭和期の洋画家。兵庫県生野市生れ。
白馬会研究所に学び、黒田清輝に師事。1904(明治37)東京美
術学校西洋画科選科卒業。1909〜1915(明治42〜大正 4)欧州・
インド・ビルマ(現:ミャンマー)に留学。1932(昭和 7)東京美
術学校図案科教授。色彩学を研究。
わだ さんらん
和田 山蘭
1882. 4. 6(明治15)
1957. 1.13(昭和32)
◇歌人・書家。本名は直衛。青森県北津軽郡松島村生れ。
1903(明治36)青森師範学校卒業。
わだ せい
和田 清
1890(明治23)
1963(昭和38)
◇東洋史学者。神奈川県生れ。東京大学教授。
わだ たねなが
和田 胤長
1183(寿永 2)
1213. 5.30(建暦 3. 5. 9)
◇鎌倉前期の武士。義長の子、義盛(ヨシモリ)の甥。
わだ つとう
和田 伝(和田 傳)
⇒わだ でん(和田 伝)
わだ つねもり
和田 常盛
1172(承安 2)
1213. 5.25(建暦 3. 5. 4)
◇鎌倉前期の武士。義盛(ヨシモリ)の嫡子、朝比奈義秀(アサヒナ・ヨシヒデ)
の兄。
わだ でん
和田 伝(和田 傳)
1900. 1.17(明治33)
1985.10.12(昭和60)
◇昭和期の小説家。本名は伝(ツトウ)。神奈川県愛甲郡南毛利村
恩名(現:厚木市恩名)生れ。小学校校長・村長の又三郎と「そめ」
の長男。妻は元厚木中学校校長の長女美津子。
1918(大正 7)県立厚木中学校を卒業。同年、早稲田大学高等
予科に入学、1920(大正 9)同校文学部に進学、1923(大正12)同
校仏文科卒業。
わだ とくたろう
和田 篤太郎
1857(安政 4. 8.23)
1899. 2.24(明治32)
◇春陽堂書店の創業者。号は鷹城。岐阜県不破郡荒川村生れ。
和田耕之助の第3子。妻は「うめ」、養女静子、その夫利彦。
巡査を経て、1878(明治11)神田和泉町で本の小売兼行商を営
む。1882(明治15)雑誌「新小説」を発刊し、春陽堂書店として出
版を始め、近代文学の発展に貢献。
わだ とよじ
和田 豊治
1861.12.19(文久元.11.18)
1924. 3. 4(大正13)
◇明治・大正時代の実業家。
1885(明治18)渡米、1891(明治24)帰国。日本郵船を経て、
1892(明治25)三井銀行に入社。1893(明治26)三井銀行傘下の鐘
淵紡績会社東京支店支配人に就任するが、1900(明治33)鐘紡支
配人を辞職。
1901. 1.(明治34)富士紡績に転ずる。
わだ ひろし
和田 弘
1931. 2.15(昭和 6)
2004. 1. 5(平成16)
◇ミュージシャン・スチールギター奏者。東京生れ。
浜口庫之助(クラノスケ)にスチールギターを師事。
歌謡コーラスグループ「バッキー白片とアロハ・ハワイアン
ズ」に参加。
1953(昭和28)「山口銀次とマヒナスターズ」を結成。
1954(昭和29)「和田弘とマヒナスターズ」のリーダーとなる。
1958(昭和33)『好きだった』がヒット。
1960(昭和35)松尾和子との『誰よりも君を愛す』で第2回日
本レコード大賞を受賞。
わだ よしえ
和田 芳恵
1906. 4. 6(明治39)
1977.10. 5(昭和52)
◇小説家・評論家。北海道生れ。1931(昭和 6)中央大学独法科
卒業。
わだ よしもち
和田 義茂
生年不詳
没年不詳
◇鎌倉初期の武士。三浦義明の孫、椙本義宗の子。和田義盛(ヨ
シモリ)の弟。
わだ よしもり
和田 義盛
1147(久安 3)
1213. 5.24(建暦 3. 5. 3)
◇鎌倉前期の武将・侍所の初代別当。三浦義明の孫、椙本義宗
の子。和田常盛(ツネモリ)・朝比奈義秀(アサヒナ・ヨシヒデ)の父、和田義
茂(ヨシモチ)の兄。
妻は豊受大神宮七社の禰宜(ネギ)度会(ワタライ)康高の娘。
源頼朝の挙兵に三浦一族とともに参加し、平氏追討・奥州征
伐に武功を立てる。
1180(治承 4)侍所設置とともに初代別当。
1213(建暦 3. 5.)北条氏の挑発にのり鎌倉で挙兵したが、頼
みとした三浦義村が北条氏に味方したため、北条義時に敗れて
一族が滅亡した(和田合戦)。
わだがき けんぞう
和田垣 謙三
1860(万延元. 7.14)
1919. 7.18(大正 8)
◇経済学者。号は吐雲。但馬(現:兵庫県)豊岡藩士和田垣譲の
次男。
1873(明治 6)開成学校鉱山学科に入学、のち文科に転じ、
1880(明治13)東京大学文科大学を卒業。ゲンブリッジ大学・ベ
ルリン大学に留学。1886(明治19)法科大学講師。1891(明治24)
法学博士。1898(明治31)農科大学教授。かたわら、私立の東京
商業学校・日本女子商業学校の校長を兼務。
わたなべ おん
渡辺 温
1902. 8.26(明治35)
1927. 5.10(昭和 2)
◇小説家。北海道生れ。本籍は秋田県仙北郡。渡辺啓助(ケイスケ)
の兄。
1927(昭和 2)博文館に入社。「新青年」の編集に携わり、谷崎
潤一郎の原稿を催促に行き、西宮で自動車事故に遭い死去。
(10)没日は1927. 5.10(昭和 2)。
(12)没日は1930. 2.10(昭和 5)。
わたなべ かざん
渡辺 崋山
1793(寛政 5)
1841(天保12.10.)
◇江戸後期の蘭学者・南画家。通称は登。
小禄の家に生れ、弟妹たちと離散し、貧困な生活を送る。
佐藤一斎らに儒学を、谷文晁に南画を学ぶ。
三河国田原藩の江戸詰家老となる。高野長英・小関三英ら蘭
学者と尚歯会(ショウシカイ)を組織し、蘭学・西洋事情を研究。
1837(天保 8)モリソン号事件で異国船打払令に反対し、『慎
機論』を著す。1839(天保10)蛮社の獄で処罰され、自殺。
◎1898(明治31)高野長英とともに正四位が追贈。
◎尚歯会は「老人を尊ぶ会」という意味で、幕府の目をそらすた
めに付けられたが、世人には蛮学社中と呼ばれていた。
わたなべ かずお
渡辺 一夫(渡邊 一夫)
1901. 9.25(明治34)
1975. 5.10(昭和50)
◇フランス文学者・評論家。東京本郷生れ。
1925(大正14)東京大学仏文科卒業。
旧制東京高校教授。1936(昭和11)東京帝国大学文学部講師を
兼任。1939(昭和14)東京高校退職。1942(昭和17)東京帝国大学
文学部助教授、1948(昭和23)同校教授、1962(昭和37)退官。
わたなべ かてい
渡辺 霞亭(渡邊 霞亭)
1864(元治元.11.20)
1926. 4. 7(大正15)
◇小説家・新聞記者。本名は勝、号は朝霞・朝霞隠士・緑園・
碧瑠璃園(ヘキルリエン)・黒法師・黒頭巾・春帆楼・哉乎(サイヤ)翁。
尾張国生れ。品野小学校・名古屋好生館に学ぶ。
わたなべ きちはる
渡辺 吉治
1894. 8. 9(明治27)
1930.10. 8(昭和 5)
◇美学研究家。
わたなべ くにたけ
渡辺 国武
1846(弘化 3)
1919(大正 8)
◇明治の官僚・政治家。旧姓は小池、渡辺家の養子。信濃(長
野県)生れ。渡辺千秋(チアキ)の弟、千秋の三男千冬(チフユ)を養子
とする。
(2)(系)旧姓小池,渡辺家の養子。
わたなべ こうふう
渡辺 光風
1868(明治元)
1940. 7.(昭和15) ????
◇歌人。本名は福三郎。
(10)没日は 1. 2。
わたなべ こうぼく
渡辺 香墨
1866(慶応 2. 5.27)
1912.12.18(大正元)
◇俳人・裁判官のち弁護士。
わたなべ しこう
渡辺 始興
1683(天和 3)
1755(宝暦 5)
◇江戸中期の画家。名は始興、通称は求馬。京都の人。
もと近衛家煕の家臣で朝廷にも仕えた。
はじめ狩野派を学び、のち尾形光琳の門人となる。絵画など
の古典の模写や花鳥の写生によって画技を充実させ、写実を基
礎とした装飾風の作品を描く。
立林何ゲイ(タテバヤシ・カゲイ)らとともに光琳派の祖述者として
各地に光琳派を発展させ、円山応挙らに影響を与える。
代表作は京都大覚寺の障子腰貼絵『野兎図』・奈良興福院(コ
ンブイン)の『障壁画』・『吉野山図屏風』など。
わたなべ じゅんぞう
渡辺 順三(渡邊 順三)
1894. 9.10(明治27)
1972. 2.26(昭和47)
◇歌人。富山市生れ。13歳ころ上京し、家具職人となる。ブロ
レタリア短歌運動を推進し、治安維持法違反で検挙される。
わたなべ しんや
渡部 審也
⇒わたべ しんや(渡部 審也)
わたなべ すいは
渡辺 水巴(渡邊 水巴)
1882. 6.16(明治15)
1946. 8.13(昭和21)
◇俳人。本名は義(ヨシ)、別号は静美・流觴居(リュウショウキョ)。東京
生れ。渡辺省亭(セイテイ)の長男。
内藤鳴雪・高浜虚子に師事し、「ホトトギス」同人として活躍。
「曲水吟社」を創立し、俳誌「曲水」を創刊主宰する。
◆水巴忌[ 8.13]。
わたなべ せいてい
渡辺省亭
1851(嘉永 4.12.27)
1918. 4. 2(大正 7)
◇日本画家。通称は良助。渡辺水巴(スイハ)の父。
わたなべ ちあき
渡辺 千秋
1843. 6.17(天保14. 5.20)
1921. 8.27(大正10)
◇明治・大正時代の官僚。渡辺国武(クニタケ)の兄、千冬(チフユ)の
父。
わたなべ ちふゆ
渡辺 千冬
1876(明治 9)
1940(昭和15)
◇明治〜昭和前期の政治家・実業家。渡辺千秋(チアキ)の三男、
渡辺国武の養子。
わたなべ とめこ
渡辺 とめ子
1882. 7.17(明治15)
1973. 6. 8(昭和48)
◇詩人・歌人。本名は留子、旧姓は大山。陸軍大将大山厳の四
女。
わたなべ なおき
渡辺 直己
1908. 6. 4(明治41)
1939. 8.21(昭和14)
◇歌人。広島高等師範学校卒業。女学校教師。
1937(昭和12)支那事変に応召、二年後に天津で戦死。
わたなべ はくう
渡辺 波空
1886. 1.21(明治19)
1914. 5.31(大正 3)
◇俳人・医師。本名は博。
わたなべ はくせん
渡辺 白泉
1913. 3.24(大正 2)
1969. 1.30(昭和44)
◇俳人。本名は威徳(タケノリ)。東京生れ。慶応義塾大学経済卒業。
1940(昭和15)京大俳句事件に連座。
わたなべ はまこ
渡辺 はま子
1910.10.27(明治43)
1999.12.31(平成11)
◇歌謡歌手。本名は加藤浜子。横浜市生れ。
武蔵野音楽学校卒業。のち、母校の教師。
1933. 6.(昭和 8)ポリドールから『最上川小唄』でデビュー。
同年12月、ビクターから『海鳴る空』で再デビュー。
1936. 2.(昭和11)『忘れちゃいやよ』が大ヒットし人気を得
たが、内務省から甘い歌い方が官能的として発売禁止処分を受
け、学校を退職。
1938.12.(昭和13)『支那の夜』が大ヒット。のち戦中は戦地
へ、戦後は捕虜収容所へとの慰問も数多く行う。
1973(昭和48)紫綬褒章、受章。日本レコード大賞特別賞、受
賞。
1981(昭和56)勲4等宝冠章、受章。
1982(昭和57)日本レコード大賞特別賞、受賞(2度目)。
脳梗塞(ノウコウソク)で死去。
代表曲は1933.12.(昭和 8)『海鳴る空』・1936. 2.(昭和11)
『忘れちゃいやよ』・1936. 8.(昭和11)『とんがらかっちゃ駄
目よ』・1936. 9.(昭和11)『月が鏡であったなら』・1938.12.
(昭和13)『支那の夜』・1940. 8.(昭和15)『蘇州夜曲』・1947.
1.(昭和22)『雨のオランダ坂』・1950. 8.(昭和25)『火の鳥』
・1950.10.(昭和25)『桑港(サンフランシスコ)のチャイナ街』・1951.
3.(昭和26)『チャンウェイ・チャンウェイ』・1952. 8.(昭和
27)『あゝモンテンルパの夜は更けて』など。
わたなべ ひとし
渡辺 均
1894. 8. 6(明治27)
1951. 3.16(昭和26)
◇小説家・新聞記者。
わたなべ ふみお《わたなべ ふみを》
渡辺 文雄
1929(昭和 4)
2004. 8. 4(平成16)
◇俳優。
1954(昭和29)東京大学経済学部を卒業し、広告代理店の電通
に入社。
1956(昭和31)出向先の松竹で小林正樹監督の映画『泉』にデ
ビュー出演。同年、松竹と契約し俳優業に専念。
大島渚監督の映画『青春残酷物語』・『日本の夜と霧』・
『絞死刑』・『少年』・『儀式』などに出演。
テレビ番組のNHK『連想ゲーム』・日本テレビ系の旅番組
『遠くへ行きたい』・フジテレビ系『くいしん坊!万才』など
にも活躍。
急性呼吸不全で死去。
わたなべ みかい
渡辺 未灰
1889.11.11(明治22)
1968.11.25(昭和43)
◇俳人。
わたなべ もくぜん
渡辺 黙禅(渡邊 默禪)
1870(明治 3. 6.30)
1945.11.18(昭和20)
◇小説家。羽後国(現:山形県南山郡金井村)生れ。山形中学校
を経て東京専門学校(現:早稲田大学)に学ぶ。
わたなべ ゆうこう
渡辺 幽香
1855(安政 2)
1942(昭和17)
◇明治二〇年前後の女流画家。父は五姓田芳柳(ゴセダ・リュウホウ)、
兄は義松。
わたなべ よへい
渡辺 与平
1889.10.17(明治22)
1912. 6. 9(明治45)
◇画家。旧姓は宮崎。長崎県生れ。京都市立美術学校・太平洋
画会で画を学ぶ。画家渡辺文子と結婚。竹久夢二に影響を与え
たといわれる。
わたなべ わたる
渡辺 渡
1899(明治32)
1946(昭和21)
◇詩人。
わたなべのつな
渡辺 綱
953(天暦 7)
1024
◇平安中期の武人。源頼光の四天王の一。武勇をもって知られ
る。嵯峨源氏から出て、養母の摂津国渡辺に住んだ。頼光に従
い、洛北市原野の鬼同丸(鬼童丸)を、また大江山の賊酒顛童子
を斃(タオ)し、また羅生門の鬼を退治したという伝説がある。
(*)1024(治安 4,万寿元)。
◎東京都港区三田の慶応義塾大学の裏通りに「綱坂(ツナザカ)」ま
たは「渡辺坂」と呼ばれる坂があり、渡辺綱の旧邸があったとさ
れる。
わたぬき ろくすけ
綿貫 六助
1880. 4. 8(明治13)
1946.12.19(昭和21)
◇小説家・評論家。群馬県生れ。陸軍士官学校を卒業後、日露
戦争に従軍。1918(大正 7)早稲田大学英文科卒業。1924. 5.
(大正13)長編小説『戦争』を発表。
(3)生年は1883(明治16)。
(5)生年は1880(明治13)。
(10)生年は1880(明治13)。
(11)生年は1880(明治13)。
わたべ しんや
渡部 審也
1875.12. 4(明治 8)
1950.12. 5(昭和25)
◇挿絵画家。岐阜県大垣生れ。
兄金秋に洋画を学び、のち明治美術学校で浅井忠・松岡寿の
指導を受ける。1901(明治34)太平洋画会の創立に参加。時事新
報社に入社。文部省嘱託として教科書の挿絵を担当。
(20)「わたなべ しんや」。
わたらい いえゆき
渡会 家行
1256
1351
◇鎌倉末期・南北朝時代の伊勢神宮外宮の神官。
伊勢神道の大成者。南朝のために尽力した。
著書『類聚神祇本源』。
(25)没年は1351。
(?)没年は1362。
(*)1256(建長 8,康元元)、1351(<南>正平 6,<北>観応 2)、
1362(<南>正平17,<北>康安 2,<北>貞治元)。
わたらい のぶよし
渡会 延佳
⇒でぐち のぶよし(出口 延佳)
わたらい ゆきただ
渡会 行忠
1236(嘉禎 2)
1306. 2.11(嘉元 3.閏12.11)
◇鎌倉後期の伊勢神宮(外宮)の禰宜(ネギ)。渡会行継の子、祖
父行能の養子。
(2)没年は1305(嘉元 3)、権禰宜渡会行基の子。
(23)没年は1306. 2.11(嘉元 3.閏12.11)、渡会(西河原)行継の
子で祖父行能の養子。
わたり ただあき
渡 忠秋
1811(文化 8. 2.10)
1881. 6. 5(明治14)
◇歌人。本名は鳥居、通称は新太郎、号は楊園・桂蔭。
わたり へいみん
渡 平民
1898. 7. 7(明治31)
没年不詳
◇劇作家。本名は保次郎。
わつじ てつろう
和辻 哲郎
1889. 3. 1(明治22)
1960.12.26(昭和35)
◇哲学者・倫理学者・文化史家・評論家。兵庫県姫路近在の仁
豊野(ニブノ)生れ。1912(明治45)東京大学哲学科卒業。
◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。
わに
王仁
生年不詳
没年不詳
◇古代、百済(クダラ)からの渡来人。
漢の高祖の末裔といわれ、応神天皇の16年に来朝し、『論語』
10巻、『千字文』1巻を献上する。阿直岐(アチキ)とともに皇太
子菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)に学問を教える。
◎子孫は西文子(カワチノフミウジ)・東漢氏(ヤマトノアヤウジ)とともに斎蔵
(イミクラ)・内蔵(ウチクラ)を担当。
わらび きょうどう
蕨 橿堂
1879. 6. 3(明治12)
1947. 2.15(昭和22)
◇歌人。本名は真治郎。蕨桐軒(トウケン)の従兄。
わらび とうけん
蕨 桐軒
1880. 8.30(明治13)
1950. 4. 4(昭和25)
◇歌人。本名は一郎。蕨橿堂(キョウドウ)の従弟。
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