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                    PDD図書館管理番号       0001.0000.6052.02

                 人   名   辞   典   《うさ》      編集:獨  澄旻

-------- うさ --------------------------------------------------
うざき ろじょう
	鵜崎 鷺城
	1873.11. 1(明治 6)
	1934.10.28(昭和 9)
	◇新聞記者・評論家。本名は熊吉。
うさみ さだみつ
	宇佐美 定満
	生年不詳
	1564(永禄 7)
	◇戦国時代の武将。孝忠の子。琵琶島城主・駿河守。
	 もと越後国上条上杉氏(柏崎)の重臣で長尾為景(タメカゲ)に抗
	し上杉氏の再興を図るが失敗。
	 のち長尾景虎(カゲトラ)(上杉謙信)に従属。景虎の意を受け、
	1550(天文19)策をもって魚沼郡(ウオヌマグン)上田坂戸城の長尾政
	景(マサカゲ)を挙兵させ、1551(天文20)政景の降伏により景虎・
	政景の連携がなり、政景は景虎の姉を娶る。
	 1564(永禄 7)政景と野尻池に舟遊びを催し、舟が転覆して共
	に水死。
	◎定満・長尾政景の死は、景虎の密命による政景の謀殺ともい
	われている。
うさみ しんすい
	宇佐美 (「潛」の「日」を「鬲」に替える)水
	1710(宝永 7. 1.23)
	1776(安永 5. 8. 9)
	◇江戸中期の儒学者(古学派)。名は恵、字は子迪(シテキ)、通称
	は恵助。上総(カズサ)国夷隅郡の豪農の子。
	 17歳で江戸に出て、荻生徂徠(オギュウ・ソライ)に師事。師の没後
	は板倉帆丘・太宰春台・服部南郭らについて経学を学ぶ。一時、
	片山兼山(ケンザン)を養子にする。のち出雲松平氏の松江藩儒と
	なり藩政に関与。
うさみ まこと
	宇佐美 洵
	1901(明治34)
	1983(昭和58)
	◇昭和期の財界人。慶応義塾大学卒業。山形県生れ。
	 三菱銀行に入り、1950(昭和25)取締役、1961(昭和36)頭取。
	 1964〜1969(昭和39〜昭和44)日本銀行総裁。
	 日本私学振興財団会長。
うざわ してい
	鵜沢 四丁
	1869(明治 2. 2. 9)
	1944. 1. 1(昭和19)
	◇俳人。本名は芳松。
うしお そうじ
	1921.12. 4(大正10)
	2004. 3.28(平成16)
	◇漫画家・テレビ映画製作者。本名は鷺巣富雄(サギス・トミオ)。東
	京市芝区大門生れ。鷺巣詩郎の父。
	 東宝の特撮技師となり、円谷英二とアニメーションに携わる。
	 のち、漫画家となり、『どんぐり天狗』・『おせんち小町』
	・『朱房の小天狗(コテング)』などを発表。
	 映像製作会社ピープロダクションを設立し、アニメーション
	『ハリスの旋風』、テレビドラマ『マグマ大使』・『スペク
	トルマン』・『怪傑ライオン丸』などの特撮を手がける。
うしお みどり《うしほ みどり》
	潮 みどり
	1897. 6.12(明治30)
	1927.10.13(昭和 2)
	◇歌人。本名は桐子、旧姓は太田。長谷川銀作の妻、
	若山喜志子(キシコ)の妹、若山牧水の義妹。
うしおだ たかのり《うしほだ たかのり》
	潮田 高教
	1669(寛文 9)
	1703(元禄16. 2. 4)
	◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、郡奉行・国絵図奉行、
	禄高200石。通称は又之丞(マタノジョウ)、戒名は刃窓空剣信士。妻
	「ゆう」は大石内蔵助(クラノスケ)良雄の叔父小山源五右衛門(ゲンゴエ
	モン)の娘。
	 討ち入りでは裏門隊。本懐を遂げて泉岳寺に引き揚げるとき、
	吉良上野介(コウズケノスケ)義央の首級を槍の先に掲げ持つ。江戸高
	輪の細川家に預けられ、翌年、一宮源四郎の介錯(カイシャク)で切
	腹。
うしおだ またのじょう《うしほだ またのじよう》
	潮田 又之丞
	⇒うしおだ たかのり(潮田 高教)
うしじま みつる
	牛島 満
	1887. 7.31(明治20)
	1945. 6.23(昭和20)
	◇陸軍軍人。
	 1908(明治41)陸軍士官学校、卒業(20期)。
	 1916.11.(大正 5)陸軍大学校、卒業(28期)。
	 1918. 8.(大正 7)シベリア出兵に参加、12月大尉に昇進。
	 1924. 3.(大正13)少佐に昇進。
	 1932. 8.(昭和 7)大佐に昇進。
	 1933. 3.(昭和 8)陸軍省副官に就任。
	 1936. 3.(昭和11)歩兵第一連隊長に就任。
	 1937. 3.(昭和12)少将に昇進し、歩兵第三六旅団長を経て同
	年12月第十一師団長に就任。
	 1941.10.(昭和16)公主嶺戦車学校校長に就任。
	 1942(昭和17)陸軍士官学校校長に就任。
	 1944. 8.(昭和19)第32軍司令官に就任し沖縄守備。
	 1945. 4. 1(昭和20)アメリカ軍が沖縄本島上陸し、防御戦の
	指揮をとる。同年6月20日大将に昇進。6月23日摩文仁(マブニ)
	で自決し、日本軍の組織的な戦いは終結。
	◎辞世の句「秋をまたで/枯れゆく島の青草は/皇国の春によ
	みかへらなむ」。
うしじま もりつね
	牛島 盛庸
	1757(宝暦 7)
	1840(天保11)
	◇江戸後期の和算家・細川藩士。名は平太、号は鶴渓。
	 1778(安永 7)細川藩の算学師範。
	 著書は1794(寛政 6)『算学小筌』・『続算学小筌』。
うじはら だいさく
	氏原 大作
	1905. 3.20(明治38)
	1956.12.31(昭和31)
	◇児童文学者。本名は阜(トオル)。
うすい きのすけ
	臼井 喜之介
	1913. 4.15(大正 2)
	1974. 2.22(昭和49)
	◇詩人。本名は喜之助。
うすい たいよく
	臼井 大翼
	1885. 2.28(明治18)
	1947. 4.23(昭和22)
	◇歌人。旧姓は千松。千葉県海上郡浦賀村生れ。1913(大正 2)
	東京大学法科卒業。1942(昭和17)日本縫糸統制会社社長。
	(13)臼井 大翼(うすい だいよく)。誕生日は 2.18。
うすい よしみ
	臼井 吉見
	1905. 6.17(明治38)
	1987. 7.12(昭和62)
	◇文芸評論家。長野県南安曇(ミナミアズミ)郡三田村、現在の堀金
	村生れ。松本高等学校を経て、1929(昭和 4)東京大学国文科卒
	業。
うすいのさだみつ《うすゐのさだみつ》
	碓井 貞光
	 955(天暦 9)
	1021
	◇平安中期の武人。源頼光の四天王の一。
	(4)生年は 954(天暦 8)。
	(*)1021(寛仁 5,治安元)
うすだ あろう
	臼田 亜浪
	1879. 2. 1(明治12)
	1951.11.11(昭和26)
	◇大正・昭和期の俳人。本名は卯一郎(ウイチロウ)、旧号は石楠花
	(シャクナゲ)・石楠堂書屋人・北山南水楼。その居を石楠書屋と称
	する。長野県北佐久郡小諸町生れ。
	 工手学校、明治法律学校(現:明治大学)、和仏法律学校など
	に苦学して学び、1904(明治37)法政大学を卒業。1915(大正 4)
	大須賀乙字(オオスガ・オツジ)と俳誌「石楠」を創刊、主宰。
	(13)没日は10.23。
うすだ ざんうん
	薄田 斬雲
	1877. 1.27(明治10)
	1956. 3.27(昭和31)
	◇小説家・ジャーナリスト。本名は貞敬。
うだ てんのう《うだ てんわう》
	宇多 天皇
	 867(貞観 9. 5.)
	 931(承平元. 7.19)
	◇第59代天皇。名は定省(サダミ)、号は亭子院(テイジノイン)、諡は
	宇多院。第58代光孝天皇の第7皇子、母は皇后班子。是忠親王
	・是貞親王の弟。敦仁皇子(第60代醍醐天皇)・敦実(アツミ)親王
	の父。
	  884(元慶 8)源朝臣の姓を賜る(臣籍降下)。
	  887(仁和 3. 8.)父光孝天皇が急病死し、関白藤原基経(モトツ
	ネ)の推薦により、即日親王(皇族復帰)に任じられ皇太子となり、
	11月即位。即位の直後、基経への詔書に用いられた「阿衡(アコウ)
	の任」の理解で紛議、天皇が詔勅を直し(阿衡の紛議)、実権は
	藤原氏にあった。基経の娘温子が入内。
	  890(寛平 2.12.14)基経の関白退位後、摂政・関白を置かず、
	 891(寛平 3)基経の没後、藤原氏の専権を抑えて親政を図り、
	菅原道真(ミチザネ)・平季長らを起用、政治の刷新に努める(寛平
	の治)。
	  897(寛平 9)醍醐(ダイゴ)天皇に譲位後、 899(昌泰 2)仁和
	寺(ニンナジ)で出家し、初めて法皇の称を用い寛平法皇という。
	 やがて基経の子藤原時平(トキヒラ)が権力を握り、 902(延喜 2.
	 1.)道真を大宰権師に左遷。 904(延喜 4)仁和寺に移り亭子院
	と称する。
	  909(延喜 9)時平が没し、弟藤原忠平(タダヒラ)と醍醐天皇・
	宇多法皇の三者一体の政治を行う(延喜の治)。
	 即位: 887(仁和 3.11.17)、退位: 897(寛平 9. 7. 3)。
	◎第1皇子(第60代醍醐天皇)が即位の際、宇多法皇が与えた訓
	戒を『寛平御遺誡(カンピョウノゴユイカイ)』という。
	 宇多天皇の第9皇子敦実親王を祖とする源氏を宇多源氏と呼
	ぶ。
	(2)光孝天皇の皇子,母は班子女王。(名)……空理・金剛覚。
	 「斑子女王(ハンシ・ニョオウ)」の項:光孝天皇の女御。
	(4)光孝天皇の第一七皇子。
	(6)光孝天皇の第7皇子。
	(16)光孝天皇の第7子。法名を空現金剛覚…….母は皇后班子.
うだか しんいち
	宇高 伸一
	1886. 6.25(明治19)
	1943. 3.10(昭和18)
	◇小説家。本名は信一、旧姓は佐藤。
うたがわ くにさだ《うたがは くにさだ》
	歌川 国貞
	1786(天明 6)
	1864
	◇江戸末期の浮世絵師。名は角田庄蔵、号は一雄斎・五渡亭・
	一陽斎豊国二世。
	 [1]歌川(一陽斎)豊国(初世)に浮世絵を学び、国貞と称する。
	1844年、豊国を襲名。
	 猪首・猫背の独特な姿態で描く。
	◎豊国二世と自称したが実は三世であった。
	(*)1844(天保15,弘化元)、1864(文久 4,元治元)。
うたがわ くになお
	歌川 国直
	1793(寛政 5)
	1854
	◇江戸後期の浮世絵師。俗称は吉川鯛蔵、号は一斎・一楊斎・
	浮世庵。信濃の人。
	 [1]歌川(一陽斎)豊国(初世)の門人。役者絵・美人画の禁止
	で風景画を描く。
	(*)1854(嘉永 7,安政元)。
[1]うたがわ くにひさ
	歌川 国久(初世)
	生年不詳
	没年不詳
	◇江戸後期の浮世絵師。
	 [1]歌川(一陽斎)豊国(初世)の門人。
[2]うたがわ くにひさ
	歌川 国久(二世)
	◇明治期の浮世絵師。本姓は勝田久太郎、号は陽斎・一雲斎・
	立蝶楼。
うたがわ くにまさ
	歌川 国政
	1773(安永 2)
	1810(文化 7)
	◇江戸後期の浮世絵師。俗称は佐藤甚助、号は一寿斎。会津の
	人。
	 初め紺屋の職人。[1]歌川(一陽斎)豊国(初世)に認められ、
	入門。
うたがわ くにまつ
	歌川 国松
	1855(安政 2)
	1944(昭和19)
	◇浮世絵師。初名は一龍斎豊重のち福動国松、晩年は玩舟と号
	す。明治初期の風俗画・錦絵や新聞挿絵などを描く。
うたがわ くによし
	歌川 国芳
	1797(寛政 9)
	1861(文久元. 3. 5)
	◇江戸末期の浮世絵師。本名は井草孫三郎、通称は孫三郎、号
	は一勇斎・朝桜楼・採芳舎。「武者絵の国芳」と呼ばれる。京染
	屋柳屋吉右衛門の子、井草家の嗣子。
	 [1]歌川(一陽斎)豊国(初世)の門人。
	 光や風を感じさせる洋風表現を取り入れた。
	(2)(生)江戸日本橋本銀町1丁目。
	(6)江戸神田の生まれ。
	(16)江戸神田の京染屋に生まれ…….
	 代表作「東京名所・するが台」:『東都名所』の誤。
うだがわ げんしん《うだがは げんしん》
	宇田川 玄真
	⇒うだがわ しんさい(宇田川 榛斎)
うだがわ げんずい《うだがは げんずい》
	宇田川 玄随
	1755(宝暦 5)
	1797(寛政 9.12.18)
	◇江戸中期の蘭医。名は晋、字は明卿、号は槐園(カイエン)・東海。
	美作国津山藩医宇田川道記の長男。江戸生れ。
	 玄随が幼少のため弟子潜が養子となり、玄随はその養子とな
	る。25歳のとき桂川甫周(カツラガワ・ホシュウ)ついで杉田玄白・前野
	良沢(リョウタク)らに蘭方医学を学ぶ。
	 甫周の勧めでオランダの Jchannes de Gorterの内科書の翻
	訳のため白河藩士石井恒右衛門に蘭語を学び、苦心の末、1793
	(寛政 5)『西説内科選要』を刊行。
	 死後、宇田川榛斎(シンサイ)(玄真)が跡を継ぐ。
	(2)没年は1797(寛政 9)。
	(4)没年は1797。
	(6)没年は1797/98。
	(16)没日は1797(寛政 9.12.18)。
うだがわ しんさい《うだがは しんさい》
	宇田川 榛斎
	1769(明和 6)
	1834(天保 5.12. 4)
	◇江戸後期の蘭医。名は(「王」偏+「燐」-「火」:補助4453)、字は
	玄真(ゲンシン)、号は榛斎。安岡四郎右衛門の子、宇田川榕庵(ヨウ
	アン)の養父。伊勢の人。
	 江戸に出て宇田川玄随(ゲンズイ)・大槻玄沢に蘭学を学ぶ。玄
	沢の推挙で杉田玄白の養子となるが、放蕩のため離縁。
	 1797(寛政 9)玄随の没後、迎えられて跡を継ぐ。1813(文化
	10)幕府天文台の訳員となりショメールの百科全書を訳出。養
	父玄随の『西説内科選要』を増訂。
	(2)生年は1769(明和 6)、没年は1834(天保 5)。
	(4)生年は1769、没年は1834。
	(6)生年は1769、没年は1834/35。
	(16)生年は1768(明和 5)、没日は1834(天保 5.12/ 4)。
[1]うたがわ とよくに《うたがは とよくに》
	歌川 豊国(初世)
	1769(明和 6)
	1825. 2.24(文政 8. 1. 7)
	◇江戸末期の浮世絵師。本名は倉橋熊吉(クラハシ・クマキチ)、号は
	一陽斎。江戸芝明神前の木彫人形師の子。
	 歌川豊春(トヨハル)に学ぶ。初め美人画を、のち役者絵を描く。
	芝居絵の豊国、美人画の豊広として知られる。
	 山東京伝・式亭三馬・滝沢馬琴の挿絵も多い。
[2]うたがわ とよくに《うたがは とよくに》
	歌川 豊国(二世)
	1777(安永 6)
	1835(天保 6)
	◇浮世絵師。初名は豊重、号は一竜斎。[1]歌川豊国(初世)の
	養子。
[3]うたがわ とよくに《うたがは とよくに》
	歌川 豊国(二世,三世)
	⇒うたがわ くにさだ(歌川 国貞)
うたがわ とよはる《うたがは とよはる》
	歌川 豊春
	1735(享保20)
	1814(文化11. 1.12)
	◇江戸中期・末期の浮世絵師。名は昌樹、俗称は但馬屋庄次郎
	のち新右衛門、号は一竜斎。生国は但馬国豊岡とも豊後国臼杵
	ともいう。歌川派の祖。
	 京都で狩野派の宮廷御用絵師鶴沢探鯨(タンゲイ)に学び、江戸
	に出て鳥山石燕に師事。江戸芝宇田川町に住み、歌川姓を名乗
	る。
	 中国の版画や洋書の挿絵から透視遠近法を学んだ風景画「浮
	絵(ウキエ)」を得意とする。
うたがわ とよひろ《うたがは とよひろ》
	歌川 豊広
	1773(安永 2)
	1828(文政11)
	◇江戸後期の浮世絵師。俗称は岡島藤次郎、号は一柳斎。
	 歌川豊春の門人で、芝居絵の豊国、美人画の豊広として知ら
	れる。
うたがわ ひろしげ《うたがは ひろしげ》
	歌川 広重(初代)
	⇒あんどう ひろしげ(安藤 広重)
うたがわ ひろしげ《うたがは ひろしげ》
	歌川 広重(3代)
	1842(天保13)
	1894(明治27)
	◇明治前期の錦絵師。
	 2代広重が去ったのち、初代広重の養女の入婿となり、事実
	上3代目となる。
うだがわ ぶんかい《うだがは ぶんかい》
	宇田川 文海
	1848(嘉永元. 2.24)
	1930. 1. 6(昭和 5)
	◇小説家・新聞記者。別名は鳥山棄三(ステゾウ)・鳥山捨三、別
	号は金蘭・除々庵(ジョジョアン)主人・半痴。鳥山は母方の姓。江
	戸本郷の道具屋伊勢屋(イセヤ)市兵衛の三男に生れる。
	(2)宇田川 文海(うだがわ ぶんかい)。(名)鳥山捨蔵,号を
	半痴居士。
	(5)宇田川 文海(うだがわ ぶんかい)。
	(11)宇田川 文海(うたがわ ぶんかい)。
	(13)宇田川 文海(うだがわ ぶんかい)。
うだがわ ようあん《うだがは ようあん》
	宇田川 榕庵
	1798(寛政10)
	1846(弘化 3. 6.22)
	◇江戸幕末の蘭医。名は榕。美濃国大垣藩医江沢養樹の子、宇
	田川榛斎(シンサイ)の養子。飯沼慾斎(ヨクサイ)の子興斎の養父。美作
	国津山藩医。
	 馬場佐十郎に蘭学を学ぶ。江戸参府のシーボルトに西洋学術
	について質疑する。1826(文政 9)幕府天文台で蘭書(ショメー
	ルの百科全書)を翻訳に参加。シーボルトから譲られた植物書
	を独力で判読し、1833(天保 4)『植学啓原』を著す。1837(天
	保 8)蘭書に基づいて日本最初の化学書『舎密開宗(セイミカイソウ)』
	を著す。
	(2)「宇田川榛斎」の項に「大垣藩医の子江沢榕菴を養子とした。」
	とある。
うちがさき さくさぶろう
	内ヶ崎 作三郎
	1877. 4. 3(明治10)
	1947. 2. 4(昭和22)
	◇評論家・政治家。
うちこ ないしんのう《うちこ ないしんわう》
	有智子 内親王
	 807(大同 2)
	 847(承和14)
	◇平安前期の漢詩人・嵯峨(サガ)天皇の皇女。
	  810(弘仁元)嵯峨天皇の即位の際、最初の賀茂斎院となり、
	 831(天長 8)退居。
	 漢詩文に堪能で、「本朝女中無双之秀才」といわれる。
	 作品は『後日本後紀』・『経国集』に所収され、春日山荘の
	詩が有名。
うちだ いわお
	内田 巌
	1900. 2.15(明治33)
	1953. 7.17(昭和28)
	◇画家。内田魯庵(ロアン)の長男。
うちだ えんこ
	内田 遠湖
	1854(安政元.11. 7)
	1944.12.23(昭和19)
	◇儒学者。本名は周平、字は仲準、別号は遠湖釣者・帆影子。
うちだ ぎんぞう《うちだ ぎんざう》
	内田 銀蔵
	1872(明治 5. 1.25)
	1919. 7.22(大正 8)
	◇明治・大正期の経済史学者。東京の出身。東京大学国史科卒
	業。
	 1902(明治35)文学博士。1903〜1906(明治36〜明治39)英仏独
	に留学。帰国後、京都大学教授。
	 国史学に史料考証による西洋史学の方法を取り入れる。
	(2)1899(明治32)東大講師,日本経済史を講ず。
	(16)1896(明治29)東大講師としてわが国ではじめて日本経済史
	の講義を担当……。
うちだ こうさい《うちだ かうさい》
	内田 康哉
	1865(慶応元. 8.)
	1936. 3.12(昭和11)
	◇明治〜昭和初期の外交官・政治家。熊本藩士松井玄真の子。
	東京大学法科卒業。
	 外務省に入り、米・英在勤、のち中国公使館一等書記官。第
	4次伊藤博文内閣の外務次官。中国公使ついでオーストリア大
	使兼スイス公使・アメリカ大使。
	 1911(明治44)第2次西園寺公望(キンモチ)内閣の外務大臣となり、
	日米条約改正の任に当る。ロシア大使に赴任しロシア革命に遭
	遇。1918(大正 7)原敬(タカシ)・1921(大正10)高橋是清(コレキヨ)・
	1922(大正11)加藤友三郎内閣の外務大臣、加藤の死去後臨時首
	相。1925(大正14)枢密顧問官、パリ不戦条約に全権として調印
	し、その批准をめぐり違憲問題となり、1929(昭和 4)引責辞任。
	1930(昭和 5)勅選貴族院議員。1931(昭和 6)南満州鉄道総裁と
	なり、満州事変勃発後は関東軍に協力。1932(昭和 7)斎藤実(マ
	コト)内閣の外務大臣となり、「日本は焦土と化すとも満州を守る」
	と演説し満州国承認・国際連盟脱退など、「焦土外交」と評され
	る強硬外交をとる。
うちだ せいのすけ
	内田 清之助
	1884.12. 1(明治17)
	1975. 4.28(昭和50)
	◇明治〜昭和期の鳥類学者・随筆家。東京生れ。東京大学卒業。
	 東京大学講師・農林省林野局鳥獣調査室長・日本鳥類学会名
	誉会長・日本動物園協会顧問。
うちだ でんいち
	内田 伝一
	1896.11. 1(明治29)
	没年不詳
	◇フランス文学者。
うちだ とむ
	内田 吐夢
	1898. 4.26(明治31)
	1970. 8. 7(昭和45)
	◇大正・昭和期の映画監督。本名は常次郎。岡山市生れ。
	 中学校卒業後、俳優として大正活映に入る。のち日活監督。
	1945(昭和20)満州映画に入る。
	 太平洋戦争後、中華人民共和国の映画製作に協力し、1953
	(昭和28)帰国。のち東映で活躍。
うちだ ひゃっけん
	内田 百間(間:「門」構+「月」)
	1889. 5.29(明治22)
	1971. 4.20(昭和46)
	◇明治〜昭和期の小説家・随筆家。本名は栄造、別号は百鬼園
	(ヒャッキエン)・流石・廬橘子。岡山県古京町(フルギョウチョウ)に酒造家
	の一人息子として生れる。
	 岡山第一中学校・第六高等学校を経て、1914(大正 3)東京大
	学独文科卒業。
	 夏目漱石に師事。
	 作品は1922(大正11)短編集『冥途』など。
	◆百間忌(百鬼園忌・木蓮忌)[ 4.20]。百鬼園は「借金」の語呂
	合せ、木蓮は東京中野区金剛寺の句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」
	から。
	(2)(生)岡山県。
	(6)岡山市生まれ。
うちだ ぼじょう
	内田 暮情
	1881. 8.(明治14)
	1945. 9.(昭和20)
	◇陸軍軍医・俳人。本名は璞。終戦後大連で客死。
うちだ まこと
	内田 誠
	1893. 3.10(明治26)
	1955. 8.13(昭和30)
	◇随筆家。俳号は水中亭東京。
うちだ りょうへい《うちだ りやうへい》
	内田 良平
	1874(明治 7)
	1937(昭和12)
	◇明治〜昭和期の右翼愛国運動家。玄洋社の元老内田良五郎の
	子、平岡浩太郎の甥。福岡県の人。
	 国家主義的な右翼団体の玄洋社に学ぶ。1894(明治27)東学党
	応援ため天佑侠に参加し朝鮮に渡る。日露戦争後の三国干渉に
	憤慨し、ウラジオストクに渡りシベリアを横断。1898(明治31)
	宮崎滔天(トウテン)の紹介で孫文に会う。1901(明治34)玄洋社の幹
	部頭山満(トウヤマ・ミツル)を顧問として黒龍会を創立。1903(明治36)
	対露同志会に参加。1905(明治38)孫文・黄興らの中国革命同盟
	会の結成を斡旋。日韓併合の裏面に活躍。合併後、小川平吉・
	宮崎滔天らと有隣会を組織。1925(大正14)加藤高明首相の暗殺
	未遂事件で入獄。1931(昭和 6)黒龍会大阪支部を中心に大日本
	生産党を組織、総裁となり満蒙独立運動を推進。
	(2)玄洋社幹部内田良五郎の3男……。
	(6)玄洋社の元老内田良五郎の二男。
うちだ ろあん
	内田 魯庵
	1868(慶応 4.閏4. 5)
	1929. 6.29(昭和 4)
	◇明治期の評論家・翻訳家・小説家・随筆家。本名は貢、幼名
	は貢太郎、号は不知庵(フチアン)・藤阿弥(トウアミ)・三文字舎金平(サ
	ンモンジヤキンピラ)・三文字屋金平・柏木衛門。江戸下谷(シタヤ)車坂
	(クルマザカ)六軒町(ロッケンチョウ)生れ。内田巌(イワオ)の父。伯母は井上
	勤(ツトム)の妻。
	 東京専門学校英語部・東京大学予備門など、いづれも中退。
	 『女学雑誌』・『国民之友』などで文芸評論に活躍。
	 ドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『復活』・
	『イワンの馬鹿』などを翻訳し、日本に紹介。
	 1901(明治34)丸善に入る。
	(1)誕生日は1868(慶応 4.閏4. 5)。本名は貢。
	(2)生年は1868(明治1)。(名)本名貢。
	(3)誕生日は1868(慶応 4. 4. 5)。
	(4)生年は1868。名は貢。
	(5)誕生日は1868(慶応 4.閏4. 5)。
	(6)生年は1868。本名貢(ミツグ)。
	(8)誕生日は1868(慶応 4.閏4. 5)。本名は貢(ミツギ)。
	(11)誕生日は1868(慶応 4.閏4. 5)。本名内田貢(ミツギ)。
	(16)誕生日は1868(明治1. 4/ 5)。本名は貢,…….
うちむら かんぞう《うちむら かんざう》
	内村 鑑三
	1861(万延 2. 2.13)
	1930. 3.28(昭和 5)
	◇明治〜昭和初期の宗教家(キリスト教)・評論家。上野国高崎
	の藩士内村金之丞の子として江戸小石川の江戸邸(ヤシキ)に生れ
	る。
	 札幌農学校(現:北海道大学)入学。在学中にクラーク(William 
	Smith Clark)の感化でキリスト教に入信。1881(明治14)卒業。
	 1882(明治15)札幌独立基督教会を創設。1884(明治17)渡米し
	アマースト大学に入学、1887(明治20)卒業、さらにハートフォ
	ード神学校に学び、1888(明治21)帰国。
	 1891(明治24)信仰上の立場から教育勅語に対する敬礼を拒否
	(不敬事件)、第一高等中学校講師の職を追われ、以来著述に専
	念。
	 1897(明治30)万朝報社に招かれ「万朝報」英文欄記者。1898
	(明治31)「東京独立雑誌」を創刊。1901(明治34)足尾銅山鉱毒事
	件では「鉱毒地巡礼記」を連載し社会正義を主張。1903(明治36)
	日露戦争では自衛戦争を説く植村正久に対し、非戦論を唱え幸
	徳秋水(コウトク・シュウスイ)・堺利彦らとともに万朝報社を退社。
	 1900〜1930(明治33〜昭和 5)月刊誌「聖書之研究」を創刊、教
	会的キリスト教に対して聖書に基づく無教会主義を唱える。
	 著書1893(明治26)『基督信徒の慰め』・1893(明治26)『求安
	録』・1895(明治28)英文『余は如何にして基督信徒となりし乎
	(How I become a Christian)』など。
	◎日本(Japan)とイエス(Jesus)の「二つのJ」に仕えることを念
	願とする。
	◎門弟は塚本虎二・矢内原忠雄(ヤナイハラ・タダオ)など。
うちむら なおや
	内村 直也
	1909(明治42)
	1989. 7.29(平成元)
	◇劇作家。
うちやま かんぞう《うちやま くわんざう》
	内山 完造
	1885. 1.11(明治18)
	1959. 9.20(昭和34)
	◇文筆家・書店主。
	 1917(大正 6)上海の日本人租界地である虹口に書店を開く。
	(3)大正六〜二二、上海で内山書店を経営。「二二」は昭和か(?)。
	(8)大正六年上海に書店を開き敗戦まで経営。
うちやま けんじ
	内山 賢次
	1889. 9.20(明治22)
	1972.12.28(昭和47)
	◇翻訳家。
うつの けん
	宇都野 研
	1877.11.14(明治10)
	1938. 4. 3(昭和13)
	◇医者・歌人。本名は研(キワム)。愛知県生れ。東京大学医科卒
	業。小児科病院を経営。
うつのみや うじつな
	宇都宮 氏綱
	1326
	1370
	◇南北朝時代の武将。宇都宮公綱(キンツナ)の長男。
	(*)1326(正中 3,嘉暦元)、1370(<南>正平25,<南>建徳元,<北>
	応安 3)。
うつのみや かげつな
	宇都宮 景綱
	1235
	1298(永仁 6)
	◇鎌倉後期の武将。宇都宮泰綱の子、母は平朝時の娘。
	(*)1235(文暦 2,嘉禎元)。
うつのみや きんつな
	宇都宮 公綱
	1301(正安 3)
	1356
	◇南北朝時代の武将。宇都宮貞綱の子、宇都宮氏綱の父。
	(2)「うつのみや きみつな」。
	(16)「うつのみやきんつな」。
	(*)1356(<南>正平11,<北>文和 5,<北>延文元)。
うつのみや くにつな
	宇都宮 国綱
	1568(永禄11)
	1607(慶長12)
	◇安土桃山時代の武将。宇都宮広綱の子、母は佐竹義昭の娘。
うつのみや たかふさ
	宇都宮 隆房
	1329
	1359(<南>正平14,<北>延文 4)
	◇南北朝時代の武将。宇都宮頼房の子。
	(*)1329(嘉暦 4,元徳元)。
うつのみや のぶふさ
	宇都宮 信房
	1116(永久 4)
	1195(建久 6)
	◇平安末期・鎌倉前期の武将。宇都宮宗房の子。
うつのみや よりつな
	宇都宮 頼綱
	1172(承安 2)
	1259
	◇鎌倉前期・中期の武将・歌人。宇都宮成綱の子。北条時政の
	娘婿。小山政光の養子。
	(*)1259(正嘉 3,正元元)。
うつみ げつじょう
	内海 月杖
	1872(明治 5. 3.27)
	1935.12. 5(昭和10)
	◇国文学者・歌人。本名は弘蔵(コウゾウ)。神奈川県大山町生れ。
	1898(明治31)東京帝国大学国文科卒業。1911(明治44)明治大学
	に野球部を創設。
	(5)誕生日は 3.27、没日は12. 5。
	(8)誕生日は 3.23、没日は12. 7。
	(11)誕生日は 3.27、没日は12. 5。
うつみ ほうまつ
	内海 泡沫
	1884. 8.30(明治17)
	1968. 6.14(昭和43)
	◇詩人。本名は信之。
うてい えんば
	烏亭 焉馬
	1743(寛保 3)
	1822(文政 5)
	◇江戸後期の狂歌師・戯作者。本名は中村英祝、通称は和泉屋
	和助、別号は立川焉馬・談洲楼。
	 江戸本所の大工棟梁。
	 歌舞伎に造詣が深く、また落咄(オトシバナシ)を自作自演し、落
	語中興の祖といわれる。
	 著書は『花江都歌舞妓年代記』・洒落本『客者評判記』・浄
	瑠璃『碁太平記白石噺』など。
	(4)本名、中村利貞。
	(25)本名、中村英祝。
うどの しねい
	鵜殿 士寧
	1710(宝永 7)
	1774(安永 3.10.22)
	◇江戸中期の漢学(古学)者。名は孟一、字は子寧、通称は左膳、
	号は本荘。江戸生れ。
	 旗本両御番の御小姓組、千石。初め朱子学を学び、荻生徂徠
	(ソライ)の説を慕い服部南郭(ナンカク)に古文辞学・修辞学を修める。
	(2)邸が本荘(本所)にあったので人呼んで本荘先生。
うながみ ずいおう
	海上 随鴎(鴎:「區」偏+「鳥」)
	⇒いなむら さんぱく(稲村 三伯)
うながみ たねひら
	海上 胤平
	1829(文政12.12.30)
	1916. 3.29(大正 5)
	◇歌人。通称は六郎、号は椎園(シイゾノ)。下総(シモウサ)国海上郡
	三上村生れ。
	 剣道を千葉周作に学んで諸国武者修業に出、和歌山にとどまっ
	て加納諸平(モロヒラ)について国学を修める。
	 明治維新後は山形地方裁判所判事補。御歌所寄人。
	(16)没日は 4. 2。
うの えんくう《うの ゑんくう》
	宇野 円空
	1885(明治18)
	1949(昭和24)
	◇大正・昭和期の宗教学者。京都の人。
	 1910(明治43)東京大学を卒業後、京都大学で宗教学を学ぶ。
	東京大学文学部講師・助教授・教授。
うの こうじ《うの かうじ》
	宇野 浩二
	1891. 7.26(明治24)
	1961. 9.21(昭和36)
	◇小説家。本名は格次郎。福岡市湊町生れ。幼く父を失い少年
	時代を大阪市で送る。早稲田大学英文科を中退。
	 初め童話や少女小説を書く。
	 作品は1919(大正 8)『蔵の中』・評伝『芥川龍之介』など。
	◆宇野浩二忌[ 9.21]。
うの こうぞう《うの こうざう》
	宇野 弘蔵
	1899(明治32)
	1977(昭和52)
	◇昭和期の経済学者。岡山県生れ。
	 東京大学教授。
うの しろう
	宇野 四郎
	1893. 4.12(明治26)
	1931. 2.10(昭和 6)
	◇演出家・小説家・劇作家。筆名は伊豆四郎・坂下一六。
うの めいか
	宇野 明霞
	1698(元禄11. 5.20)
	1745(延享 2. 4.17)
	◇江戸中期の漢学(古学)者。名は鼎、字は士新、通称は三平、
	号は明霞。父宇野安治の子、宇野士朗の兄。京の人。
	 父の運漕業を継がず、弟とともに荻生徂徠の学に没頭。のち
	向井滄洲・大潮禅師(元皓)に師事。弟は徂徠に師事。
	 一生妻妾をおかず、諸侯の招きにも応じなかった。
うぶかた としろう
	生方 敏郎
	1882. 8.24(明治15)
	1969. 8. 6(昭和44)
	◇随筆家・評論家。群馬県利根郡沼田町生れ。明治学院普通部
	から早稲田大学英文科に入学、1906(明治39)卒業。
	(13)誕生日は 7.24。
うまやどのおうじ《うまやどのわうじ》
	厩戸 皇子(廐戸 皇子)
	⇒しょうとくたいし(聖徳太子)
うめ けんじろう《うめ げんじらう》
	梅 謙次郎
	1860(万延元. 6. 7)
	1910. 8.26(明治43)
	◇明治時代の法学者。松江藩(島根県)出身。
	 東京外国語学校(現:東京外国語大学)・司法省法律学校に学
	ぶ。1884〜1890(明治17〜明治23)文部省から派遣されてリヨン
	大学・ベルリン大学に留学。帰国後、東京大学教授となり没す
	るまで在任。法制局長官・内閣恩給局長・文部省総務長官・和
	仏法律学校(現:法政大学)総理などを歴任。旧民法公布にあた
	りボアソナード案を支持し即時施行を主張、穂積八束(ホヅミ・ヤツ
	カ)らと民法典論争を展開する。1905(明治38)法典調査委員とな
	り、民法は穂積陳重(ノブシゲ)・富井政章と、商法は田部芳・岡
	野敬次郎と起草に携わり、明治立法史上に大きな功績を残す。
	1906(明治39)韓国総督府の法律顧問となり、京城<ソウル>で病死。
	(2)1885〜1890(明治18〜明治23)仏・独に留学。
	(16)1884〜1890(明治17〜明治23)文部省から派遣されて,……。
[1]うめがたに とうたろう《うめがたに とうたらう》
	梅ヶ谷 藤太郎(初代)
	1845(弘化 2)
	1928(昭和 3)
	◇明治期の力士。本名は小江藤太郎。[2]梅ヶ谷藤太郎(二代)
	の養父。紙梳業小江藤右衛門の次男。筑前国(福岡県)朝倉郡杷
	木(ハギ)町梅ヶ谷の人。
	 1866(慶応 2. 1.)入幕。1863(文久 3)大坂で初土俵。1870
	(明治 3)大関。
	 同年12月上京して玉垣部屋に入門。1874(明治 7)入幕。1883
	(明治16)春場所、大関。1884. 2.(明治17)横綱。
	 1885(明治18)引退、年寄雷(イカヅチ)権太夫を名乗る。1889(明
	治22)大日本相撲協会の設立とともに取締役。1909(明治42)両
	国国技館を建設。
	(2)生年は1845(弘化 2)。15代横綱。
	(4)生年は1841。横綱第一二世。
	(6)生年は1845。1884年15代横綱。
[2]うめがたに とうたろう《うめがたに とうたらう》
	梅ヶ谷 藤太郎(二代)
	1878(明治11)
	1927(昭和 2)
	◇明治・大正期の力士。本名は押田音松。売菓業押田喜平の4
	男。[1]梅ヶ谷藤太郎(初代)の養子。富山の出身。
	 1891(明治24)雷(初代梅ヶ谷)の養子となり入門。1892(明治
	25)夏場所で初土俵。1898(明治31)入幕。1902(明治35)梅ヶ谷
	を襲名。1903(明治36)常陸山とともに第20代横綱。
	 1915(大正 4)夏場所後、引退。
	(2)20代横綱。'03横綱となる。
	(4)横綱第一七世。明治三七年横綱。
	(6)1903年常陸(ヒタチ)山とともに20代横綱となり……。
うめざき はるお
	梅崎 春生
	1915. 2.15(大正 4)
	1965. 7.19(昭和40)
	◇昭和後期の小説家。福岡市簀子町生れ。小説家梅崎光生(ミツオ)
	の実弟。
	 1939(昭和14)処女作『風宴』を発表後、戦後まで召集。
	 1940(昭和15)東京大学国文科卒業。
うめざわ わけん
	梅沢 和軒
	1871(明治 4. 9.16)
	1931. 1. 4(昭和 6)
	◇国文学者・美術評論家。本名は精一。
うめだ うんぴん
	梅田 雲浜
	1815(文化12. 6. 7)
	1859(安政 6. 9.14)
	◇江戸幕末の志士・儒者(朱子学派)。名は定明(サダアキラ)、初名
	は義賢、通称は源次郎、号は雲浜・湖南・東塢。若狭国小浜藩
	士矢部岩十郎義比(ヨシチカ)の次子、祖父の生家梅田を継ぐ。
	 藩校順造館で学び、のち同藩の儒者山口管山に崎門(山崎闇
	斎)学を修める。のち近江国大津の上原立斎に学び、大津に湖
	南塾を開く。1843(天保14)京都木屋二条に移り、立斎の長女し
	んと結婚。森田節斎(セッサイ)・梁川星巌(ヤナガワ・セイガン)らと交わ
	る。国事建言で、1852(嘉永 5)幕府の忌諱に触れ追放。兵庫で
	長州の同志とロシア艦襲撃や大老井伊直弼排斥を企てる。青蓮
	院宮に入説し、戊午の密勅降下の一因となる。
	 安政の大獄の際、1858(安政 5. 9.)第一に捕われ、12月江戸
	に檻送。小倉藩邸に預けられるが、翌年脚気(カッケ)により病死。
	 1891(明治24)正四位を遺贈。
	◆墓は京都市東山区の正法寺。
うめだ かん
	梅田 寛
	1897. 2.13(明治30)
	1969. 1. 9(昭和44)
	◇ロシア文学者。本名は寛三郎。
うめだ はるお
	梅田 晴夫
	1920. 8.12(大正 9)
	1980.12.21(昭和55)
	◇劇作家。本名は晃(アキラ)。東京生れ。慶応義塾大学仏文科卒
	業。
うめただ みょうじゅ《うめただ みやうじゆ》
	埋忠 明寿
	1556(弘治 2)
	1631(寛永 8. 5.18)
	◇桃山〜江戸初期の刀工・鐔工(タンコウ)。氏は橘、名は重吉・
	宗吉、通称は彦次郎、法号は鶴峯明寿。埋忠家の祖。
	 足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀次に仕える。
	 京都西陣に住み、真鍮の鐔(ツバ)に金銀銅などで象嵌(ゾウガン)
	を、刀身に彫刻を施した新刀の名刀を作る。
	(2)生年は1558(永禄1)。
	(4)生年は1556。
	(6)生年は1558。
	(16)生年は1556(弘治 2)。
	◎金家(カネイエ)・信家(ノブイエ)とともに鐔の三作と称せられる。
うめづ よしじろう《うめづ よしぢらう》
	梅津 美治郎
	1882(明治15)
	1949(昭和24)
	◇陸軍軍人。大分県出身。
	 陸軍大学卒業。陸軍省総務部長・華北駐屯軍司令官。天津の
	日本租界(ソカイ)で親日派の新聞社社長が暗殺されたのを口実に、
	1935. 6.(昭和10)国民政府に梅津・何応欽(カ・オウキン)協定を押し
	付け、日本の華北支配を強める。
	 1936(昭和11)二・二六事件後、寺内寿一陸軍大臣のもとで陸
	軍次官として軍の実権を握る。関東軍司令官兼駐満大使・参謀
	総長。
	 太平洋戦争後、A級戦犯として終身刑となり、病死。
	◎梅津の後に陸軍次官に就任したのは東条英機。
うめつじ のりきよ
	梅辻 規清
	1798(寛政10)
	1861(文久元. 7.21)
	◇江戸幕末の神道家。賀茂規清とも。京都賀茂社の社人。
	 烏伝(ウテン)神道を創始。幕府を非難したため八丈島に流され
	て同島で死亡。
うめはら すえじ
	梅原 末治
	1893(明治26)
	1983(昭和58)
	◇大正・昭和期の東洋考古学者。大阪府生れ。同志社普通学校
	卒業。
	 京都大学考古学研究室助手を経て、1939(昭和14)京都大学教
	授。京都大学名誉教授。
うめはら ほくめい
	梅原 北明
	1901. 1.15(明治34)
	1946. 4. 5(昭和21)
	◇編集者・翻訳家。本名は貞康(サダヤス)、別号は談奇館主人・
	吾妻大陸。豊山市生れ。早稲田大学英文科中退。
	 性文献の翻訳と刊行、変名を多用。作家江戸川乱歩・画家竹
	中英太郎・編集者本位田準一らとともに昭和初期のエログロ時
	代を作る。
	(2)1899〜1946(明治32〜昭和21)。没日記載なし。
	(3)生年は1899(明治32)、没日は 5. 5。
	(5)生年は1901(明治34)、没日は 4. 5。
	(8)生年は1901(明治34)、没日は 4. 5。
	(11)生年は1899(明治32)、没日は 5. 5。
うめはら りゅうざぶろう《うめはら りゆうざぶらう》
	梅原 竜三郎(梅原 龍三郎)
	1888. 3. 9(明治21)
	1986(昭和61)
	◇大正・昭和期の洋画家。初名は良三郎。京都生れ。
	 関西美術院に入り、伊藤快彦・浅井忠(チュウ)に師事、同校卒
	業。浅井の没後、1908(明治41)渡仏しアカデミー・ジュリアン
	に入学、翌年ルノアールを訪ねる。
	 1913(大正 2)帰国し、1914(大正 3)二科会創立に参加、1918
	(大正 7)退会。1922(大正11)春陽会創立に参加。1926(大正15)
	国画創作協会に第2部(洋画)が創設され会員となり、1928(昭
	和 3)第1部(日本画)解散後は国画会と改称し主宰者となる。
	1935(昭和10)帝国美術院会員。1937(昭和12)帝国芸術院会員。
	1944(昭和19)帝室技芸員。
	 1944〜1950(昭和19〜昭和25)東京芸術大学教授。1952(昭和
	27)文化勲章を受章。
	(2)'52文化勲章受章。
	(6)52年文化勲章。
	(16)1952(昭和35)年文化勲章受賞.(*)年号に誤。
うめぼり こくが
	梅暮里 谷峨
	1750(寛延 3)
	1821(文政 4. 9. 3)
	◇江戸後期の洒落本・読本作者。本名は反町(ソリマチ)三郎助のち
	与左衛門、号は蕣亭(シュンテイ)・遊里山人。上総(カズサ)国久留里
	(クルリ)藩士で、江戸本所埋堀の藩邸に住む。
うめもと かつみ
	梅本 克己
	1912. 3.26(明治45)
	1974. 1.14(昭和49)
	◇哲学者。
うめわか まんざぶろう《うめわか まんざぶらう》
	梅若 万三郎
	1868(明治元.11.)
	1946.12.16(昭和21)
	◇明治〜昭和期の能楽師(観世流シテ方)。[1]梅若実(ミノル)(初
	世)の長男、[2]梅若実(二世)(六郎)の兄、観世華雪(カセツ)の義
	兄。
	 父[1]梅若実に養子があったため、11歳で梅若長左衛門家を
	継ぐ(十二世)。1920(大正 9)弟六郎・華雪らとともに梅若流を
	興し、初代宗家となるが、1933(昭和 8)弟六郎に家元を譲り、
	観世流に復帰。
	 1937(昭和12)芸術院会員。1946(昭和21)文化勲章を受章。
[1]うめわか みのる
	梅若 実(初世)
	1828(文政11)
	1909(明治42)
	◇明治期の能楽師。幼名は亀次郎のち六之丞・六郎・実。江戸
	上野寛永寺御用達の鯨井平左衛門の子。梅若万三郎・[2]梅若
	実(二世)(六郎)の父。
	 1839(天保10)梅若家を相続、六之丞と改名。のち通名六郎を
	襲名。1872(明治 5)観世流分家鉄之丞の弟に家督を譲り、実と
	称する。
	 宝生九郎・桜間左陣馬とともに明治三名人の一人。
[2]うめわか みのる
	梅若 実(二世)
	1878(明治11)
	1959(昭和34)
	◇能楽師。初名は竹世のち六郎・景昭。[1]梅若実(ミノル)(初世)
	の次子、梅若万三郎の弟。
	 1920(大正 9)兄万三郎とともに観世流を脱退、梅若流を興す。
	1933(昭和 8)万三郎・義弟華雪が観世流に復帰後も、梅若流を
	継いで二世となり梅若流を守る。
	 1954(昭和29)子の梅若六郎一門とともに観世流に復帰。
うめわか ろくろう《うめわか ろくらう》
	梅若 六郎
	⇒[2]うめわか みのる(梅若 実)
うらがみ きょくどう《うらがみ ぎよくだう》
	浦上 玉堂
	1745(延享 2)
	1820(文政 3. 9. 4)
	◇江戸後期の南画家。姓は紀、名は弼、字は君輔、通称は
	兵右衛門、玉堂琴士と称する。浦上春琴(シュンキン)・秋琴の父。
	 岡山池田藩の支藩備中国鴨方(カモガタ)藩士の家に生れる。自
	由な文人生活に憧れ、1793(寛政 5)藩を致仕し、2子を伴い
	七弦琴と絵を楽しみながら諸国を放浪。
	 作品は『凍雲篩雪図(トウウンシセツズ)』、著書は『玉堂琴譜』な
	ど。
	 晩年は京都に留まり、岡田米山人・田能村竹田らと親交。
	(2)1794(寛政 6)ころ,但馬国城崎温泉に遊行中,家を養子にま
	かせて春琴・秋琴の2子をともない瓢然と脱藩。原因は寛政異
	学の禁をはばかった故といわれる。
	(4)備中鴨方藩に仕えたが、致仕して……。
	(6)1794年2子を抱いて脱藩……。
	(16)1793(寛政 5)年任を退き…….
	 古琴を得て銘に玉堂とあったことから,自ら玉堂琴士と称し
	たと伝えられている.
うらかみ ごさぶろう
	浦上 后三郎
	1897.12. 1(明治30)
	1962.12. 7(昭和37)
	◇ドイツ文学者・小説家。本名は五三郎。
うらがみ しゅんきん
	浦上 春琴
	1779(安永 8)
	1846(弘化 3)
	◇江戸後期の南画家。名は選、字は伯挙、別号は睡庵・文鏡亭。
	浦上玉堂の子、秋琴の兄。
うらがみ のりむね
	浦上 則宗
	1429
	1502(文亀 2)
	◇室町時代の武将。浦上昌勝の子、浦上行景の4代の孫。
	(*)1429(正長 2,永享元)。
うらがみ むねかげ
	浦上 宗景
	生年不詳
	没年不詳
	◇戦国時代の武将。幼名は与二郎、通称は帯刀左衛門。浦上村
	宗の次男、浦上政宗の弟。
	 父村宗の死後、1534(天文 3)家臣宇喜多能家(ヨシイエ)を疎んじ、
	攻めて自害させる。隠れていた能家の孫宇喜多直家(ナオイエ)が
	1543(天文12)仕官、主家のため功を挙げる。1561(永禄 4)直家
	に備前を放逐され、讃岐に走る。1574(天正 2)毛利氏と結んだ
	直家と戦う。
うらがみ むらむね
	浦上 村宗
	生年不詳
	1531(享禄 4)
	◇戦国時代の武将。浦上宗則の子、浦上則宗の孫。
うらた ながたみ
	浦田 長民
	1840(天保11. 3. 1)
	1893.10.26(明治26)
	◇明治時代の神道家。字は穀夫(コクフ)、号は改亭。伊勢国度会
	(ワタライ)郡宇治生れ。
うらべ かねかた
	卜部 兼方(卜部 懐賢)
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉中期の神道家。懐賢とも書き、「やすかた」とも訓(ヨ)む。
	卜部兼文(カナフミ)の子。
	 父兼文の研究を基に『釈日本紀』を著す。
うらべ かねとも
	卜部 兼倶
	⇒よしだ かねとも(吉田 兼倶)
うらべ かねぶみ
	卜部 兼文
	生年不詳
	没年不詳
	◇鎌倉中期の国学者。兼頼の子、卜部兼方(カネタカ)の父。
	 平野神社の祀官。1269(文永 6)神祇権大副。
	 兼文の研究を基に子の兼方が『釈日本紀』を著す。
うらべ かねよし
	卜部 兼好
	⇒よしだ けんこう(吉田 兼好)
うらべ けんこう
	卜部 兼好
	⇒よしだ けんこう(吉田 兼好)
うらべ やすかた
	卜部 懐賢
	⇒うらべ かねたか(卜部 兼方)
うらべのすえたけ《うらべのすゑたけ》
	卜部 季武
	 949(天暦 3)
	1022(治安 2)
	◇平安中期の武人。通称は六郎、勘解由(カゲユ)。源頼光の四天
	王の一。酒顛童子(シュテンドウジ)討伐で有名。
	(4)生年は 950。
うらまつ さみたろう
	浦松 佐美太郎
	1901.10. 1(明治34)
	1981.12.23(昭和56)
	◇評論家・登山家。東京生れ。東京商大卒業。
うらまつ しげこ
	裏松 重子
	⇒ひの しげこ(日野 重子)
うりう いわ《うりふ いは》
	瓜生 岩
	1829(文政12. 2.25)
	1897. 4.19(明治30)
	◇婦人社会事業家。福島県喜多方の人。
	 代々の油商の家に生れ、幼く父を失い若松の叔母に預けられ
	る。17歳のとき呉服商佐瀬茂助に嫁ぐが死別。
	 明治維新後、藩校日新館を再興し会津藩子女の教育に尽力。
	1872(明治 5)上京し深川の救養会所の救貧事業を実地研修。帰
	郷して窮民救済事業に着手。堕胎を矯風(キョウフウ)し、1889(明治
	22)貧民孤児救済のため福島救育所を設立。喜多方に産婆研究
	所、1893(明治26)福島育児院・済生病院を創設。1894(明治27)
	宮内大臣土方久元婦人とともに瓜生会を設立、慈善事業に尽す。
	(2)'87福島救育所を設立した。
	(16)1889(明治22)年貧民孤児救済のために福島救育所を設立…
	….
うりう そときち《うりふ そときち》
	瓜生 外吉
	1857(安政 4)
	1937(昭和12)
	◇明治〜昭和初期の海軍軍人(大将)。石川県の人。
	 海軍兵学寮卒業。1875〜1881(明治 8〜明治14)米国アナポリ
	ス海軍兵学校に留学。帰国後、海兵教官・摂津・海門・扶桑の各
	分隊長。1887(明治20)参謀本部海軍部第2課長。1892〜1896
	(明治25〜明治29)フランス大使館付。秋津洲・扶桑・松島・八島
	の各艦長・軍令部第1局長。
	 第2艦隊司令官・竹敷要港部司令官として、1904. 2. 8(明
	治37)、朝鮮の仁川(ジンセン)沖でいわゆる瓜生艦隊を率いてロシ
	ア戦艦2隻を撃破。同年 2.10、ロシアに宣戦布告(日露戦争)。
	 日露戦争後、佐世保・横須賀鎮守府の各長官。1922(大正11)
	勅選貴族院議員。
うりう たくぞう
	瓜生 卓造
	1919. 1. 6(大正 8)
	1982. 6. 1(昭和57)
	◇小説家。兵庫県生れ。早稲田大学政経学部卒業。
	(5)生年は1919(大正 8)。
	(8)生年は1920(大正 9)。
	(11)生年は1919(大正 8)。
うりう たもつ《うりふ たもつ》
	瓜生 保
	生年不詳
	1337(<南>延元 2,<北>建武 4. 1.11)
	◇南北朝時代の武将。越前杣山城主。
	 1335(<南>建武 2,<北>建武 2)中先代の乱に北条氏に応じて
	挙兵した名越時兼を加賀国大聖寺で滅ぼす。1336年、新田義貞
	が金崎城に拠ると、初め足利方の包囲軍に属し足利高経(タカツネ)
	・高師泰(コウノモロヤス)らとともに金崎城を攻める。しかし、南朝
	に応じ弟源琳・義鑑ら一族が義貞の甥脇屋義治(ワキヤ・ヨシハル)を擁
	して杣山城で挙兵すると高経の軍と戦う。1337(<南>延元 2,
	<北>建武 4)義治とともに金崎城救援の途中、今川頼貞と戦い
	討死。
	(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
うりゅう ……《うりふ ……》
	瓜生 ……
	⇒うりう ……(瓜生 ……)
うるしやま またしろう
	漆山 又四郎
	1873. 1. 6(明治 6)
	1948. 8. 5(昭和23)
	◇漢学者・国文学者・書誌学者。号は天童。
うんけい
	運慶
	生年不詳
	1223(貞応 2)
	◇鎌倉中期の仏師。康慶(コウケイ)の子、湛慶(タンケイ)の父。
うんこく とうえき
	雲谷 等益
	1591(天正19)
	1644
	◇江戸前期の画家。名は元直。雲谷等顔(トウガン)の次男。周防
	国山口生れ。
	 1618(元和 4)父等顔の跡を継ぎ毛利家に仕える。雪舟四世を
	称する。
	(*)1644(寛永21,正保元)。
うんこく とうがん
	雲谷 等顔
	1547(天文16)
	1618(元和 4. 5. 3)
	◇安土桃山時代の画家。名は治兵・直治。肥前国能古見城主原
	豊後守直家の子、雲谷等益(トウエキ)の父。雲谷派の祖。
	 はじめ狩野派を学び、雪舟の画風を慕い広島城主毛利輝元に
	仕え、お抱え絵師となる。周防国山口の雪舟の遺址雲谷庵を継
	いで雲谷を姓とし雪舟三世と称する。雪舟五代を称する長谷川
	等伯(トウハク)との争いに勝つ。
うんしょう いっけい
	雲章 一慶
	1386(<南>元中 3,<北>至徳 3)
	1462(寛正 3)
	◇室町後期の僧侶(臨済宗)。名は一慶、号は雲章・流芳・玉渚、
	諡は弘宗禅師。一条経嗣(ツネツグ)の子、一条兼良(カネヨシ)の兄。
	京都生れ。
	(2)一条経嗣の子,一条兼良の兄。
	(16)九条経嗣の子.(*)誤。
うんしょう りっし《うんせう りつし》
	雲照 律師
	1827(文政10)
	1909(明治42)
	◇真言宗の僧。俗姓は渡辺。出雲(島根県)の人。仁和寺(ニンナジ)
	門跡(モンゼキ)。
	 高野山に入り、高野の女人解禁・廃仏毀釈に反対。真言宗の
	統一に努め、真言律の復興を唱える。東京で十善会を主宰し、
	青年・婦人教育に尽力。東京に目白僧園を、那須野に雲照寺を
	創建。
うんな なぴー
	恩納 なべ
	⇒おんな なべ(恩納 なべ)
うんの じゅうざ
	海野 十三
	1897.12.26(明治30)
	1949. 5.17(昭和24)
	◇昭和期の小説家。本名は佐野昌一、別号は丘丘十郎(オカ・オカジュ
	ウロウ)。徳島市生れ。早稲田大学理工科卒業。逓信省電気試験場
	に勤めるかたわら推理小説を書く。結核により死去。
	(2)海野 十三(うんの じゅうざ)。(学)早大電気工学科。
	(3)海野 十三(うんの じゅうざ)。
	(5)海野 十三(うんの じゅうぞう)。
	(8)海野 十三(うんの じゅうざ)。
	(11)海野 十三(うんの じゅうざ)。
	(12)海野 十三(うんの じゅうざ)。
うんの しょうみん
	海野 勝(「王」偏+「民」:補助4374)
	1844(天保15. 5.15)
	1915.10.18(大正 4)
	◇明治期の彫金家。幼名は竹次郎、のち弥五郎、号は芳州・
	藻脱軒。海野伝右衛門の子。水戸の人。
	 萩谷勝平・叔父の海野美盛(初代)に学ぶ。1873(明治 6)東京
	に出て彫金業を営み、雁金守親に師事。1876(明治 9)廃刀令で
	装剣金具の製作を断念、家具装飾・携帯品の彫金技術をみがく。
	 1877(明治10)第1回内国勧業博覧会に出品、受賞。1890(明
	治23)第3回内国勧業博覧会に「蘭陵王」で妙技一等賞を獲得。
	 1890(明治23)東京美術学校に勤め、1891(明治24)東京美術学
	校教授。1892(明治25)帝室技芸員。
	(2)1868(明治1)上京し……。
	(6)1873年東京に出る。
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